学位論文要旨



No 120478
著者(漢字) 小林,徹也
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,テツヤ
標題(和) 細胞内化学反応ネットワークに関する数理的研究
標題(洋) A Mathematical Study on Intracellular Chemical Reaction Networks
報告番号 120478
報告番号 甲20478
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第98号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 高瀬,雄一
 東京大学 教授 高木,利久
 東京大学 教授 森下,真一
 東京大学 助教授 堀田,武彦
内容要旨 要旨を表示する

 近年、分子生物学における実験にコンピュータを援用した研究の急速な発展によって、細胞内化学反応を構成する物質とそれらの関連が加速度的に明らかになってきている。

 このような細胞内現象の物質的側面が明らかになるにつれ、細胞内に存在する物質とその間の化学反応によって構成される細胞内化学反応ネットワークが示す動的な振る舞いを、システム的な側面から明らかにしようという試みが国内外を通して大きく活発化している。

 特に近年、定量的な実験によって、癌抑制にかかわる遺伝子の発現や藍藻細菌の概日リズム、バクテリアのSOS応答と走化性、そしてショウジョウバエの発生やバクテリアの抗生物質への耐性など様々な系について、遺伝的に同一な細胞集団における個々の細胞の振る舞いがある種の多様性を示すことが明らかにされ、理論的・実験的側面から大きな関心が集まっている。このような非遺伝的な多様性を生み出す原因として、環境の揺らぎや個々の細胞間の相互作用などいくつか考えられるが、特に1細胞内に含まれる化学物質の個数が少数であるため、細胞内化学反応が確率的に起こることに起因する確率性が最重要視されている。しかし一方で、細胞内化学反応ネットワークによって制御されている複製や細胞分裂、発生過程などの細胞内現象は、ある種の高い再現性を持った振る舞いを示しうることも実験的に明らかになっている。

 このように、細胞内化学反応ネットワークは構成要素である化学反応が揺らぎを内在していることに起因して、一方で揺らぎによる多様性を生みだし、そして他方では揺らぎにもかかわらず再現性の高い振る舞いを示すことから、細胞内化学反応ネットワークにおいて「揺らぎがシステムとしてどのように制御されているのか?」そしてまた、「揺らぎはどのような意味を持ちうるのか?」という問題を理論的に明らかにする重要性が大きく高まっている。本研究ではこの2つの問題に対して、数理的な解析方法の構築を中心とした研究を行った。

[細胞内化学反応ネットワークにおける揺らぎの制御]

 抽象的な観点から考えると、細胞内化学反応ネットワークは揺らぎを内在する構成要素(化学反応)を組み合わせて、全体としてある種の再現性のある振る舞いを実現している系であるといえる。このような揺らぎを内在する細胞内ネットワークにおける再現性の理解ためには、まず細胞内ネットワークにおいて揺らぎがどのように制御されうるか、を明らかにしなければならない。しかし、揺らぎを内在する細胞内化学反応ネットワークは既存の様々なシステムと大きく異なり、ネットワークを構成する化学反応が、「揺らぎを生成する」という機能と「揺らぎを伝播する」という機能の2つを内在しており、さらにそれらが物理的に不可分であるため、従来の数理的手法の直接的な適用が困難である。揺らぎを内在する細胞内化学反応ネットワークのシステム的な理解のためには、この2つの機能を分離して評価することを可能にする新たな数理的な枠組みが必要であると考えられるが、そのような手法は未だ発展途上である。また、近年の細胞内化学反応ネットワークのシステム的な側面に注目した研究は理論と実験を両輪として発展してきていることから、数理理論を専門としない研究者にも直感的な理解が可能である理論的手法のこの分野における重要性は非常に大きい。

 このような細胞内化学反応ネットワーク研究に特有の問題をふまえ、本研究ではまず確率ネットワーク解析と呼ばれる揺らぎを内在する細胞内化学反応ネットワークを解析するための新たな数理的手法を開発・発展させた。

 確率ネットワーク解析は、ネットワークを構成する物質の揺らぎの間の相互関連を記述するキュムラント発展方程式、揺らぎの生成・伝播の関連を明らかにする確率ネットワークグラフ、そして、確率ネットワークグラフのグラフ構造を注目する物質の揺らぎへと関連づける定理の3つの要素によって構成さる。確率ネットワーク解析は既存の手法と比較し、3つの大きな特徴を有する。第一に、化学反応の持つ「揺らぎを生成する」という機能と「揺らぎを伝播する」という2つの機能を分離して評価する数理的枠組みを提供する。第二に、確率ネットワークグラフを用いて物質間の揺らぎに関する依存関係を視覚的に表現するため、ネットワーク構造と揺らぎとの間の関連が直感的にとらえられる。そして、最後に、確率ネットワークグラフによって直感的にとらえられるパス、ループなどの構造と、注目する物質の揺らぎがとの間の明確な関連が

