学位論文要旨



No 120508
著者(漢字) 西,佳樹
著者(英字)
著者(カナ) ニシ,ヨシキ
標題(和) 海氷 : 海洋結合モデルによる海氷域生態系の動態把握に関する研究
標題(洋)
報告番号 120508
報告番号 甲20508
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第128号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 多部田,茂
 東京大学 教授 影本,浩
 東京大学 教授 山口,一
 東京大学 教授 佐藤,徹
 東京大学 助教授 木村,伸吾
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

 高緯度海域は地球上で最も高い一次生産力を持っ場所である。その一次生産の担い手は光合成を行う植物性の生物群であるが、その活動を左右する要因として「海氷」の存在が鍵となっている。海氷域に関する、環境学の立場から議論するべき2つの問題を指摘する。

 一つ目は、気候変動に対する高緯度海域の敏感性である。気候変動に対する海氷勢力の変動は海氷域生態系に多大なる影響を与えうる。二つ目は、北方開発に伴う環境影響である。昨今、石油・天然ガス等の資源開発が海氷域の大陸棚上で進んでいる。バレンツ海・カナダ北極海・オホーツク海等である。ゆえに掘削プラットフォームの建設・船舶の航行・タンカーからの油流出といった事象に対する生態系の影響が懸念される。これら2問題に対して回答を与えるには、その海域に即した調査研究を進める必要がある。しかし極寒・船舶と流氷との接触等といった厳しい条件により、高緯度海域は「データ空白域」となっている。また研究対象としても内湾や熱帯域に比べると重視されてこなかった。我が国近海では北海道オホーツク海沿岸域が季節海氷域である。この地域には我が国を代表する漁港が存在し、かつ資源開発の進むサハリン沿岸部と東サハリン海流を介して密接な関係にある。ゆえに、この海域での生態系の実態把握が社会的に強く熱望されている。本研究は上気の様な現状を鑑み、海氷域生態系の動態を定量的に把握することで上述の問題を解決に導くために科学の側面から取り組むものである。具体的な研究目的は以下の3つである。

● 海氷域における生態系の動態を把握できる数値モデルを提唱する。

● 海氷生態系の一次生産者であるアイスアルジーの生態系内での役割を明らかとする。

● 生態系構成物質の中で核をなす無機物と有機物について、海氷-海洋結合生態系内での循環を物理的および生物的側面から明らかとする。

2. 観測

 サロマ湖氷上に観測サイトを設置して、海氷中および海水中の懸濁態有機炭素・窒素、クロロフィルa、栄養塩の各濃度を計測したほか、セジメントトラップを氷の直下に係留して沈降フラックスを計測した。観測期間は2004年2月下旬から3月中旬までとした。その結果、アイスアルジーの冬季ブルームを捉えた。また海氷中の栄養塩濃度は海水中の濃度よりも低い傾向があった。さらに海氷直下の沈降フラックスの結果は、沈降物は大部分が一次生産者によって構成されている事を示した。

3. 海氷-海洋結合生態系モデル

 海氷-海洋系での生態系動態を把握することが可能なモデルを作成した。海氷生態系と浮遊生態系とに各々状態変数を設けるとともに、物理的離脱効果を含む物質交換過程を定量的に計算できるスキームを考案した(Fig. 1)。また、海氷中での光の量やブライン塩分が光合成活動に与える影響等の海氷生態系特有の事項を厳密に考慮する為に生物光学、雪氷学による知見を応用した。既存の生態系モデル研究で、海氷および海洋の両系を考慮し、かつ両系間の物質交換をモデリングした例はなく、本研究でおこなったモデリングが初めてである。

4. 生態系に対するアイスアルジーの寄与

 まず、観測サイトにおける有機態炭素の循環を観測手法のみから明らかとするために、観測値を方程式に代入すると解が直ちに得られるシンプルなボックスモデルを考案した。その解析の結果、海氷から離脱する量は、海氷中における生物生産の量の約70%に及ぶという結果を得た。この様に、海氷内の生物生産から離脱にいたるまでの一連の現象を定量的に解析した例は従来なかった。本解析により海氷からの離脱の高効率性が示された。ゆえに、それを「物理的離脱効果(Physical releasing effect)」と呼称し注目していく。

