学位論文要旨



No 120465
著者(漢字) 深川,暁宏
著者(英字)
著者(カナ) フカガワ,アキヒロ
標題(和) 脂質構造体のマイクロマニピュレーション
標題(洋)
報告番号 120465
報告番号 甲20465
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第85号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 大谷,義近
 東京大学 教授 柴山,充弘
 東京大学 助教授 百生,敦
内容要旨 要旨を表示する

I.本研究の目的

 脂質分子は生体膜を構成する重要な分子であり、分子内に糖やリン酸などの親水基と飽和・不飽和アルキル鎖の疎水基を持つ両親媒性分子である。水溶液中では自己組織的に多様な脂質構造体を形成し、混合比・溶液環境・温度などの変化により多彩な構造・相をとり、物理・生物学的興味やドラッグデリバリー・マイクロファクトリーといった工業的な応用などの点から盛んに研究の対象となってきた。近年、さらに脂質ナノチューブやリポソームネットワークといった変わった系が発見されており注目を集めている。

 脂質構造体は一般にマイクロメーターサイズであるため光学顕微鏡により容易に観察することが出来る。近年、顕微鏡技術や蛍光技術の発達に伴い顕微鏡観察下で微小な物質を蛍光ラベルし、レーザーピンセットやマイクロマニピュレーターで操作するといったことが可能になってきた。この技術により顕微鏡レベルで脂質構造体の力学特性や変形などの研究が行われるようになった。

 本研究ではこれらの技術を新たな脂質構造体に対して使用することで、従来では測定されなかった物理的特性を明らかにし様々な応用につなげることを目的とした。具体的には脂質ナノチューブをレーザーピンセットで曲げることによる弾性率測定およびマイクロインジェクターを用いてのガラス基板上へのマニピュレーション、リポソームネットワークをマイクロインジェクターで物質を局所的に混合することによる形態変化の測定を行った。

II.脂質ナノチューブの曲げ弾性率測定

 脂質ナノチューブとはナノサイズの径を持つ脂質分子の管状チューブ状分子集合体であり、内部空間を利用したDNA電気泳動や硬さを利用したナノサイズのバネとしての応用が期待されている。最近新たにカシューナッツの殻を原料とした従来の脂質ナノチューブよりも小さな内径10nm、外径50nmのチューブであるcardanolナノチューブが発見された。

 本研究ではこのcardanolナノチューブをレーザーピンセットで曲げることで弾性率測定を行いその力学的強度を明らかにすることを目的とした。

 レーザーピンセットは対物レンズで集光したレーザー光を粒子に照射することで捕捉する装置であり、脂質ナノチューブもレーザートラップ可能である。そこでレーザーピンセットを用いてナノチューブ曲げ、弾性率の測定を試みた。図1aのように端点の固定されたチューブのもう一端をレーザートラップし、曲げた後レーザーをオフにすると、図1bのように流体からの粘性力とたわみの弾性を感じながら緩和し、元の位置に戻る(図1c)。この緩和の画像からチューブの形状を求め、理論式をフィッティングしたのが図2であり、理論から予想される形状とよく合っていることがわかる。チューブ端点における変位の時間変化は図3であり理論的予測と同じく指数関数的に減衰することがわかる。この緩和時間からチューブの性率を求めたところ、K=1.31×10-23[Nm2]という値が得られた。この値は微小管の曲げ弾性率と同程度である。弾性率から持続長を求めるとLp=K/kBT=3.24[mm]であり顕微鏡観察で得られる持続長と一致する。曲げ弾性率Kはヤング率Eと断面二次モーメントIを用いてK=EIという関係にあり、これからヤング率を求めるとE=4.27[MPa]であることがわかった、曲げ弾性率の温度依存性を求めたところ、相転移温度近くになると弾性率が急激に小さくなることがわかった(図4)。

III.マイクロインジェクターを用いた脂質ナノチューブのマニピュレーション

 また、我々はマイクロインジェクターを用いることで脂質ナノチューブの単離および任意の方向への配向の技術を開発した。マイクロインジェクターにcardanolナノチューブの分散溶液を入れ、乾燥ガラス基板上表面にインジェクター先端を接触させ、表面張力により流れ出した溶媒の流れに乗って出てきたナノチューブの先端がガラス基板に吸着する。このときインジェクターを移動させると、図5のようにナノチューブ全体がガラス基板上に出てくることで自由な方向に脂質ナノチューブをマニピュレーションすることができる。この方法を用いることで脂質ナノチューブを用いたDNA電気泳動チップなどの微細なデバイスの開発が可能である。

