学位論文要旨



No 120431
著者(漢字) 村上,誠祥
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,マサヨシ
標題(和) 嗅皮質における内的状態依存的な感覚情報のゲーティング
標題(洋) State-Dependent Gating of Sensory Signals in Olfactory Cortex
報告番号 120431
報告番号 甲20431
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1130号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 川原,茂敬
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 脳内の感覚情報処理は動物の覚醒レベルのような内的状態に大きく影響を受ける。その典型的な例として視床における感覚情報のゲーティングがある(図1)。視床は嗅覚情報以外の全ての末梢からの感覚情報を大脳皮質一次感覚野へ伝達する中継部位である。視床の投射細胞は動物が覚醒しているときには末梢からの感覚入力に対して強く反応し、感覚皮質へ効率的に情報を伝達する。一方徐波睡眠時のように覚醒レベルが低いときには感覚入力に対して弱くしか応答せず、情報を効率的に皮質に伝達しない。つまり覚醒レベルが高いときは視床のゲートは開き末梢からの感覚情報を感覚皮質に伝えるのに対して、覚醒レベルが低いときは視床のゲートはほとんど閉じてしまい情報を効率的に伝えない。

 嗅覚系は感覚情報が視床を介さずに直接一次感覚皮質である嗅皮質へと運ばれる点で、他の感覚系と異なっている。空気中に存在する匂いの情報は、まず嗅粘膜に存在する嗅細胞により検知される。嗅細胞からの信号は嗅球へと伝えられ、嗅球の投射細胞は一次嗅皮質へ直接投射している。本研究では感覚皮質への求心性経路が視床を介さない嗅覚系において内的状態依存的な感覚情報のゲーティングが行われているかどうかを調べた。その結果、嗅覚神経系でも他の感覚系の視床ゲートと同期して、内的状態依存的なゲーティングが行われていることを初めて明らかにした。また嗅覚ゲーティングが行われている場所、細胞メカニズムについても報告する。

【方法】

 ウレタン麻酔下のラットから、脳の内的状態の指標として大脳皮質EEGを記録した。同時に嗅皮質、嗅球の神経細胞の細胞外単一神経記録、または嗅皮質細胞の細胞内記録を行った。

 ウレタン麻酔下で大脳皮質EEGは振幅の大きい徐波パターンと振幅の小さい速波パターンを約10分おきに交互に繰り返した。大脳皮質EEG が徐波パターンの状態をslow-wave state(SWS)、速波パターンの状態をfast-wave state(FWS)と名付けた。SWS時の大脳皮質EEGパターンは徐波睡眠時のパターンに良く似ていて、視床の細胞の発火パターンも徐波睡眠時と似ている。FWS時には覚醒時に増加することが知られている大脳皮質EEGのガンマ周波数帯成分が増加し、視床の細胞の発火パターンも覚醒時のパターンに似ている。また、覚醒に重要な役割をはたしていると考えられている脳幹の脚橋被蓋核(PPT)をSWS時に電気刺激すると、大脳皮質EEGがSWSからFWSに遷移する。これらのことからウレタン麻酔下のSWS、FWSでは、無麻酔下での徐波睡眠、覚醒と一部共通した脳内変化が起こっていると考えられる。

 まずはじめに、大脳皮質EEGのSWS時とFWS時にラットに匂い分子を嗅がせ、嗅皮質細胞の匂い刺激に対するスパイク応答の強さが内的状態依存的に変化するかどうか調べた。

【結果】

 嗅覚系における内的状態依存的な感覚ゲーティングの存在

ウレタン麻酔下では大脳皮質EEGは図2Aに示すようにSWSとFWSを交互に繰り返した。FWS時にラットを匂い分子で刺激すると嗅皮質の細胞は強いスパイク応答を示した(図2B-3,B-4,C)。一方SWS時では同じ匂い分子で刺激してもスパイク応答は非常に弱かった(図2B-1,B-2,C)。つまり、匂い分子刺激に対する嗅皮質細胞のスパイク応答は、SWS時と比較してFWS時に強いことが明らかになった。

 覚醒に重要な役割を果たしていることが知られているPPTをSWS時に電気刺激するとFWSを誘発することが知られている。PPT刺激により誘発したFWS時においても、SWS時と比較して嗅皮質細胞の匂い応答は大きかった。調べた全嗅皮質細胞19細胞中17細胞でSWS時と比較してFWS時において匂い分子刺激に対するスパイク応答が有意に大きかった。

