学位論文要旨



No 120569
著者(漢字) 姜,相圭
著者(英字) Kang,SangGyu
著者(カナ) カン,サンギュ
標題(和) 朝鮮の儒教的政治地形と文明史的転換期の危機 : 転形期の君主高宗を中心に
標題(洋)
報告番号 120569
報告番号 甲20569
学位授与日 2005.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第584号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 助教授 木宮,正史
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 石井,明
 東京都立大学 教授 森山,茂徳
内容要旨 要旨を表示する

朝鮮は基本的に新儒学的な価値基準に基づいて独特に成立した政治構造を持っていたが、これを本稿では朝鮮の儒教的政治地形と名付け、それが歴史的にどのように形成され如何なる特性を持っていたのか考察してみた。そしてここで抽出した朝鮮政治の構造的特性が歴史的に作動する過程でどのように変容していくのかを王権の位相と君臣関係の流れ、時代精神の変化と共に、できるだけ政治史と思想史、対外関係史間の相互「契機的」な関係の変動の中で検討した。

王朝国家において政治的秩序の象徴であり求心軸としての国王の位相というのは、如何なる場合にも非常に神聖なものにならざるを得ない。王は自らの神聖さによって、逆説的に日常的な現実政治の空間と如何にしてでもある程度の距離を置くべきであった。究極的には現実政治から自由ではなかったが、王権が日常的な現実政治から相対的に自立性を確保できないと、些少な政治責任論の是非に引っ掛かって求心軸としての象徴性と神聖性の構築とがほとんど成り立たないからである。したがって、王朝国家における王権とは、政治構造の核心的要素でありながらも、実質的に権力を所持した度合いは政治的伝統や時代的与件などによって相違し、一方、中国の皇帝や西欧の絶対王政期の君主のように、実質的な権力と象徴的な権力が現実的に一致する傾向で現れたかと思うと、他方、武家政権下の日本のように実質権力と象徴的な権力が比較的明確に二元化された形で共存した場合もあったのである。

これに比べて朝鮮の政治的イデオローグらが提起した政治構想に込められていた普遍的権威は、民本主義に立脚した王道思想と天人合一説による天命思想、治乱史観という循環的時間観念、中華秩序という位階空間で現れる礼に基いた秩序観念等のような儒教的しい体系に内在した普遍的価値の根幹と緊密に絡み合ったものであって、それほど強靭なものだったし、国王の場合にもこのような権威から自由ではなかった。朝鮮における王権の空間は、かかる「理念」的な志向と様々な「制度」―議政府体制=聖賢政治、台諫制度=言路政治、史官制度=歴史の目、經筵制度=教育と疎通の政治、上疏制度=公論政治―などによって日常的に「牽制」されるようになって、臣下らと流動的でありながら緊張した「均衡」関係に置かれるようになる。即ち、朝鮮の君臣関係は根源的な緊張を孕んだまま「相互依存」的に結合していた、といえる。このように「相互依存的緊張関係」とも呼ぶべき朝鮮の君臣関係と「牽制と均衡」を主な特徴とする朝鮮の儒教的政治地形は、以降朝鮮の政治が歴史的に「局面転換」を経験しながら様々な不協和音を出していたにも拘らず、基本的には持続されていくことになる。

一方、十九世紀西洋の衝撃以後、東アジアで現れた一連の「巨大な転換」は、東アジアを構成するパラダイムが変動していく過程であった。文化的自尊意識と倫理的価値の具現に最上の優先順位を置いた思惟様式が軍事的・權力関係的・政治的問題へ一次的な関心を移していったし、主権国家という「新しい国家形式」と条約体制という「国家間の新しい交際方式」が国際秩序を構成する新しい時代的パラダイムとして浮上していた。東アジア秩序が徐々に動搖する兆しを現している時、朝鮮の政治空間は深刻な危機に逢着していた。当時の支配層は、直面した対内外的な危機状況を直視しようとしないまま「辺方小国」という変質したアイデンティティの下で、「過去の帝国」へ転落しつつある中国の保護のかさのなかに無賃乘車しようとする態度を示していた。これは牽制と均衡、妥協と調整を独特に導きつづけた朝鮮の政治空間が甚だしく硬直していく事を意味するものであった。

