学位論文要旨



No 120568
著者(漢字) 陳岡,めぐみ
著者(英字)
著者(カナ) ジンガオカ,メグミ
標題(和) 絵画のための「イメージ戦略」 : 絵画蒐集・取引との関係から見た19世紀フランスの複製エッチング
標題(洋)
報告番号 120568
報告番号 甲20568
学位授与日 2005.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第583号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三浦,篤
 東京大学 助教授 ロバート,キャンベル
 東京大学 助教授 今橋,映子
 東京大学 教授 石井,洋二郎
 明治学院大学 教授 鈴木,杜幾子
内容要旨 要旨を表示する

本論は、従来の近代版画史や複製技術史研究のなかで周縁部に位置づけられてきた19世紀フランスにおける複製エッチング制作に新たな光をあて、その背景と意義を、絵画の自由市場を中心とする新たな美術システムの形成という19世紀の大きな流れのなかに置き直して再検討するものである。

第二帝政期から第三共和制期初頭のフランスを中心に、美術アカデミーとサロン、国立美術学校を中心とした従来のアカデミック・システムは揺らぎ始め、市場原理にもとづく新たな作品展示流通システム、いわゆる画商・批評家システムへの転換が進む。この新しい芸術「場」においては、美術批評をはじめとして、作品や芸術家の知名度や希少性、差異を生み出すためのさまざまな価値付け手段が発達する。同じ頃、版画愛好家たちのあいだで再評価が進んでいたエッチングも、絵画のための迅速かつ効果的な複製技法として画商や絵画コレクターらの注目を集め、1870年代を中心に、複製エッチングを利用した絵画蒐集・取引をめぐる多様な挿絵入り出版物――高級美術雑誌や競売・展覧会カタログ、画廊や個人コレクター、美術館などの所蔵品カタログ等々――が生まれた。

この局面でとくに重要な動きを見せていたのが、本論後半で取り上げるパリ在住のベルギー人画商/批評家レオン・ゴシェ(Leon Gauchez)である。彼は複数の偽名や役割を使い分けながら19世紀後半の美術品取引にフィクサーとして広く関わり、その周囲では、注目すべきエッチング挿絵入り出版物が次々と作られたのであった。

本論前半(第I部)では、第一章でサロンの版画部門の出品状況に対する分析を出発点に問題の概況を跡付けた上で、第二章で絵画の複製技法としてのエッチングの技術的、造形的特徴を論じ、第三章では問題の前提ともいうべき美術愛好家との関係を取り上げ、複製エッチングの社会的背景を考察する。ここではさらに複製エッチングに対する愛好の広がりや愛書趣味にも言及する。後半(第II部)では、まず、第四章で、現在ではあまり知られていないレオン・ゴシェの画商や批評家としての活動を概観した上で、第五章から弟七章で、ゴシェとその顧客のコレクターたちをめぐる複製エッチング制作の事例――ニューヨーク・メトロポリタン美術館最初の絵画コレクションを複製したエッチング集、第三共和制期初頭に特異な一時期を築いたエッチング挿絵入り競売カタログ、19世紀を代表するエッチング挿絵入り美術雑誌のひとつ、『ラールL'Art』――を取り上げ、ここで展開された絵画のための「イメージ戦略」の分析を通じて、19世紀後半の絵画蒐集・取引における複製エッチングの役割を具体的に論じていく。なお、美術雑誌『ラール』を取り上げた最終章では、19世紀の複製エッチングの制作背景に第三共和制期の美術行政と産業応用芸術運動の流れという文脈を加えることで、問題に対する理解を深める。

複製エッチングは、当時の人々が蒐集や取引の対象として追い求めた絵画の複製イメージをすばやく広く、国境を越え、時に大西洋を越え、運んでいた。その背景には、市民社会の発展とともに19世紀後半の絵画趣味の大きな流れとなった風景画を中心に、バルビゾン派や17世紀オランダ・フランドル絵画、ロココ絵画のような色彩表現を重視する絵画に相応しい複製技法として、また、発展する印刷出版業界が求めた迅速な挿絵技法に対する要請があった。さらに、産業への芸術の応用という国家的課題、あるいは時代の流れがその追い風となる。こうして作られた多数の複製エッチングはさまざまな美術出版物と結びつきながら、コレクターの虚栄心を満たす手段とも、画商たちの絵画投機をめぐる宣伝戦略の道具ともなりながら、オリジナル絵画の価値を高める役割を果たした。そして、絵画の蒐集・取引におけるこうした役割を可能にしたもの、それは何より、版画作品としての芸術性と情報伝達手段としての有用性、あるいは芸術と産業、どちらにも回収されがたい複製エッチングの特質であった。希少性と多数性が共存するこの曖昧な性質によってこそ、複製エッチングは、コレクターや画商たちのさまざまな思惑の下、学術から商業、芸術の諸領域を横断しつつ結びつけ、絵画の「価値」を相互に保障しあうイメージ・ネットワークを張り巡らせることができたのである。

