学位論文要旨



No 120605
著者(漢字) 馬,志遠
著者(英字)
著者(カナ) マ,シエン
標題(和) 中国の大学における教育的特性と卒業生の就職達成 : 上海市を中心とする実証分析
標題(洋)
報告番号 120605
報告番号 甲20605
学位授与日 2005.07.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教第108号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,元久
 東京大学 教授 矢野,眞和
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 助教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

本論文は市場経済への移行が進む中国において、大学教育の特性と卒業生の就職達成との間にどのような関係があるのかを、大学新卒者に対するアンケート調査の分析を手がかりとして実証的に明らかにしようとするものである。

本研究の目的と意義

大学教育がどのような形で学生の能力の育成に寄与し、さらにまたそれが職業能力へと転化していくのかは、大学教育のありかたの根幹にかかわる問題である。しかも重要なのはこの大学教育と職業能力とを結ぶ過程は、高等教育の大衆化や、経済構造・労働市場の変化にともなって、大きく変化していく点である。その中でそれまでに形成された大学教育の理念の有効性が失われ、他方で大学教育と職業を結ぶ新しい過程が生じることもある。変動する社会における大学教育と職業能力との関係についてはこうしたダイナミックな視点からの分析が不可欠である。こうした視点はとくに急速な変貌をとげている中国における大学教育と職業との関係を考えるうえで重要である。

計画経済時代の中国においては、教育活動や経済活動を含むあらゆる活動は国の計画的管理下におかれ、人材育成と需要との対応関係は国の計画に定められていた。そこで大学教育に想定されていたのは、専門的で職業に密接に関連した知識を与えることであった。そうした専門性をもとに卒業生は、就職先の企業に配分されていたのである。しかもこうした制度の下では、大卒者の持つ能力と本人がついた職業(職業達成)との間に、矛盾が表面化することはない。計画経済下の中国においては、こうした意味で大学教育と職業達成との関係は予定調和的なものであったともいえる。

しかしこうした構図は改革開放体制の下で市場経済の導入を進める中で急速に変質せざるをえなかった。まず家庭所得の上昇を背景として大学進学率は急速に上昇し、中国はすでに高等教育大衆化の時代に入りつつある。結果として大卒失業も問題となりつつある。しかし変化はこうした量的側面にだけあるのではない。むしろより深い問題は、大学教育と職業達成とを結びつける過程実体が大きく変容している点にある。制度的には計画経済から市場経済への移行にともなって、大卒者の就職も前述の国家による計画的な配分体制から、労働市場を媒介とするものへと、段階的な移行が行われてきた。その結果、現代の中国の大卒労働市場は、いくつかの重要な制度的制約はあるものの、基本的には大卒者個人と企業との間の、相互探査によるものとなっている。しかし大学の側においては、その教育理念や内容での大きな変化は生じていない。ここから大学教育と職業達成との間に大きなギャップが生じているものとおもわれる。

このような状況にもかかわらず、中国の大卒者と職業達成との関係には必ずしも多くの研究がなされてきたわけではない。急速な経済成長の中で大卒者への需要の拡大が自明視されてきた一方で、大卒者の就職状況は政治的に敏感な問題であり、本格的な調査が行われず、あるいは公表されてこなかったことがその大きな理由であったと考えられる。しかし大学教育と卒業者の職業達成との関係は、中国の大学教育そして経済社会の将来を考えるうえでの一つのキーであり、その解明が重要であることはいうまでもない。またこうした視点からの中国の現状の把握は、日本や世界各国におけるそれとの比較を通して、この分野における研究の理論的発展にも寄与するものと考えられる。

本研究の分析課題と分析の枠組み

以上のような観点から著者は、上海市に立地する六つの大学の1999年度の新規大卒者を対象に調査をおこなった。調査票配布数は1900、回収サンプルは1317(回収率69パーセント)であった。さらにこれにくわえて可能な限り、中国における大卒者の就職にかかわるマクロデータおよび、各種調査を収集した。

これらのデータをもとに本論文ではおもに以下の観点から分析をおこなった。すなわち、(1)中国の大卒者は将来の職業にどのようなアスピレーションをもち、(2)どのような過程を経て組織しているのか、(3)その中で大卒者はどのような大学においてどのような能力を与えられたと感じ、また企業の側からはどのような能力を与えられたと感じているのか。またこれらの視点を通じて、大卒者の個人的属性や、大学の属性がどのようにかかわっているのかを分析した。

