学位論文要旨



No 120476
著者(漢字) 天野,薫
著者(英字)
著者(カナ) アマノ,カオル
標題(和) 心理物理学的手法と脳磁図を用いた運動視知覚に関する研究
標題(洋) A study on visual motion perception using psychophysics and magnetoencephalography
報告番号 120476
報告番号 甲20476
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第96号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,常広
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 西田,友是
 東京大学 教授 山本,博資
 NTT 主幹研究員 西田,眞也
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,心理物理計測とMEG計測を並行して行うことにより,運動視知覚の神経機構を検討した.第一章では,運動視情報処理の階層性を述べ,本論文の研究課題の位置付けを行った.第一段階の処理は,局所的な運動方向と速度を様々な空間位置において検出することである.続いてこれらの局所運動を空間的に統合することにより,全体的な運動(グローバル運動)が知覚される.運動情報は最終的に形態情報や色情報などと統合され,完全な視覚像が構築される.本論分ではこの流れに従い,まず第二章,第三章で,運動視知覚の基本要素である運動方向と速度の脳内処理を検討した.第四章では,グローバル運動刺激に対する反応時間(RT)と脳活動の関係を調べることにより,運動視知覚の成立過程を明らかにした.第五章では運動情報が色情報と統合される過程を検討した.

 運動視も含めた人間の知覚機構を研究する主な手法として,心理物理学的手法と非侵襲脳機能計測があげられる.前者は,刺激パラメータの変化に伴う知覚の変化を定量化する手法で,後者はMEG,fMRIに代表される脳計測法である.MEGやfMRIを用いた研究は,様々な刺激やタスクに特化した脳部位の特定を目的とする場合が多いが,それだけでは情報処理のメカニズムまでは明らかにならない.そこで本研究では,刺激パラメータを変化させた際の知覚変化と脳活動変化の対応関係を調べることにより,運動情報処理の各階層における神経機構を検討した.

 第二章では,運動のオンセット(開始)に誘発されるMEGの方向選択性および,MEGと知覚速度の対応関係を,運動視順応を用いて検討した.一定方向への運動刺激を連続して観察すると,順応によって知覚速度が低下する.一方,サルやネコに対する電気生理学的研究により,MT野において,特定の運動方向に選択的に反応する細胞(運動方向選択性細胞)が存在し,これらの細胞は方向選択的に順応の影響を受けることが報告されている[1].すなわち.特定の運動方向への順応後に,様々な方向選択性細胞の発火率を計測すると,順応方向に選択性を持つ細胞の発火率が大きく減少する一方で,他の方向に選択性を持つ細胞の発火率はほとんど変化しないことが知られている.MEGでは,各方向選択性細胞の出力の総和を計測することになるが,順応方向の刺激に対する脳活動の強度と逆方向の刺激に対する脳活動の強度を比較することにより,順応の方向選択性を検討することが可能である.本実験では,拡大または収縮方向に運動する半同心円刺激を用い,順応条件,非順応条件の双方において,運動のオンセット(テスト刺激)に対するMEGおよび知覚速度を計測した.順応刺激の速度は3.0 deg/sで,テスト刺激は順応刺激と同方向あるいは逆方向に1.5, 3.0, 6.0 deg/sで運動した.運動のオンセットに誘発されるMEGの発生源は主としてMT野に推定され,順応によって,ピーク潜時(MEG 強度が最大となる時刻)はほとんど変化しなかったが,ピーク強度はいずれの運動方向に関しても減少した(図1a).順応によるMEG強度の減少は,テスト刺激が順応刺激と逆方向に運動する場合に比べて,同方向に運動する場合に有意に大きかった(図1a).さらに,これらのMEG 強度変化が知覚速度の変化(図1b)と類似していたことから,MEG によって計測される方向選択性細胞の活動量の総和と知覚速度の対応が示唆された.

