学位論文要旨



No 120556
著者(漢字) 秋山,哲雄
著者(英字)
著者(カナ) アキヤマ,テツオ
標題(和) 北条氏権力の展開と都市鎌倉
標題(洋)
報告番号 120556
報告番号 甲20556
学位授与日 2005.04.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第479号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 五味,章介
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 近藤,成一
 東京大学 教授 榎原,雅治
内容要旨 要旨を表示する

鎌倉幕府の政治史は、「将軍独裁」「執権政治」「得宗専制」という三段階の構図でとらえられている。これまでの研究史では、「合議」を大きな指標とする「執権政治」について、最終的に北条泰時の執権就任と評定衆設置などの一連の改革をもってその確立とする点でほぼ共通している。「得宗専制」の成立については議論が分かれているが、「専制」と評価することは一致しており、その前提には「得宗専制」が「執権政治」期の「合議」と対になる存在であるという認識がある。しかし、そう単純に評価できない面もあろう。そもそも前近代に専制的ではない政権など存在し得ない。「合議」から「専制」へという認識の背後には、泰時期を是として鎌倉末期を非とする中世以来の価値観があり、それが現代においても無意識のうちにこうした認識を作り出しているのではないだろうか。そこで本稿では、「合議」か「専制」かという議論を離れ、幕府を主導した北条氏の在り方から北条氏の権力がいかに展開していったのかを都市鎌倉の様相とともに考察する。

第I部では、都市鎌倉における北条氏の存在形態に注目した。北条氏の持仏堂的な寺院と邸宅とを軸にして見ていくと、伊豆から鎌倉に移住した北条氏は13世紀半ばには鎌倉に定着していた。鎌倉における邸宅は、当初は将軍の御所からは離れていたが次第に近接するようになり、ついには御所を抱え込むようになっていた。これは将軍権力を取り込んだ北条氏の在り方を象徴している。また邸宅の継承関係からは、北条氏の嫡流である得宗だけではなく、一族の有力者が幕府の重要な機関である評定所を邸宅内に持つこともあり、得宗が「専制的」に幕政を支配していたのではないことが分かる。13世紀後半以降になると、北条氏は鎌倉郊外の山内などに別業(別荘)を持ち、別業の主の死後にはそこに主を弔う寺院が建立されるようになる。別業へと通じる道も整備された。鎌倉の境界地域の寺院も把握していった北条氏は、都市鎌倉の骨格を作っていったのである。

鎌倉の整備は北条泰時の頃に大規模に行われた。発掘調査による考古学成果からは、13世紀中頃を画期として、土地区画の主軸が北条氏の邸宅が面する小町大路や横大路から若宮大路へと変化し始めたことが分かる。しかし14世紀後半になると、再び若宮大路の影響力がなくなる。若宮大路が都市の基軸となったのは13世紀半ば以降の鎌倉時代だけなのである。また、鎌倉の甘縄という地域に住む御家人の関係を見ていくと、彼らは相互に姻戚関係を深めており、その関係によって屋地が分割相続されていた。限られた地域で限られた一族が関係を深め、複雑な姻戚関係と屋地継承とを生み出していたのである。

限定的な姻戚関係からも分かるように、都市鎌倉に常住する御家人は限られていた。多くの御家人は、一族で鎌倉と本貫地や京都、各地の所領との間を往反しており、鎌倉の邸宅は一族で共有していた。御家人たちは鎌倉に邸宅を構えながらも、そこに代官を置いて家政を行わせており、儀式に参加する時にだけ鎌倉に来ていたのである。また、その儀式に参加する御家人も時代とともに固定化・限定化が進む。鎌倉での儀式への参加状況からは、内藤・島津・宇都宮・足利各氏などの御家人には父・兄・弟といった一族内での在京・在国・在鎌倉などの分業体制が確認できる。彼らは複数の拠点を一族で分掌し、それらを結ぶネットワークを形成していたのである。御家人達は鎌倉に集住していたのではなく、在地領主という性格を維持しながら京都や鎌倉といった都市と関わって幕府との距離をとっていたのであり、北条氏によって専制的に鎌倉から排除されたわけではなかった。

