学位論文要旨



No 120488
著者(漢字) 木本,裕子
著者(英字)
著者(カナ) キモト,ヒロコ
標題(和) マウスにおける性特異的ペプチドフェロモンの同定および解析
標題(洋)
報告番号 120488
報告番号 甲20488
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第108号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 東原,和成
 東京大学 助教授 松本,直樹
 東京大学 助教授 青木,不学
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 片岡,宏誌
内容要旨 要旨を表示する

序論

 フェロモンは、動物の体外に放出され同種の他個体に受容されると、その個体に対して特異的な行動や内分泌変化を引き起こす物質である。フェロモンが媒介する情報には、それを放出した個体の社会的な地位や生殖周期、健康状態などが含まれると考えられている。

 多くの脊椎動物(両生類からヒト以外の霊長類)は、鼻の下部に位置する鋤鼻(じょび) 器官でフェロモンを受容する。マウスにおいては、鋤鼻器官を除去したり、鋤鼻神経細胞のシグナル伝達を担う遺伝子を欠損させたりすると、様々な社会行動や生殖行動が異常になることが知られている。

 鋤鼻器官では、揮発性の物質だけでなく不揮発性の物質も受容される。実際に、鋤鼻神経細胞には、揮発性の匂いを受容するV1R 受容体ファミリーと、不揮発性のペプチドやタンパク質を受容すると考えられるV2R 受容体ファミリーの2 種類の受容体が発現している。V1R はG タンパク質のGαi とともに神経上皮の内腔側に、V2R はGαo とともに基底層側に、互いに排他的に存在している。また、1 つの細胞には1 種類の受容体のみが発現すると考えられている。電気生理学的手法やカルシウムイメージングにより、尿中に含まれるいくつかの揮発性物質が、V1Rを発現する内腔側の鋤鼻神経細胞で受容されることが示されている。しかし、自由に行動するマウスを使い、鋤鼻神経の投射先である副嗅球における神経活動を電気的に記録すると、これらの揮発性物質に対する応答は確認されず、別の個体の顔や臀部付近に接触したときにのみ応答が見られたという。それゆえに、マウスが実際に鋤鼻器官でどのような物質を受容しているのかは、未だ不明な部分が多いといえる。

 本研究では、神経活性化の指標として c-Fos を用い、自由に行動するマウスの鋤鼻神経の活性化が、性・週令・系統によってどのように異なるのかを明らかにすることを目的とした。さらに、メスの鋤鼻神経細胞を活性化するオス由来のシグナル物質の同定を目指した。

結果と考察

1. 床敷刺激によるc-Fos 発現誘導:性・週令・系統による違い

 フェロモン源として、2 日間マウスを飼育した床敷を使用した。c-Fos 発現細胞は、免疫染色により同定した。BALB/c 系統の10 週令のメスをBALB/c 成熟オスの床敷に曝し始めてから1 時間半から3 時間後に、鋤鼻器官におけるc-Fos 発現誘導細胞数は最大となり、12 時間経つと完全に消失した。すなわち、床敷刺激により鋤鼻神経細胞において一過性のc-Fos 発現が誘導されることが示された。

 次に、BALB/c 成熟オスの床敷に対するBALB/c オス・メスの鋤鼻神経細胞の応答を調べた(図1a)。2 週令・3 週令のメスでは1 切片につき平均2-4 個のc-Fos 発現誘導細胞が見られた。思春期の4 週令・成熟した10 週令になると発現は大幅に増加し、1 切片あたり平均8-9 個のc-Fos が発現した。オスでは、思春期前の2 週令・3 週令ではメスと同様に1 切片あたり2-4 個のc-Fos 発現誘導細胞が見られたが、4 週令以降は全く発現誘導されなかった。すなわち、4 週令以降に性特異的な応答が起きていることが示唆された。また、すべてのマウスにおいて、c-Fos の発現が誘導された鋤鼻神経細胞のほとんどは、Gαo を発現している基底層側の細胞だった。

 BALB/c 3 週令オスの床敷刺激をBALB/c 10 週令メスに対して行ったところ、そのc-Fos 発現数は成熟オスの床敷刺激と比較して有意に少なかった(Mann-Whitney U-test 、p < 0.01、図1b 左)。BALB/c 10 週令メスを、他系統のC57BL/6 とICR 成熟オスの床敷に曝すと、どちらの床敷に対してもBALB/c 成熟オスのものと同程度のc-Fos の発現が引き起こされた(図1b 右)。これらの結果は、BALB/c メスの鋤鼻神経細胞におけるc-Fos の発現誘導は、系統によらず、成熟オスの床敷によって引き起こされることを示している。