こうした点を実証的に解明することを通じて、中国における大学教育と職業達成とを結ぶ構造を把握し、急速な変化の中で大学教育にどのような課題が生じているのかを明らかにすることが本論文の課題である。

論文の内容概要

本論文は以下の内容で構成されている。

まず序章では、先行研究及びその問題点をレビューして、大学教育と職業達成をめぐる研究方法やこれまでに得られている知見、そしてとくに中国において大卒者の就職問題についてこれまでおこなわれた研究の成果と課題を整理した。

第一章では、中国経済の市場化改革の経緯やそれによってもたらした社会変動を概観した。不均衡的経済発展政策が沿海部と内陸部、大都市と中・小都市や都市部と農村部との間に経済発展の格差を拡大させ、不均衡的な経済構造を作り上げた。さらに経済の発展に伴い、高等教育システムの構造改革が行なわれ、大卒者の就職は市場化制度の成立、高等教育規模の急拡大、のなかで深刻な就職難に直面していることを指摘した。

第二章では、アンケート調査の結果から、大卒者の職業アスピレーションがどのような特徴を持っているかを分析した。大卒者の職業志向については【仕事のやりがい】、【キャリア志向】、【私生活】、【社会的地位】、【仕事の自律性】の五つの次元があることを見出した。また大卒者の自分自身に対する能力自己評価には【自律性能力】、【統合力】、【実務能力】、【知識水準】の四つの次元があることを明らかにした。さらにこれらのそれぞれについて合成変数を算出し、それらが大卒者の個人的属性(性別、出身地)、学歴特性(出身大学の種別、選抜性、専攻分野)とどのような関係があるかを検証して、これらの属性が重要な関係をもっていることを明らかにした。また職業志向と能力自己評価の各合成変数との間には密接な関係があるものの、両者の関係のパターンは大卒者の属性によって大きく異なることを示した。

第三章では、大卒者の就職過程を分析した。大卒者の個人属性によって異なる就職情報獲得ルートを利用する傾向があることを明らかにした。ここにあらわれる特徴は大卒者が持つ社会的資源の違い、そして就職活動にかかる費用と関係している。さらに、企業が大卒者にどのような能力を求めていると学生が感じているのかを分析した。その結果として、企業の求める特性には、【一般技能】、【学習態度】、【専門的知識】、【大学威信】、【出自属性】の五つの次元があることを見出した。

第四章では、大卒者の初職達成に重要な影響を及ぼす初任給及びその影響要因を分析し、新規大卒者初任給の分散を説明する最も重要な変数は大卒者出身大学の威信序列、就職先企業の性質、大学での専攻、就職地域、就職先の業界別であることを明らかにした。

第五章では、大卒者がみた大学教育の特性のイメージを分析した。そこでは大学の教育方針(志向)として、【理論学習】と【実践訓練】と【学習評価】の三つの次元があることを明らかにした。このなかで特に、【学習評価】が大卒者の就職達成と重要な関連をもっていた。また大学の教育体制に対する学生の評価ついては【自主性・選択性】、【体系性】、【施設】の三つの次元が見出された。これらのそれぞれはとくに大学の属性と強い関係をもっていた。また大卒者の専攻分野と就職達成との関係の分析から、従来の大学教育内容と職業との対応関係が、大卒者就職の市場化によって徐々に変化していることを見出した。

第六章では、これまで明らかにした大卒者の職業志向、能力自己評価、企業の求める能力、大学の教育志向と教育体制の変数を、就職達成(就職したか否か)の観点から分析した。ここで明らかになったのはとくに、企業の側は専門知識以外の能力をも要求しており、就職している学生はこれを認知しているが、就職していない学生は専門知識の要求のみを強く意識する傾向があり、一般的な能力の必要性についてはあまり強く認識していない点である。また自由記入らんへの回答をみると、とくに選抜性の高い大学の卒業生は、大学の教育が過度に専門化され、また詰め込み主義であり、一般的な教養や思考能力の形成に欠けている点を指摘していることを見出した。

第七章では、以上の各章の分析結果を踏まえて、本研究が設定した分析課題に対する分析結果をまとめた。一般に中国の大学教育は理論知識に偏重しているのに対して、企業が大卒者に求める能力はより幅広いものである可能性がある。この中で大卒者は自分の属性に制約されつつ、その条件の中でもっとも条件のよい雇用をもとめて行動していることを指摘した。

