学位論文要旨



No 120461
著者(漢字) 酒井,康博
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,ヤスヒロ
標題(和) 原子間力顕微鏡による高分子の1分子力学計測
標題(洋)
報告番号 120461
報告番号 甲20461
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第81号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 柴山,充弘
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 助教授 三尾,典克
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,高分子1本鎖ならびに高分子表面の力学物性の,原子間力顕微鏡(AFM)による新しい測定法・評価法の開発についてまとめたものである.具体的には,高分子1本鎖の粘弾性測定法の開発,緑色蛍光タンパク質(GFP)の力学的アンフォールディング経路の検討と1分子粘弾性測定法を応用したリフォールディング検出の試み,環動ゲル表面の不均一構造観察について述べられている.

1.本研究の目的

 高分子の機能化,高性能化が進む昨今,より微小な領域での構造観察およびそこからヒントを得た形での構造制御へのフィードバック,さらにはその成果としての,高分子の力学物性の向上が求められている.そのためには,構造と力学物性の両方をより詳細に評価する手法が鍵となる.その中で,原子間力顕微鏡(AFM)は微小な領域での構造観察に適しているのみならず,ナノメートルスケールでの力学物性測定においてもその威力を発揮するため,まさにうってつけのツールである.

 本研究では,AFMを高分子表面やその極限である1本の高分子鎖の力学物性を評価するための手段と位置づけ,高分子に特化した形で新しい測定法・評価法を開発することを目的とする.さらに,新規に開発した測定法の有効性を示すとともに,これと従来の測定法を組み合わせ,様々な物質に対して実践していくことで,従来の力学物性評価手法だけでは得られなかった,高分子の構造や物性に関する新たな情報を引き出していくことを目指す.

2.高分子1本鎖の粘弾性測定

 高分子材料の物性の中で,力学物性は学問的にも興味深く,また実用段階においても非常に重要パラメータの一つである.バルク系では力学物性の評価手法は非常に多岐にわたっており,そのうち代表的なものとして引っ張り試験や動的粘弾性測定法がある.1分子レベルにおいては,前者は既にAFMによる1分子鎖の単純伸長という形で実現されているが,後者については未だ有効な評価手法が存在しない.本章の目的は,粘弾性測定を1本の高分子鎖に対して実現することにある.

 まず,市販AFM装置外部に改良を施すことで,その測定を実現するためのシステムを構築した(図1).このシステムでは,これまでの市販装置だけでは不可能であった,試料の上下駆動,正弦波的駆動を非常に高い制度で制御することが可能である.正弦波応答については,100Hz以下の低周波領域測定が可能である.

 このシステムを用いて,1本のポリスチレン鎖に対して,その様々な伸長状態において正弦波応答の測定を実現した(図2).入力に対する応答の振幅と位相差の値から,従来の単純伸長実験では得られなかった,1本の高分子鎖自身が持つ粘弾性的な情報を伸長過程の様々な点において取得することに成功した.また,通常のバルクの粘弾性測定においては当然のように行われている周波数掃引についても実現し,その結果から,1本の高分子鎖の内部でのモノマー同士の摩擦現象の存在が示唆された.

3.共振法による高分子1本鎖の粘弾性測定

 この章では,カンチレバーをその共振点で振動させた状態で分子鎖の伸長を行うというアプローチにより,10kHz領域での高分子1本鎖の粘弾性測定を実現した.測定した振幅および位相の挙動について,現象論的なモデルに基づいて解析を行い,伸長過程における分子鎖の弾性および粘性に関する情報を分離して取得することに成功した.さらに,振動1周期あたりのエネルギー散逸についても値の見積もりを行い,値としてBTのオーダーであるという結果を得た.また,分子鎖の弾性が立ち上がり始める領域から,分子鎖の伸長に伴ってエネルギー散逸の値が増加する挙動を観測した.これは,分子鎖を構成するモノマーと周囲の溶媒分子との摩擦によるものであると解釈した.

