学位論文要旨



No 120483
著者(漢字) 森田,賢治
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,ケンジ
標題(和) 大脳皮質におけるGABAの機能に関する理論神経科学的研究
標題(洋) Computational Neuroscience Approach to Functions of GABA in the Cerebral Cortex
報告番号 120483
報告番号 甲20483
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第103号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 浅井,潔
 東京大学 助教授 眞溪,歩
 東京大学 助教授 久恒,辰博
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

強い非線形性を有する系はそれ自身極めて非自明な振る舞いを示しうる。その一方で、最小限の非線形性しか持たない要素であっても、多数集まれば全体として新たに非自明な特性が創発されうる。分子・細胞・局所回路・大域的回路という階層性を持つ脳が、そのそれぞれの階層において専門分業化の利と多数の利をいかに使い分け計算力を引き出しているかは依然として大部分が未知である。その解明を究極の目標として私は、「要素の持つ複雑さを一段階増やすと、系全体にはどのような質的変化が起こるか」を調べる研究、すなわち要素についての新たな実験的知見を元に、それが持ちうる意義を予測するような理論研究を志した。具体的には、大脳皮質におけるGABA(抑制性神経伝達物質)作動性神経細胞の作用に関連して、単一のシナプスについての新たな知見から神経細胞の入出力関係についての新規な予測を、また、神経細胞の局所的結合様式から神経細胞集団の挙動についての新たな仮説を導いた。

2. GABA性入力が神経細胞の入出力関係に与える効果について

2.1 背景と目的

これまで大脳皮質錐体細胞においてGABAによって開くイオンチャネルの平衡電位は静止膜電位とほぼ等しいとされ、それ故GABA性入力は膜電位を引き下げるよりもむしろ、膜の電導性を高めて他の興奮性入力による膜電位の上昇を防ぐ効果を持つと考えられてきた。そしてその仮定の下、GABA性入力が神経細胞の入出力関係(興奮性入力の強度と出力発火率の間の関係)に及ぼす効果について多くの研究がなされてきた(図1)。しかし最近、新しく開発された厳密な測定法によって、GABA性チャネルの平衡電位は静止電位より10mV程度高いことが報告された(Gulledge & Stuart 2003)。これが正しければ、GABA性入力が入出力関係に与える効果も、従来の説とは異なることが期待される。そこで、二次元の神経細胞モデルを用いて、平衡電位が静止電位よりも高い様なGABA性入力(これを以後「脱分極性GABA入力」と呼び、平衡電位が静止電位と等しいGABA性入力を「脱分極性でないGABA入力」と呼ぶことにする)が入出力関係に与える効果について調べた。

2.2 結果と考察

GABA性チャネルの平衡電位が静止電位より高いことの帰結として、脱分極性GABAシナプス入力は他の興奮性シナプス入力とのタイミングによっては、発火を抑制のみならず促進もしうることが実験で詳細に調べられている(前出文献)。そこでまず、二次元モデルを用いてこうした脱分極性GABAシナプス入力の抑制性および促進性の働きを再現できることを示し、このモデルを用いることの妥当性を確認した。またその境界が分岐の集積として特徴付けられることを示した。

脱分極性GABA入力が入出力関係に与える効果に関して、まず最初に入力が時間変化しない場合(これをtonicな入力と呼ぶ)について調べた。このとき系は、興奮性入力の強さとGABA性入力の強さの二つをパラメータとする二次元自律力学系であるので、その相平面および分岐構造を調べた。発火状態にあるパラメータから、脱分極性でないGABA入力を増やしていくと、安定な周期軌道を挟んで二つのnullclineの幅が次第に縮まり、やがてsaddle-node分岐が起こるのに対して、脱分極性のGABA入力を増やしていった場合には、周期軌道を挟む部分でのnullcline 間の幅の減少は起こらず、周期軌道の中心にある不安定平衡点がある所で安定化する(Hopf分岐が起こる)ことが分かった(図2:一・二段目)。これよりまず、脱分極性でないGABA入力を増やすと発火率が連続的に減少して非発火状態に達することが予測されるが、これは「tonic なGABA 性入力は入出力関係に対して引き算的な効果を持つ」という既知の結果(Holt & Koch 1997)と一致する(図2:三・四段目左)。一方、脱分極性のGABA入力については、これを増やしていった場合、しばらく発火率は大きくは変化せず、ある量で突如発火が止む、という質的に異なる効果を持つことが新たに予測された(図2:三・四段目右)。

