No | 120482 | |
著者(漢字) | 森下,喜弘 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | モリシタ,ヨシヒロ | |
標題(和) | シグナル分子の少数性による揺らぎ | |
標題(洋) | Fluctuations Induced by Population Smallness of Signaling Molecules | |
報告番号 | 120482 | |
報告番号 | 甲20482 | |
学位授与日 | 2005.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(科学) | |
学位記番号 | 博創域第102号 | |
研究科 | 新領域創成科学研究科 | |
専攻 | 複雑理工学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | ゲノム科学における実験技術の飛躍的な進歩によって,我々は,細胞内遺伝子ネットワークを構成する多くの遺伝子及び遺伝子間制御関係,ネットワークトポロジーといった多様な知見を得ることが可能となった.そのなかでも,とりわけ定量的な実験によって「各シグナル分子の少数性」が明らかにされた.従来の化学反応論では,分子の量を濃度という連続量で記述していたのに対し,実際の細胞内では各シグナル分子はしばしば数個〜数百個という大変少量で存在するのである.分子の少数性は遺伝子発現過程をはじめ多くの化学反応系において大きな揺らぎをもたらすため,システムダイナミクスを理解する上での重要な因子の一つとして近年注目されるようになった. 生命システムにおける揺らぎは,概日周期や発生過程,さらにはスイッチや振動子等の機能をもった遺伝子回路の人工的構築といった,ダイナミクスの正確さが要求される状況下ではネガティブな因子として作用する.その一方で,遺伝的に同一な集団における個性の創出といったポジティブな側面も持つ.さらに,ノイジーな環境で細胞が一見正常に動作して見える背後には,揺らぎを積極的に利用した情報処理の可能性が推察される. 本研究では,シグナル分子の少数性による揺らぎに関して,揺らぎの抑制と揺らぎの利用という二つの側面から研究を行った.前者では,特に遺伝子発現過程の揺らぎに注目し,揺らぎの生成メカニズムと抑制方法を提案した.さらに,提案した手法の有効性をより明確にするために,パラメータ依存性や抑制限界を解析的に導出した.また応用例として,人工遺伝子回路(トグルスイッチ)におけるシステム安定性の向上に貢献しうることを数値解析によって示した.後者では,揺らぎが細胞内情報処理に与える積極的役割を模索するために,多くの生物に共通して現れる構造であるchemical cascadeとincoherent feed forward loopに着目し,揺らぎの存在がSN比やシグナル選択性の向上に大きく寄与し得ることを理論的に明らかにした. 遺伝子発現過程における揺らぎの抑制 各遺伝子から生成されるタンパク質の個数は,しばしば数十個から数百個程度であるため,発現量は平均の周りを大きく揺らぐことが示唆されてきた(図1).筆者はまず,転写・翻訳効率比(以下,TT比)という指標を導入し,揺らぎの大きさが生成タンパク質の個数とTT比の二変数によって記述できることを数値的,解析的に示した.特に生成タンパク質の平均個数が一定の場合,揺らぎはTT比のみによって決定され,TT比の単調減少関数となることを明らかにした(Morishita and Aihara, 2004). また,生成タンパク質分子と細胞内背景分子との相互作用やタンパク質分子自身の多量体化といったヘテロ・ホモ多量体化過程が揺らぎレベルを効果的に抑制し得ることを明らかにした(背景分子:細胞内巨大分子やDNA分子).これは,確率的に変動するタンパク質生成量の平均値からのずれを,多量体化反応が吸収(補償)し揺らぎが分散されるためである.揺らぎレベルは,多量体化過程における反応速度や解離定数,相互作用しうる背景分子数といった複数のパラメータに大きく依存する.本研究では,ダイナミクスを支配するマスター方程式に対して線形ノイズ近似を適用することで,揺らぎレベルのパラメータ依存性,抑制最適条件,抑制限界を解析的に導出した. 実際,細胞内環境は様々な巨大分子により大変込み合っており(macromolecular-crowdingと呼ばれる),細胞内化学反応は希薄溶液内の反応とは異なり,タンパク質のフォールディングの効率や拡散定数・反応定数を変化させるといったことが報告されている.こうした込み合った細胞内状況では,生成タンパク質と背景巨大分子の相互作用は無視できず,macromolecular-crowdingの新しい一機能として遺伝子発現揺らぎの抑制,細胞内情報処理の安定性の向上が示唆された.