 第三章では,運動速度の増大に誘発されるMEGと速度弁別閾値の関係および,両者に対する順応の影響を検討した.速度弁別閾値とは,被験者がぎりぎり検出できる速度変化量のことであり,この値が小さいほど速度変化に対する感度が高いことが知られている.1,2,3,4deg/s, 四つのベース速度(速度変化前の運動速度)からの40%あるいは80%の速度増大によって誘発されるMEG応答を計測するとともに,各ベース速度における速度弁別閾値を心理物理学的手法により計測し,両者を比較した.MEGおよび弁別閾値の計測は,順応あり,無し各条件において行った.その結果,40%の速度変化に対するMEG強度は,速度弁別閾値と逆比例し,感度とは正比例することが明らかになった(図2).さらに,順応によって,MEG強度が増大する一方で,弁別閾値が減少したことから,速度変化に誘発されるMEG強度と弁別感度の相関が裏付けられた.図3に示したように,一定の速度変化ΔVに誘発されるMEG強度の順応による増大(ΔRna → ΔRa)は,velocity-response(V-R)関数の傾きの増大に対応する.順応によるV-R関数の傾き増大に逆比例して弁別閾値が減少したことから(ΔVna →ΔVa),運動速度の弁別には,一定量の反応増大(ΔR)が必要であることが示唆された.順応刺激周辺におけるV-R関数の傾き増大は,V-R関数の平行移動によって説明可能であり,第二章で報告したオンセット応答の強度減少(一定のVに対応するRの減少)とも対応する.

 第四章では,MEGとRTを比較することにより,運動視情報の検出過程を検討した.空間的にランダムに配置されたドットのランダム方向への運動が,一部(20,40,80%)のドットの運動方向のみ一定で他はランダムであるコヒーレント運動に変化する刺激を用いることにより,局所運動の空間的統合によるグローバル運動の知覚という,最終段の処理までを含めた運動視情報処理の過程を扱った.RTは刺激を呈示してから被験者がボタンを押すまでの時間によって定義され,刺激の検出に要する時間とその後の運動系の駆動に要する一定時間の遅延の和であると考えられる[3].多数の先行研究において,刺激強度の増大に伴い,ピーク潜時とRTの双方が減少するものの,ピーク潜時の変化はRTの変化に比べて小さいことが報告されている[4].そこで本実験では,MEG応答から,Level detection modelおよび,Integrator modelによって検出潜時を算出し,それらをRTと比較することによって,運動検出のメカニズムを検討した.検出潜時は,MEG強度が閾値を越えた時刻(Level detection model), あるいはMEG強度の時間積分が閾値を越えた時刻(Integrator model)とした(図4a,b).それぞれの閾値は,RTの変化を最もよく説明できるよう,被験者ごとに最適化した.両モデルに基づく検出潜時とRTを比較した結果,Level detection modelはRTの変化を十分説明できないのに対して,Integrator modelはRTの変化をほぼ完全に説明できることが明らかになった(図4c).この結果から,脳活動の時間積分が閾値を超えた時刻に運動刺激の検出がなされる可能性が強く示唆された.

 第五章では,運動視知覚の発展として,視覚情報の統合過程を扱った.輝度,色,形態,奥行き,運動などの視覚情報は,異なる領野において処理された後(視覚の機能局在),それらが統合されて,一つの物体としての知覚が成立することが知られている.この統合過程(Binding problem)についてはまだ明らかになっておらず,脳研究の最重要課題の一つと考えられている.本実験では,色運動非同期錯視と呼ばれる錯視を用いて,知覚的同期に基づく色と運動の統合過程について検討した.この錯視は,2Hz 程度の比較的早い周波数で刺激の色と運動方向が同期して変化すると両者がずれて知覚される現象であり[5],運動方向の変化を100ms程度先行させた場合に,両者が同期して知覚される.本錯視では,色変化と運動方向変化の同期知覚が,物理的に同期していない条件において成立するため,この刺激を用いたMEG計測により,物理的同期ではなく,知覚的同期に特化した脳活動の計測が可能である.そこで,1.色の反転,2.運動方向の反転,3.色と運動方向の反転(両者が物理的に同期),4.色と運動方向の反転(運動が100ms先行),の四刺激に対するMEG計測を行った.心理物理実験により,3の刺激では被験者が色と運動を同期して知覚せず,4の刺激では両者を同期して知覚することを確認した.色反応と運動反応の相互作用を,3,4それぞれの反応から,1の反応と2の反応の和を差し引くことによって定義し,この相互作用を加算波形,時間周波数領域の双方で算出した.その結果,加算波形の相互作用は,知覚的同期,非同期の条件間で有意に異ならなかった.一方,時間周波数領域における相互作用を算出した結果,ガンマ帯(30 Hz -)における相互作用が,知覚的同期の条件において有意に大きくなった.このことから,ガンマ帯の活動が運動情報と色情報の統合に関与している可能性が示唆された.