2. メスの鋤鼻神経細胞でc-Fos の発現を誘導するオスのシグナル物質の探索

 これまでに、尿が様々なフェロモン効果を引き起こすという多数の報告がある。それゆえ、c-Fos の発現は尿中の物質により誘導されているのではないかと考えられた。そこで、4-10 週令のメスを用いて、オスの尿あるいは尿中のフェロモン候補物質に対するc-Fos 応答を調べた。しかしながら、これらの刺激に対して、メスの鋤鼻神経細胞においてc-Fos の発現はほとんど引き起こされなかった。一方、成熟オスの顔・臀部周辺の毛に対しては、床敷刺激には及ばないものの、1 切片あたり平均4 個程度のc-Fos 発現誘導細胞が見られた。これらの結果は、メスの鋤鼻神経細胞でc-Fos の発現を誘導するオスの因子は、尿由来の物質ではなく、何らかの外分泌腺から体表に分泌されるものであることを示唆する。

 そこで、6 種類の外分泌腺(ハーダー腺、眼窩外涙腺、耳下腺、舌下腺、顎下腺、包皮腺)の抽出液によるメスの応答を調べた。その結果、成熟オスの眼窩外涙腺と顎下腺抽出液による刺激により、10 週令のメスの鋤鼻神経細胞において、床敷刺激と同程度のc-Fos 発現誘導細胞が見られた(図2)。

 一方、当研究室において、BALB/c 、C57BL/6 およびICR 成熟オスの床敷刺激によるBALB/c メスのc-Fos 発現誘導細胞の大部分は、ある特定のV2R 受容体を発現していることが示された。さらに、眼窩外涙腺によってc-Fos 発現が引き起こされる全ての細胞に、同じ受容体が発現していることが判明した。したがって、メスの鋤鼻神経細胞においてc-Fos の発現を誘導する物質の大部分は、眼窩外涙腺から分泌され、系統間で共通の物質であると予想された。

3. 眼窩外涙腺由来のオスシグナル物質の同定

 そこで、オスの眼窩外涙腺から、c-Fos 発現誘導活性をもつオス特異的物質の同定を試みた。BALB/c 成熟オスの眼窩外涙腺から可溶成分を抽出し、HPLC により3 段階の精製を行った。最終的に、逆相カラムを用いた分離により、図3 の矢頭で示す2 画分にc-Fos 発現誘導活性が見出された。N 末端アミノ酸配列分析を行い、どちらの画分においても、同じ20 アミノ酸残基の配列を確認した。また、質量分析により、それぞれの画分に含まれる主要なペプチドの分子量は7,106 Da と7,375 Da であることが判明した。これらの結果をもとにデータベース検索を行ったところ、精製したペプチドは、既知のタンパク質に該当するものはなく、67 アミノ酸残基からなるペプチドのC末端が3 または1 残基欠如した新規ペプチドであることが推測された。

 予想ペプチドがc-Fos 発現を誘導する物質であるかどうかを確かめるために、大腸菌による大量発現系を用いて組換えペプチドを作製・精製し、その活性を調べた。組換え精製ペプチド1 μg を10 週令のメスに曝すと、鋤鼻神経細胞でc-Fos の発現誘導が見られた(図4)。10 週令のオスに対する刺激では、c-Fos の発現は全く見られず、コントロールの大腸菌抽出液による刺激では、メスでもオスでも発現誘導は起こらなかった。これにより、このペプチドがメスの鋤鼻神経細胞特異的なc-Fos 発現誘導活性を有するオスシグナル物質であることが証明された。これは新規のペプチドであったため、ESP1 (exocrine gland-secreting peptide 1)と命名した。

4. オスシグナル物質の発現解析

 RT-PCR により様々な器官におけるESP1 の発現を調べたところ、オスの眼窩外涙腺特異的に発現していることが判明した(図5)。3 週令では発現しておらず、4 週令ではじめて発現が確認されたことから、オスマウスはESP1 を思春期になってから分泌し始めることが示唆された。

 また、5'RACE と3'RACE を行い、ESP1 をコードする遺伝子配列を決定した。遺伝子は3つのエクソンからなり(図6)、第2 エクソンにある開始メチオニンから22 アミノ酸残基がシグナルペプチドとして機能することが予想された。シグナルペプチドの切断ののち、プロセッシング機構が働いてN末端とC末端が切断され、ESP1 が細胞外に分泌されると推測される。

 さらに、ホモロジー解析により、相同性を持つ27 種類の類似ペプチドを同定した。これらはESP1 遺伝子のセントロメア方向1.95 Mb 以内にコードされており、新規のペプチドファミリーを形成していると思われる(図6)。