第II部では、北条氏の持つ所領と守護職を素材に得宗と一門の関係に注目した。北条氏嫡流の得宗とその一門とはこれまで一括して扱われてきたが、得宗が一門を統制していたわけではなく、それぞれが独自に所領を獲得しており、両者を分類して検討する必要がある。これは守護職についても同様である。例えば、名越氏は鎮西や北陸に所領や守護職を持っており、在地の御家人たちに指示される存在であったし、重時流北条氏は、重時が幕政の中心である評定所や小侍所を邸宅内に持ち、子息の長時を執権に、時茂を六波羅探題としており、守護職も得宗を上回る数を保持するなど、幕府の制度的拠点をおさえていた。一方で当時の得宗時頼は不安定な立場にあった。時頼期にも一門の力が北条氏の政権を支えていたのである。鎌倉末期には鎮西では金沢氏が、遠江では大仏氏が守護として独自の管国経営を行っていた。ここに得宗に一門に対する統制は見られない。

つづいて北条氏の所領の展開過程を追うと以下のようになる。初期の段階では得宗が多くの所領を得られず、戦乱の勲功賞によって得宗以外の人物が多く所領を獲得していた。その後、個人としての得宗泰時に連なる所領が見えるようになるが、一方で得宗家の家政機関の整備も進んでいた。時頼期には、彼の存在の不安定さを象徴するように獲得所領は少なく、重時流北条氏の存在が特徴的に見られた。時宗・貞時期には得宗家公文所の発給する文書が増加し、高時期にはいわゆる得宗被官が代官を務める所領が多く見られるようになる。この時期には家としての得宗家が確立し、個人としての側面よりも、家としての得宗家の側面の方がより色濃く表れている。一方で、時宗期以降には「異国警固料所」や「守護領」、六波羅探題の所領などといった幕府の職務に伴う所領も見えている。個人や家ではなく幕府の役職が所領獲得の原動力となっていったのである。

第III部では、北条氏の持つ守護職について検討した。得宗の分国として知られる若狭国の守護職は「北条義時補任以来代々北条氏の嫡流に伝えられ」たのではなく、守護職獲得当初から文永七年(一二七○)頃までは六波羅探題北方となった人物が終生在任するのが慣例であり、延慶二年(一三○九)に貞時が還補して以降は得宗が守護であり続けたが、探題北方は摂津と播磨の守護職を兼任するようになっており、得宗が絶対的な権勢によって探題北方の勢力を若狭から駆逐したわけではなかった。

播磨国では兼時が北条氏で初めて守護となった。彼は探題と守護を兼任し、後任者がそれを継承したことから兼任が通例化した。要地である播磨守護の任務遂行に探題という幕府役職の権威が必要となったのである。また、「守護使」による荘園への乱入の事例は北条氏の守護就任以降にはほとんど見えなくなり、かわって「悪党」狼藉の史料が増え始める。「守護使」、「悪党」のどちらも、荘園侵略の被害を幕府に訴えた荘園領主側が加害者を呼んだ名前であり、実態として両者はほぼ同質のものであった。モンゴル軍の襲来に備えた幕府守護を訴えることがはばかられるようになったことが「悪党」呼称登場の一因だと推測できる。それだけ守護が役職として尊重されるようになっていたのである。

モンゴルに備える最前線の長門守護は「長門探題」とも呼ばれる要職であった。歴代の守護を伝える「長門国守護職次第」を書誌学的に検討した結果、鎌倉期の記述は鎌倉末期に書かれ、平安期以前と室町期までの記述は室町末期に書かれ、以後順次書き継がれていたことが分かった。鎌倉時代の記述を検討してこれまでの守護沿革を修正すると、鎌倉幕府の一番引付頭人の名代が多く守護に就任していることが明らかとなった。ここに、幕府の役職に守護の人選が規定されるという一定の秩序を見てとることができる。