 つぎに、作成したモデルの鉛直1次元系で駆動し、サロマ湖におけるアイスアルジーの役割を調査した。アイスアルジーの現存量・一次生産、海氷底部での可視光スペクトル等の項目に関して観測値と計算値を比較した結果、モデルは妥当な再現性を有していることが確認された。それを踏まえてアイスアルジーの役割について検討した結果、「離脱前のアイスアルジーは越冬する動物プランクトンのための主要な栄養源となっていること」および「離脱後においては速やかに沈降するため、捕食される量としては微小であること」を明らかとした。離脱後のアイスアルジーの振る舞いが系に与えている効果を検出するために、彼らの沈降速度を変更させた感度実験を行った。その結果、彼らの持つ大きな沈降速度(アグリゲイト形成により、100m day-1のオーダーに及ぶ)とサロマ湖の浅い水深(10m程度)が、動物プランクトンの捕食活性化のタイミングを決める因子であることが見出された。さらに、そのタイミングの変化が浮遊系植物プランクトンの春季ブルーム規模の大小を左右するところまで波及することが見出された。海氷系由来の一次生産者と海水系での一次生産者との関係性について従来知見は無かったが、モデルにより明快にその関係性を説明することができた。

5. 海氷-海洋生態系における物理的現象と生物的現象との連関

 サロマ湖を含む、紋別から網走までの海域をモデル領域として、3次元空間の数値計算を行った。まずは潮位・潮流・塩分場・有機態炭素濃度・クロロフィルa濃度・沈降フラックス・海氷の漂流場・栄養塩濃度等の項目について計算結果を検証した。それに加えて、有機物離脱量と海氷内での生物生産についても、観測サイドからの情報を用いて検証を行ったが、その際には観測データを直に代入したボックスモデルの結果を援用するという工夫をした。その検証の結果、海氷のエッジ部分の構造や接岸・離岸距離、及び海水中の栄養塩濃度の変動に関しては十分には再現されないものの、それ以外の項目については概ねの再現性が確認された。検証例をFig. 2に示す。

 以上を踏まえて、海氷-海洋系での物質循環について、物理的現象と生物的現象との連関に注目して解明を試みた。栄養塩と懸濁態有機物を調査物質として、それらの物質の物理過程・生物過程とを緻密に解析した。

 まずアイスアルジーが消費する栄養塩の供給機構について追及した。既存の研究で、潮汐混合による効果が、要求される栄養塩量を海氷直下に輸送しうることをカナダ北極海での観測から述べた例があるが詳細な事は分かっていない。本研究では、本機構に関与するすべての現象を計算できるモデルを用いて研究した。その結果、その輸送過程には大別して2つの形態が存在することが分かった。一つ目は、冬季に起こる鉛直混合により亜表層から表層に供給される栄養塩が、海氷-海洋間の交換過程を通じて海氷へ供給されるという形態である。この形態はサロマ湖の中で、河川水の影響が比較的弱く水の混合が起こっている部分とサロマ湖外に観察された。二つ目は、潮汐によって誘起される周期的な鉛直流による移流により、亜表層から表層への輸送が起きているという形態である。この形態はサロマ湖の中でサロマベツ川河川水による成層構造が顕著な部分に観察された。海氷内の栄養塩濃度はアイスアルジーにより消費されていたが、海水から海氷への物質交換過程により部分的ではあるが補償されていた。その補償率はサロマ湖内では最大でも50%以下であった。観測および計算の両結果では海氷中の栄養塩濃度が冬季ブルーム時に低下したが、その原因は補償率が上述の程度であったからである。本知見は、海氷-海洋系における栄養塩の輸送過程を物理・生物の両側から定量的に解明した初めての例である。

 続いて結氷したサロマ湖において懸濁態の有機物の輸送過程について追求した。その結果、海氷からの移入(離脱)と、浮遊系植物プランクトンによる生物生産とにより水中への供給がなされており、それは融解期における日射の入射量増加に起因している事、潮汐による水平移流の効果で有機物は湖外へと流出する事が見出された。潮汐と日射の両者がポンプの役割を果たし有機物の一連の流れを形成していることが見出された(「日射・潮汐ポンプ」;Fig. 3)。また、サロマ湖沖の沿岸近傍において、海氷の撤退時期に、海氷の縁部で物理的離脱効果が特に促進されることが見出された。この特徴は低密接度領域から選択的に水温が上昇する事に対する応答であると云える。このことから海氷縁部は、捕食者に対する餌のスポット的な供給場所として機能している可能性がある。より広範な空間スケールを対象とした季節海氷域を調査する際の基礎的情報として本知見は有用であろう。