 バルクの粘弾性測定では,時間-温度換算則とよばれる経験則に基づき,広範な周波数領域での粘弾性的情報を得ることが可能である.一方,1分子鎖の測定は溶媒中で行うため,測定可能な温度領域が限られる.また,現状では,100Hzから1kHz,および100kHz以上の周波数領域での動作を実現できていない.広い周波数範囲にわたる「1分子粘弾性スペクトロスコピー」を実現するためには,各周波数領域に適した変調法を開発していくことが今後の課題となる.

4.Greenn Fluorescent Proteinの1分子力学計測

 生物学の研究において顕微鏡観察用の蛍光標識として幅広く用いられている,緑色蛍光タンパク質(Green Fluorescent Protein,GFP)に対して,その立体構造と蛍光特性の相関を詳細に明らかにするための第一段階として,AFMによる1分子力学計測を行った.

 まず,1個のGFP分子に対して伸長実験を行い,測定から得られた張力-伸長曲線では,GFP分子の末端とAFM探針または基板との結合が破断する前にも,ある特定の伸長距離において複数の力のピークが観測された.ピークの現れる伸長距離と,GFPのアミノ酸配列および立体構造との関係を詳細に検討した結果,分子内において局所的に結合が強固で,破壊に大きな力を要する部位を特定することができた.これにより,外力によるGFPのアンフォールディング経路が明らかとなった.

 さらに,2章で開発した粘弾性測定法を応用することにより,動的な力学物性に関する情報を得ることにも成功した.測定を行った時間スケールの範囲内では,GFP分子は伸長過程全体にわたり力学的な正弦波刺激に対して同位相で応答し,最近報告されたアンフォールディングとリフォールディングの繰り返しのような現象はここでは起こっていないことが判明した.分子に加える正弦波の周波数のレンジを広げ,かつ,より高い力分解能を備えた測定が実現できれば,GFP分子内の二次構造の外力による崩壊などの詳細な情報を得られる可能性がある.GFP分子の折りたたみ構造はその発光特性と密接な関係があり,したがって本研究で得られた知見は,分子構造と発光特性との相関のより詳細な理解に資するものであるのみならず,新規タンパク質の設計において有益な情報を与えうる.さらには,これらの知見をもとにして発光を外力によってコントロールすることが実現できれば,新しい発光デバイスへの展開も期待される.

5.環動ゲル表面の不均一構造観察

 ポリエチレングリコールとシクロデキストリンからなる環動ゲルは,ゲルのネットワークを形成する高分子鎖上を架橋点が自由に動くことができるという特徴を有し(滑車効果),これによって従来のゲル材料では実現不可能であった高い含水率と機械強度を両立させた材料である.また,生体に対する安全性が非常に高いため,生体適合材料,医用材料分野への応用が期待されている.

 これまでの研究から,環動ゲルにおいて最も特徴的な性質としての滑車効果は,溶媒環境により制御可能であることが明らかになりつつある.例えば,貧溶媒中では架橋点を形成するシクロデキストリン分子が凝集して滑車効果が抑制され,また,ゲルを伸長すると不均一構造が誘起されることがX線小角散乱の結果から確認されている.また,散乱パターンから,この構造の特徴的なサイズは数十nmのオーダーであることが観測されている.本章では,AFMを用いて,このようなゲルの不均一構造の実空間における可視化を行った.

 AFM探針を試料に押し込んだ際に探針に働く力を測定することで,その試料表面の局所的な硬さ(弾性率)を評価することができる.この操作を少しずつ位置を変えながら行えば、試料表面の弾性率分布が得られる.このような手法はフォースマッピング法と呼ばれる.AFMによる軟質試料の表面観察には,通常,タッピングモードなどが用いられるが,溶媒中でのゲル表面は極めて軟らかいため,安定した観察は非常に困難である.したがって本研究ではフォースマッピング法を採用し,未伸長のゲルおよび一軸伸長したゲルについて,弾性率分布を貧溶媒中でその場測定することで,不均一構造を可視化した.

