学位論文要旨



No 120559
著者(漢字) 孫,慧
著者(英字) Hui,Sui
著者(カナ) スン,フェイ
標題(和) ALSラットモデルにおける脊髄運動ニューロン特異性の検討
標題(洋)
報告番号 120559
報告番号 甲20559
学位授与日 2005.04.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2556号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 尾藤,晴彦
 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 教授 眞鍋,俊也
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 野本,明男
内容要旨 要旨を表示する

序論

筋萎縮性側索硬化症は、上位および下位運動ニューロンが進行性かつ選択的に障害される神経変性疾患である。現在のところ、根本的な原因、有効な治療法は解明されていない。ALSの5-10%程度は家族性ALSである。その中約20%はSOD1遺伝子を原因遺伝子として同定された。最近、ALS2、ALS4およびALS8の原因遺伝子も同定された。孤発性ALSの病因は依然として不明であるが、AMPA受容体を介する遅発性興奮性神経細胞死が最も有力な病因仮説である。

孤発性ALSではGluR2mRNAの量的変化は確認できなかったので、むしろ、質的異常(Q/R部位でのRNA編集異常)が密接に病因と関連していると考えている。しかし、孤発性ALSの適切な動物モデルは得られていない。カイニン酸が脊髄前角運動ニューロンに傷害を与えることは培養細胞系および短時間投与のin vivo実験系で示されたが、脊髄くも膜下腔へのカイニン酸の慢性持続投与による遅発性神経毒性は検討されていなかった。

実験目的

我々は興奮性神経細胞死仮説に基づくカイニン酸髄注ラットを開発し、ALSモデルとしての妥当性を行動変化、神経病理学変化およびAMPA受容体分子変化から検討し、孤発性ALSとの異同を考察する。

正常ヒト脊髄運動ニューロンにおけるAMPA受容体サブユニット発現プロファイルの特異性が正常ラットでもみられるかどうかを明らかにするために、定量RT-PCRによりAMPA受容体各サブユニットmRNA発現量およびGluR2 mRNAの発現比率を、脳脊髄組織、単一ニューロンで比較検討する。

家族性ALSと孤発性ALSの病因異同を調べるために、家族性ALSのモデルである変異ヒトSOD1トランスジェニックラットを用いて、脊髄ニューロンにおけるAMPA受容体各サブユニット発現量および単一運動ニューロンのGluR2 Q/R部位の編集率を定量し、孤発性ALSとの差異を比較検討する。

実験材料と方法

カイニン酸髄注によるALSモデル動物の作成

Nakamura&Kwakの方法に従い、雄WistarとFischerラット脊髄くも膜下腔に微小浸透圧ポンプ(ALZETModel 2004)を用いて、 3mMカイニン酸を2-8週間持続的に投与しモデルラットを作成した。対照としては人工髄液を同期間投与した。胞死のメカニズムを検討するために、雄Fischerラットにカイニン酸投与と同時に、AMPA/KA受容体アンタゴニストNBQX(3mMカイニン酸+3mMNBQX)、 NMDA受容体アンタゴニストAPV (3mMカイニン酸+3mM APV)およびAMPA受容体脱感作阻害剤cyclothiazide (1.5 mMカイニン酸+1.5mM CTZ)を4週間同時投与した。CTZ(1.5mM CTZ)の同期間の単独投与も行った。

運動機能変化はrotarod(16rpm,420s)スコアにより週ごと評価し、同時に痛覚刺激に対する逃避反応および膀胱直腸障害の有無を判定した。神経病理学的に、潅流固定したラットの腰髄組織を用いて凍結切片を作製した後、光学顕微鏡下に脊髄前角運動ニューロンの形態学的変化を観察した。また、ラットの腰髄組織より20μm厚の30枚連続凍結切片を作成し、切片ごと核小体を有する脊髄前角運動ニューロン数を測定した。

AMPA受容体の分子変化

正常ラット、髄注モデルラットおよび発症前後変異ヒトSOD1トランスジェニックラット(SOD1G93AとSODIH46R)を用いて、脳脊髄組織より小脳、大脳皮質、大脳白質、脊髄前角、脊髄後角、脊髄白質より組織(≦10mg)を切り出し、またはLaser microdissectorを用いて、脊髄運動ニューロン(30個単位)、小脳プルキンエ細胞(60個単位)、脊髄膠様質ニューロンの一部、小脳顆粒細胞層を切り出した。その後各サンプルよりtotal RNAを抽出し、逆転写した。LightCycler Systemを用いて、AMPA受容体サブユニットGluR1-GluR4 mRNAに対し、定量RT-PCRを行ない、 β-actinで標準化した。またカイニン酸髄注ラットおよび変異ヒトSOD1トランスジェニックラット単一脊髄運動ニューロンを用いて、GluR2 Q/R部位を含むPCR産物を制限酵素Bbvlで処理し、RNA編集率を算出した。