6. 結言

 本研究は結氷したサロマ湖の生態系に着目して、その動態把握を行ったものである。現場データの取得ならびにモデルの作成から着手した。観測からは物理的離脱効果の重要性を指摘した。モデルからはアイスアルジーの役割・栄養塩と有機物の輸送機構について、幾つかの有用な新知見を得て当初の目的を果たすことができた。本研究は既存の知見が稀少な事柄を探求課題とし、それの基礎的な知見を得るという流れであり取り組みは理学的であったが、海氷域に顕在化し得る環境問題を科学的に追及したという意味で、環境学の創成に貢献できたと考える。今後はモデルの精度向上やフィールド観測の継続を目指すとともに、海氷域生態系の将来予測・保全生態学的管理という事を視野に入れて、得た知見を実社会に役立てる取り組みも進めていくことが望まれる。

Fig. 1: A schematic drawing of the physical coupled processes between ice and water.

Fig.2: Time series of the chlorophyll a concentration (left) and of the particulate organic carbon concentration (right) in ice and water.

Fig. 3: A schematic illustration for the concept of the "Sunlight and Tidal Pump".

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章から成る。第1章では、緒言として海氷域生態系の重要性と研究の現状をレビューし、本研究の目的として、海氷域における生態系の動態を把握できる数値モデルを構築すること、氷海の主要な一次生産者であるアイスアルジーの生態系内での役割を明らかとすること、および海氷-海洋結合生態系における物質循環を物理的および生物的側面から明らかとすること、を挙げている。

 第2章では、海氷生態系に関する既存の観測的研究による知見を整理するとともに、新たにデータを取得するために行った現場観測の方法および結果について述べている。サロマ湖氷上に観測サイトを設置して、海氷および海水中の懸濁態有機物、クロロフィルa、栄養塩等の濃度を計測したほか、セジメントトラップを氷の直下に係留して沈降フラックスを計測した。その結果、アイスアルジーの冬季ブルームを捉えることができ、海氷中の栄養塩濃度は海水中の濃度よりも低い傾向があることや海氷直下の沈降物は大部分が一次生産者によって構成されていることなどを示した。

 第3章では、本研究で新たに開発した海氷-海洋結合生態系モデルについて述べている。モデルの最大の特徴は海氷生態系と浮遊生態系間の物理的離脱効果を含む物質交換過程を定量的に計算できるスキームを考案したことである。また、海氷中での光の量やブライン塩分が光合成活動に与える影響等の海氷生態系特有の事項を厳密に考慮する為に生物光学、雪氷学による知見を応用している。既存の生態系モデル研究で、海氷および海洋の両系を考慮しかつ両系間の物質交換を扱った例はなく、本研究のモデリングが初めてである。

 第4章では、観測とモデルを用いて生態系に対するアイスアルジーの寄与を調べている。まず、有機態炭素の循環を観測から明らかとするためにボックスモデルを用いた解析を行い、海氷から離脱する量は海氷中における生物生産の量の約70%に及び、物理的離脱効果が非常に重要であるという知見を得た。次に鉛直1次元の海氷-海洋結合モデルによってサロマ湖におけるアイスアルジーの役割を調査し、離脱前のアイスアルジーは越冬する動物プランクトンのための主要な栄養源となっていること、および離脱後においては速やかに沈降するため捕食される量としては微小であることを明らかとした。またパラメーターの感度解析から、アイスアルジーの沈降速度と水深が動物プランクトンの捕食活性化のタイミングを決める因子であること、またそのタイミングの変化が浮遊系植物プランクトンの春季ブルーム規模の大小を左右することが見出された。この様に、海氷内の生物生産から離脱にいたるまでの一連の現象を定量的に解析した例は従来なかった。

 第5章では、3次元の数値計算によって海氷-海洋生態系における物理的現象と生物的現象との連関について考察している。サロマ湖を含む紋別から網走までの海域をモデル領域として、海氷−海洋系での物質循環について解析を行い、栄養塩や有機物の輸送過程に関する知見を得ている。また、サロマ湖沖の沿岸近傍において海氷の撤退時期に海氷縁部で物理的離脱効果が特に促進されることが見出され、海氷縁部は捕食者に対する餌のスポット的な供給場所として機能している可能性があることを示した。

 第6章は本論文の結言である。以上で述べてきたように、本論文では、海氷域の生態系研究に関して極めて有用な数値モデルを開発し、既存の研究が稀少なこの問題に対して新たな知見を得ていることから、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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