同様に,転写因子等のタンパク質は通常細胞内においてDNA分子と非特異的に相互作用していることが知られており,DNA分子自体が揺らぎを抑制している可能性も示唆された.さらに,タンパク質分子の多量体化は普遍的に見られる現象であり,この過程が揺らぎ抑制の機能を持ち得るという結果は新しい知見である. 一方,ネガティブフィードバックによって揺らぎを抑制し得るという実験結果(Becskei and Serrano, 2000)に対し,以上と同様な確率解析を行った結果,フィードバックによる揺らぎ抑制の効果は一部のパラメータ領域内においてのみ得られることを示し,解析的にその条件を導出した. 本研究で行った定量的な評価は,実際に人工遺伝子モジュールを構築する際に最適な構成要素を選択する上で非常に重要な理論的指標となると考えられる.また応用例として,上述した遺伝子発現の揺らぎ抑制方法がシステムレベルでの安定性の向上に有効であることを,トグルスイッチモデル(Gardner et al., 2000)に適用することで示した.この系は決定論解析では双安定な系であり,二つの安定平衡点間を外部入力によって切り替えることでスイッチ機能が実現される.しかし,mRNAやタンパク質の個数が少ないというより現実的な状況下では,個々の遺伝子の発現の揺らぎによって,システムの状態は片方の平衡点(近傍)にとどまることができず両平衡点間を自発的に遷移してしまう(図2(左)).一方,図2(右)から分かるように,各遺伝子のTT比の増加や,標的タンパク質と特異的に結合するノイズ抑制因子の付加によって,平衡点の安定性を著しく増加させることが可能となる.こうした性質は人工的に制御可能なスイッチを構築する上で必要不可欠であり,提案した抑制方法がシステムのロバスト性・信頼性の向上に有効であることを示している. 細胞内情報処理における揺らぎの利用 人工的な遺伝子回路の設計といった工学的側面から見た場合,上述したようにシステム構成要素の揺らぎを抑制することは大変重要な問題となる.しかしその一方で,実際の細胞内において各シグナル分子が少数であるという事実は,少数性に起因した揺らぎを抑えるためのメカニズムの存在,あるいは揺らぎの積極的な利用といったことを推測させる.本研究では,揺らぎが細胞内情報処理に積極的な役割を持ちうることを,普遍的に見られる二つのモジュールにおいて明らかにした. [Incoherent feed forward loop] Incoherent feed forward loop (IFFL) は,大腸菌,酵母をはじめ,多細胞生物における概日周期や四肢の発生といった様々な生物や状況で見られるネットワークモチーフである(図3).このモチーフの特徴は,適当な条件下において特定の入力バンドに対する選択的な応答を実現できるという点である(図4:入出力曲線;決定論解(黒)及び確率モデルにおける平均(赤・青)).分子の少数性による揺らぎによって応答が増幅され,入力に対する選択性が増加することが分かる.応答の増幅は決定論解におけるピーク付近でのみ顕著に見られ,両端では決定論解に漸近する.増幅のメカニズムは,システムを構成する化学反応系の非線形性による,揺らぎに対する応答の非対称性である.したがって応答の増幅の程度は揺らぎの大小に大きく影響を受ける(図4赤線:揺らぎ大,青線:揺らぎ小). [Chemical cascade] M段からなる触媒反応の連鎖を考える(図5).各分子集団のサイズ(個数)はNで与えられる.また,各分子は活性と不活性の二状態をとり,集団j+1の不活性分子は集団jの活性分子によって活性化されるものとする.こうしたシステムは,実際にはリン酸化やメチル化といった酵素反応の連鎖等に対応する.ここで,入力としては矩形型の二値入力を用い,入力強度をその時間幅τによって与えた. 集団サイズNが小さい(100〜102)場合,システムの応答が決定論解から大きくずれることを数値解析によって明らかにした.決定論解との違いを,矩形パルス入力に対する最大応答の平均と決定論における最大応答の比Rによって評価した.Rと集団サイズN,カスケードステージjの関係を図6に示す.ここで,R>1,R<1は決定論解と比べて増幅,減衰を表す.増幅と減衰は,( N, j,τ) の3パラメータによって決まり,特に各入力強度τに対して,カスケードを通じてシグナルを増幅するのに最適な集団サイズが存在するという興味深い結果を得た. 応答の増幅・減衰は,SN比の向上に貢献しうることが予想される.図7は,入力強度τの大小で区別された,シグナルτs(赤)とノイズτn(青)の混合入力に対する応答を示す.サイズNが小さい場合(N=20(左)),シグナルの増幅とノイズの減少によってSN比が顕著に増加することが分かる.この効果はNの増加によって失われ,決定論解析で得られる値に漸近する. 以上の結果から,シグナル分子の少数性による揺らぎは,細胞内情報処理に様々な影響を与えることが予想され,今後ネットワークダイナミクスを理解する上での重要な因子となることが示唆される. 図1 遺伝子発現の時系列 図2:相平面内におけるシステムの状態遷移 (左)抑制手法適用後 (右)抑制手法適用後(TT比の増加,ノイズ抑制因子の付加) 図3 IFFL 図4 入出力曲線 図5 Chemical cascade 図6 RとN,jの関係 図7 混合入力に対する応答 | |