結果

カイニン酸髄注ラットによるALSモデル動物

このモデルラットは、 WistarとFischerラットともカイニン酸投与時間とともに2週以降にrotarodスコアが有意に短縮した対照群ではrotarodスコアが変化しなかった。痛覚刺激に対する逃避反射は保たれ、膀胱直腸障害も認められなかった。神経病理学的に、カイニン酸を8週間投与したWistarラット(KA-W8)と4週間投与したFischerラット(KA-F4)の脊髄前角にある一部の大型神経細胞の細胞質ニッスル顆粒の消失、核の偏在、空泡の出現、神経細胞を取り巻くグリア細胞の増勢など変性像が多数みられた。脊髄後角には形態学的変化が認められなかった。脊髄前角運動ニューロンの定量では、対照群に比べ、KA-F4とKA-W8投与群では有意な減少がみられたが、KA-F2とKA-W4投与群では、有意差が認められなかった。

カイニン酸髄注ラットの時間依存性rotarodスコア低下はNBQXの同時投与により3週以降有意に改善されたが、 APVの同時投与によっては影響を受けなかった。また、カイニン酸とCTZの同時投与群では、rotarodスコアを有意に増悪させ、少量のカイニン酸でも、カイニン酸投与群と同程度のrotarodスコアの低下がみられたCTZ単独投与群では、rotarodスコアの変化が認められなかった。各髄注ラットの脊髄前角運動ニューロン定量では、 KA-F4投与群の脊髄運動ニューロン数の激減はNBQXの同時投与により有意に軽減したKA/CTZの同時投与群では、対照群に比較し脊髄運動ニューロン数が4週後有意に減少したが、カイニン酸投与群に比べ、わずかな脊髄運動ニューロン数の低下がみられ、有意差は認められなかった。CTZ単独投与群の脊髄運動ニューロン数は対照群との有意差が認められなかった。形態学的に、KA/CTZ-F4投与群ではKA-F4投与群と異なり、脊髄前角にある大型神経細胞に空泡の出現など変性像が最も注目された。脊髄後角には神経変性が認められなかった。

ALSモデル動物におけるAMPA受容体の分子変化

正常ラット脳脊髄組織における総AMPA受容体サブユニットmRNA発現量は、脳脊髄の白質より脊髄前角を除く灰白質の方が有意に多かった。脊髄前角におけるGluR2 mRNA発現量は、脳脊髄の灰白質中最も少なかった。脊髄前角におけるGluR2 mRNA発現比率は、他の脳脊髄組織と比較し、有意に低かった。GluR2 mRNA含量は他のサブユニットと比較し、ラット脳脊髄各部位とも最も多かった。次に、正常ラット脊髄運動ニューロンにおける総AMPA受容体サブユニットmRNA発現量、 GluR2 mRNA発現量・発現比率は、脊髄後角ニューロン,小脳プルキンエ細胞、小脳顆粒細胞に比べ、有意に低かった。脊髄運動ニューロンでGluR2とGluR3 mRNA発現はほぼ同量であったが,脊髄後角ニューロン、小脳プルキンエ細胞、小脳顆粒細胞では、 GluR2 mRNA含量が圧倒的に多かった。

カイニン酸投与群脊髄運動ニューロンでは、総AMPA受容体サブユニットmRNA発現量、GluR3 mRNA発現量が、 WistarとFischerラットともそれぞれの対照群に比べ有意に増加した。他のAMPA受容体サブユニットmRNAの発現量は、対照群との有意差を認めなかった。GluR2 mRNA発現比率は、それぞれの対照群に比較し、カイニン酸投与群が有意に低下した。脊髄後角ニューロンと脊髄白質におけるAMPA受容体各サブユニットmRNA発現量は、対照群との間に有意差を認めなかった。

変異ヒトSOD1トランスジェニックラット脊髄運動ニューロンと脊髄後角ニューロンとも、発症の有無を問わず、総AMPA受容体サブユニットmRNA発現量とGluR2 mRNA発現量・発現比率は、それぞれの同腹対照との有意差が認められなかった。

GluR2 Q/R部位のRNA編集率は選択的な脊髄運動ニューロン変性・脱落を確認したKA-W8投与群とその対照群の単一運動ニューロンで検討し、例外なく全て100%であった。また、発症後変異ヒトSOD1トランスジェニックラットおよびそれぞれの同腹対照の全ての運動ニューロンにおいて、変異ヒトSOD1遺伝子、発症の有無に関係なく、GluR2RNA編集率は100%であった。

