学位論文要旨



No 120573
著者(漢字) 張,文薫
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ブンクン
標題(和) 植民地プロレタリア青年の文芸再生 : 張文環を中心とした『フォルモサ』世代の台湾文学
標題(洋)
報告番号 120573
報告番号 甲20573
学位授与日 2005.05.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第481号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 助教授 安藤,宏
 日本大学 教授 山口,守
 横浜国立大学 教授 垂水,千惠
 成蹊高校 教諭 河原,功
内容要旨 要旨を表示する

台湾の歴史には、1895年から1945年までの50年間にわたった「日本統治期」がある。日本植民地統治下に置かれながらも台湾はおいて、様々な面で前近代的遺風をから様々な面で脱却し、近代化の道を確実に歩んでいった。その流れの中で登場し、台湾社会の封建性の打破を目指した新知識人は、近代的教育によって身に付けた思考と行動様式を文芸界において具現化し、従来文芸界の中心であったを占めてきた漢詩とは性質のが相異なる「台湾新文学」を中国白話文運動の影響、また台湾話文運動の提唱を経て創成させた創成させた。創成させた1933年に登場した張文環(1909〜1978)もその一人であった。1933年から終戦までの10数年間で、張文環は一介無名の一介の日本留学青年から文壇の主力作家へと成長しする中で、台湾文芸界に大きな足跡を残したている。張文環は1933年には東京で他の留日台湾知識人とともに「台湾芸術研究会」を組織し、台湾最初の日本語文芸雑誌『フオルモサ』を創刊、1935年には『中央公論』の小説懸賞に入選、帰台後の1941年からは雑誌『台湾文学』を発行する一方、精力的な創作活動を続け、戦時下の台湾文壇に絶大な影響力を発揮していたのである。台湾文学史を語る上でに絶対に欠くことのできない張文環だが、その作品は長い間もっぱら「風俗小説」とのであるという評価を受けてきた。「台湾の伝統風俗」への描写によるを通し、日本植民支配に対してに対する抗議することすることが、張文環文学の特徴とみなされているのである。「風俗小説」という風に評されるのは戦前の同時代作家と評論に由来するが、その内実が十分によく検討されていないまま、現在でも通説化してに至っても沿用されている。

もともと「風俗小説」とは、日本文壇において『人民文庫』派の作家を評する時によく使われた言葉である。日本プロレタリア文化運動は外的な弾圧及び内的な政治主義傾向のために崩壊する直前から、後に『人民文庫』の主宰者となった武田麟太郎は「プロレタリア作家同盟」(ナルプ)指導部の政治至上主義的な指導方針に不満と疑問を抱き、規定された文学における「政治の優位性」とは異なる文学活動を志向し、文学創作におけるおいて自らの道を開拓している。その作品はプロレタリア文学再生の一つの方向として肯定される一方、「思想性」が極度に排除されたためか、「批判性」を喪失し、代わりに「風俗への愛の強調」を前面に打ち出した「風俗小説」であるとして、批判されたのであるのである。

このような「風俗小説」作家として評された張文環だが、実はその背後には植民地知識青年と日本プロレタリア文化運動との密接な関連性が隠れていた。本稿は、張文環が「風俗小説」作家と評されるに至いたるまでの張文環と日本のプロレタリア文学運動との関わりを明らかにし、それによって、常に民族解放問題に直面せを抱えざるを得ええない植民地作家が、宗主国経由での前衛思潮受容を通して、いかに自らの文学を成立させたか、そして結果的に宗主国と異なる文化をいかに創造発展させていったかを浮き彫りにしようとする試みである。そしてそして、張文環が代表した日本語世代の台湾人作家の多くが、日本でその文学活動の道を歩み始め、「日本語」を知識吸収かつ創作する工具としている。植民宗主国の言語を操ることは、日本語世代の作家たちに前の世代と異なる文芸価値観を持ち合わせる結果をもたらして、台湾新文学の性格を大きく影響している。そのために、同時に、張文環彼の履歴を文学活動と作品を軸にさらに分析することでによって、台湾新文学における「文芸」観の変化、及びその過程に照らされた民族と近代の葛藤について検討することも、本稿の目標となるも検討を析出したいとも考える。