審査要旨 | 細胞内化学反応のダイナミクスは、各シグナル分子の個数の少数性に起因し、大きな揺らぎを内在している。このような揺らぎは細胞内化学反応システムの挙動に大きく影響を及ぼすため、その揺らぎが細胞内において果たす役割を明らかにすることの重要性が近年高まっている。本論文では分子の少数性に起因した細胞内化学反応の揺らぎがどのように抑制もしくは利用されているか、という点に注目し、揺らぎを抑制または利用していると考えられる細胞内ネットワークのモチーフを数理解析に基づいて提案し、またそれらの機能的な限界などを明らかにすることを目的としている。この問題は細胞内化学反応ネットワークにおける揺らぎの役割を明らかにするだけでなく、安定に機能する人工遺伝子ネットワークの設計方法など、生物工学や医療などの分野への応用も期待されるものである。 本論文は," Fluctuations Induced by Population Smallness of Signaling Molecules " (和文題目シグナル分子の少数性による揺らぎ)と題し,全4章より成る. 第1章では、問題の背景となる細胞内シグナル伝達系と分子の少数性に起因した揺らぎについて、その研究背景や基本的な問題設定を示すことにより、本研究の位置付けを明確にしている。 第2章では遺伝子発現過程における揺らぎに注目し、揺らぎの大きさを評価する指標として転写・翻訳効率比を提案し、この指標と揺らぎとの関係を解析的に示している。また、生成タンパク質と細胞内背景分子との相互作用という細胞内において顕著に起こっていると考えられる化学反応が、遺伝子発現量の揺らぎを抑制する機能があることを示している。さらに、従来の実験研究において揺らぎを抑制すると考えられていた負のフィードバックループが、必ずしも揺らぎを抑制しないことを示し、そのパラメータ依存性を明らかにした。また、揺らぎを抑えるための以上のメカニズムに対して、抑制機能の限界を解析的に明らかにしている。そして、それらのメカニズムを複数組み合わせることで、逆にゆらぎが増加しうることを示すことにより、安定に機能する人工遺伝子ネットワークの設計に、揺らぎの詳細な数理解析が不可欠であることを例示している。また一方で、本解析からMacro Molecular Crowdingが揺らぎを抑制する機能を持つという新しい仮説を提案し、背景分子と同様の機能を持つ人工的な分子を設計することにより、人工遺伝子スイッチの安定性が飛躍的に高まり、安定なスイッチを構築できることを示唆している。 第3章では、細胞内シグナル伝達系において揺らぎが情報処理に与える積極的な役割を提案している。前半では、フィードフォワードループを取り上げ、決定論的な解析からフィードフォワードループが特定の範囲の入力に対して、選択的に応答をしうることを明らかにすると同時に、揺らぎによってその選択性が向上することを明らかにしている。 後半においては、細胞内シグナル伝達系に顕著に見られる化学反応のカスケードを取り上げ、カスケードを構成する各シグナル分子の集団サイズとカスケードによる情報伝達の性能の関係を評価している。特に、カスケードを通じたシグナル増幅性能やS/N比が、カスケードを構成する分子集団のサイズによって変化し、それらが最も向上する最適な分子集団サイズが存在することを示している。この結果から、細胞内シグナル伝達系において、システムを構成する各シグナル分子の個数によってシステムダイナミクスの特性が大きく変わりうることを明らかにしている。 第4章では、本論文での結果をまとめ、結果の生物学的な視点からの妥当性を主張している。 以上のように、本論文は細胞内化学反応の揺らぎに関し、新規性の高い発見を行い、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文第2章、3章は合原一幸との共同研究であり、また本論文第2章後半は小林徹也との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起し、数理解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。 | |
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