学位論文要旨



No 120542
著者(漢字) 岩瀬,英治
著者(英字)
著者(カナ) イワセ,エイジ
標題(和) モルフォ蝶を規範とした構造発色デバイス
標題(洋)
報告番号 120542
報告番号 甲20542
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第55号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 助教授 松本,潔
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

 自然界にはモルフォ蝶・クジャク・ネオンテトラなど鮮やかな色をもつ生物が多く存在している.これらの発色は色素によるものではなく,「構造色」または「構造発色」と呼ばれる可視光波長オーダの繰り返し構造によって生じる発色であることが知られている.

 本論文では,モルフォ蝶の鱗粉の表面構造・表面光学特性を規範とした構造発色デバイスについて論じることを目的とする.このようなデバイスを取り扱う意義としては,以下の3つが挙げられる.1つ目には,モルフォ蝶の鱗粉の構造発色は見る角度による発色の角度依存性が低いという性質をもつ (Fig. 1(a), (b)) が,単純な多層膜干渉や回折格子では説明できず,どのような構造が特性に寄与しているかなどの発色原理が完全には解明されていないという科学的な観点からの意義がある.2つ目には,発色の角度依存性が低いことは,反射型ディスプレイへの応用を考えた場合に特に有効な性質であり,モルフォ蝶の翅のような構造発色デバイスが実現できれば低視野角依存性・高反射効率・薄型などの特性を備えたディスプレイが実現可能と考えられるという工学的な観点からの意義がある.そして3つ目には,構造による発色のため,構造を変化させることにより発色を可変にすることが期待でき,デバイスを製作する上でMEMS (Micro Electro Mechanical Systems) 技術を用いることが有効であるというMEMSデバイスとしての観点からの意義がある.

2. 計測および解析

 オスのモルフォ蝶 (Morpho didius) は鮮やかな青色の翅を有しており,それは鱗粉の表面にある微細構造に由来していることが知られている.モルフォ蝶の鱗粉のサイズは長さ 160μm,幅 80μm 程度であり,透明な上層鱗と青く鮮やかな下層鱗とがある (Fig. 1(c), (d)).また,上層鱗・下層鱗にはそれぞれ約 1.5μm,550 nm 間隔に ridge と呼ばれる突起があり(Figure 1(e)),それぞれの ridge には約100 nm 間隔に lamella と呼ばれるヒダがある.これらの可視光波長オーダの構造が構造発色の原因となっていることが考えられる.そこで顕微鏡を用いて単一鱗粉の変角光学特性計測を行なった (Fig. 2).変角光学特性を計測するために,直径 1 mm のガラス管の先端に下層鱗を載せ,ガラス管を回転ステージに取り付けた.Fig. 2(a) は計測時には分光器に接続されている光ファイバに外から光を導入したときの様子である.光のスポットができている領域が計測される領域となるため,計測領域の直径は 12μm 程度であることがわかる.Ridge と平行な向きを軸として,-60度から +60度まで角度を変えて,単一下層鱗の変角光学特性計測を行なった (Fig. 3).計測角を0度から60度変化させたとき,ピーク波長は 455 nm から 430 nm とほとんど変化しない.また,このときの半値幅の変化は 130 nm から 160 nm,ピークの強度の変化比は 53 % であり,モルフォチョウの翅が斜めから見ても鮮やかな青色であり続けることを裏付ける計測結果となっている.これは多層膜干渉のようなモデルでは説明の出来ない特性であり,またディプレイなどへの応用をを考えたときには有用な特性でもある.