朝鮮の儒教的政治地形の上で正統性の限界を持ちながら幼くして王位に即位した高宗は聖王の修練過程と国内外の政治的状況に接しながら徐々に朝鮮の内と外に対する自分の思考を形成するようになる。即位後經筵に意慾的な態度で臨みながら、高宗は「爲民」政治を実践できるように導くのが君主たる自分に付与された政治的責任だという事実を切実に認識するようになった。一方、高宗は東アジア秩序の巨大な転換を経験する過程で国内外の様々な事件と各種の情報に接しながら、西洋諸国と西洋化した日本とが勢力を拡散させつつある事を強く意識するようになり、また中国が朝鮮にとっては依然として最も重要な国ではあるが、もはや現実的に世界の中心ではない事を認識するようになった。要するに、高宗は朝鮮の排外政策が時代的な大勢を無視したものであり、現實的に朝鮮が段々孤立する方向に状況が展開しているという危機意識と不滿を同時に持つようになったし、このような状況判断は対外政策の新たな方向転換と親政の必要性を強く感じさせる重要な切っ掛けとなったのである。

日本との条約締結を断行した後、高宗が既存の排外政策を本格的に突破できる論理と政治的な切っ掛けを発見できずにいた際、彼に政策転換の名分を提供してくれたのが『朝鮮策略』だった。高宗は、一方では『朝鮮策略』の議論を公論の場に引き出す事によって政策転換の不可避性を訴えながら、他方では文明基準の変化可能性を愼重かつ積極的に打診しつつ折衷的な方式で改革を推進していった。高宗は自分の政治的構想を実践する機構として統理衙門を設置して外交および通商、武備講究に関する政策を専担させる一方、密かに大規模の日本視察団を派遣し新しい国政運営方向を探索させてから、その後彼らを各々の專門部署に配置させるなど、積極的に開化・自強政策を推進しようとした。しかし政治的葛藤を最小化しつつ改革を推進しようとする高宗の政治的意図にも拘らず、朝野に澎湃としていた華夷論的名分論、強靭な王権牽制の傳統、大院君勢力の政治的影響力、清の政治的圧迫などによって開化・自強政策は絶えず政治的葛藤に繋がっていた。壬午軍乱が外来と固有の諸要素、新たなものと古いものをめぐる葛藤の中で伝統主義者が主導して起こした事件だったとすれば、甲申政変は当時朝鮮の狹小な政治空間で急進的な方式でより徹底的に改革を追求しようとした進歩主義者が起こした事件であった。この二つの事件は相反する方向を志向する勢力が主導した事件ではあったが、妥協と調整能力を示さなかったまま急激な形で起こったというその過程における特徴や、また東アジア秩序が変動しつつ朝鮮問題が先鋭な国際政治的論点として浮び上がっている中で発生する事によって主導勢力の主観的な意図とは異なり結果的に外勢の干渉をもたらしその干渉を質的に深化させたという点で、類似の側面を帶びていた。その後、甲申政変の余波で守旧的雰囲気が漂い続ける中、清の宗主権画策、王権に対する牽制がより強化した与件で高宗は外交を通じた自主・独立国の確認に恋々とせざるを得なかったし、こうした状況展開は周知のように、東学農民蜂起という下からの改革の要求と朝鮮をめぐる外勢間の戦争へ歸結するようになる。

高宗は日清戦争前後に現れた朝鮮の「内と外」の危機状況の中で、列強の間に成り立った勢力均衡の状況を利用しつつ、国内勢力の牽制と国際的な圧力によって彼の政治的構想と政策とが実現されにくい状況を克服しようとした。高宗は稱帝を推進し、国号を大韓帝国に変える事等によって既存の天下秩序という位階的な空間で現れた中国天子の権威を公開的に否認し、新たに樹立した大韓帝国が新しい国際秩序の行爲主体たる自主・独立国家である事を対内外的に明らかにした。高宗が大韓帝国の宣布を前後してから「旧本新參」の原理を強調するようになるが、これには、甲申政変や甲午改革等に現れた一部の開化勢力の急進的かつ外勢依存的な立場を批判しながら主体的な立場を強調すると同時に、伝統的な儒教的情緒を尊重しつつ新たな思想と制度を折衷して取り入れようとする意志が込められていたと言えるであろう。

朝鮮近代史を取り扱う殆んどの研究は、「富国強兵を成し遂げずに推し進められた高宗のいかなる外交的努力も失敗せざるを得ないこと」を共通して指摘する。しかしこうした分析は現象に対する説明とはいえるだろうが、高宗の政治的対応が「歴史のダイナミックな時代的コンテクストの中で、なぜ、そのような傾向へ進んだのか」という点を具体的に説明しようとしなかった。歴史的な軌跡に対する深い理解なしに、現象的に現れた結論だけを抽出することは、歴史の連続的な側面を見落とさせ、歴史を図式的で盲目的な次元の昔話あるい物語へ転落させる危険性を内包していると判断される。