実際、ゴシェ=ルロワ、ゴシェ=ペリエ、ゴシェ=マンチーノ・・・、複数の偽名と役割を使い分けながら、様々な形で複製エッチングを利用した絵画のイメージ戦略を展開していた画商ゴシェについては、彼の名前が表舞台に出ることはほとんどなく、大通りに華やかな画廊を構えた形跡もない。彼はただ、競売への介入やコレクターや美術館との取引のかたわら、印刷媒体や美術館、美術愛好家、何より、複製エッチングという媒体を利用して、複雑に入り組む権威的参照源の網を密かに編んだだけである。そしてそこに織り出されていったのは、ミレーやコロー、デュプレ、ディアズ、ドラクロワ、カンスタブル、フェルメール、フランス・ハルス、グァルディ、ティエポロ・・・等々、19世紀後半以降、20世紀初頭にかけて、しだいに絵画市場と蒐集の世界を支配していく絵画趣味の地図であった。

絵画の価値形成にはむろん、様々な要素が絡み合っている。しかし、近代版画史の隅に長く置き去りにされていた19世紀の複製エッチングに強力なイメージ流布手段としての力を認め、その背後にある画商や絵画コレクターたちの思惑を知ったとき、そこには、ただ単に「素朴だが魅力的な」、あるいは「退屈な」版画とは違う新たな相貌が見えてきた。19世紀フランスの複製エッチングは、光や色彩の効果に対する感性が育まれていくなか、新しい絵画趣味の伝播を求める人々の手によってまさに時代の要請のなかで生まれたのである。

審査要旨 要旨を表示する

陳岡めぐみの博士学位請求論文、「絵画のための「イメージ戦略」-絵画蒐集・取引との関係から見た19世紀フランスの複製エッチングは、西洋近代美術史研究において見過ごされていた複製エッチングに新たな光を当て、その歴史的意義を「アカデミック・システム」から「画商・批評家システム」への転換という絵画受容の歴史的文脈に中で解明した独創性あふれる学問的成果である。

本研究は何よりもその着眼点と問題設定が優れている。従来のモダニズムの美術史観に囚われることなく、受容の観点という最新の流れを押し進め、油彩画や創作版画と比べてマイナーなジャンルと見なされていた複製エッチングを敢えて研究対象に取り上げた。しかも、画商・批評家・雑誌創刊者など多彩な顔を持つ絵画プロモーターであるベルギー人レオン・ゴシェに焦点を当てながら、1870年代パリの美術市場において17世紀オランダ・フランドル絵画が大きく再評価される際に、いかに複製版画が重要な機能を果たしたのかを綿密かつスリリングに論証して見せたのである。その手法はきわめて手堅い実証的なもので、ゴシェ関係資料の発掘、サロン(官展)のカタログや高級美術雑誌、展覧会カタログ、競売カタログ(かつ競売原簿)、所蔵品カタログなど、19世紀当時の一次資料の徹底的な調査に基づいている。こうして複製エッチングによる横断的なイメージのネットワークを詳細に跡づけた上で、社会史的、メディア論的な視点をも加味して、絵画作品の市場価値が創出されていく過程、人為的な操作によって趣味や流行が形成されていく様相をリアルに浮き彫りにしたのである。ミクロな資料調査とマクロな歴史分析を柔軟に接続したところに、本研究の見事な達成がある。

本論文は本文篇、図版・資料篇の2分冊から成る。本文篇は2部構成で全7章、および序章と結びから成る。図版・資料篇の方は図版に加え、巻末付録としてサロンのカタログと四つの競売カタログ、美術雑誌『ガゼット・デ・ボザール』と『ラール』に掲載された複製エッチングのリスト、並びに文献目録と人名索引が付加されている。以下、論文の構成に即して議論を紹介し、審査委員からの指摘を記しておく。