考察

カイニン酸髄注ラットによるALSモデル動物の妥当性

カイニン酸髄注ラットは、運動機能選択的な障害、脊髄運動ニューロン選択的な変性・脱落が生じ、ALSの病態を反映する疾患モデルと結論づけることができ、ALSの病態生理を研究する上に有用なツールになると考えられる。従来のモデル動物では、変異ヒトSOD1トランスジェニック動物を含め例外なく、このような運動機能と運動ニューロンの選択性・特異性が得られていなかった。

グルタミン酸受容体のアンタゴニストを用いた研究で、カイニン酸持続髄注によって引き起こされた選択的運動ニューロン変性は、AMPA/KA受容体を介するものであることが明らかになった。また、CTZを用いた結果から、脱感作時間変化のみでは細胞生存に大きな影響を与えないこと、カイニン酸毒性が脱感作をブロックされたAMPA受容体を刺激したことにより増強したことが考えられる。カイニン酸持続髄注による選択的運動機能の低下と脊髄運動ニューロンの変性・脱落がAMPA受容体を介したものと考えられる。

正常ラットにおけるAMPA受容体サブユニットmRNA 発現プロファイル

今回正常成熟ラット脳脊髄単一神経細胞を、レーザーマイクロダイセクションシステムと定量RT-PCRにより検討し、AMPA受容体サブユニットmRNA発現プロファイルを初めて定量したものである。GluR2 mRNA発現量は組織、細胞種を問わず、最も多いことが示された。またGluR2 mKNA発現量・発現比率は脊髄運動ニューロンで最も低いことが分かった。このことは、脊髄運動ニューロンにおけるCa2+透過性AMPA受容体密度が比較的高いことを予測させ、従ってAMPA受容体を介した興奮性神経細胞死により脆弱であり、ALSにおける神経細胞死選択性に説明する一要素であると考えられる。

我々の結果と以前の定量報告との違いは神経細胞の成熟度によると考えられる。ラットの脊髄運動ニューロンにおけるGluR2 mRNAが総AMPA受容体サブユニットに占める発現比率は相対的に最も高かったが、その程度はヒトと比較し、より低いことが相違点としてあげられる(39〜63% vs 77.8 ± 2.0%)。

カイニン酸髄注ラットにおけるAMPA受容体の分子変化

この髄注ラットでは、脊髄運動ニューロンに選択的なGluR3 mRNAの上昇はAMPA受容体密度の上昇につながり、二次的にGluR2サブユニットを含むAMPA受容体の割合を低下させ、すなわち、Ca2+透過性AMPA受容体の割合が上昇し、AMPA受容体を介するCa2+流入は更に増加することが予想され、これが運動ニューロンの機能を傷害する可能性があると考えられる。また、孤発性ALS脊髄運動ニューロンに特異的に生じているGluR2 Q/R部位のRNA編集率低下は選択的な運動ニューロンの変性・脱落が認められたKA-W8投与群脊髄運動ニューロンですら生じていなかった。すなわち、カイニン酸髄注ラットの運動機能障害、選択的脊髄運動ニューロン変性はGluR2 RNA編集低下を伴わず、孤発性ALSと異なる興奮性神経細胞死経路を経て起こっていると考えられる。

変異ヒトSOD1トランスジェニックラットにおけるAMPA受容体の分子変化

家族性ALSの動物モデルである変異ヒトSOD1トランスジェニックラットにおいて、発症例でもAMPA受容体サブユニットmRNA発現プロファイル、GluR2 Q/R部位のRNA編集率のいずれにも同腹対照との間に差異が認められないことから、その神経細胞死のメカニズムは孤発性ALSで見られたGluR2 mRNA編集率低下によるものではないと考えられる。GluR2Q/R部位RNA編集率低下がみられなかったことが判明した以上、変異ヒトSOD1トランスジェニック動物は孤発性ALSの動物モデルに当らないと認識すべきである。

審査要旨 要旨を表示する

孤発性ALSはAMPA受容体を介する遅発性興奮性神経細胞死が最も有力な病因仮説である。孤発性ALSではGluR2 mRNAの量的変化は確認できなかったので、むしろ、質的異常(Q/R部位でのRNA編集異常)が密接に病因と関連していると考えている。しかし、孤発性ALSの適切な動物モデルは得られていない。本論文は脊髄くも膜下腔へカイニン酸持続投与により髄注モデルラットを開発し、孤発性ALSモデルとしての妥当性を行動変化、神経病理学変化およびAMPA受容体分子変化から検討した。また正常ラット脊髄運動ニューロンにおけるAMPA受容体サブユニット発現プロファイルの特異性を脳脊髄組織、単一ニューロンで比較検討した。最後に、家族性ALSと孤発性ALSの病因異同を家族性ALSのモデルである変異ヒトSOD1トランスジェニックラットにおけるAMPA受容体の分子変化から比較検討した。下記の結果を得ている。