文明史的転換期において東アジア秩序が近代国際秩序へ編入される過程で植民地に転落した朝鮮の王権は、東洋的專制君主制の表象として理解される傾向を示しているし、亡国の君主たる高宗は歴史の中で優柔不断な暗君の象徴として伝わり続けている。本研究は、朝鮮半島で近代史学の出発自体が王朝史観を克服する課題から始まった点などに注目して、逆に朝鮮の伝統的な政治秩序を表象する王権とその具体的な人物としての高宗を考察してみた。そして、朝鮮の君主制がいわゆる「東洋的專制君主制」とは大きく異なる事だけではなく、亡国の君主である高宗もやはり、たとえ近代的自主・独立国家を子孫に伝える事には失敗してしまったが、そのために具体的な努力を不断に傾けた事を確認する事ができた。

審査要旨 要旨を表示する

朝鮮は基本的には新儒教に基づいて成立した独特の政治構造を有していた。本論文はこうした構造を朝鮮の儒教的政治地形と名づけ、朝鮮における王権の位相と君臣関係の歴史的展開を視野においたうえで、いわゆる西欧の衝撃に対する君主高宗の対応を分析し、朝鮮における「伝統秩序内部での革新」の過程を再検討したものである。それはまた、君主高宗がいかなる危機意識と政治構想を持ち国内外の政治勢力と向き合ったのかを検討することで、朝鮮における中華思想の変容と万国公法に基づく国家平等観念がいかに齎されたのか、またそのことと高宗による大韓帝国の宣布と主権守護外交の展開はいかなる関連を持っていたのか、という一連の問題を考察する新たな試みともなっている。

「序章 近代知としての転換期東アジア像と朝鮮近代史理解」は、既存研究の検討と本論文の方法を論じている。1960年代以降輩出した民族主義史観や内在的発展史観が、ともすれば、<伝統vs.近代>、<支配階級vs.民衆勢力>、<守旧派vs.開化派>という単純な二項対立図式に陥る傾向があったことの問題性を指摘しつつ、著者はポール・コーエンの中国史学史に関する議論を援用し、東アジアにおける西欧の衝撃への対応が「伝統秩序内部での革新」という性向を有していることを確認する。また同時に、既存研究が在野の開化運動や反帝国主義運動に関心を集中させることで、ともすれば王室を含めた朝鮮政府の諸政策と政策決定過程の分析を欠いてきたことを指摘し、君主高宗の思想と行動に焦点をあてることの意義が説かれている。

「第一章朝鮮の儒教的地形と君臣関係:誕生と展開」は、14世紀末の朝鮮建国にまで遡ったうえで、朝鮮の儒教的政治地形が形成されていく経緯を、4つの時期区分を行いながら、各々の時期における特質を論じている。ここでは、儒教的思惟体系に内在した普遍的理念に王権がいかなる意味で制約を受けたか、またそれらが、議政府体制、台諌制度、史官制度、経筵制度、上疏制度などによりどのように制度化されたかを論じつつ、それぞれの局面で王権の政治的位相にどのような変化が現れたかを検討している。そして「相互依存的緊張関係」とも呼ぶべき君臣関係と「牽制と均衡」を主たる特徴とする朝鮮の儒教的政治地形がさまざまな不協和音を奏でながらも、持続していったことが指摘される。

「第二章 東アジア秩序の動揺と各国の危機意識と相違」では、19世紀の西欧の衝撃にさらされた清・日本・朝鮮の対応の相違が検討される。著者はまず、中華秩序と近代国際秩序の交錯を清と日本の万国公法受容に則して比較検討し、中華秩序の変容と「朝鮮問題」が台頭する政治的・思想的背景を描き出す。そのうえで、著者は再度朝鮮に目を転じ、著者のいう19世紀以降の第4期における朝鮮政治の特徴を概観し、高宗の王位継承以後「事実上の摂政」まで上ったとされる大院君の政治指導を論じ、大院君が内部的に強力な改革政策を推進しながらも、対外危機に際しては、「排外・斥和論」に基づいた危機管理を断行するに至った経緯を分析している。著者はここで、大院君がフランス宣教師と接触しようと意図していた事例をとりあげながら、西教に慣れていた大院君が排外政策に急旋回した理由を、単なる頑迷な鎖国主義にではなく、寧ろ大院君の徹底的な政治的現実主義に求めている。