まずは、張文環文学の出発点である「台湾芸術研究会」及びその機関誌『フオルモサ』の成立についてを、同時代の日本プロレタリア文化運動と及びまだ未だ発展途上にあったしつつある台湾新文学運動、という二つの運動の流れの中でに捉え、その性格を把握する。在東京台湾人団体である「台湾芸術研究会」は日本プロレタリア文化運動との繋がりを持ちながらも、一方で民族社会運動をも指導するという台湾エリート団体特有のに特徴的な性格をも備えていた。「台湾芸術研究会」の前身である「東京台湾文化サークル」とは、1929年の「四・一六」後に壊滅状態に陥った民族社会運動の指導組織「台湾青年会」の残党と、プロレタリア文芸に志す新世代の留日台湾青年との結晶であった。「台湾青年会」の血統を継承したことは、「東京台湾文化サークル」という点は「東京台湾文化サークル」、ならびにひいては「台湾芸術研究会」の性格に大きく影響している。『フオルモサ』の内容には、島内の文芸状況を無視し、「吾々」の手で台湾に文芸を「吾々」の手からを創造するという自負が見られるがぶりは、それは「台湾青年会」の系譜に位置する社会運動の指導者とのを自認に由来するのでするところから発した部分があっての故といえよう。しかし同時期の台湾島内は、必ずしもこれら若き青年が描くようないた、文化文芸の芽生えすらない場所ではない。1920年代後期、「民族」とともに「文芸」は新知識人の視野に入ってきた。1930年代になると、文化啓蒙のための手段、それでも世界プロレタリア文学と繋がる利器なのか、「文芸」の「効用」と定義をめぐって、文芸界関係者の意見に分岐が生じ、「文芸大衆化」問題及び「郷土文学論争」という二つ大きな議題を引き起こした。実際ともに社会主義の影響を受けた異なる観点を持つ論者たちは、議論が交わされているものの、「文芸」創作面における成果は貧弱である。そして「大衆」に対する認識も一致できないために、議論は常に異なる次元で交わされ合意を得ないままにいた。このような島内文芸界に、島内から一歩一定の距離を置く設け東京に位置しながらも、台湾民族運動民族社会運動と日本プロレタリア文化運動という二重の権威を持つ「台湾芸術研究会」の『フオルモサ』が勢いよく登場した。プロレタリア運動を越えたの一皮が剥けたら「文芸」の多様なる可能性など、『フオルモサ』は日本文壇との同時性によりを持つことが台湾新文学関係者に対してして前衛性のを保証を提供するするのい。さらに「国語」=日本語を介して、日本ないし世界文壇との接点を持ち、そのまま日本語で直接創作する能力をが具えるていたことがは、用語論に多くの全ての精力を費やしながら尚、成果をあげることのできなかったしても実際結果を実らせない島内文芸界に対して大きな刺激を与えたなしたであろう。まして1937年の新聞漢文欄廃止という時勢もに相まって、台湾人の日本語文学は『フオルモサ』を通じてにより台湾文壇の主導権を握るようになっているく。

張文環は、呉坤煌とともに「東京台湾文化サークル」時期以来『フオルモサ』の主力メンバーであり、「日本プロレタリア文化連盟」(「コップ」)の指導下に活動した歴を持ち、日本プロレタリア文化運動から大きな影響を受けた。『フオルモサ』停刊後張文環が発表した小説「父の要求」(1935)には、主人公が東京においての左翼運動参加を理由にのために逮捕、釈放される過程に対するた経歴に関する詳細な描写がみられ、「父の要求」を「転向文学」として把握認識する可能性を生み出している。その両者を対比し異同を明らかにすることによりにより、植民地知識青年がプロレタリア運動に従事するした際に直面する伝統との断絶した問題が明らかになる予定である。また「父の要求」は、植民地青年のが抱く近代文明への憧憬が明確に表現しるされた作品でもある。第一章で提起した「民族社会運動に内包される文芸」への意識変化という視点をそのままに受け継ぎ、さらにその上で張文環において「恋愛」によって具現化した張文環の「近代」憧憬の様相を分析することでによって、近代文明/伝統文化の構図が張文環の中でに形成されていく過程が浮き彫られる。そして近代文明への憧憬、挫折から伝統回帰への過程という張文環文学の主題はの視野のもとに、「山茶花」・「地方生活」・「土の匂ひ」など立身出世を求める青年が主人公であるの「山茶花」・「地方生活」・「土の匂ひ」などの彼の諸作品を系統的に究明することにより、張文環は同世代の新知識人が直面する現代/伝統及び都会/故郷の矛盾に対する思考の成果をまとめたとなる。