という公式によって保証され、さらに確率ネットワークグラフの縮退を適用することにより、異なる構造を持つネットワークの揺らぎに関する比較が可能になる(図1)。

 また本研究では、確率ネットワークの手法を援用し、転写・翻訳効率と1遺伝子発現における揺らぎの解析、負のフィードバックループと揺らぎの伝播の構造の解析、そして合成反応と修飾反応の相互作用による揺らぎの変化についての解析を行い、確率ネットワーク解析によってそれらの機能についての統一的な理解が得られること、確立ネットワーク解析によってこれまでの解析では明らかにされなかった暗黙の揺らぎの現象が明らかにされうること、そして転写・翻訳効率と1遺伝子発現の揺らぎの関係を一般することができることを示した。

[細胞内化学反応ネットワークの揺らぎの意味]

 確率ネットワーク解析の手法は、1細胞内の化学反応ネットワークに関する揺らぎを記述し、注目する物質の揺らぎがネットワークの構造やパラメータと関連してどのように決定しているか、を明らかにしてくれる。しかし、本手法は揺らぎが細胞に対してどのような機能や意味を持ちうるのか?という問いには答えてくれない。ダーウィン進化論的な立場からみれば、すべての細胞内の機能はそれが細胞の生存と増殖にどのように関わっているか、という観点に立たなければ理解することはできない。言い換えれば、1細胞レベルでの遺伝的な特性により決定する細胞内ネットワークの揺らぎが、増殖する細胞集団としてのマクロな振る舞いをどのように決定しうるのか?という問題を考えることが不可欠である。

 このような問題を解析するための一般的な数理的手法は提出されていないため、揺らぎを内在する1細胞内化学反応の挙動を記述する数理的手法を増殖細胞集団としての特性と統合することによって拡張し、揺らぎが細胞集団としてどのような役割をもちうるかを評価することを可能にする手法を構築した。

 そして、細胞内化学反応ネウトワークの揺らぎと細胞増殖の関連を明らかにする第一歩として、基本的な一遺伝子の発現モデルに細胞増殖の機能を取り込むことによって、外来遺伝子の発現における揺らぎが細胞の増殖にどのような影響を与えうるのかを解析した。その結果、外来遺伝子が抗生物質耐性遺伝子のように用量依存性がある場合、揺らぎは外来遺伝子の発現量が最適であるときの増殖速度を犠牲にして、発現量が最適でない場合の増殖速度を高めることなどを示した(図2:左)。また、このような基本的なモデルの1つの応用として、バクテリアを用いた外来遺伝子の合成を取り上げ、遺伝子発現における揺らぎによって、高い単位収量を得られるパラメータ領域が広がるだけでなく、単位最大収量も揺らぎによって増加しうることを示した(図2:右)。そしてこれらの現象は、揺らぎと増殖の相互作用によって、発現する分子の平均値がシフトすることと、揺らぎによって平均増殖速度が変化することの2つの影響によることを確かめた。

 一方、本手法の有効性を生物学的に具体的な問題に対しても確かめるため、遺伝的な詳細が明らかでかつ細胞の遺伝的な特性と集団としてのマクロな特性との対応が明確なプラスミドのコピー数制御問題の解析を行った。

 プラスミドのホスト細胞内での個数はプラスミド上に実装された遺伝的機構によって制御されているがその平均数はホスト細胞への負荷とプラスミドがホスト細胞の分裂の際に確率的に失われる影響によって集団的に決定されると考えられている(図3:左)。新たに開発した数理的手法のシミュレーションから得た知見に基づき、平均数を記述する集団レベルでのマクロなモデルを導き、そのマクロパラメータがプラスミドの細胞内個数を制御する遺伝的な特性とどのような対応関係があるかをシミュレーションによって明らかにした。その結果、プラスミドの個数をコントロールする遺伝的な仕組みはすべてプラスミドがホスト細胞から失われる確率を減らすという機能を果たすにもかかわらず、プラスミドの平均値の決定について異なった役割を果たしうることを発見し(図3:右)、プラスミドのコピー数制御機構とプラスミドの平均数との関連について新しい理論的な解釈を提案した。

