学位論文要旨



No 120529
著者(漢字) 尾川,順子
著者(英字)
著者(カナ) オガワ,ナオコ
標題(和) 微生物の電気走性のモデルとその応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 120529
報告番号 甲20529
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第42号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 システム情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,正俊
 東京大学 教授 舘,
 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 講師 並木,明夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は微生物の電気走性アクチュエーションの制御システムと制御モデルを提案し,工学応用の可能性を探るものである.

近年のバイオテクノロジーや電子計算機技術の発展に伴い,マイクロ世界の自律的制御への需要が急速に高まりつつある.しかし,従来のマイクロマシンシステムには多数の技術的課題があり,非自律的で受動的な単独機能の実現にとどまっている.一方,自然界の微生物に目を転じると,既存のマイクロシステムを遥かに凌駕する高機能性が実現されている.微生物はその一個体自体が,センサとアクチュエータを兼ね備え,自律性をもったシステムであり,まさしくマイクロロボットといえる.微生物の優れた機能を工学的に理解し,工学応用を目指すことが,本研究の根底にある構想である.本研究では,扱いやすさなどの点から原生動物の一種であるゾウリムシに注目し,電気走性と呼ばれる電気刺激に対する定位行動を利用したアクチュエーションを試みた.

まず,アクチュエーション手段としての電気走性に着目し,利用に先立ちその性質をあらためて再確認した.過去の文献から得られた知見を元に,電気走性という現象を包括的に理解し,アクチュエーション手段として位置づけた.ゾウリムシの電気走性の定性的メカニズムは次のように考えられている.ゾウリムシ周囲の電位勾配により細胞に局所的に強力な電位差が発生し,イオンチャネルを活性化して体内イオン濃度に変化を生じさせる.これにより繊毛打方向が変化し,細胞の向きが電場に平行な方向に向くような力とトルクが発生する.このような理解のもとで,電気走性利用のためのさまざまな要素について基礎的な実験を行い,電気走性の有効性を実験的に示すとともに電気走性制御システムの構築に向けた設計指針を与えた.ここでは電気刺激入力デバイスとそれを用いたゾウリムシ応答の簡易計測システムを構築し,実際に電場ステップ刺激に対するゾウリムシの応答を計測した.また,これらの結果からゾウリムシの応答にはかなりの個体差や個体内ゆらぎがあることが示され,これらを考慮したシステム構築のための設計指針を与えた.

次に,ゾウリムシの電気走性制御システムを設計,構築した.個体の特異性を重要視する微生物アクチュエーションに特有の問題として,時空間における局所性と大域性の要請がある.これは,個体のもつ特異性を十分に認識するために,高空間分解能,高時間分解能が必要とされると同時に,個体のもつ特異性やその一時的な変動を十分に把握するのに,長時間の継続観測や広い作業領域が確保されなければならない,という相反する要請である.この問題の解決手段のひとつとして,対象を常に視野中心に位置するように追跡する,「ロックオントラッキング」を導入した.しかし,顕微鏡トラッキングには倍率 (magnification) とトラッキングしやすさ (trackability) のあいだにトレードオフがある.本論文ではビジョンシステムのフレームレートが小さい場合,双方を保証することが困難であることを示し,このトレードオフ問題を解消するために高速視覚が必要であることを示した.これらを受け,高速トラッキングを利用した電気走性制御システムを設計,構築した.高速トラッキングは I-CPV と呼ばれる高速視覚センサと XY ステージによって実現され,フレームレート 1kHz という高い時間分解能で,遊泳する微生物を常に視野中心に保持することを可能にしている.また,I-CPV によって取得された特徴量から 3 次元姿勢推定や対象のセグメンテーションが行えるほか,特徴量を電気刺激入力デバイスにフィードバックすることにより,微生物にリアルタイムで刺激を与えることができる.このシステムを用いてゾウリムシの制御実験を行った.開ループ制御によるジグザグ運動,閉ループ制御による 1mm 幅微小領域内トラップに成功した.これにより,本システムが微生物ロボティクスに向けた電気走性制御に有用であることを示した.

続いて,ゾウリムシの電気走性のダイナミクスモデルを構築し,実データをもとに検証を行った.上述の実験では簡単な制御を実現したが,経験則に基づく制御のため,制御性能には限界があった.微生物を工学的観点から扱うには,最低限の準備として微生物の運動のダイナミクスが数学的に記述されなければならない.しかし,ゾウリムシの物理モデルの定量的な研究例は過去にほとんど見当たらない.そこで本章ではゾウリムシの電気走性における物理ダイナミクスモデルを構築した.上述した電場印加時のゾウリムシ繊毛打方向の変化は Ludloff 現象と呼ばれており,これまでは定性的な理解しかされてこなかった.電気走性の本質であるこの Ludloff 現象を数式により記述することを試み,ゾウリムシの繊毛打方向の違いによって生じる回転トルクを算出し,運動方程式を導出した.構築したモデルは,細胞が電場に対して垂直になる時にトルクが最大となる,細胞が電場方向に向く運動は力学的に安定である,電場と反対の向きに置かれると,U ターンして電場方向に泳ぐ,などの特徴をもち,電気走性の実験的性質と矛盾がない.数値解析ソフトウェアによる数値実験結果と実際に観測されたデータを比べ,モデルの振舞いが定性的に妥当であることを確かめた.