「第三章 転形期君主の政治意識と新しい秩序をめぐる模索と葛藤」では、君主高宗の政治意識と対外観が形成されていく過程が、王位継承後に経筵の場で行われた帝王学学習と高宗が有していた対外的情報源の双方から検証される。これを受けて、さらに著者は、対内的には高宗が、政治的求心力確保のために統理衙門など新たな政治機構を設置していくとともに、対外的には、清との関係を万国公法秩序によって再整備し、朝鮮に好意的と見なされていたアメリカとの条約締結を契機に、朝鮮が万国公法秩序に参与し、「均整」の原理の下に朝鮮の「自主権」が保障される構想を高宗が抱いていたことを論じている。そのうえで、このような構想の実現を制約した内外の要因に、著者は照明をあてている

「第四章大韓帝国の宣布と転形期君主の政治的選択」では、国家存亡の危機に直面した高宗が、大韓帝国を宣布し皇帝に就任し、いわゆる光武改革を推進する思想的背景を扱っている。著者は、この時期高宗が唱えた「旧本新参」論を、従来の「東道西器」論と比較検討し、「朝鮮の伝統を踏まえた主体的な視角」と改革・進歩の結合の必要性を高宗が痛感していたことを指摘する。そのうえで著者は、このような伝統的権威の保持者としての王権と万国公法的標準に基づく君主国家の樹立という構想が、大韓帝国の宣布と大韓国国制の制定においてどのように具現化されたかを明らかにする。そして日露戦争前後における高宗の主権守護外交の展開を中心に、高宗の施政の最終局面を扱っている。

「終章 パラダイムの転換と転形期君主の高宗」では、本論のこれまでの叙述を踏まえたうえで、改めて、従来の「守旧勢力」対「改革勢力」という単純な二項対立図式に基づく歴史叙述の問題性が指摘され、「朝鮮自身に即して」朝鮮政治史を理解することの重要性と、高宗研究の意義が再説されている。

以上が提出論文の要旨であるが、本論文は次のような点で評価することができる。第一に、本論文は、君主高宗に関する既存研究のうち最も本格的な研究である。高宗に関する研究は、例えば大院君のそれと比べて朝鮮政治史の空白領域をなしており、1990年代に入りようやく研究が本格的に開始された状況にすぎない。このような研究史から見たとき、広範な史料蒐集に基づき高宗の思想と行動を一貫した問題意識から体系的に分析した本研究は、ともすれば個々の断片的事件史の文脈で高宗に触れるにとどまっていた従来の研究水準を大きく引き上げるものであると評価することができる。

第二に、こうした高宗の再評価が、単なる高宗個人の再評価ではなく、東アジアにおける万国公法受容や朝鮮における王権の性格といった巨視的文脈に位置づけられている点は、本論文の視野の広さを示している。従って、本論文は朝鮮政治史の文脈のみならず、いわゆる西欧の衝撃をめぐる東アジア国際関係史のさまざまな基本問題を、高宗の事例を通して再検討する手がかりをも提示している。論文題目が「文明史的転換期」と掲げる所以は、そこにあるといえよう。

第三に、従来ともすれば、<守旧派vs.開化派>といった単純な二元論的構図で捉えがちであった政治勢力の配置構図を、伝統と近代が複雑に絡み合う同時代の思惟構造から整理しなおす視座を提示した点があげられる。高宗をとりまく諸政治勢力の位置づけについても、本論文は随所に新しい解釈を提示している。政治過程のダイナミズムを、その背景にある政治理念の位相を踏まえて論ずる著者の姿勢は、積極的に評価できる。

しかしながら、本論文にもいくつかの弱点が無いわけではない。第一に、朝鮮における君臣関係を4期に分けて巨視的に分析した第一章は、序論としては意欲的な試みではあるが、第二章以下の本論との論理連関がやや不分明な印象が残る感は否めない。これは、本論の中心をなす対象が高宗の万国公法受容にあり、高宗の国制像の検討が副次的位置におかれている本論文の構成と無関係ではないであろう。第一章で論じた朝鮮における君臣関係の位相を本論部分により有機的に組み込むには、高宗の国制像の特質やその時期的推移に関するより分析的な検討が必要であるように思われる。

第二に、従来の<守旧派vs.開化派>といった単純な二元論的構図に基づく朝鮮政治史理解に対して本論文は新たな解釈を提示するものであるが、高宗とそれをとりまく諸勢力との関係については、本論文の分析範囲にとどまらない、より微視的な考察が可能であろう。こうした考察のなかに、先に触れたような高宗の国制像や立憲制理解を書き込んでいけば、著者の立論はより陰影の富んだものになりえたであろう。

しかしながら、これらの点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。総じて、本論文は、従来研究史上の空白をなしていた君主高宗の思想と行動を体系的に解明した研究として、学界に対して多大な貢献をしたものと認めることができる。以上の点から、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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