学位論文要旨



No 120592
著者(漢字) 楊,志強
著者(英字) Yang,zhi qiang
著者(カナ) ヨウ,シキョウ
標題(和) 「苗」から「苗族(ミャオ族)」へ : 近代民族集団の形成及び民族的アイデンティティ再構築の過程について
標題(洋)
報告番号 120592
報告番号 甲20592
学位授与日 2005.06.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第589号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 和田,智明
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 法政大学 教授 曽,士才
内容要旨 要旨を表示する

主旨

本論文は「多民族国家」中国の南部に分布するミャオ族(苗族)を題材として、近代民族集団(エスニック・グループ)が如何なる歴史的プロセスを経て形成されて来たものであるのか、また80年代以降の所謂「伝統の創出」、即ち民族知識人によって作為的に作り上げられた「伝統」の中身とその一連のプロセスに眼差しを向けつつ、仕組まれた「民族的なアイデンティティ」の性格ついて検討を加えたものである。

本論文で取り上げられた「苗」は、もともとは漢民族による中国南方の非漢民族系への汎称であった。今日の我々が理解しているような「民族」としてよりも、むしろ中華帝国の伝統的な「華夷之弁」という文化・政治の二元構造、即ち文明(「華」)と野蛮(「夷」)との対照として位置づけた方が、より適切に認識できるであろう。しかしながら、中国が近代国家へと胎動し始めた20世紀初頭になると、漢民族の民族主義の高揚と共に、「苗」も近代民族集団として「苗族」に想像され、そのイメージも「悠久なる民族」へと新たに塗り替えられるに至った。

民族集団に関する先行研究の中には、「他者認識」(彼らは何者であるのか)であるとか、「自己認識」(我々は何者であるのか)というものに着目し、「民族集団」を決定付ける際の重要な指標として扱ってきたものが少なくない。このような「他者」と「自己」の相互関係の中で、外部からの認識(「他定」)と内部のアイデンティティ(「同定」)が、同時に発生し得なかったケースが往々として存在してきた点については、十分に留意しなければならない。周知のように、漢民族は何千年にも及ぶ中国の歴史を通じて、他の民族との関係に於いて絶対的な優位性を一貫して有し続けてきた。それ故、近代以降の「民族」に関する言説は、漢民族文化の言説に基づいて展開せざるを得ず、「異民族」として見られてきた各非漢民族の実際の認識が、充分に反映されていたとは考えにくい。また絶大な勢力を持つ漢民族及び王朝政権は、政治的、経済的、文化的主導権を掌握する一方で、周辺の弱小族群に対して絶え間ない圧迫と影響を加えてきた。さらに、かれらから設けられた「他者との境界」によって形成された異族に対する一方的なイメージも、同化などの方法を通して弱小な族群の中に半ば強制的に移植されていったのである。この種の「民族」の形成は、基本的には「他者」と「自己」の相互関係からもたらされたものではあっても、同じ文化から生まれ出た「同属意識」に根ざしたものではなかった。これが本文で取り上げた民族集団形成中の「他者性」という問題である。

80年代以降に実施された改革開放政策と民族政策によって、中国の各地に於ける少数民族の「民族意識」の「覚醒」現象は、愈々際立つようになった。本論文は、近代民族集団としての「ミャオ族(苗族)」が、どのように「他者」によって形成されたのかという問題意識を持って、その源流解明への思索を試みた。その一方で、80年代以降のミャオ族社会の知識人による活動に着目し、「貴州苗学会」の活動とそのプロセスを追跡しながら民族的アイデンティティの再構築に関わる諸問題について検討しようとしたものである。