 第六章では,以上四つの実験のまとめと総合考察を述べた.運動視情報処理の各階層における知覚と脳活動の対応関係の検討により,以下の情報処理メカニズムが明らかになった.第二,三章の結果から,運動刺激に対する知覚速度が,運動方向選択性細胞の活動強度の総和によって表現されている可能性が示唆された.また,第四章の結果から,局所運動の空間的統合を要するグローバル運動の検出が,脳活動の時間積分に対する閾値検出によって行われている可能性が示唆された.さらに第五章の結果から,運動情報が色情報と統合される際にガンマ帯における脳活動が重要な役割を果たしている可能性が示唆された.心理物理学的手法と非侵襲脳機能計測を結びつける実験手法は,今後も知覚のメカニズムを探る上で非常に有効であると考えられる.

参考文献

[1] S. E. Petersen, J. F. Baker, and J. M. Allman, "Direction-specific adaptation in area MT of the owl monkey," Brain Research, vol. 346, pp. 146.150, 1985.[2] I. Ohzawa, G. Sclar, and R. D. Freeman, "Contrast gain control in the cat visual cortex," Nature, vol. 298, no. 5871, pp. 266.268, 1982.[3] D. Luce, "Response times," Oxford University Press, 1986.[4] O. Kawakami, Y. Kaneoke, K. Maruyama, R. Kakigi, T. Okada, N. Sadato, and Y. Yonekura, "Visual detection of motion speed in humans: spatiotemporal analysis by fMRI and MEG," Human Brain Mapping, vol. 16, pp. 104.118, 2002.[5] K. Moutoussis and S. Zeki, "A direct demonstration of perceptual asynchrony in vision," Proceedings of Royal Society of London B, vol. 264, pp. 393.399, 1997.

図1 テスト刺激の速度と(a)正規化したMEG強度(adapted / non-adapted)の対数,あるいは(b)正規化した知覚速度(adapted / non-adapted)の対数との関係.0より小さな値は順応によるMEG強度あるいは知覚速度の減少を表しており,図中の矢印は順応刺激の速度を示している.順応によるMEG強度の減少は,テスト刺激が順応刺激と同方向の場合により大きく(運動方向選択的),知覚速度の変化とも対応した.

図2 ベース速度と(a)MEG強度および(b)速度弁別感度の関係.速度弁別感度は,Weber比(速度弁別閾値/ベース速度)の逆数である.ベース速度の変化に伴い,40%の速度変化に誘発されるMEG強度と弁別感度は類似した変化を示し,いずれも順応により増大した.

図3 運動視順応がMEG強度および速度弁別閾値に与える影響.一定の速度変化(ΔV)に誘発されるMEG 強度の増大(ΔRna→ΔRa)に逆比例して,弁別閾値が減少(ΔVna→ΔVa)したことから,速度変化の検出に必要な脳活動量の変化(ΔR)は,一定であることが示唆された.V-R関数の傾きの増大は,速度軸に沿った関数の平行移動によって説明可能である[2].

図4 コヒーレント運動のオンセットに対するMEGに(a)Level detectionモデルおよび(b)Integratorモデルを適用した結果.各図中の水平線および矢印は,それぞれのモデルの最適閾値とその下での検出潜時を表す.(c)RTと検出潜時の関係.Level detectionモデルの検出潜時はRTの変化を説明しきれないのに対し,Integratorモデルの検出潜時はRTの変化を説明出来た.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり,心理物理計測とMEG計測を並行して行うことにより,運動視知覚の神経機構を検討している.第一章では,運動視情報処理の階層性を述べ、本論文の研究課題の位置付けを行っている.運動視情報処理における第一段階の処理は,局所的な運動方向と速度を様々な空間位置において検出することである.続いてこれらの局所運動を空間的に統合することにより,全体的な運動(グローバル運動)が知覚される.運動情報は最終的に形態情報や色情報などと統合され,完全な視覚像が構築される.本論文ではこの流れに従い,視覚運動処理過程を検討している.