序論において著者は、近代版画史や複製技術史の先行研究に言及しながら、その周縁部に置かれていた19世紀フランスの複製エッチングを、同時代の絵画蒐集・取引に関わる新たな美術流通システムの形成と結びつけて研究する意義を主張し、自らの問題意識を鮮明に提示する。第1部は、19世紀の複製エッチングをめぐる全般的な事象と時代背景を扱う。複製エッチングの隆盛期である1870年代のサロンのカタログ調査に基づく第1章では、ブルジョワ・コレクターを標的にした画商が批評家と連携しながら高級美術雑誌を舞台に審美性、学術性を付与された複製版画を用いて絵画のプロモートを行う状況が生まれていたことが、デュラン=リュエル画廊や『ガゼット・デ・ボザール』誌を例に述べられる。続く第2章は、再現性と解釈のはざまにある複製エッチングの美的、造形的特質についての興味深い考察を示す。ただし、写真や石版画との比較分析が単純に過ぎるとの指摘が審査員から出された。第3章では、ドゥーブル・コレクションと批評家トレ=ビュルガーのフェルメール・キャンペーンのつながりというゴシェに先行する個別事例を、複製版画に付加された紋章型エクスムゼオの意味という観点から的確に探っている。

本論の中心となる第2部は、美術愛好家であり投機家であるレオン・ゴシェが、画商として作品を売買し、批評家としてまた雑誌『ラール』の刊行者として作品をプロモートする中で複製エッチングの果たした役割を総合的に論じており、各章とも充実した成果となっている。ベルギー王立美術館に残る未発表資料を基にゴシェの全体像を素描し、そのイメージ戦略の大筋を説明した第4章に続き、第5章ではニューヨークのメトロポリタン美術館創立当初における17世紀オランダを中心とする絵画コレクションの形成と版画集出版にゴシェが深く関わっていたことが論じられる。国境を越えた絵画市場を意識し、寄贈も含めて美術館に巧みな売り込みをかけ、版画家ジュール・ジャックマールによる複製エッチング集で価値を高めていく過程の記述は圧巻である。さらに第6章では、ブルジョワ・コレクターたちと投機集団を形成し、1870年代パリの重要な競売を偽名も使いつつ操作した中心人物がゴシェであり、それらの競売カタログにも、同時期の雑誌紹介記事にも複製版画が効果的に導入されていることを説得的に示している。ただし、人間関係や偽名の使用が複雑なため、人物相関図がほしいとの注文が審査員からは出た。最後の第7章は、ゴシェが創刊した高級美術雑誌『ラール』の意義を、当時の反アカデミックな美術行政や産業応用芸術振興の動きまで視野に入れて解明しようとする。『ラール』自体の調査は貴重な貢献だが、背景の掘り下げが不充分なためやや息切れの感があり、今後に課題を残した。むしろ、『ラール』を支持する実業家コレクターを代表するロスチャイルド家のメセナ活動の代理人をゴシェが務めた点から、問題をさらに深めていくことが期待される。結論では、風景画や色彩表現への時代の嗜好にも合致し、芸術と技術の中間的位置にあった複製エッチングこそが、新しい絵画流通システムの形成期において最適の媒体であったことを改めて確認している。

全般的に見ると、これまで日の当たらなかった19世紀フランスの複製エッチングを本格的な美術史研究の対象とし、絵画市場および価値付けのネットワークの成立とからめて重層的にその意義を論じた画期的な功績を評価する点で、審査員全員の判断は一致した。とりわけ、徹底した資料探索と文脈の再構築、ゴシェという重要人物の新たな発掘、異なるメディアにまたがるイメージ網をつきとめたその手腕、さらには高度な専門」性を帯びつつも明快で開かれた叙述の仕方が高く評価された。細部においては不用意な断定や適切でない表現、誤字等が散見するとの指摘もあったが、それらは瑕疵に過ぎず、本論文の学問的寄与を大きく損ねるものではないことが確認された。

以上の審査の後、審査員全員による協議の結果、全員一致で本審査委員会は、陳岡めぐみの提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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