もしも通時的な視点を持ちえず、その歴史性を充分に理解していない状態のままで、80年代以降から今日にかけてみられるようなミャオ族社会の民族的アイデンティティの高揚を観察したとしても、現状と時代性、その背景を結びつけて読み解くことが極めて困難であるともいえよう。というのも、「他者」の眼差しから見た場合、「ミャオ族(苗族)」は「極めて悠久な歴史を有する民族」として知れわたっている一方で、その内部は文化的にみて千差万別であるばかりではなく、「われわれの意識」としての民族的アイデンティティも過去にわずか一部分のミャオ族知識人にしか存在していなかったからである。新中国成立以降、「民族識別」を通じて、「民族」を基本単位として政治に参画する「多民族国家」体制が確立されたが、ミャオ族の内部ではゆっくりと「アイデンティティ」の形成が始まったに過ぎなかった。こうした連続的な外部社会の環境変化及び80年代以降の民族政策の復活と改革開放政策の実施にともない、漸く民族のアイデンティティを作り上げる時期が到来したといえる。

上述諸点を踏まえ、本論文は前後両編に分けて論を展開する。前編では、主に漢文によって記された歴史史料の解読を通じて、王朝時代、中華民国期、中華人民共和国初期の各々大きく異なる時期に於ける「苗(ミャオ)」族の諸相について分析を加えた。後編は80年代以降のミャオ族知識人による民族的アイデンティティ再構築の過程を中心として、四章にわけて展開したものである。その歴史的な経緯から、筆者はこの時期を「他者形成」から「自己形成」への変換期として位置づけるに至った。

構成

前編:「他者」の眼差しからの「苗」

第一章:歴史叙述中におけるミャオ族の形象――王朝時代の「苗(ミャオ)」

第二章:「苗」から「苗族」へ──近代民族主義の中の「苗族」

前編は、もともと漢民族による南方非漢民族系族群に対する汎称であった「苗」が、「他者」によってどのように「苗族」という近代民族集団に変貌したのかについて、その歴史的な背景及び変化のプロセスから明らかにしたものである。

第一章は、王朝時代に於ける「苗」が、漢文化側・王朝文化、・政治体制の中で、そもそもどのような意味合いを持っており、またそれが如何様に変化して行ったのかについて、王朝時代、特に明・清時期にみられる支配政策の変化の様子、並びに漢族移民の「苗」地区への移住などによってもたらされた激しい社会変動の有様を辿ることで問題解明への糸口を探ったものである。

第二章は、清末から始まった近代国家への移行期に、漢民族によって発せられた民族主義の言説によって、「苗」がどのように「中国での最初の民族」として想像されたのかについて、清末の漢民族知識人、とりわけ日本留学中の漢民族知識人の論説を通じて解明した。また、この時期、日本人学者鳥居龍蔵から始まった「苗族」に関する「広義の苗族」と「狭義の苗族」という区分がどのような根拠に基づいたものであったのか、或いは民国期に近代教育を受けた数少ない「苗夷」出身の知識人たちに見られる「民族的アイデンティティ」はどのような内実を持っていたのか、そして、「民族識別」以前の中華人民共和国成立初期の段階で、なぜミャオ族(苗族)は公認の少数民族として認められたのか、などの問題解明に努めた。

後編:ミャオ族知識人の民族的アイデンティティ再編の過程

第三章:「苗女」論争とその背景――80年代のミャオ族社会

第四章:「苗学会」と「苗学」

第五章:伝統が創り出した新機軸の展開

第六章:国家の統合とミャオ族社会

後編は、80年以降の改革開放政策の実施及び民族政策の回復に伴って生じたミャオ族社会の知識人集団に見られる民族的アイデンティティの再構築を巡る一連の動き及びその過程について、四章に分けて論じたものである。本編では、文献資料と、文化人類学のフィールドワークを通じて得た多くの「観察」資料を利用することとなった。

第三章は、80年代初期に貴州省で起こった木像「苗女」を巡る論争を取り上げて、ミャオ族社会の知識人たちの「民族意識」の激動の様子について論じたものである。また、この時期のミャオ族社会の状況、ミャオ族エリート階層の構成及び彼らの「民族意識」の「覚醒」に潜む社会背景などの問題についても言及した。