IV. リポソームネットワークの局所形態変化

 リポソームネットワークはリポソーム同士がチューブを介して連結したネットワーク構造であり、実際に脳神経細胞中に含まれるGangliosideやCholesterolをDOPCリポソームに加えることでネットワーク構造ができるる(図6)。本研究ではジオレオイルホスファチジルコリン(DOPC)/コレステロール(Chol)リポソームネットワークにおいて、ローカルな形態制御を目標として、マイクロインジェクターを用いて神経細胞ネットワークのモデル系であるリポソームネットワークの局所的な部分にメチル-β-シクロデキストリン(M-β-CD)の局所的な混合を行った。

 M-β-CDはコレステロール分子を包接することが知られている。DOPC/Cholリポソームネットワーク系にM-β-CD溶液を加えるとリポソームネットワーク中のコレステロール分子が包接されることによって脂質二分子膜からコレステロール分子が引き抜かれるため、リポソームネットワークはその形態を維持できずにリポソームだけになってしまう。このM-β-CDを、マイクロインジェクターを用いてリポソームネットワークのチューブ部分近傍で局所的に混合(これを"吹き付け"と呼ぶ)することでチューブの長さの時間変化を共焦点レーザー顕微鏡観察により測定した(図7)。

 まずバッファー溶液を吹き付けたところ、チューブには変化がなく吹き付けの水流による物理的切断等が無いことを確認した。次に10mMと50mMのM-β-CDを吹き付けたところチューブの長さに変化は見られなかった。続いて100mM、150mM、200mMについて測定したところチューブが吹き付けにより短くなっていく現象が見られ、その時間変化は図8であり、チューブの長さL(t)はL(t)=-K(t-t0)2+L0と時間tの二乗に比例して短くなることが分かった。ここでKは係数、t0は吹き付けを始めた時間、L0は最初のチューブ−インジェクター先端間の距離である。また係数のKはM-β-CDの濃度に比例する(図9)。

 低濃度においてはM-β-CDが脂質二分子膜中コレステロールを引き抜く方向に平衡がずれていない、もしくはほとんど引き抜かないと考えられ、そのためネットワークの形態には影響を与えない。一方、高濃度においてはコレステロール分子が脂質膜から引き抜かれるが、レステロールが引き抜かれてももとのDOPC/Chol比を維持しようとするためチューブを短くすることで比率を維持しようとしている。局在するM-β-CDの濃度は時間の二乗で増えていくため、チューブの長さは時間の二乗に比例して短くなっていくと考えられる。また、マクロにM-β-CDを混合した場合にはネットワーク上すべてのチューブが短くなろうとするため、最終的にはチューブに過剰な張力がかかり切断してしまいリポソームネットワークは崩壊し、リポソームだけになってしまうと考えられる。

図1.レーザーピンセットによるcardanolナノチューブの曲げ弾性率測定

図2.チューブ形状の時間変化

図3.チューブ端点の時間変化

図4.弾性率の温度依存性

図5.脂質ナノチューブのマニピュレーション

図6.リポソームネットワーク

図7.M-β-CDの”吹き付け”

図8.チューブの長さの時間変化

図9.係数KのM-β-CDの濃度依存性

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、様々な新規の脂質構造体を顕微鏡観察下でマニピュレーションすることにより脂質構造体の構造・物性や応用に関する研究をまとめたものである。具体的には脂質ナノチューブの曲げ弾性率の温度依存性測定、マイクロインジェクターを用いた脂質ナノチューブのガラス基板上へのマニピュレーション、リポソームネットワークにマイクロインジェクターを用いて相互作用する物質の局所的な混合による形態変化について述べられている。

 本論文は6つの章により構成され、各章の概要は以下の通りである。

 第1章では、本研究全体を通じての研究背景および本論文を通じて扱われる脂質構造体において共通する従来の基本的知見についてまとめられている。

 第2章では、本研究において用いられた実験装置についてまとめてある。具体的にはレーザーピンセット、共焦点顕微鏡、マイクロインジェクターに関して、それぞれの基本原理、理論的背景や特徴が詳細に述べられている。

