学位論文要旨



No 120514
著者(漢字) 田口,洋美
著者(英字)
著者(カナ) タグチ,ヒロミ
標題(和) 極東アジアにおける狩猟文化の構造と適応
標題(洋) Research on the Structure and Adaptation of Hunting Culture in the Far East Asia.
報告番号 120514
報告番号 甲20514
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第134号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,誠一郎
 東京大学 教授 味埜,俊
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 東京大学 助教授 清家,剛
 東京大学 助教授 菅,豊
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

 極東アジアには、現在も狩猟採集活動を生業の一部あるいは生活上重要な資源獲得行為として位置づけている住民や民族が存在する1)。本論文は、日本列島中部東北地方を中心に、極東アジア地域の住民や民族が現在も実施している狩猟採集活動、特に狩猟の技術と行動に関する側面をフィールドワークによって観察し、記録した現代の民族誌であり、また物質文化に注目し技術行動系と環境との相互関係を複数地域の事例をもとに論じることで当該地域における狩猟文化と環境との関係を明らかにしようとするものである。

 筆者は過去、20年ほど前に新潟県岩船郡朝日村三面集落での民俗学的な調査研究に参加して以来、日本国内の中山間地域を中心にその生業活動、特にマタギに象徴される伝統的狩人の生活とその技術の構造的な意味を自然環境との適応関係の中に後付けようとしてきた。9年前からは、ロシア連邦の極東地域を中心に狩猟採集民、牧畜狩猟民など少数民族を対象とした国際共同研究に参加する機会を得て、当該民族の狩猟漁撈活動を中心とした生業研究に従事してきた。本論文では、これら日本国内の研究とロシア連邦での研究を整理し、狩猟文化の比較研究、その構造と適応という視点から考察した。

2. 本論文の構成

 本論文は、本編(前半部、目次を含む208頁)と図表編(209〜380頁)からなっている。本編は本文と註、文献などからなっており、本文は序論、本論、結論の三部構成をとる。序論では、日本国内の伝統的狩人とロシア極東地域の少数民族の技術と行動的側面、特に物質文化に注目し人間と自然との相互関係を技術行動系の民族誌(民俗誌)として記述する今日的な意味と目的を述べた。さらに本研究のテーマである技術と行動に関する着想が、日本国内の伝統的狩人である秋田マタギに見られた出稼ぎ狩猟を裏付けるための実証的研究から出発した経緯について述べ、本研究が扱う問題の所在を明らかにした。本論の技術行動系の民族誌は、第I部を中部東北日本の伝統的狩猟集落とされる4つの地域と集落の事例を扱い、第II部ではロシア連邦極東地域を中心に6つの地域と集落の事例を扱っている2)。第I部の冒頭では秋田マタギに関する各地域の伝承を整理し、技術波及の可能性について論じた。また第I部、第II部を通して各地域の狩猟技術に認められる相似構造と地域的差異について注目し、狩猟技術の地域的な適応と資源の市場的価値との関係を中心に論じた。第I部、第II部を通して、伝統的狩人や少数民族が周辺の自然をどのように開発してきたかが顕著となる年間の生業サイクルに注目し、地域毎に生業暦や狩猟漁撈暦など比較相対化が可能な資料を提示した。いずれの内容も狩猟技術、特に罠猟の技術と狩猟行動の季節的変移に着目し、狩猟システムと環境の関係をフィールドワークに基づいて詳細に述べた。

3. 本研究の方法

 筆者の研究手法は、民俗学の基本的手法である聞き取り調査と人類学系の研究における現地の住民や民族の生活内部に入り、地域生態系内で実践される資源開発(生業)活動に同行し、観察することで資源開発上必須の技術および行動生態を抽出し、具体的に記録分析するフィールドワークにある。すなわち、現場を歩くことができ、見ること(観察)、聞くこと(聞き取り)のできる同時代空間から出発し、現実生活の延長として想定可能なより近い過去へと遡及することを主眼としてきた。このような理由から、現在、集団として狩猟採集活動を実際に行っている地域や集団が調査研究の対象とならざるをえない。本論文が扱う極東アジアという広域的な視野から技術や行動を視点とした民族誌を記述し、狩猟採集活動の構造や適応という問題を取り上げる場合、国内の北海道を中心としたアイヌ民族の事例はかかせないものとなる。しかし渡辺仁(東京大学文学部考古学研究室)が北海道のアイヌ民族の狩猟採集活動を地域生態系との関係から明らかにしたThe Ainu Ecosystem : Environment and Group Structure(『アイヌのエコシステム』Watanabe 1973)の調査段階で、すでに聞き取りによる復元が主体となっていたことからも明らかなように、現時点で伝統的狩猟採集活動を維持継続しているアイヌ民族の集団はもはや北海道(国内)には存在しない。このため筆者は、中部東北日本から北海道にかけての自然環境と類似した中華人民共和国とロシア連邦の国境地帯、特に19世紀半ばまで中国清朝の支配下にあったアムール、ウスリー川流域の極東地域に注目してきた。