 計測で得られたような表面光学特性を実現するために,SEM (Scanning Electron Microscope) を用いて,表面構造を観察・解析した (Fig. 4).得られた形状に関する情報からモデルを作成し,表面光学特性のシミュレーションを行なった (Fig. 5).SEMによる下層鱗断面の観察により,鱗粉の3次元表面形状が Fig. 4(b) のようになっていると推察することができる.すなわち,厚さ 100 nm 程度,長さ 3 mm 程度,幅が根元で 200 nm,先端で 100 nm 程度のへら状をしたものが斜めに互い違いに 10層程度重なることによって1つの ridge を形成している.モルフォチョウの鱗粉の表面光学特性でもっとも特徴的なことは Fig. 3 の計測からもわかるように,斜めから見たときにも色があまり変化しないことである.例えば,単純な多層膜干渉のモデルでは見る角度により反射スペクトルのピークが変化し,見た目には虹色に表面の色が変化する.例えば,Fig. 5(a) の場合には,正面からみると450 nmの波長の光が強く反射するため青色に見え,30度付近からは緑色に,45度付近からは赤色に見えることがわかる.SEMの観察において,ridgeがある程度均一な間隔で並んでいたが,これを単純な回折格子構造としてモデル化すると,Fig. 5(b) のように正面からは0次回折光の白色が観察され,斜めから見ると1次回折光によってやはり虹色に表面の色が変化する.SEMの観察に基づいてモデルを考案し,形状のパラメータを変化させることにより,どの要素が重要であるかを検証した (Fig. 5).その結果,多層膜構造とlamellar grating構造を組み合わせた構造により Fig. 5(c) のような表面光学特性が得られることがわかった.Fig. 5(c) は正面からは青色に見え,角度に応じてどの波長も反射率が落ちるため全体的に暗くなるが,多層膜構造や回折格子構造だけのときのように虹色に見えることはない.Fig. 6 は Fig. 5(c) の反射特性のデータを横軸が波長のグラフに書き換えたものである.10度付近からは暗くなってしまうが,ピークの波長があまり変わらないことや,他のピークが可視光波長領域には出てこないことなど Fig. 3 の単一鱗粉の表面光学特性とよく似ているといえる.鱗粉が 60度付近でも明るかったのに対して,モデルの場合は 10度付近からは暗くなってしまう.これは今回のモデルでは散乱の含めずにシミュレーションを行なったためであると考えられる.

3. 製作および評価

 モデルによるシミュレーションの結果を検証するために,モデルの構造を製作し,表面光学特性を計測した.干渉膜の材質として電子線直描によってパターニングを行なうEBレジスト(EBR9)を用いたため,多層にすることが難しく,多層膜は1層(単層膜)とした.EBレジスト層の上面と下面で反射した光によって干渉効果が生じ,また隣の線同士で反射した光によって回折効果が生じる.ここで,構造発色の色を変えるパラメータとしては干渉膜の膜厚とlamellar gratingの間隔があげられるが,同じ基板上に様々な発色部を作成するために,干渉膜の厚さは100 nmで一定とし,lamellar gratingの間隔を変化させることとした. Fig. 7(a) が製作した構造発色デバイスの構成である.ガラスの基板の上に厚さ300 nmのクロムを反射層があり,その上に厚さ100 nmのEBレジスト層がある.線の幅が1μmから4μm,ギャップの幅が0.5μmから2μmと様々に変えたものを作成した (Fig. 7(c)).反射スペクトルを計測するとFig. 7(b) のように異なる発色が実現できていることがわかる.Fig. 7(b) において,どのパラメータの反射スペクトルにおいても波長が 700 nm のあたりにピークが存在するのは,用いたEBレジストが透明ではなく橙色をしているためであると考えられる.しかし,逆に材質(色素発色)の色が橙色でも人間の眼に青色に見える発色を実現しており,構造により発色していることがわかる.Fig. 7(d)-(e) は製作した構造色デバイスの変角光学特性を計測したものである.モデルによるシミュレーションで見られたのと同様に計測角度を変えても発色のピークはあまり変わらない.また,モデルによるシミュレーションと同様に,このデバイスでも角度をつけると暗くなってしまうという特性が存在する.これは製作プロセスを非常に平らな面で行なっているため,モデルと同様,実際の鱗粉に比べて表面が平らすぎ,散乱の効果が低いことが原因であると考えられる.

 構造発色デバイスの例として,構造発色を用いた静止画像を製作した (Fig. 8).周りの外側の部分はEBレジストの色であり,その内側の縁の部分はガラス面が見えている部分である.文字の青色の部分は線の幅が2μm,ギャップの幅が0.5μmとなっており,背景の赤色の部分は線の幅は文字の部分と同じ2μm,ギャップの幅が1μmとなっている.また,台形形状の櫛歯をもつ静電アクチュエータを用いた可変構造色バイスを作成した.Fig. 9にその製作プロセスを示す.シリコンの櫛歯の上に有機膜 (Parylene) が蒸着されておりこれか干渉膜の役割を果たしている.櫛歯が台形形状であるため,櫛歯が近づくとギャップが小さくなり,発色が変化する.Fig. 10では左が黄色で右側が緑色に変化していることが見て取れる.

4. 結論

 オスの Molpho didius の単一下層鱗の鱗粉の表面光学特性を計測した.また,SEMを用いた観察から得られた鱗粉の表面構造を基にモデルを作成し,光学特性のシミュレーションを行なった.その結果,多層膜干渉と回折の効果の重ねあわせによって鱗粉と似た特性を再現できることを明らかにした.薄膜をパターニングすることにより,lamellar grating構造を作成し,さまざまな発色を実現した.さらに,台形形状の櫛歯をもつ静電アクチュエータを用いることにより,構造を変化に伴う異なる構造発色を実現した.これにより,反射型ディスプレイなどに応用可能な可変構造発色デバイスの原理および有効性を示した.