 最後に、本研究において提案された数理的手法とその結果から得られた知見をふまえ、細胞内において揺らぎがどのように制御され、またどのような機能を果たしうるのか、について包括的な議論をおこなった。

図1

図2

図3

審査要旨 要旨を表示する

 細胞内化学反応のダイナミクスは、分子の少数性などに起因する大きなゆらぎを内在しているのにもかかわらず、細胞内化学反応ネットワークによって制御される細胞内現象はある種の決定的な振る舞いを示しうることが明らかになっている。細胞内ネットワークにおいてゆらぎがどのように制御されどのような機能を持っているか、という問題を数理的に明らかにすることは、細胞内ネットワークの設計原理の解明に不可欠であるだけでなく、ゆらぎを内在する要素による制御の理論構築にもつながり、工学や社会学といった他分野への応用も期待される。

 本論文では細胞内化学反応ネットワークにおけるゆらぎの機能を理解するための数理的手法の開発を目的としている。特に、細胞内化学反応ネットワークにおけるゆらぎがどのように制御されているかを明らかにする手法と細胞内化学反応ネットワークにおけるゆらぎがどのような機能・意味を用いるかを明らかにする手法の開発を2つの大きな主眼としている。

 本論文は,"A Mathematical Study on Intracellular Chemical Reaction Networks"(和文題目:細胞内化学反応ネットワークに関する数理的研究)と題し,全 7 章より成る.

 第1章では、問題の背景となる細胞内ネットワークの数理的研究と細胞内確率現象についての研究の流れを概観し、本研究と過去の研究との関連を明確にしている。

 第2章では、本論文の主要問題の1つである細胞内化学反応ネットワークのゆらぎがどのように制御されているか?という問題に対し、細胞内ネットワークのゆらぎを解析する数理手法である確率ネットワーク解析の提案・導出を行っている。また、確率ネットワーク解析を応用した細胞内ネットワークのゆらぎや情報伝達の評価についての問題やGenome-Scaleの実際のデータを用いたゆらぎの推定の問題などを議論している。

 第3章では、第2章で提案した確率ネットワーク解析の手法を、いくつかの細胞内ネットワークに適用し、本手法の有効性を明らかにしている。特に、転写・翻訳効率比によるゆらぎの制御を一般のネットワークに拡張し、さらに潜在的なゆらぎの抑制を確率ネットワーク解析を用いてはじめて明らかにしている。また、数値解析と確率ネットワーク解析を組み合わせることにより、各反応が生成するゆらぎの相対的な寄与やネットワークの構造の影響が明らかになり、高い応用可能性があることを示している。

 第4章では、細胞内化学反応ネットワークのゆらぎをどのように評価するべきか?という問題に対し、化学マスター方程式に細胞の増殖の影響を組みこんだ非線形マスター方程式を構築し、その有効性を評価している。特に外来遺伝子の発現に対してゆらぎが及ぼす影響を評価し、外来遺伝子が細胞に対し有用な機能を持つ場合、ゆらぎの影響にある種のTrade offがあることを示した。さらにこの結果から、ゆらぎを制御する細胞内システムについての議論を行っている。

 第5章では、第4章で提案した非線形マスター方程式をより具体的なプラスミド不安定性の問題に適用し、プラスミドの分子的な機構が細胞内におけるプラスミドの安定性というマクロな特性にどのように影響を与えうるか、を明らかにしている。具体的には、2つの特徴的なプラスミドコピー数が存在し、それらの優位性などに対して、プラスミドのコピー数を制御する異なる分子機構が異なる影響を及ぼしうることを明らかにした。そして、その解析に基づき、プラスミドコピー数の決定について、新しい提案を行っている。

 第6章では、2章から5章までの研究結果と、過去の研究を包含したうえで、細胞内ネットワークにおけるゆらぎの制御や利用、そしてその評価に関しての包括した議論を行い、今後この研究の発展のために必要となる方向性を提案している。

 第7章では、本博士論文の結果をまとめた要約を行っている。

 以上のように、本論文において論文提出者は細胞内ネットワークにおけるゆらぎの解析手法の開発とその応用研究において十分な成果を挙げ、複雑理工学および今後の分子生物学へ貢献するところが大きい。なお、本論文第2章から5章は合原一幸との共同研究、2章は冨岡亮太、木村英紀との共同研究、そして3章は森下喜弘との共同研究であるが、論文提出者が主体となり問題を提起し、その解析手法の開発を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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