4. 結論

 アムール・ウスリー川流域を中心としたロシア極東地域の少数民族と中部東北日本の伝統的狩人およびその集落における狩猟システムは、図1:「極東アジアにおける空間構造と狩猟システム」に示したように相似構造を呈している。ロシアの少数民族の狩猟システムは、漁撈と共に大きな意味を有した自給的な基盤生業としての大型獣狩猟、そして政治的経済的戦略資源としてのクロテンやオコジョを対象とした市場志向型の毛皮獣狩猟からなっている。これを狩猟採集活動の二重構造として捉えた。その狩猟活動は通年的であり、毛皮獣狩猟と大型獣狩猟を組み合わせた冬期間狩猟では狩猟小屋を中心に半径約7,8〜10キロの行動圏となる。大型獣の待ち伏せ猟を主体とする夏期の狩猟活動では、狩猟小屋を中心に半径約2〜3キロ圏内に縮小され、これは「夏は待って、冬は追うのだ」という狩人たちの言葉に象徴されているように、地域に生息する野生動物の行動生態や自然環境要件への少数民族の積極的で戦略的な技術的適応といえる。

 一方、中部東北日本の狩人たちの狩猟システムは、農耕を前提とした農耕上の抑止力としての狩猟と換金交易資源、あるいは政治的経済的戦略資源としてのクマやカモシカを対象とした市場志向型の大型獣狩猟からなっている。これを農耕と狩猟の相補的関係を前提とした二重構造と利用空間における意味上の相互重複として捉えた。その狩猟活動は秋9月下旬から翌年の初夏6月下旬までの約9ヶ月間となっている。そして、秋期と春期においては耕地周辺や里山を中心に鳥罠や中小型獣用の罠猟が実施され、冬期間において狩猟小屋などを活用し、あるいは集落を中心に行動圏は半径10キロあまりに拡大される。

 そして、ロシア極東地域においても中部東北日本においても越夏に対する保存食料が重要な意味を有していた点についても確認された。このように見てくると、両者を決定的に分かつものは農耕の有無であり、さらに国家などの政治的社会的な違い、権力や社会、市場が少数民族や狩人たちにどのような資源を求めたか、という違いに集約される。

 つまり、狩猟の技術やこれを構成するシステムは、狩猟の対象となる野生動物種の生態行動に規制され類似した動物種を捕獲対象としてきたため、基本的に両者は相似的な構造を持つことになる。両者は共に、政治的経済的戦略資源(ロシアにおける毛皮獣狩猟、日本における大型獣狩猟)の開発技術に特化が見られる。

 ロシア極東地域の少数民族や日本の中部東北地方の伝統的狩人マタギは、自然、人文を含む広義の意味での重層化した環境に対して、複数の技術的戦略(自然環境の季節的変化に対応した生業としての狩猟採集活動とその技術、市場的価値の高い資源を開発しこれを積極的に利用してゆく市場志向型の狩猟採集活動とその技術、自然と市場の狭間にあって資源の持続性とその保障をカミとの交通の中に求めてきた精神的な手続きとしての技術など)を有することによってその生活を実現してきたといえる。

1) 本論文でいう極東アジアとは、日本列島およびロシア連邦の極東地域を指している。ロシア連邦で極東地域と呼ばれるのは、サハ共和国、沿海地方、ハバロフスク地方、アムール州、カムチャッカ州、マガダン州、サハリン州、ユダヤ自治州、チュクチ自治管区、コリヤーク自治管区の10の地方や州を含む極東連邦管区(Дальневосточный Федеральный Округ)を指している。日本語でいう極東とは、中国、朝鮮、日本などのヨーロッパから見てユーラシア大陸の東の端にあたる地域を指して用いられる。本論文では、日本の中部東北地方山岳地帯に居住する伝統的狩人と、ロシア極東地域のハバロフスク地方、沿海地方、サハ共和国内の少数民族の事例を扱うため、これらの地域を包含し的確に示す意味で極東アジアという地域名称を用いた。