最後、戦前の論者に「風俗小説」として認識されてきたして戦前の論者に指おられた「芸妲の家」など諸を中心とする作品を取り上げ、「思想性」とは程遠い所ところにあった張文環の執筆意図を明らかにする。なかでも「芸妲の家」は当時台湾の社会問題となっていた「〓婦仔」という旧習の改善と関係して関わっており、その執筆目的が社会改革にあったを目的に執筆した作品であることを検討により明らかにすることにより、「風俗小説」という枠では収めきれぬ張文環文学の特徴を浮かび上がらせるすることが目標となる。しかし一方、日本『人民文庫』派作家武田麟太郎、高見順、平林彪吾との交遊関係が証明される張文環であるが、「芸妲の家」を含め多くの作品に『人民文庫』派文学の特徴である「饒舌」な説話スタイルが見られる。張文環が兄のように慕っていた平林彪吾はが、創作に悩んでいるた張文環に「話したまま」に書けとのいう助言を与えたが、小説のが進行途中でのしている中に作者の登場と語りは、まさに読者に話しかけるままのような創作手法にみえる。そして平林彪吾と同様に『人民文庫』派の主力作家であった高見順の代表作「故旧忘れ得べき」はまさに、「筆者」が至いたる所に登場し語り続ける「饒舌体」と称される作品である。プロレタリア文学崩壊後、自らの創作方針を模索していたする張文環はが、『フオルモサ』を拠点に「左翼くずれ」の高見順、平林彪吾から「説話体」スタイルの作風というを影響を受けたされたのではないだかろうか。

また、この以上のように、「風俗小説」と見なされてきた張文環の小説の一部は再評価の可能性を秘めてはいるものの、一方でたしかにこれらの作品には「風俗小説」と批判されてしかるべき欠陥が確かに明らかに存在するしていることも確かに否定できない。しかしいずれにしても実際のところ、このような張文環文学に対するして綿密な検討も・批判のないままに「風俗小説」というを肯定的な(大野注:なぜ「肯定的」?)評価をとして現在もなお肯定的に使用尚まで引き継いでしているのが、多くの台湾文学研究者の現状であるというのが実際のところではないだろうか。本稿は「風俗小説」を切り口に、プロレタリア文化運動への関与をその文学的出発点とするした植民地作家、張文環の活動を日本・台湾が交差する文脈に還元し、て同時代における位置づけを試みるものであるが、それはまた台湾新文学史の諸問題を再考するための照らし出し、解決へと導く端緒捷径ともなるであろうるものなのである。

審査要旨 要旨を表示する

19世紀末の台湾においては、先住民はそれぞれの部族語を話し、明清二王朝の時代に大陸から移民してきた漢族は大別して〓南語と客家(はっか)語を話しており、しかも〓南語も客家語もさらに下位の方言に枝分かれしていた。19世紀末の台湾人の識字率は10パーセント程度と推定され、口語文はいまだ存在せず、古典中国語が読み書きされていた。その言語状況は「国語」制定以前の明治初期の日本、あるいは標準語制定以前の18世紀から19世紀半ばのヨーロッパ諸国とそれほど異ならぬ状況であったことが推測できよう。ただし大きく異なるのは台湾の俗語がその後「国語」化されなかった点である。