 人間の知覚機構を研究する主な手法として,心理物理学的手法と非侵襲脳機能計測があげられる.前者は,刺激パラメータの変化に伴う知覚の変化を定量化する手法で,後者はMEG,fMRIに代表される脳計測法である.MEGやfMRIを用いた研究は,様々な刺激やタスクに特化した脳部位の特定を目的とする場合が多いが,それだけでは情報処理のメカニズムまでは明らかにならない.そこで本論文では,刺激パラメータを変化させた際の知覚変化と脳活動変化の対応関係を調べることにより,運動情報処理の各階層における神経機構を検討している.

 第二章では,運動のオンセットに誘発されるMEGの方向選択性および,MEGと知覚速度の対応関係を,運動視順応を用いて検討した.本論文では,拡大または収縮方向に運動する半同心円刺激を用い,順応条件,非順応条件の双方において,複数の速度で動く運動のオンセットテスト刺激に対するMEGおよび知覚速度を計測している.運動のオンセットに誘発されるMEGの発生源は主としてMT野に推定され,順応によって,ピーク潜時はほとんど変化しなかったが,ピーク強度はいずれの運動方向に関しても減少した.順応によるMEG強度の減少は,テスト刺激が順応刺激と逆方向に運動する場合に比べて,同方向に運動する場合に有意に大きかった.さらに,これらのMEG強度変化が知覚速度の変化と類似していたことから,MEGは方向選択性細胞の活動量の総和を計測しており、それと知覚速度が対応することを示した.

 第三章では,運動速度の増大に誘発されるMEGと速度弁別閾値の関係および,両者に対する順応の影響を検討している.四つのベース速度(速度変化前の運動速度)からの40%あるいは80%の速度増大によって誘発されるMEG応答を計測するとともに,各ベース速度における速度弁別閾値を心理物理学的手法により計測し,両者を比較した.MEGおよび弁別閾値の計測は,順応有,無の各条件において行った.その結果,40%の速度変化に対するMEG強度は,速度弁別閾値と逆比例し,感度とは正比例することを明らかにした.さらに,順応によって,MEG強度が増大する一方で,弁別閾値が減少したことから,速度変化に誘発されるMEG強度と弁別感度の相関を裏付けた.

 第四章では,MEGとRTを比較することにより,運動視情報の検出過程を検討した.空間的にランダムに配置されたドットのランダム方向への運動が,一部(20,40,80%)のドットの運動方向のみ一定で他はランダムであるコヒーレント運動に変化する刺激を用いることにより,局所運動の空間的統合によるグローバル運動の知覚という,最終段の処理までを含めた運動視情報処理の過程を扱った.多数の先行研究において,刺激強度の増大に伴い,ピーク潜時とRTの双方が減少するものの,ピーク潜時の変化はRTの変化に比べて小さいことが報告されている.本論文では,Integrator modelと呼ばれるモデルを採用すると,MEGの応答波形からRTの変化をほぼ完全に説明できることを明らかにした.この結果,脳活動の時間積分が閾値を超えた時刻に運動刺激の検出がなされる可能性を示した.

 第五章では,運動視知覚の発展として,視覚情報の統合過程を扱った.輝度,色,形態,奥行き,運動などの視覚情報は,異なる領野において処理された後,それらが統合されて,一つの物体としての知覚が成立することが知られている.この統合過程(Binding problem)についてはまだほとんど明らかになっておらず,脳研究の最重要課題の一つと考えられている.本論文では,色運動非同期錯視と呼ばれる錯視を用いて,知覚的同期に基づく色と運動の統合過程について検討した.MEGをウェーブレット解析することにより,ガンマ帯における相互作用が,知覚的同期の条件において有意に大きくなることから,ガンマ帯の活動が運動情報と色情報の統合に関与している可能性を示した.

 第六章では,以上四つの実験のまとめと総合考察を述べている.なお、本論文第2,3章は、栗木一郎,遠藤博史,大脇崇史,西田眞也,武田常広,第4,5章は西田眞也,武田常広との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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