学位論文要旨



No 120604
著者(漢字) 奥村(吉田),豊子
著者(英字)
著者(カナ) オクムラ(ヨシダ),トヨコ
標題(和) 近現代中国民族政策の歴史的研究 : 内モンゴルと国共両党(1945〜1949)
標題(洋)
報告番号 120604
報告番号 甲20604
学位授与日 2005.07.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第485号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東京大学 教授 石井,明
 東京外国語大学 教授 中見,立夫
内容要旨 要旨を表示する

「多民族国家」中華人民共和国の領土は、ほぼ清朝の版図に相当するが、清朝期には緩やかな支配がなされていた少数民族地域は、今日、民族区域自治政策のもとで、「きつい統合」がなされている。そうした変化の過程は、近代以降の列強の圧力に対する「中国」という「国民国家」建設への動きと、それと対峙する「辺境」の側の統合を目指す動きとの絡みの中で、捉えられねばならない。

本論文は、民族区域自治政策を歴史的に捉えるために、その画期となる、戦後内戦期における内モンゴルの民族運動に対する国共両党の政策過程を取り扱う。なぜならば、内モンゴルは国共内戦の主要な舞台の一つであり、そこでの民族問題は、国共が政治的に対抗する重要な争点となった。その過程において、中国共産党は、「新中国の民族区域自治政策の基礎となりモデルとなった」とされる、内モンゴル自治政府の樹立に成功したからである。共産党の政策過程も、内外情勢、とりわけ国民党との関係に強く規定されていたのであり、その点を離れては、民族区域自治政策の形成は理解できない。

しかし、従来の研究は、内外情勢の中で把握しようとした場合でも、実際には、抽象的な冷戦や内戦という言葉、あるいは軍事状況のレベルにとどまり、変動していく具体的な情勢の中で捉えなかった。このため、国共両党の民族政策も、それぞれがほぼ一貫したものとして平板に描かれ、民族区域自治政策も内戦期をとおした共産党の政策とされ、1947年の内モンゴル自治政府の成立によって確立したとされてきたのである。少数民族問題を中国の国民国家志向の中に位置づけた、毛里和子氏の『周縁からの中国』は、そのような研究水準を相当引上げるものであり、共産党の政策に動揺があったことも認めている。ただし、毛里氏もその過程を具体的に追求してはおらず、ただ共産党が東モンゴルの動きを抑え込んでいく過程としてのみ描いている。

本論文は、このような研究状況を背景に、内外情勢、とりわけ国共の政治的関係の中で、両者の民族政策が絡み合うダイナミックな政策過程をたどり、民族区域自治政策がどのような歴史状況の中で採用されたのかを明らかにするとともに、国民党の政策との比較をも試みようとするものである。史料としては、モンゴル族の民族運動や共産党の政策については、『民族問題文献匯編』や回想録などを批判的に用い、国民党の政策については、主要には当時の最高意志決定機関であった国防最高委員会の档案を用いる。

第二次大戦終結直後の内モンゴルでは、日本支配下の統合を反映して、フルンボイル・東モンゴル・西モンゴルで、モンゴル族の民族運動が高揚した。それらはモンゴルの独立に刺激され、ソ連やモンゴルの後押しも得て政府を樹立するとともに、モンゴルへの合併を求めた。しかし、中ソ関係に規定されたモンゴルは合併を拒絶したため、中国の中で可能な限りの自治を求めるしかなくなった。もっとも大衆的な基盤を持った東モンゴルでは、中国の領域内での「高度の自治」を実行する自治政府を樹立し、国共両党との交渉をはかる。

戦後、国共両党にとって、内モンゴルは戦略的に重要な地域になった。執権政党である国民党は、抗戦末期の六全大会以降、内外情勢の中で揺れ動きながら、地方自治の中で民族政策を模索していた。戦後の東モンゴルの状況は、国民党にとっては、ソ連・モンゴル・共産党が一体になって内モンゴルを中国から切り離そうとしている、と捉えられた。モンゴルの独立によって「辺疆の最前線」となった内モンゴルの問題は、何よりも国防問題として意識されたのである。二中全会が政治協商会議の決議を拒否して、内戦への契機になったのには、こうした強い危機感があった。その強い危機感が、内モンゴルに対する政策で2つの草案を生み、両者が真向から対立して共倒れとなった。その結果、憲法制定国民大会で有効な政策を打ち出せず、モンゴル族の期待を裏切ることになってしまったのである。

国民党に対抗して『連合政府論』で連邦制を掲げた共産党は、西モンゴルの政府を吸収して、自治運動連合会を組織した。当時の方針は、当面は省制の下で盟・旗の自治政府を組織し、将来、内モンゴルを統一した自治政権を樹立する、というものであった。しかし、政治協商会議以後、共産党は民族政策でも国民党に譲歩した『政協決議』を政策の拠り所とした。これは政治闘争のためであるが、東モンゴル対策には不利であり、承徳会議によって東モンゴルを一応取り込んだが、彼らの共産党への不満は強く、それが軍事情勢にも影響した。

こうした中で、国民党の制憲国大が決定的な転機になる。モンゴル族の国民党への失望を背景に、共産党は彼らを国民党との闘争に動員するため、彼らが求める「高度の自治」を受け入れ、1947年、内モンゴル自治政府が樹立されるのである。

準備段階では、共産党のほかに内モンゴルに独自の「人民革命党」の創設を認めるかどうかが中共内で議論され、政府樹立の段階では承認に傾いていた(最終的は承認しなかった)。これは当時の中共にとっての、「高度の自治」の重さを示すものである。