第四章は、主として80年代末期に成立した「貴州苗学会」及び其の活動を中心に、ミャオ族知識人たちによって展開された「苗学」の内容及び其の性格を明らかにするものであった。

第五章は、「苗族」としての民族的アイデンティティの強化を図るために、知識人が如何にして、新たな「民族伝統」を想像し、捏造し、また作り上げたのか、等に関する一連の過程及びその内容を明らかしようと試みたものであった。この新たな「伝統」には、主に統一的な民族の祭典、統一的な民族始祖などのシンボルが含まれている。その中で最も注目すべきは、90年代中期から現在にかけて続けられてきたミャオ族の共同祖先の再確認――「蚩尤の名誉回復」を巡る一連の動向である。

第六章は二つの部分に分けて展開したものである。まずは、80年代以降の世界各地のミャオ族と中国ミャオ族との「国境」を越える連携活動について論じた。次に、90年年代以降の「愛国主義教育運動」の中、漢民族社会で巻き起こった「炎黄ブーム」とミャオ族社会で引き起こされた「蚩尤ブーム」との対立関係について論述した。その後、近代以来に形成された「中華民族」と「炎黄の子孫」という国家統合を巡る二つの言説を整理し、両者の相互関係について筆者の見解を示した。

審査要旨 要旨を表示する

楊志強氏の提出した「「苗」から「苗族(ミャオ族)」へ──近代民族集団の形成及び民族的アイデンティティ再構築の過程について──」と題する学位請求論文は、「多民族国家」中国の南部に居住するミャオ族(苗族)について、その民族集団がどのような歴史的プロセスを経て形成されて来たのかという課題を設定し、とくに、1980年代以降の所謂「伝統の創出」のプロセスを詳細に検討して、作為された「民族的なアイデンティティ」の問題を論じた刺激的な論考である。

本論文が対象とする「苗」とは、もともとは中国南方の非漢民族系住民に漢民族があたえた汎称であった。その概念は、近代的な「民族」としてではなく、むしろ中華帝国の伝統的な「華夷之弁」にもとづく概念として認識されるのが適切である。しかし、中国が近代国家への変容を開始した20世紀初頭になると、漢民族の民族主義が高揚しただけでなく、「苗」も近代的な民族集団としての「苗族」としてイメージされるようになった。しかし、中国においては長い歴史を通じて、漢民族が他の民族に対して絶対的な優位性を一貫して有し続けてきており、近代以降の「民族」に関する言説についても、漢民族文化の言説に基づいて展開されざるを得ず、そのため周辺の少数民族は漢民族によって設けられた「他者との境界」に由来する一方的なイメージを抜きにして、民族形成を進めることができなかった。本論文はこの点に焦点をあてて、苗族の「民族」形成に見られる「他者性」の問題を指摘し、その具体的な内容を検討する。

こうした歴史的分析に引き続いて、本論文は1980年代以降の「改革・開放」政策と新たな民族政策によって引き起こされた、苗族の「民族意識」の「覚醒」現象を取り上げ、民族的アイデンティティの再構築に関わる諸問題について検討を加えた。本論文の後半を占めるこの部分は、本論文のもっとも注目すべき貢献と思われる。本論文によれば、漢族の歴史に由来する「他者」の眼から見た場合、「苗族」は「極めて悠久な歴史を有する民族」として認識される一方で、苗族の内部は文化的にみて千差万別であり、「われわれの意識」としての民族的アイデンティティも過去にはごく一部分の苗族知識人にしか存在していなかったが、人民共和国建国後に「民族」を基本単位として政治に参画する「多民族国家」体制が確立されると、苗族の内部でも徐々に「アイデンティティ」の形成が始まり、「文革」の一時期にはおおきく後退したものの、1980年代に至って、民族のアイデンティティを新たに作りあげる時期が到来した、という。