 以上の結果から嗅覚系においても内的状態依存的なゲーティングが行われていることが明らかになった。視床における感覚ゲーティングもFWS時に効率的に情報を伝達し、SWS時に閉じることから、嗅覚系における感覚ゲーティングは視床のゲーティングと同期して行われていることが示唆された。

 一般に一つの嗅皮質細胞は多様な種類の匂い分子刺激に対して応答することが知られている。一つの嗅皮質細胞を活性化する複数の匂い分子刺激に対する応答が内的状態依存的に変化した。このことから、嗅覚系におけるゲーティングは多様な種類の匂い分子に対して起こることが明らかになった。

 嗅覚ゲーティングの場所

 嗅覚系における感覚ゲーティングは嗅覚神経経路のどの段階で行われているのだろうか。上で明らかにした、嗅皮質細胞の内的状態依存的な匂い応答の変化の結果から、二つの可能性が考えられる。一つは嗅皮質内でゲーティングが行われているという可能性、もう一つは嗅球、もしくはそれ以前のレベルでゲーティングが行われていて、嗅皮質への入力が内的状態依存的に変化しているという可能性である。それを明らかにするために嗅球の神経細胞の匂い応答をSWS時とFWS時とで比較した。図3に示すように、多くの嗅球細胞は内的状態依存的な匂い応答強度の変化を示さなかった。25%の嗅球細胞でしかSWS時とFWS時とで匂い応答の強さに有意な差が見られなかった。嗅皮質の神経細胞の89%が有意な内的状態依存的応答強度変化を示すのに対し、嗅球の神経細胞の25%しか変化を示さないことから、嗅覚系における感覚ゲーティングは、一部嗅球において行われているかもしれないが、主に嗅皮質のレベルで行われていることが示唆された。

 さらに、嗅球を電気刺激することで嗅皮質細胞に一定の強さの入力を与えたときの嗅皮質細胞のスパイク応答をSWS時とFWS時とで比較した。嗅球の電気刺激に対する嗅皮質細胞のスパイク応答もSWS時と比較してFWS時で有意に大きかった。この結果からも感覚ゲーティングが嗅皮質のレベルで行われていることが示唆された。

 嗅覚ゲーティングの細胞メカニズム

 上記の結果から嗅覚系における感覚ゲーティングのメカニズムは主に嗅皮質内に存在すると考えられる。ゲーティングの細胞メカニズムを明らかにする目的で嗅皮質細胞の細胞内記録を行い膜電位を測定した。図4に示すように嗅皮質細胞はSWS時には大脳皮質EEGに同期して数100msの脱分極相と数100msの過分極相を繰り返した。一方FWS時では脱分極状態が続いた。嗅皮質細胞の67%が同様の性質を示した。

 この内的状態依存的な嗅皮質細胞の膜電位の変化は嗅球からの入力に対する嗅皮質細胞の応答にどのように影響するのだろうか。それを調べるために、SWS時の過分極相、脱分極相、FWS時において嗅球の電気刺激により誘発される嗅皮質細胞のEPSPを比べた。EPSPの大きさはSWS時の過分極相に刺激したときがもっとも大きかったが、EPSPのピーク膜電位レベルはSWS時の過分極相で刺激したときがもっとも低かった。つまり、SWS時の過分極相は嗅球からの入力に対してスパイクを出しにくい状態であると言える。

 これらの結果からSWS時の嗅皮質細胞における周期的な過分極相の存在が、嗅覚系における感覚ゲーティングのメカニズムの一つであることが示唆された。

【考察】

 今回の研究では、一次感覚皮質への求心性経路が視床を介さない嗅覚系においても、内的状態依存的な感覚ゲーティングが存在することを明らかにした。さらに嗅覚系における感覚ゲーティングは主に嗅皮質で行われていること、嗅覚系におけるゲーティングのメカニズムの一つとして嗅皮質細胞のSWS時における過分極相の存在があげられることを明らかにした。

 視床における感覚ゲーティング同様、嗅覚系でもFWS時に情報を効率的に高次嗅覚皮質や皮質下領域に伝達するのに対して、SWS時では情報を効率的に伝達しない。つまりFWS時においては全ての感覚系が末梢からの感覚情報を処理するモードになっているのに対し、SWS時には全ての感覚系において末梢からの情報を大きくシャットダウンしているといえる。