 未伸長の環動ゲル表面の弾性率分布(図4a)では,監察領域内で硬い相(白色破線内,ドメインサイズは50-200nm程度)と軟らかい相に分離しているのが観察された.この硬さの違いは押し込み時のフォースカーブ(図4b)にも傾きの違いとして現れている.硬い相はCD分子の凝集,軟らかい相はPEGリッチ相であると考えられる.一方,2倍に一軸伸長した環動ゲル(図5)では,未伸長の場合とは明らかに異なり,硬い相と軟らかい相の縞構造が見られる.縞の方向は伸長方向に対して30-45°程度傾いており,図5と左右対称の方向のものや,縞構造が折り返して波状になっている構造が観察された結果も得ている.また,縞の幅は30-50nm程度であり,これはX線小角散乱の結果から予想されるサイズと一致している.

 これまでに,伸長によって誘起され形成されるゲル内部の不均一構造は散乱実験によっては確認されていたが,実空間で観察した例はこれが初めてである.本研究によって,未開拓の領域が多く残されている環動ゲルの構造や物性について,そのより深い理解に一歩近づいたと言ってよいであろう.本研究で得られた知見は,環動ゲルの実用化を図っていく上で,その設計段階において基礎的かつ重要な情報となり得る.

図1:AFMをベースとした,高分子1本鎖の粘弾性測定システム.

図2:高分子1本鎖の粘弾性測定から得られた,正弦波入力に対する分子鎖の応答.(3)-(12)にかけて,分子鎖は徐々に伸長されている.

図3:共振法による粘弾性測定から得られた,1周期あたりの平均エネルギー散逸の,分子鎖伸長に伴う変化.

図4:(a)未伸長の環動ゲル表面の弾性率像(500nm×500nm).50-200nm程度のサイズの硬いドメインが観察される(白色破線内).(b)(a)中の硬い領域(点.A,●),および軟らかい領域(点B,○)における典型的なフォースカーブ.理論式によるフィッティングの結果も重ねて示してある(破線).

図5:図の横方向に2倍に伸長した環動ゲル表面の弾性率像(2μm×2μm).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、高分子1本鎖ならびに高分子表面の力学物性の、原子間力顕微鏡(AFM)による新しい測定法・評価法の開発についてまとめたものである。具体的には、高分子1本鎖の粘弾性測定法の開発、緑色蛍光タンパク質(GFP)の力学的アンフォールディング経路の検討と1分子粘弾性測定法を応用したリフォールディング検出の試み、環動ゲル表面の不均一構造観察について述べられている。

 本論文は6つの章により構成され、各章の概要は以下の通りである。

 第1章では、nNからpNにまで及ぶ微小な力の計測について、主に測定手法の発展という視点からその歴史を概観し、その流れの中でのAFMの位置づけについて述べられている。また、微小な力の計測の極限とも言える1分子力学計測について、AFMを用いた手法と他の測定手法とを比較しながら、その特徴と、これらの測定から過去に得られた知見がまとめられている。最後に、背景となる知識として、走査型プローブ顕微鏡、特に本研究で用いているAFMについて、イメージングの原理と力測定に関する一般論、さらには高分子1本鎖の力学測定法について詳細に説明されている。

 第2章では、高分子1本鎖の力学物性の新しい評価手法としての、「高分子1本鎖の粘弾性測定」についてまとめられている。これは、従来の1分子伸長実験のように1本の高分子鎖をただ単純に引っ張り上げてしまうのではなく、分子鎖の伸長を途中で止め、正弦波的な変調を加えることによって1分子の「粘弾性」にまで踏み込んで評価しようというものである。このような測定を実現すべく、著者は市販のAFM装置外部に機能を拡張して独自の測定システムを構築しており、その過程が詳細に説明されている。このシステムにより0.1−100Hzという低周波領域における1本鎖の粘弾性測定が実現され、静的な単純伸長実験では得られなかった、1本の高分子鎖自身における粘弾性的な挙動を伸長過程の様々な点において検出することに成功した。