2) 本論の「技術行動系の民族誌」で使用したデータは、中部東北日本に関しては筆者が個人あるいは過去所属していた研究機関(民族文化映像研究所、日本観光文化研究所など)において調査した事例を中心に使用し、2000年から2003年にかけて山形県西置賜郡小国町、秋田県北秋田郡阿仁町、長野県下水内郡栄村秋山郷において実施した罠に関する製作復元や陥し穴遺構の調査など、国内共同研究による成果の一部も合わせて使用した。これらは筆者が新潟県朝日村三面の調査以来継続している国内研究の一環として位置づけることにした。ロシア極東地域については、1995年から2003年にかけて民族考古学を中心に断続的に実施してきた沿海地方からハバロフスク地方にかけて貫流するアムール川と支流ウスリー川流域に暮らす少数民族ウデヘ、ナーナイ、ウリチ、ネギダール、ニブヒ(ギリヤーク)などを対象とした国際共同研究、サハ共和国において1997年と翌98年に実施した社会人類学を中心とした国際共同研究によるヤクートやエヴェンなどを対象とした狩猟同行調査など、筆者が担当した国際共同研究による成果の一部を使用した。このような事情から本論文では、本論を個人研究の成果を使用した第I部(国内研究)と共同研究の成果を使用した第II部(海外研究)に分けて記述することにした。

文献Watanabe Hitoshi 1973 The Ainu Ecosystem : Environment and Group Structure. University of Washington Press (Revised edition 1972 The University of Tokyo Press). Seattle and London.

結論:図1.極東アジアにおける空間構造と狩猟システム

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本の中部・東北地方の中山間地域に居住するマタギと呼ばれる伝統的狩猟者集団と、ロシア沿海地方・アムール川流域およびサハ(ヤクーツク)に居住し狩猟・漁労・採集を主な生業とする少数民族(ウデヘ、ナーナイ、ウリチ、ニブヒ、エヴェン等)に見られる狩猟文化を、環境に対する適応手段としての狩猟システム・行勤・技術の観点から相互に比較・検討し、その間には相似の環境利用の構造が存在することを明らかにした完成度の高い独創的な研究である。

 本論文は、3部構成をとり、序論では狩猟文化研究に関する先行研究例を解題しながら、問題の設定と方法について述べられている。列島の狩猟活動は、近世以降時代の政治経済的要請により換金商品(特に毛皮)の獲得生業として発展したが、それが先行研究においては、狩猟民俗としての側面に専ら焦点が当てられてきたこと。そのことに起因して、現在の野生動物の保全論等の環境論に対し、有効な研究視点を提供し得てないこと等を指摘する。

 本論は、2部構成からなり、第I部では、日本の代表的なマタギ集落である新潟県三面、秋田県阿仁、山形県五味沢、長野県秋山を取り上げ、狩猟を中心とした生業活動の構造を、四季毎の生業暦としてまとめている。さらに、これらマタギ集落に共通する空間構造・季節的土地利用システムの内実と歴史的形成プロセスを明らかにしている。一方第II部では、ロシア極東の少数民族集落を対象とし、国内の調査事例との比較可能な形で生業暦を提示している。また、集落は限られるが、日本同様季節的土地利用システムについて考察が加えられている。それによれば、ロシア極東という広大な自然環境の連続的な傾斜に対応した、換言すれば、利用可能な動植物等の資源構造の差異に対応した微細な資源利用システムの違いは見られるものの、それを越えた共通の季節的土地利用構造が存在することを指摘する。さらに、結論においては、ロシアと日本という歴史的・経済的コンテクストの違いを越えて存在する「環境と技術の重層的相似構造」仮説について考察をおこなっているが、その見通しはきわめて蓋然性が高い。

 論文提出者の研究方法の特徴は、長期間にわたる現地での緻密なフィールド・ワークにあり、本論文で提示された膨大なデータは、そのほとんどが自らの調査の実践によって獲得されているため、きわめて説得力が高い。本編に付された152枚の図表類のほとんどは、論文提出者自らが作成したものである。その多くは、基礎資料として今後の研究に大きく寄与すると思われる。狩猟文化研究自体、著名なわりには研究の蓄積に乏しく、最近では環境保全論との関連で、理念的な理想像を仮設する議論が突出しているが、本論文は、そうした根拠の薄弱な議論に対して、きわめて大きな基礎資料を提供したことのみならず、生活者としての狩猟集団の歴史的・社会的・生態的コンテクストを明らかにしたことにより、今後の生産的な議論を可能とし、環境論に回収可能な地平を切り開いたと評することができる。

 本論文は、列島の狩猟民俗としてこれまで専ら民俗学の中に閉じこめられてきた「伝統的狩猟集団」研究を、極東アジアの中に位置づけることにより、相対化を可能とした初めての研究である。列島の研究事例に対して、ロシア極東のデータにやや見劣りがあること、今日的な環境論への積極的発言が少ないこと等、不満を感じさせる部分もなくはないが、本論文の意義を損なうほどのものではない。

 なお、本論文の本論第II部のロシア極東の調査は、佐藤宏之・佐々木史郎等との共同研究(科研費補助金等)であるが、当該部分は論文提出者が主体となって分析および検証を分担・担当したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って本委員会は、博士(環境学)の学位を授与するにふさわしいと認めるものである。

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