結論

 神経活性化の指標としてc-Fos を用い、性特異的な鋤鼻神経の応答が思春期以降に起きることを示した。また、系統にかかわらず成熟オスの床敷に含まれる物質が、メスの鋤鼻神経細胞においてc-Fos の発現を誘導することを明らかにした。興味深いことに、その大部分は、眼窩外涙腺から分泌されたものであった。眼窩外涙腺抽出液の分離・精製を行い、1 種類の新規活性ペプチドESP1 の同定に成功した。その発現は、思春期以降のオス特異的に見られた。これらの結果から、オスは眼からペプチドフェロモンESP1 を分泌し、床敷や身体に付着したものをメスが鋤鼻器官で受容していると推測される。ESP1 遺伝子は性特異的な発現を示すことから、マウスの性識別に関する何らかの役割を担っていることが示唆される。

図1 性・週令・系統によるc-Fos 発現の違い

a,2-10週令のBALB/cオス・メスの鋤鼻器官において、BALB/c成熟オスの床敷により誘導されるc-Fos発現細胞数と発現部位。4週令以降に性特異的なc-Fosの発現が見られた。b,10週令のメスに対する様々なオスの床敷刺激。未成熟オスの床敷ではc-Fo6発現細胞は少ないが、系統が異なる成熟オスの床敷では同系統と同様の発現誘導が見られた。

図2 外分泌腺によるc-Fos 発現誘導

6種類のオスの外分泌腺のうち、眼窩外涙腺と顎下腺がメスの鋤鼻神経細胞においてc-Fosの発現を誘導した。

図3 逆相カラムを用いた最終精製と活性画分

逆相カラムで分離した各画分の活性検定により、矢頭で示す2つのピークにc-Fos誘導活性が認められた。

図4 組換えペプチドによるc-Fos 発現誘導

大腸菌によって合成されたペプチドは、メスの鋤鼻神経細胞のみで、c-Fosの発現を誘導した。

図5 固定した遺伝子ESP1の発現分布解析

同定した遺伝子は、オスの眼窩外涙腺特異的に発現している。その発現時期は、思春期の4週令以降である。

図6 遺伝子構造と相同遺伝子のゲノム上での分布

ESP1をコードする遺伝子は、3つのエクソンからなっている。相同遺伝子は、ゲノム上1.95Mb以内に位置している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、オスのマウスの涙腺から分泌され、メスの鋤鼻器官(フェロモン感知組織)を刺激する、新規ペプチド因子を同定し構造決定したものである。この性特異的なフェロモン候補ペプチドが、尿ではなく涙腺から分泌され、メスとオスの直接的な接触によって伝搬されていることを初めて示したものであり、今までのフェロモンの概念を一新する画期的な発見である。

 本論文は章立てにはなっていなく、最初から最後までひとつのプロジェクトとして完結しているものである。まず、神経活性化の指標としてc-Fosを用い、性特異的な鋤鼻神経の応答が思春期以降に起きることを示している。また、系統にかかわらず成熟オスの床敷に含まれる物質が、メスの鋤鼻神経細胞においてc-Fosの発現を誘導することを明らかにしている。興味深いことに、その大部分は、眼窩外涙腺から分泌されたものであった。そして、眼窩外涙腺抽出液の分離・精製を行い、1種類の新規活性ペプチドESP1の同定に成功している。オスは眼からESP1を分泌し、床敷や身体に付着したものをメスが鋤鼻器官で受容していると推測される。ESP1遺伝子は思春期以降のオス特異的な発現を示すことから、マウスの性識別に関する性フェロモンである可能性が極めて高い。

 本審査における質疑で議論された主要な点は、論文提出者が発見したペプチドが本物のフェロモンであるかということであった。フェロモンは、動物の体外に放出され同種の他個体に受容されると、その個体に対して特異的な行動や内分泌変化を引き起こす物質である。このペプチドESP1は、オスの個体から涙を介して体外に放出され、メスの鋤鼻器官において受容されることを示しているので、フェロモンの定義のほとんどをみたしている。しかし、実際にメスにおいてどのような生理的・内分泌的効果や行動を引き起こすかに関しては、まだ不明なので、フェロモンと言い切るには時期尚早である。今後の課題である。

 しかし、本研究では、フェロモンは尿に含まれていて揮発性のものであるという今までの定説を、分泌場所的にも物性的にも覆す結果であり、哺乳類の個体間の匂いやフェロモンを介したコミュニケーションに関して、新知見を与えるものである。

 そのほか本審査で議論されたこととして、このオス持異的ペプチドESP1の発現はテストステロン依存的なのか、系統差や週齢における差についての矛盾点について、c-Fosの発現と応答と脱感作について、ESP1の実際の役割について、などがあげられる。論文提出者は、現在までに蓄積されている結果をもとに、整合性のある理由をあげ、適切な説明をおこなった。

 日本語で書かれている論文のほうは、副査から、わかりやすくかかれているというコメントがあった。また、今回の発見のもととなったc-Fosを用いたアッセイ系の技術が高度であり、c-Fosを用いたアッセイは時間と労力ともにたくさんかかるものであり、副査から、仕事量と質ともに素晴らしいものであるとの評価をうけた。

 以上の結果、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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