上述の諸点を踏まえ、本論文は前後両編に分けて行論を展開している。前編では、主に漢文によって記された歴史史料の解読を通じて、王朝時代、中華民国期、中華人民共和国初期の各々大きく異なる時期における苗族の諸相について分析を加えた。後編は1980年代以降の苗族知識人による民族的アイデンティティ再構築の過程を詳細に再構成しており、その歴史的な経緯から、本論文はこの時期を民族的アイデンティティの「他者形成」から「自己形成」への変換期として位置づける。

前編は、もともと漢民族による南方非漢民族系族群に対する汎称であった「苗」が、「他者」によってどのように「苗族」という近代民族集団に変貌したのかについて、その歴史的な背景及び変化のプロセスからの解明を試みる。第一章は、王朝時代に於ける「苗」が、漢文化側・王朝文化、・政治体制の中で、そもそもどのような意味合いを持っており、またそれがどのように変化して行ったのかについて論じている。第二章は、清末に始まる近代国家への移行期に、漢民族によって発せられた民族主義の言説によって、「苗」がどのように「中国での最初の民族」として想像されたのかについて、清末の漢民族知識人、とりわけ日本に留学した漢民族知識人の論説によって検討した。また、この時期、日本の学者鳥居龍蔵から始まる「苗族」に関する「広義の苗族」と「狭義の苗族」という区分がどのような根拠に基づいたものであったのか、民国期に近代教育を受けた少数の「苗夷」出身の知識人たちに見られる「民族的アイデンティティ」はどのような内実を持っていたのか、人民共和国建国後の民族識別においてなぜ苗族が公認の少数民族に数えられたか、などの問題の解明を試みた。

後編は、1980年以降の「改革・開放」政策の実施及び民族政策の回復にともなって生じた苗族社会に見られる民族的アイデンティティの再構築をめぐる一連の過程について、四章に分けて論じている。第三章は、80年代初期に木像「苗女」を巡って苗族社会に起こった論争を取り上げ、苗族知識人たちの「民族意識」の激動の状況を論じた。第四章は、主として80年代末期に成立した「貴州苗学会」およびその活動を中心に、苗族知識人たちによって展開された「苗学」の内容およびその性格を明らかにしようとした。第五章は、「苗族」としての民族的アイデンティティの強化を図るために、知識人が如何にして、新たな「民族伝統」を想像し、作り上げたのか、などの問題に関連する具体的な過程やその内容を明らかしようとした。この新たな「伝統」の中で最も注目すべきは、1990年代中期から現在にかけて続けられている苗族の共同祖先の再確認──「蚩尤の名誉回復」を巡る一連の動向である。第六章は、80年代以降の世界各地の苗族と中国苗族との「国境」を越える連携活動について論じ、ついで、90年代以降の中国における「愛国主義教育運動」の中で、漢民族社会で巻き起こった「炎黄ブーム」と苗族社会で発生した「蚩尤ブーム」との対立関係について論述した。そして、近代以来に形成された「中華民族」と「炎黄の子孫」という国家統合を巡る二つの言説を整理し、両者の相互関係を分析している。

以上、本論文は、歴史的な漢文史料を大量に利用するとともに、筆者自身がそれに属する現在の苗族知識人社会から発信されている膨大な情報を利用して、独創的な研究成果を達成している。民族形成過程に「他者性」の視点を導入して説得的な議論を展開したこと、近年のアイデンティティ再構築過程を論じて、現代中国の民族問題を考察する際の重要な視点を提供したこと、などは、とくに指摘すべき貢献であろう。

審査においては、苗族の事例が他の少数民族の事例とどのように関連するのか、1960年代から70年代の民族社会の状況について、十分に分析していないのではないかなどの点が指摘された。しかしながら、審査委員会は、こうした弱点は本論文の従来の研究史に対する画期的な貢献を否定するものではなく、本論文は博士論文として必要な水準を十分に達成していると判断した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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