台湾に近代国家の国語制度を持ち込んだのは、1895年から51年間にわたり植民地統治を行った日本である。初期には抵抗もあったものの、1943年末には日本語理解者は島民の60%近くに達した。全島規模の言語的同化を通じて台湾島民の日本人化が進行したが、それと同時に全島共通の「国語」は諸方言と血縁・地縁で構成されていた各種の小型共同体意識を越えた、台湾大の共同体意識を形成しており、それは台湾ナショナリズムの萌芽であったといえよう。

1930年代に入ると日本語読書市場が形成され、台湾人による日本語文学も本格化して、台湾における中国の北京語文学あるいは台湾語文学普及運動を圧倒し、日本語作家の作品が続々と内地の総合誌、文芸誌の誌面を飾って高い評価を受け、台湾島内でも文芸誌が盛んに刊行され始めている。張文環(チャン・ウェンホワン、ちょうぶんかん、1909〜78)はこのような台湾日本語文学を代表する作家であった。

本論文はこの張文環をめぐり進学留学による立身出世の願望と東京での左翼運動への参加と転向、帰台後の伝統台湾への回帰など彼の成長過程とその時代背景とを綿密に調査分析し、全5章により日本統治下台湾における張文環文学形成過程の解明を試みたものである。

第一章では東京留学生の張文環が中心的役割を果たした同人文芸誌『フォルモサ』が台湾民族運動と日本プロレタリア文化運動とを背景とし、日本および世界の文壇との同時性を有することにより台湾文芸界での権威性を獲得し、その日本語による高い創作力も相まって日本語文学の台湾文壇における主導的地位を確立した点を論じている。

第二章では張文環の実質的デビュー作であり「転向文学」でもある短篇「父の要求」(1935)を中野重治「村の家」と対比することにより、台湾知識青年が直面した左翼運動と伝統台湾との断絶問題を解明し、さらに作中で下宿の大家令嬢が弾くピアノなどを手が掛かりに、植民地青年が抱く東京の欧化文明への憧憬を分析している。

第三章では1938年に帰台した張文環が当時台湾における北京語大衆小説で最大のベストセラーであった阿Q之弟(徐坤泉)著『可愛的仇人』を日本語に翻案した際に行った改編の分析を通じて、張による社会的自立を目指す新女性像の提示や朝鮮人との連帯の提唱を指摘し、台湾文壇の日本語化の趨勢を考察している。

第四章では長篇小説「山茶花」(1940)から「雲の中」(1944)に至る農村を舞台にした作品群を分析し、帰台後の張文環が台湾農村の伝統的価値観へと回帰していく過程を分析した。

第五章ではプロレタリア文学崩壊後の日本に出現した武田麟太郎、高見順、平林彪吾ら『人民文庫』派作家との交遊関係を手がかりに、張文環が同派の「饒舌」な説話スタイルを受容した点を考察した上で、従来「風俗小説」と曖昧に評価されてきた短篇「芸妲の家」を分析して、売春目的のための養女制度を批判する社会改革に張の執筆目的があった点を論証している。

本論文の主な成果は次の通りである。(1)日本統治期台湾において日本語文学が北京語・台湾語文学に対し優位性を確立していく30年代政治・文化状況を張文環の文学活動を中心に解明した。(2)張文環が学歴エリートを志向して東京に留学するものの左翼運動に参加して転向し、伝統的台湾農村へと回帰していくいっぽう、なおも社会的弱者への関心を失うことなく、社会改革を企図し続けた点を、その創作活動と時代背景に周到な目配りをしつつ論証して新しい張文環像を提示した。

本論文には「転向文学」としての島木健作との影響関係、「伝統価値」の分析、朝鮮人作家との交流など、さらに考察すべき課題が幾つか残されている。しかしこれまでの張文環研究がややもすれば「風俗小説」家という些か単純で曖昧な評価に終始していたのに対し、植民地台湾における日本語文学制度の確立とこれに対する張文環の受容と抵抗を立体的に解明した点を中心に顕著な成果をあげており、本審査委員会はその内容が博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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