「高度の自治」の内実は、次の三点に現われている。第一は、自治政府に各省に分断された内モンゴルを統一するものとされ、当面は省を超えた解放区と並行関係にされていたことである。第二は、連邦制が放棄しておらず、中共の現地幹部は憲法草案でその採用を進言し、自治栄不の『施政綱領』や『宣言』にも、自治の実行後の「民族自決」という形で示唆されていたことである。第三は、形式上ではあるが、内モンゴルに独自の党(内モンゴル共産党工作委員会)と軍(内モンゴル人民自衛軍)をもっていたことである。そして、政府樹立後、戦局が中共に有利に転換するとともに、連邦制が再度公式に掲げられ、また、内モンゴルをその「主要構成部分」とすることも表明された。

しかしその後、中共の勝利が確定し、本格的に新たな国家を構想し始める段階になると、内モンゴルにおける党や軍の形式的独自性が否定されていく。最終的に新政治協商会議で、「高度の自治」と連邦が否定され、「民族区域自治」が採用される。連邦制が放棄された要因の一つは、外モンゴルの拒否によって、中国復帰の受皿としての意味がなくなったことも挙げられる。中共は帝国主義の策動防止を理由に、きつい国家統合を選択したのである。

以上の過程から、いくつかの結論が導き出せる。まず、政策については、イデオロギーだけではなく、現実の政治過程の中で分析されねばならない。国民党については、執権政党であり、蒋介石が「国家100年の大計」というように、民族政策についても中国の利害から模索していた。内戦期に国民党を規定していたのは、辺疆の喪失という強い危機感であった。それと内モンゴルの現実の難しさが、「優柔不断」を生んだのである。

これに対して、共産党は執権政党に対抗する勢力であった。「民族自決」など、マルクス・レーニン主義の民族理論で説明されがちな政策も、「国家100年の大計」から出発したというよりは、むしろ国民党と対抗するために少数民族を味方として獲得しようとしたもの、という面が強い。だから、補論1でも示したように、国民党との政治関係が変化すれば、その政策も大きく変化したのである。その意味では、むしろ共産党の方が理念よりも現実政治を重視した、と言えるかも知れない。

だから、制憲国大で国民党が失敗したことが、共産党にとってチャンスとなった。共産党は国民党よりも有利な、「高度の自治」をもつ政府の樹立、さらには連邦制を掲げることによって、モンゴル族の要求に一定程度応え、これを掌握して内モンゴルでの基礎を固めていったのである。それは内戦の戦況を転換させる、一つの要因にもなった。

しかし、内戦の勝利は共産党を執権政党に導く。自らが「国家100年の大計」から出発する時、共産党の政策は再び大きく転換した。「高度の自治」や連邦制は否定され、ほぼ文化面に限定された特殊な地方自治に過ぎない、その意味では国民党の政策とそれほど大きな距離はない、「民族区域自治」が採用されたのである。「国家100年の大計」を、国民国家の建設と置き換えるならば、共産党もまた国民党と本質的にはそれほど大きな違いはないのかもしれない。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中華人民共和国の民族区域自治政策の形成過程を歴史的に解明するという問題関心のもと、そのモデルケースとなった内モンゴルに焦点をあて、戦後内戦期(1945〜1949)における国民党と共産党の民族政策の変遷を検討したものである。中国共産党の民族区域自治政策を一貫したものとみなす現在の中国の公式見解に対し、近年の諸研究では実証的再検討が試みられつつあるが、本論文ではそうした学界の動向を十分にふまえつつ、中国内外の具体的な政治情勢、特に当時戦略的重要性をもっていた内モンゴル地域での影響力の拡大をめざす国共両党の政治的対抗関係を背景として、両党それぞれの民族自治政策の変化を詳細に跡付けている。

第一章では、清末から日本降伏前の内モンゴル統治につき、国民政府、中国共産党、日本それぞれの政策が概観され、内モンゴル自治問題の歴史的前提が論じられる。第二章では、戦後、日本の支配の終了とともに活発化した内モンゴル民族運動の展開過程が整理される。続く第三章から第五章は、内戦期の国共両党の内モンゴル政策を論じており、本論文の中心部分をなす。国民党を扱った第三章では、台湾の国史館等に所蔵されている未公刊の国防最高委員会文書を活用し、ソ連・モンゴル人民共和国などに対する対外防衛、党内の意見対立、多民族が雑居する内モンゴルの状況の複雑さ、などの難題に直面しつつ内モンゴル問題への対処を迫られた国民党の政策の動揺を分析する。共産党を扱った第四章・第五章では、国民党に対抗して少数民族の支持を獲得するという政治的要請のもとで、一時は「高度の自治」や連邦制を主張しながら、結局は国民党と同様の民族区域自治政策へと帰結していった共産党の内モンゴル政策の大きな変動が実証される。そのほか補論として、国民政府の対ソ連・モンゴル人民共和国関係に大きな影響を及ぼした新疆での国境紛争事件である1944年のアルタイ事件及び1947年の北塔山事件を扱った二編の論文を含む、数編の個別論文が収録されている。

現在入手可能な中文史料を徹底的に収集し、かつ着実な手法によって克明に分析した本論文は、政治情勢に応じて両党の内モンゴル政策が動揺し変化する状況を実証的に解明した点で、国内外の従来の研究を超える十分な成果を挙げている。特に、未公刊史料を活用した第三章及び補論の二編の論文は、新しい事実を多く発掘しており、研究史上価値の高いものとみなし得る。現在の政治情勢のために中国本土にある文書史料が利用できなかった点、モンゴル語・ロシア語などの史料が利用されていない点、補論で扱われた新疆の衝突事件などの対外問題の分析が本論の論旨と十分有機的に結合されていない点など、今後に残された課題もあるが、現代中国の民族政策の歴史的理解に大きく寄与する高水準の論考と評価することができる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するとの結論に達した。

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