守護の居所は「守護所」と呼ばれた。この語を鎌倉時代を通して検討してみると、その用例は西国に多く、東国にはほとんど見られない。東国に見られないのは、(1)守護が既存の一国検断権を安堵する形で設定された場合、(2)守護が管国の有力在庁出身ではない場合、(3)得宗が守護となっている場合であった。東国においては各国の在り方が多様であり、そこに守護という制度を覆い被せただけだったのである。西国では、モンゴル軍の襲来に備えて守護が現地に赴任したことで「守護所」用例が減少し、守護の居所は「守護館」などと呼ばれるようになり、「守護所」という語は守護本人を指す属人的な側面を強める。

最後に北条氏権力の展開をまとめよう。キーワードは「個」と「職」である。「個」とは、個人としてその知名度や力量を期待される人物の存在およびそれを根拠とした権能を示し、「職」とは、鎌倉幕府の役職およびそれを根拠とした権能を意味する語として用いる。初期の段階は、北条氏の有力者が個々に活躍しており、一門も多く所領を得るなどしていた。それら並び立つ複数の「個」の中から得宗家が浮上し、得宗は「個」から「家」となって推戴され、一門は「個」として残りながらその秩序にしたがって「職」を享受していた。北条氏以外の御家人も基本的には幕府内における何らかの秩序に組み込まれていたから、東国では「個」が「職」によって束ねられていたといえる。一方で西国においては、幕府役職と連動した守護職補任に見られるように、北条氏は「職」をもって臨んでいた。東国では個々の御家人や北条氏などの「個」がまずあって、そこに「職」という布を覆い被せていたが、東国御家人が守護となる西国では、管国に既得権のない守護が円滑に任務を果たすためには「職」を持ち出す必要があったのである。以上を踏まえて幕府倒壊の要因を求めるとすれば、西国に派遣された守護名代や地頭・地頭代が世代交代を進めて土着することで「職」の「個」化が始まり、東国では、理想としての「職」が実態を持つようになって個々の御家人を圧迫するようになったからではないかと推測しておきたい。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、執権という役職を通じて鎌倉幕府の覇権を握った北条氏権力の展開について、(1)本拠地鎌倉の都市空間における邸宅や宗教施設の配置および将軍御所との関係、(2)権力の基盤をなした所領や守護職の制度的・空間的変遷、という二つの視点から、関係史料の徹底的な洗い出しをふまえて、主要な先行学説である佐藤進一氏の「得宗専制」論を乗り越えようと試みた意欲的な研究である。

本論文が提示した注目すべき新見解として、つぎの諸点が挙げられる。まず第I部「都市鎌倉と北条氏」では、邸宅居住者の変遷から、従来庶流にすぎないと見られてきた北条重時が北条氏権力の中核にいたことを明らかにした。ついで第II部「北条氏所領と得宗政権」では、名越氏・大仏氏・重時流などの一門の所領が、嫡流得宗家に奪取されることなく基本的に維持されていたことを、第III部「鎌倉幕府守護と北条氏」では、幕府の重要な役職と特定の重要な国の守護職とが不可分と考えられていたことを、それぞれ豊富な事例に基づいて実証し、一門が得宗家の意のままになる操作の対象ではなく、高度な自立性を保っていたことを明らかにした。

このように本論文は、鎌倉時代の政治史・社会史を新鮮な視点から照らし直し、鎌倉幕府研究に新生面を開拓した、優れた業績である。収集した厖大な関係史料を十二分に使い切ったとはいえず、叙述にいま少しの粘り腰が欲しいという不満はあるが、論文の意義を損なうほどの弱点ではない。

以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい優れた業績として認めるものである。

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