カイニン酸髄注ラットは、後肢の運動麻痺を生じ、後肢の運動機能低下がrotarodスコアにより評価された。痛覚刺激に対する逃避反射は保たれ、膀胱直腸障害を認められなかった。脊髄運動ニューロンに選択的変性を生ずることが確認され、脊髄前角細胞の脱落が定量的測定より明らかになった。このカイニン酸髄注ラットは、運動機能選択的な障害、脊髄運動ニューロン選択的な変性・脱落が生じ、 ALSの病態を反映する疾患モデルと結論づけることができる。

グルタミン酸受容体のアンタゴニストを用いた研究では、カイニン酸持続髄注によって引き起こされた選択的運動ニューロン変性は、NMDA受容体アンタゴニスト(APV)によって阻止されなかったが、AMPA/KA受容体アンタゴニスト(NBQX)により神経細胞死が改善された。また、AMPA受容体の脱感作阻害剤であるCTZの単独投与では全く神経細胞死への影響がなく、カイニン酸の同時投与では強い運動ニューロン死がみられた。カイニン酸持続髄注による選択的運動機能の低下と脊髄運動ニューロンの変性・脱落がAMPA受容体を介したものと考えられる。

正常ラット脳脊髄単一神経細胞を、レーザーマイクロダイセクションシステムと定量RT-PCRにより検討し、 AMPA受容体サブユニットmRNAの定量的発現プロファイルを初めて得た。正常ラット脳脊髄組織とニューロンにおけるGluR2 mRNA発現量は組織、細胞種を問わず、他のサブユニットと比較し、最も多いことが示された。またGluR2 mRNA発現量・発現比率は脊髄前角と脊髄運動ニューロンで最も低いことが分かった。このことは、脊髄運動ニューロンにおけるCa2+透過性AMPA受容体密度が比較的高いことを予測させ、従ってAMPA受容体を介した興奮性神経細胞死により脆弱であり、 ALSにおける神経細胞死選択性に説明する一要素であると考えられる。

カイニン酸髄注ラットでは、脊髄運動ニューロンにおけるGluR3 mRNA発現量の上昇が示され、脊髄後角ニューロンには認められなかったことから、脊髄運動ニューロンに選択的な分子変化であると考えられる。カイニン酸持続髄注により脊髄運動ニューロンに選択的に生じているGluR3 mRNAの発現上昇は、AMPA受容体密度の上昇につながり、二次的にGluR2サブユニットを含むAMPA受容体の割合を低下させ、すなわち、Ca2+透過性AMPA受容体の割合が上昇し、AMPA受容体を介するCa2+流入は更に増加することが予想され、これが運動ニューロンの機能を傷害する可能性があると考えられる。また、孤発性ALS脊髄運動ニューロンに特異的に生じているGluR2 Q/R部位のRNA編集率低下は選択的な運動ニューロンの変性・脱落が認められたカイニン酸8週投与群脊髄運動ニューロンですら生じていなかった。すなわち、カイニン酸髄注ラットの運動機能障害、選択的脊髄運動ニューロン変性はGluuR2 RNA編集低下を伴わず、孤発性ALSと異なる興奮性神経細胞死経路を経て起こっていると考えられる。

変異ヒトSOD1トランスジェニックラット脊髄運動ニューロンと脊髄後角ニューロンとも、発症の有無を問わず、AMPA受容体サブユニットmRNA発現プロファイルは、それぞれの同腹対照との有意差が認められなかった。また、発症後変異ヒトSOD1トランスジェニックラットおよびそれぞれの同卵対照の全ての運動ニューロンにおいて、変異ヒトSOD1遺伝子、発症の有無に関係なく、GluR2 RNA編集率は100%であった。ALS1における神経細胞死のメカニズムは孤発性ALSで見られたGluR2 mRNA編集率低下によるものではないと考えられる。

以上、本論文はALSの病因研究、治療法の開発にとり、必要な運動機能選択的な障害脊髄運動ニューロン選択的な変性・脱落を引き起こしたモデル動物を作製したものである。このようなALSの病態を反映する疾患モデルはこれまでになく、 ALSの病態生理を研究する上に有用なツールになると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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