実際の神経細胞は数千個のシナプス入力を受ける。もし各シナプスへの入力が独立ならば、その和は時間的にほぼ一定であることが期待され、上述の議論が当てはまる。しかし活動時の動物の脳からの記録では、各シナプスへの入力はしばしば強い相関を持ち、それ故その和は時間的に大きく揺らぐという報告もある。そのように入力が大きな揺らぎを伴う場合については、脱分極性でないGABA入力は、tonicな場合と異なり、割り算的な効果を持つことが示されている(Mitchell & Silver 2003)。この結果は私の用いたモデルでも再現された。さらに、脱分極性のGABA入力がどのような効果を持つかを調べたところ、それが興奮性入力と時間的に無相関な場合には、ごく限られた抑制効果しか与ええず、興奮性入力と時間的に正の強い相関を持つ場合に初めて、効果的な抑制を与えることが新たに予測された(図3)。

3. 樹状突起に特異的に投射するGABA作動性神経細胞のネットワークにおける機能について

3.1 背景と目的

第2章では、GABA性入力が時間的に相関のある興奮性入力に対してのみ効果的な抑制を行う可能性を論じた。一方GABA性入力が、空間的に近接した、すなわち樹状突起上の同じ枝に入る興 奮性入力に対してのみ効果を有する可能性については以前から指摘されている(Koch et al. 1983)(図4)。しかしそのネットワークレベルでの意義についての研究はほとんど存在しなかった。近年、GABA作動性細胞は、発火特性の異なる二つのクラス(FS細胞とnon-FS細胞)に大別され、それぞれ錐体細胞の異なる場所、すなわちFS細胞は細胞体近くに、non-FS細胞は樹状突起遠隔部にシナプスを作る傾向があることが分かった。さらに、FS細胞は長距離の皮質内結合を作るのに対してnon-FS細胞は主に皮質カラム内の短い結合を作るというマクロな結合様式の差も見られ、それぞれ異なった機能を持つ可能性が示唆されている。そこで皮質カラムの局所回路のモデルとして、興奮性細胞集団がnon-FS細胞を介して相互に抑制をしあうような系を考え、その動特性を解析し持ちうる機能を考察した。

3.2 結果と考察

入力層、出力層の二層と、non-FS細胞から成る神経回路モデルを考える(図5)。入力層から出力層への結合重みはランダムとし、出力細胞のself-excitation およびnon-FS細胞への興奮性入力は均一な強さとした。さらに、non-FS 細胞は出力細胞の各樹状突起(入力層から出力層への結合の一つ一つ)に均一な強さの抑制を与えるものとし、出力細胞を表す式において入力の樹状突起の各枝ごとの和にそれぞれ非線形変換(閾値演算および飽和)を課すことによってこれを表現した(図5 中の式)。この点が、入力を線型加算した後に唯一度の非線形変換を課す従来の神経細胞の発火率モデルと異なる所である。

入力層への入力パターンがいずれかの出力細胞の求心性結合の重みベクトルと相関を持つ場合には、その細胞が他に比べて大きな興奮性入力を受け取ることになる(図6)一方、入力パターンがどの細胞の求心性結合とも相関を持たなければ、全ての細胞への入力はほとんど同じになることが期待される。ここで、相互抑制が樹状突起ではなく各細胞体に直接作用する場合については、self-excitation の強度が一定以上の場合、入力持続下で必ず平衡点に収束すること、及び、局所安定な平衡点は、どれか一つのみが正の活動度を持ち残りは皆0という所謂Winner-take-all(WTA)状態のみであることがよく知られている。

これに対して、上述のモデルを、各細胞の持つ樹状突起の枝の本数を無限とする極限をとって解析したところ、入力持続下で、入力パターンがいずれかの

細胞の求心性結合と高い相関を持つ場合にはWTA状態のみが安定な平衡点となるのに対して、入力パターンがどの細胞の求心性結合とも低い相関しか持たない場合には、WTA状態の他に、全ての細胞が0でない低い活動度を持つ安定な平衡状態が存在することが明らかとなった(図7)。従ってこのモデルに一過的な入力が入った場合には、それが「既知」すなわちいずれかの細胞の求心性結合と相関のある場合に限って、その細胞の持続的な活動が引き起こされることになり、従来提案されているものとは異なる構造および原理を持つ短期記憶のモデルだと考えることができる。