 視床、大脳皮質と嗅皮質の情報処理モードはおそらく共通の神経メカニズムによりコントロールされているのではないかと考えられる。脳幹や前脳基底部に存在するアセチルコリン作動性神経のような神経修飾系が一つの候補ではないかと考えている

(図5)。

 FWS時には嗅皮質細胞は末梢からの入力を反映した活動を示すのに対し、SWS時には末梢からの入力を反映しない。そのかわりに、SWS時には嗅皮質の細胞は大脳皮質EEGと相関した活動を示していることが明らかになった。このことからSWS時には嗅皮質細胞は末梢からの入力を情報処理するのではなく、全く別の情報処理を行っていることが示唆される。徐波睡眠時に大脳皮質で記憶の固定化が行われているのではないかという仮説が、嗅皮質にも適用できるかもしれない。

図1

視床における内的状態依存的な感覚ゲーティング

図2

SWS時、FWS時における匂い刺激(n-Heptane、黒線部)に対する嗅皮質細胞のスパイク応答。SWS時では応答が弱い(B-1,B-2,C左)が、FWS時では強く応答している(B-3,B-4,C右)

図3

SWS時、FWS時における匂い刺激(n-Heptanoic acid、黒線部)に対する嗅球細胞のスパイク応答。SWS時とFWS時で応答の強さに顕著な差は見られない(B,C)。

図4 SWS時、FWS時における嗅皮質細胞の細胞内電位記録(A)、膜電位ヒストグラム(B)、大脳皮質EEGと膜電位との相互相関解析(C)

図5

嗅覚系と他の感覚系における内的状態依存的な情報処理モードを共通にコントロールする神経修飾システムのモデル図(A,FWS;B,SWS)

審査要旨 要旨を表示する

視床は嗅覚情報以外の全ての末梢からの感覚情報を大脳皮質一次感覚野へ伝達する中継部位であり、ゲートとして働いている。すなわち、覚醒レベルが高いときは視床のゲートは開き末梢からの感覚情報を感覚皮質に伝えるのに対して、覚醒レベルが低いときは視床のゲートはほとんど閉じてしまい情報を効率的に伝えない。嗅覚系は感覚情報が視床を介さずに直接一次感覚皮質である嗅皮質へと運ばれる点で、他の感覚系と異なっている。匂いの情報は、嗅粘膜に存在する嗅細胞により検知され、ついで、嗅球へと伝えられ、嗅球から一次嗅皮質へと出力される。

 本研究において、村上は、感覚皮質への求心性経路が視床を介さない嗅覚系においても内的状態依存的な感覚情報のゲーティングが行われているかどうかを調べた。その結果、嗅覚神経系でも他の感覚系の視床ゲートと同期して、内的状態依存的なゲーティングが行われていることを初めて明らかにした。そして、嗅覚ゲーティングが行われている場所、細胞メカニズムについても解明した。

1.嗅覚系における内的状態依存的な感覚ゲーティングの存在

ウレタン麻酔下では、ラット大脳皮質脳波(EEG)は、slow-wave state(SWS)とfast-wave state(FWS)を交互に繰り返した。FWS時にラットを匂い分子で刺激すると嗅皮質の細胞は強いスパイク応答を示すが、SWS時では同じ匂い分子で刺激してもスパイク応答は非常に弱かった。つまり、匂い分子刺激に対する嗅皮質細胞のスパイク応答は、SWS時と比較してFWS時に強いことが明らかになった。

 覚醒に重要な役割を果たしていることが知られている脚橋被蓋核(PPT)をSWS時に電気刺激するとFWSを誘発することが知られている。PPT刺激により誘発したFWS時においても、SWS時と比較して嗅皮質細胞の匂い応答は大きかった。

以上の結果から嗅覚系においても内的状態依存的なゲーティングが行われていることが明らかになった。視床における感覚ゲーティングもFWS時に効率的に情報を伝達し、SWS時に閉じることから、嗅覚系における感覚ゲーティングは視床のゲーティングと同期して行われていることが示唆された。

 一般に一つの嗅皮質細胞は多様な種類の匂い分子刺激に対して応答することが知られている。一つの嗅皮質細胞を活性化する複数の匂い分子刺激に対する応答が内的状態依存的に変化した。このことから、嗅覚系におけるゲーティングは多様な種類の匂い分子に対して起こることが明らかになった。