さらに,構築したモデルをもとに微生物制御の可能性をさらに拡張することを試みた.まず,トラップ実験における領域からのはみ出しについて,モデルを用いて評価することにした.はみ出しを「オーバラン」と呼ばれる量によって規定し,モデルを用いてこれを推定,検証した.その結果,ゾウリムシの軌跡はゾウリムシ自身の繊毛の出す力の個体差に依存しないことが示された.これは,繊毛の力の同定をしなくても軌道計画が可能であること,位置制御に関してはダイナミクスがほとんど影響せず,軌道計画が簡単になる可能性を示している.さらに,この結果を考慮したトラップ実験を行い,オーバランが軽減され制御性能が向上したことを示した.またこの結果により,軌道計画においてダイナミクス成分は無視できることから,ある仮定のもとでゾウリムシが 2 輪車系によく似た非ホロノミック拘束系とみなせることを示し,ゾウリムシが後退できないという点を考慮した軌道計画手法を提案し,目標地点に向かって安定に軌道が収束することを示した.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,「微生物の電気走性のモデルとその応用に関する研究」と題し,6章より構成されている.ゾウリムシを例に微生物の電気走性について,基礎的な実験,制御システムの設計,制御モデルの構築,制御実験、軌道計画手法の導出、工学的な応用可能性の提案等について,研究を行った成果が示されている.

 第1章は「序論」であり,従来のマイクロマシンシステムの課題を指摘したうえで,優れたマイクロロボットとしての微生物に着目し,微生物の機能の工学的理解と工学応用の意義を述べている.さらに,工学応用のキーテクノロジーとしてのアクチュエーションを取り上げてその基礎概念を提示し,電気走性によるアクチュエーション手法を提案するとともに,その対象生物としてゾウリムシを選定した理由を述べている.

 第2章では,「微生物の電気走性とその応用に向けた予備実験」と題し,アクチュエーション手段としての電気走性に着目し,その利用のための基本的特性について基礎的な実験を行い,電気走性の有効性を実験的に示すとともに電気走性制御システムの構築に向けた設計指針を与えている.同時に,電気刺激入力デバイスとそれを用いたゾウリムシの応答計測システムを構築し,実際に電場ステップ刺激に対するゾウリムシの応答の実験結果を示している.その結果,ゾウリムシの応答には個体差や個体内ゆらぎが大きいことが示され,これらを考慮したシステム構築のための設計指針が議論されている.

 第3章では,「高速トラッキングを利用した電気走性制御システム」と題し,運動するゾウリムシを高精度で継続して計測・制御するために高速トラッキングを利用した電気走性制御システムを構築している.高速トラッキングは高速画像処理システムとXYステージによって実現され,フレームレート1kHzという高い時間分解能で,遊泳する微生物を常に視野中心に保持することを可能にしている.また,高速画像処理システムによって取得された特徴量から3次元姿勢推定や対象のセグメンテーションが行えるほか,特徴量を電気刺激入力デバイスにフィードバックすることにより,微生物にリアルタイムで刺激を与えることが可能となっている.このシステムを用いたゾウリムシの制御実験結果として,開ループ制御によるジグザグ運動,閉ループ制御による1mm幅微小領域内トラップが示されている.

 第4章では,「電気走性のダイナミクスモデルの構築と検証」と題し,ゾウリムシの電気走性のダイナミクスモデルを構築し,実データをもとに検証を行っている.電気走性の本質であるLudloff現象に対して,ゾウリムシの繊毛打方向の違いによって生じる回転トルクを算出し,運動方程式を導出している.構築したモデルから,細胞が電場に対して垂直になる時にトルクが最大となること,細胞が電場方向に向く運動は力学的に安定であること,電場と反対の向きに置かれると,Uターンして電場方向に泳ぐこと等の特徴が導き出され,電気走性の実験的結果と定性的に矛盾がないことが示されている.

 第5章では,「ダイナミクスモデルの微生物制御への応用」と題し,第4章で構築したモデルをもとに微生物制御の更なる可能性について述べている.まず,トラップ実験におけるオーバラン現象をモデルによって解析し,ゾウリムシの軌跡はゾウリムシ自身の繊毛の出す力の個体差に依存しないことを明らかにしている.この結果を利用してトラップ実験を行った結果,はみ出し量が軽減され,制御性能が向上することが示されている.また,ゾウリムシが2輪車系によく似た非ホロノミック拘束系とみなせることを示し,ゾウリムシが後退できないという点を考慮した軌道計画手法を提案し,目標地点に向かって安定に軌道が収束することを示している.

 第6章は「結論」であり,本論文のまとめが述べられている.

 以上要するに,本論文は,微生物の電気走性のモデルを提案し、工学的な応用可能性を探ることを目的として,微生物を制御するシステムを構築することにより実際に微生物アクチュエーションを実現するとともに,電気走性モデルの解析により微生物アクチュエーションの可能性を示している.これにより微生物の電気走性に関する新たな知見を得るとともに、微生物アクチュエーションの可能性を開拓しており,今後この分野の展開に対して重要な指針が示されている.

 これらのことから,微生物運動制御という新しい研究分野を開拓し,システム情報学の発展に寄与すること大であると認められる.

 よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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