分析結果

以上の分析結果から次の知見が得られたといえよう。

第一に、大卒者の職業志向、能力の自己評価、大学教育に対する評価、そして企業の要求する能力(に対する大卒者の認識)は、それぞれいくつかの次元をもっている。それらの間には、相互に密接な関係があり、またそれらは、大卒者の個人的属性、および学歴に規定されている。

第二に、そうした関係は一様ではなく、現実には卒業生は自らの属性と出身大学の特性に制約されつつ、就業達成を最適化させようとしている。その中で職業志向と企業の要求の認知について、いくつかの主要なパターンが生じている。

第三に、大卒者の認識から、企業が大卒者に求めるものは専門分野の実践的な知識だけではなく、一般的なコミュニケーションやコンピュータなどのスキル、さらに知識吸収への前向きな姿勢など、多角的なものであることが強く示唆される。本論文では雇用者に直接に意見を聞いているのではないが、実際に就職したものとしていないものの回答を対比しても、あきらかに前者にこのような傾向がつよく、これは求人側の態度を強く反映しているものと考えられる。他方で、大学の側は専門的な知識を、強力に教え込む体制をとる傾向が強く、この傾向は特に威信の高い大学で強かった。その結果として専門性の高い、詰め込み型の教育が高い就職達成に結びつくかのように見えるが、実際にはここに重要なズレが生じていると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

一般に急速な社会変動の中で、大学教育と職業との間の関連性(relevance)にどのような問題が生じ、またそれをどう再構築していくのかは高等教育をめぐる研究において重要な課題である。とくに急速な経済成長をとげてきた中国においては、大学と職業とを結ぶ過程は国家によって管理される行政制度から、求職・求人間の相互探索を媒介とする「労働市場」へと、制度的に大きな転換を経た。その中で大学と職業との関連性の構造は大きく変化しており、それを実証的に把握することは学問的な関心のみならず、政策的にも大きな意味をもっている。本論文はそうした課題に、経済先進地域である上海にある六つの大学の卒業生約1300人(調査票配布は1900)を対象としたアンケート調査の結果をもとに、大卒者の職業志向、大学教育に対する評価、職業達成を、その個人的属性、卒業大学の特性と関連させつつ分析することによってアプローチしようとするものである。

序章において大卒者の就職に関する先行研究を概観し、分析課題を設定したうえで、第一章では計画経済から市場経済への移行の中での中国における大卒労働市場の制度的な枠組みの変遷、現在の大学教育と学卒労働市場がおかれた状況の特質を論じている。

第二章では、大卒者の職業志向と、自らの能力に関する評価について、アンケート調査での質問項目への回答をもとに因子分析を用いて主要な次元を摘出し、そのそれぞれについて回答者の個人的属性や出身大学属性との統計的な関連を分析している。続く第三章では、企業が大卒者に要求する能力についての大卒者の認識を分析し、そこにいくつかの次元があること、それが大卒者の属性、出身大学の特性と、いくつかの点で重要な関連があることを示している。また第四章では、職業達成の指標としてとくに賃金をとりあげ、個人特性、出身大学特性、企業特性との関連で分析している。

さらに第五章では、出身大学の教育的特性に対する大卒者の評価を、その教育理念(志向性)、教育体制について分析し、そうした評価が職業達成と密接な関係をもっていることを示した。第六章では職業志向、能力自己評価、企業のもとめる能力、大学の教育特性と、職業達成との関連を分析している。第七章ではこうした分析結果を整理したうえで、中国の大学教育と職業との間に生じているミスマッチの構造を論じている。

以上のように本論文は、変動する社会的・制度的なコンテクストの中で、大学教育と職業との関係がどのような構造をもっているのかを、個人的属性や大学特性、職業に関するアスピレーションや能力への自己認識、企業の能力要求への認知、職業達成の間の関係を幅広く吟味しつつ明らかにした点に固有の寄与がある。分析対象が錯綜した構造を含むために、端的な仮説とその検証という形態をとり得なかった点、またそれに関連して統計的な分析が必ずしも体系的となっていない点が指摘されたが、これまでほとんど実証的な蓄積がなされていない分野で重要な寄与となっている点は高く評価された。このような観点から博士(教育学)の論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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