 第3章では脂質ナノチューブの弾性率測定の実験についてまとめられている。まず、他の分子で出来た自己組織的脂質ナノチューブの紹介、脂質ナノチューブの微視的状態やチューブ・ベシクル相転移などに関する研究背景と構造・相転移の理論的背景についての記述があり、次に脂質ナノチューブの曲げ弾性率測定の原理と具体的な実験方法について述べられている。さらに本研究で用いた脂質ナノチューブの紹介と実際に作成した脂質ナノチューブの顕微鏡観察による基礎的物性に関する報告が行われている。最後にレーザーピンセットを用いて端点の固定された脂質ナノチューブを曲げることにより弾性率測定を行い、さらにその温度依存性についての結果とチューブ・ベシクル相転移との関連についての議論が詳細に述べられている。本研究で求められた脂質ナノチューブの曲げ弾性率は1.8×10-22[Nm2]あり同様の手法で測定された微小管の曲げ弾性率に比べ二桁大きい値が得られ、そのヤング率は580[MPa]という自己組織的分子集合体として非常に硬い物質であることが明らかにされた。また、脂質ナノチューブの弾性率の温度依存性測定ではチューブ・ベシクル相転移温度よりも低い温度において弾性率が急激に減少し、もう一つの相転移が存在することを明らかにしている。

 第4章では第3章で用いた脂質ナノチューブのマイクロインジェクターを用いたガラス基板上へのマニピュレーションの研究について記述されている。脂質ナノチューブの分散溶液をマイクロインジェクターのチップ先端に入れ、それをガラス基板上に接触させることで一本の脂質ナノチューブを自由な方向に配置する方法が紹介され、実際に電子顕微鏡により一本の脂質ナノチューブが単離されていることが確認されている。

 第5章ではリポソームネットワークにマイクロインジェクターを用いて相互作用する物質を局所的に混合した時の形態変化に関する研究について述べられている。まずリポソームネットワークの基本的知見や本研究で用いたDOPC/コレステロールリポソームネットワークの作成法に関する記述があり、次にマイクロインジェクターを用いてリポソームネットワーク中のチューブ近傍に、脂質膜中のコレステロール分子を包接することで取り除くメチル-β-シクロデキストリンを吹き付けるという実験方法について述べられている。さらに実際にリボソーム同士をつなぐチューブの長さの時間変化を測定し、吹き付けるメチル-β-シクロデキストリンの濃度依存性が求められている。チューブの長さはメチル-β-シクロデキストリンの吹き付けにより時間の二乗に比例して短くなり、その短くなる早さはチューブの長さによらず、メチル-β-シクロデキストリンの濃度に比例するという結果が得られている。これらの結果よりリポソームネットワークの形成にはある一定の脂質分子の混合比が必要であり、またマクロスコピックに見られるリポソームネットワークの消失現象はミクロスコピックで見られるチューブの短縮による切断の結果として現れることを明らかにし、リポソームネットワークの形成前と形成後にメチル-β-シクロデキストリンを加えて比較することでその結果を裏付けている。

 第6章では、本論文の結論が述べられており、本研究で明らかになった新規の脂質構造体の物性や測定法の意義や応用に関する知見の総括が述べられている。

 以上のように本論文で著者は、脂質ナノチューブとリポソームネットワークという新規の脂質構造体を顕微鏡観察下においてレーザーピンセットやマイクロインジェクターを用いてマニピュレーションすることで、これらの脂質構造体の基礎的な物性や応用に関する多くの有意義な知見を得ている。これは、従来の脂質構造体には見られなかった新しい物性であり、様々な応用が期待される。また、本研究で用いられた実験手法は従来の物性研究には無い手法であり、他の脂質構造体や生体材料などにも適用が可能であり、超分子構造体や実空間観測といった分野に大きな進展をもたらすことが予想される。

 第3章及び第4章の結果については古澤浩、伊藤耕三、George John、清水敏美との共同研究、第5章の結果については伊藤耕三、野村慎一郎、秋吉一成との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。よって、本論文は博士(科学)の学位論文として合格と認められる。

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