2.嗅覚ゲーティングの場所

嗅覚系における感覚ゲーティングは嗅覚神経経路のどの段階で行われているのか、二つの可能性が考えられた。一つは嗅皮質内でゲーティングが行われているという可能性、もう一つは嗅球、もしくはそれ以前のレベルでゲーティングが行われていて、嗅皮質への入力が内的状態依存的に変化しているという可能性である。それを明らかにするために嗅球の神経細胞の匂い応答をSWS時とFWS時とで比較した。多くの嗅球細胞は内的状態依存的な匂い応答強度の変化を示さなかった。25%の嗅球細胞でしかSWS時とFWS時とで匂い応答の強さに有意な差が見られなかった。嗅皮質の神経細胞の89%が有意な内的状態依存的応答強度変化を示すのに対し、嗅球の神経細胞の25%しか変化を示さないことから、嗅覚系における感覚ゲーティングは、一部嗅球において行われているかもしれないが、主に嗅皮質のレベルで行われていることが示唆された。

 さらに、嗅球を電気刺激することで嗅皮質細胞に一定の強さの入力を与えたときの嗅皮質細胞のスパイク応答をSWS時とFWS時とで比較した。嗅球の電気刺激に対する嗅皮質細胞のスパイク応答もSWS時と比較してFWS時で有意に大きかった。この結果からも感覚ゲーティングが嗅皮質のレベルで行われていることが示唆された。

3.嗅覚ゲーティングの細胞メカニズム

上記の結果から嗅覚系における感覚ゲーティングのメカニズムは主に嗅皮質内に存在すると考えられる。ゲーティングの細胞メカニズムを明らかにする目的で嗅皮質細胞の細胞内記録を行い、膜電位を測定した。その結果、嗅皮質細胞はSWS時には大脳皮質EEGに同期して数100msの脱分極相と数100msの過分極相を繰り返した。一方FWS時では脱分極状態が続いた。嗅皮質細胞の67%が同様の性質を示した。

 この内的状態依存的な嗅皮質細胞の膜電位の変化は、嗅球からの入力に対する嗅皮質細胞の応答にどのように影響するか、を調べるために、SWS時の過分極相、脱分極相、FWS時において嗅球の電気刺激により誘発される嗅皮質細胞のEPSPを比べた。EPSPの大きさはSWS時の過分極相に刺激したときがもっとも大きかったが、EPSPのピーク膜電位レベルはSWS時の過分極相で刺激したときがもっとも低かった。つまり、SWS時の過分極相は嗅球からの入力に対してスパイクを出しにくい状態であると言える。

 これらの結果からSWS時の嗅皮質細胞における周期的な過分極相の存在が、嗅覚系における感覚ゲーティングのメカニズムの一つであることが示唆された。

本研究の成果をまとめると、本研究は、一次感覚皮質への求心性経路が視床を介さない嗅覚系においても、内的状態依存的な感覚ゲーティングが存在することを明らかにしたものである。さらに嗅覚系における感覚ゲーティングは主に嗅皮質で行われていること、嗅覚系におけるゲーティングのメカニズムの一つとして嗅皮質細胞のSWS時における過分極相の存在があげられることを明らかにした。

 視床における感覚ゲーティング同様、嗅覚系でもFWS時に情報を効率的に高次嗅覚皮質や皮質下領域に伝達するのに対して、SWS時では情報を効率的に伝達しない。つまりFWS時においては全ての感覚系が末梢からの感覚情報を処理するモードになっているのに対し、SWS時には全ての感覚系において末梢からの情報を大きくシャットダウンしているといえる。また、FWS時には嗅皮質細胞は末梢からの入力を反映した活動を示すのに対し、SWS時には末梢からの入力を反映しない。そのかわりに、SWS時には嗅皮質の細胞は大脳皮質EEGと相関した活動を示していることが明らかになった。この結果は、SWS時には嗅皮質細胞は末梢からの入力を情報処理するのではなく、全く別の情報処理を行っていることを示唆する。徐波睡眠時に大脳皮質で記憶の固定化が行われているのではないかという仮説が、嗅皮質にも適用できる可能性を示唆するものである。

 以上のように、本研究の成果は神経生理学分野における重要な発見であり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものであると判定した。

UTokyo Repositoryリンク