 第3章では、広い周波数範囲にわたる「1分子粘弾性スペクトロスコピー」の実現を目指した次の一手として、高周波域における粘弾性測定法について述べられている。AFMのカンチレバーをその共振点で振動させた状態で分子鎖の伸長を行うというアプローチに基づき、装置に機能拡張を施すことによって、10kHz領域での測定が実現された。測定した振幅および位相の挙動について、現象論的なモデルに基づいて解析を行うことで、伸長過程における分子鎖の弾性および粘性に関する情報を分離して取得できた。さらに、1分子内における振動1周期あたりのエネルギー損失についても値の見積もりが可能となり、値としてKBTのオーダーであるという結果が得られた。この損失は、分子鎖を構成するモノマーと周囲の溶媒分子との摩擦によるものであると解釈している。

 第4章では、生物学研究の場において蛍光標識として幅広く用いられているGFPについて、その立体構造と蛍光特性の相関を詳細に明らかにするための第一段階としての、AFMによる1分子力学計測についてまとめられている。まず、1個のGFP分子に対して伸長実験を行い、測定から得られた張力−伸長曲線では、GFP分子の末端とAFM探針または基板との結合が破断する前にも、ある特定の伸長距離において複数の力のピークが観測された。ピークの現れる伸長距離と、GFPのアミノ酸配列および立体構造との関係を詳細に検討した結果、分子内において局所的に結合が強固で、破壊に大きな力を要する部位を特定することができた。これにより、外力によるGFPのアンフォールディング経路が明らかとなった。さらに、2章で開発した粘弾性測定法を応用することにより、外力によって破壊された立体構造が元に戻る現象(リフォールディング)のタイムスケールに関する情報が得られた。

 第5章では、表面弾性率分布評価に基づく、環動ゲルの相分離構造の実空間における可視化についてまとめられている。まず、新たなカテゴリーに属するゲルとしての環動ゲルについて、従来のゲルとの比較を中心にその特徴が述べられ、これまでの環動ゲルに対する散乱実験の結果から得られた知見について記述されている。次に、測定用ゲル試料の調製法、表面弾性率の評価法について詳細に説明されている。実際に弾性率分布を測定したところ、貧溶媒中のゲル表面が硬い相(架橋点であるシクロデキストリン分子の凝集)と軟らかい相(ゲルのネットワークを構成する高分子鎖)の2相に分離しているのが確認された。また、貧溶媒中でこのゲルを伸長すると、これら2つの相が伸長方向に対して30°から45°程度傾いた方向に縞状構造を形成していることがわかった。貧溶媒中でこのような相分離が起こることは中性子やX線の小角散乱測定からは予想されていたが、本研究ではこれを初めて実空間で可視化することに成功したことになる。

 第6章では、本研究から得られた知見について総括し、AFMによる力学測定法についての今後の展望が述べられている。

 以上のように本論文で著者は、AFMを高分子表面やその極限である1本の高分子鎖の力学物性を評価するための手段と位置づけ、高分子や生体分子などのソフトマテリアルに特化した形で新しい測定法・評価法を開発し、様々な物質に対してそれを実践した。これにより、従来の力学物性評価手法だけでは得られなかった、高分子の構造や物性に関する多くの有意義な知見を得ている。近年進んでいる高分子材料の機能化・高性能化においては、より微小な領域で構造と力学物性の両方を詳細に評価する手法が不可欠であり、本論文で著者が新たに開発した測定手法は、その中での重要な位置を占めることになると予想される。また、実際の測定から得られた多くの知見は、新規高分子材料や、将来その登場が期待される人工タンパク質の設計において大いなる指針となり得る。

 第2章及び第3章の結果については、中嶋健、原正彦、伊藤耕三、西敏夫との、第4章の結果については、Tong Wang、中嶋健、宮脇敦史、伊藤耕三、原正彦との、第5章の結果については、奥村泰志、伊藤耕三との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。よって、本論文は博士(科学)の学位論文として合格と認められる。

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