4. おわりに

脳も進化の産物であることを考えると、それの持つ性質は、たとえ一見奇妙であったとしても、何か合理的な意味を持つ可能性は低くない。本研究では、そうした合理的意味の一例を提示した。特に第二章の予測は現在の技術でも検証可能であり、是非それを実現したいと考えている。

【図1】

【図2】

【図3】

【図4】

【図5】

【図6】

【図7】

審査要旨 要旨を表示する

 脳の研究における理論的研究の重要性は近年ますます高まっている。個々の神経細胞の一つ一つがそれ自身豊かな動的特性を有するため、集団としての脳の振る舞いは必然的に複雑なものとなるが、脳の動作特性や機構、そして機能を理解するためには、様々な階層における実験的研究に加えて、トップダウン的な計算論的研究およびボトムアップ的なモデリング研究が必要不可欠である。本論文は、脳内の主要な神経伝達物質の一つでありながら、その本当の機能については依然として十分解明されていないGABAに着目し、その最新の実験的知見に基づいて数理モデルを組み立て、理論的にその特性を解析するという研究である。

 本論文は、"Computational Neuroscience Approach to Functions of GABA in the Cerebral Cortex" (和文題目 大脳皮質におけるGABAの機能に関する理論神経科学的研究)と題し、全4章より成る。

 第1章では、まず、本論文の研究視点が明確に表明されている。それに続いて、本論文の全章に共通する生物学的知識および知見が、神経伝達物質GABAに関する内容を中心に整然と整理され、本論文を読むに当たって必要な情報が端的にまとめられている。

 第2章では、GABA性シナプスの平衡電位が神経細胞の入出力関係に与える影響についての研究が記されている。神経細胞に興奮性入力を加える場合、その強度を連続的に強くしていったときの発火開始の機構に関して、接線分岐ないしホモクリニック分岐によるもの(いわゆるクラスI神経細胞)とホップ分岐によるもの(いわゆるクラスII神経細胞)という分類が従来より知られていた。本章の前半では、一定の興奮性入力を受けて周期発火している神経細胞において、加えるGABA性入力の強度を増やしていった場合に発火が停止する機構に関しても、GABA性シナプスの平衡電位の値によって異なる分岐が生じ、力学系的観点からの分類ができる可能性を示唆している。活動中の脳における神経細胞への入力は、場合によっては非常に大きなゆらぎを持つことが実験的に知られており、そのような場合の入出力関係についての研究も重要である。本章の後半では、GABA性シナプスの平衡電位の値の違いが、入力が大きなゆらぎを持つ場合の入出力関係に対して与える影響を解析している。そして、最近の実験的報告にあるようにGABA性シナプスの平衡電位が静止電位よりも高い場合には、GABA性入力はそれ自体と相関の強い興奮性入力に対する発火率応答を特異的に低減させうる、という実験的に検証可能な仮説を提示している。

 第3章では、GABA性神経細胞のネットワークにおける機能に関する理論的研究が述べられている。最初に神経生理学および解剖学の従来の知見およびこれらの分野において最近明らかになってきた知見が紹介され、この章で探求する問題の背景が記されている。続いて本論文で提案する樹状突起における興奮性およびGABA性入力の非線形な相互作用を表現した新規なモデルが、従来のモデルとの比較の上で提示されている。それに引き続いて結果を述べた部分では、まず最初にシミュレーション結果が提示され、提案されたモデルがamplitude invariantなinput-selective responseを示すことが述べられている。さらに、本論文で提案されたモデルがある程度解析的に取り扱える形式に変形できることが示され、その近似系について局所安定性解析が行われるとともに、その結果は、シミュレーション結果と良く一致するものであることが示されている。

 第4章では、本論文全体を通しての主たる結果が要約され、論文提出者の主張が明確に述べられている。

 以上のように、本論文は脳神経科学の理論的な研究に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文第2章は合原一幸および津元国親との、また第3章は合原一幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起し研究を遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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