Figure 1. オスのMorpho didius: (a),(b) 全体写真; (c),(d) 鱗粉の顕微鏡写真; (e) 鱗粉のSEM写真(左:上層鱗,右:下層鱗).

Figure 2. 単一鱗粉の変角光学特性計測: (a) 鱗粉に対する計測領域; (b) 計測セットアップ.

Figure 3. 単一下層鱗の変角光学特性.

Figure 4. 下層鱗断面のSEM写真: (a) 上面写真; (b) 鳥瞰図; (c) 断面正面写真; (d) 断面側面写真.

Figure 5. モデルによる光学シミュレーション: (a) 多層膜構造; (b) 回折格子構造; (c) 両方を備えた構造.

Figure 6. 多層膜構造と回折格子構造を備えた表面における変角光学特性の光学シミュレーシ

Figure 7. 構造発色デバイスの表面光学特性: (a) デバイスの構成; (b),(c) 様々な発色; (d),(e),(f) 変角光学特性.

Figure 8. 構造発色デバイスによる画像の例.

Figure 9. 台形櫛歯静電アクチュエータを用いた可変構造発色デバイス: (a) 上面図; (b) 製作プロセス (A-A'断面).

Figure 10. 可変構造発色デバイス.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「モルフォ蝶を規範とした構造発色デバイス」と題し、5章からなっている。自然界にはモルフォ蝶・クジャク・ネオンテトラなど鮮やかな発色をもつ生物が多く存在し、これらの発色は色素によるものではなく、「構造色」または「構造発色」と呼ばれる可視光波長オーダの構造によって生じる発色であることが知られている。本論文では、モルフォ蝶の鱗粉の表面構造・表面光学特性を規範とした構造発色デバイスについて論じることを目的している。

 第1章の「序論」では、研究の目的・意義および研究の背景、論文の構成について述べている。

 第2章の「発色・測色」では、「構造色」の本論文における定義を述べ、発色現象を色素発色と構造発色に分類している。それぞれの発色スペクトルや発色効率に関してどのような特徴を典型的に持つかについて比較を行なっている。また、国際規格や工業規格で用いられている「物体の色」の測定方法では、構造発色する物体の表面光学特性の評価には不十分である構造発色をも含めた発色を評価する方法として変角分光測色計測を用いた評価法を提案している。この評価法を用いることにより、モルフォ蝶の鱗粉は発色の低角度依存性および広角発色性という反射型発色デバイスとして有用な特徴を持つことを明らかにしている。

 第3章の「理論・解析」では、モルフォ蝶鱗粉の表面光学特性を再現し、構造発色デバイスの設計指針を明らかにするために、発色の原理の理論的な解析を行なっている。まずモルフォ蝶の鱗粉の表面3次元構造をSEM(Scanning Electron Microscope)を用いて観察・解析している。また、第2章での鱗粉の変角分光測色計測における特徴的な照明・受光条件の系列をもとにモデルを用いてシミュレーションを行ない、解析を行なっている。多層膜構造・回折格子・ホログラフィー・phonic crystalなどさまざまな構造に対する解析手法があるが、それぞれが鱗粉構造の光学的特性を理論的に説明するのに有効であるかを検討している。その結果、モルフォ蝶の鱗粉のように発色の低角度依存性および広角発色性を有する構造発色は多層膜と不規則な格子周期をもつ回折格子を組み合わせた「多層膜不規則格子構造」によって再現できることを明らかにした。

 第4章の「設計・製作・評価」では、本章では、第3章の理論的解析に基づき、多層膜格子型と多層膜不規則格子型の2つについて構造発色デバイスを設計・製作し、その評価を行っている。窒化シリコン(Si3N4,屈折率:2.0)とガラス(SiO2,屈折率:1.5)の交互3層、計6層の多層膜を用いた多層膜不規則格子構造を作成し、モルフォ蝶の鱗粉のように発色の低角度依存性および広角発色性を有することを確認している。また、構造発色デバイスをディスプレイデバイスとしての適用可能性を検討している。可変な発色ディスプレイを作成し、その発色特性を評価している。

 第5章の「結論」では、本研究によって得られた成果とその結論を述べている。

 以上のように本論文では、モルフォ蝶の構造発色における発色の低角度依存性および広角発色性の原因を計測および理論的解析により深く洞察を行ない、その構造を製作することにより理論の検証・評価を行なっている。さらに、構造発色デバイスをディスプレイデバイスとして応用する方法について実験を行なっており、科学的にも工学的にも非常に意義深い結論を得ているといえる。

 よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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