学位論文要旨



No 120616
著者(漢字) 須藤,瑞代
著者(英字)
著者(カナ) スドウ,ミズヨ
標題(和) 近代中国の「女権」概念 : 人権とジェンダー
標題(洋) The Concept of Women's Rights in Modern China : Human Rights and Gender
報告番号 120616
報告番号 甲20616
学位授与日 2005.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第592号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 瀬地山,角
 一橋大学 教授 坂元,ひろ子
 東京大学 教授 佐藤,慎一
 東京大学 教授 酒井,哲哉
内容要旨 要旨を表示する

中国は、清末から民国初期にかけて、膨大な量の新語を導入した。新語の登場が中国の思想状況にもたらした影響は、激烈なものであった。その中で、「(天賦)人権」「民権」「女権」は、中国の人権思想を構成する重要な概念となった。本稿では、これらのうち、中国の国家形成とジェンダーを考える上で最も注目すべき「女権」概念に焦点を当て、その変遷を考察する。取り上げる時期は、新語の登場による社会変化がもっとも激しく、「女権」概念をめぐる議論において、その後の中国、ひいては20世紀のフェミニズム全体にかかわる論点が矢継ぎ早に登場した1896年〜1926年を中心とする。

「民権」についてはすでに先行研究がいくつかあるが、「女権」については、その思想史的変遷や「民権」「人権」との関連性についてはほとんど研究されていない。そこで本稿では、第一に、「女権」と「民権」「人権」との関連性に着目し、第二に、これら三つの概念全てを用いて女性を論じた梁啓超と、「女権」に批判的だった長女思順の思想に焦点を当て、第三に、「女権」の主体となる「女性」そのものの構築を、国際関係的視点から分析する。章ごとの内容は以下のとおりである。

第一章では、清末に積極的に纏足解放と女子教育を主張した梁啓超の主張を検討する。梁は、女性が男性に寄生せずに経済的独立を果たすことと、優れた子供を生み育てるという母としての役割の双方が重要で、それらを実現させるために女子教育が重要だと主張した。当時梁啓超が多大な影響を受けていたのは進化論であり、そのため、未来志向が非常に強く、実際に目の前にいる女性たちよりもむしろ、未来に想定された中国の側に意識があった。

第二章では、梁啓超以外の男性による女性論を検討する。馬君武はミルとスペンサーの翻訳紹介により「女権」概念の普及に力を注ぎ、金天〓は『女界鐘』(1903年)で「国民の母」という理想像を提唱した。未来志向という点では、梁啓超から金天〓まですべて一致している。そして、未来の理想の女性像が描かれるのと同時に、過去の女性像も同時に形象された。それは、纏足女性に象徴されるものであった。

第三章では、女性自身による「女権」主張に焦点を当てる。女性論者はすべて現在女性が何をなすべきか、どのようにあるべきかを論じた。その答えとして、「男性化」(秋瑾)、「性役割からの脱却」(張竹君)、「国家の否定」(何震)の三つの主張が現れた。そして1911年の辛亥革命後、「女権」をめぐる議論は女性参政権の可否をめぐる議論に収斂していく。しかし、女性の役割は妻や母として家庭を守ることであるという主張が根強く、女性参政権獲得はならなかった。

第四章では、梁啓超とその長女・思順の父娘関係及び、それぞれの女性論を検討する。思順は、良妻賢母を主張し、一貫して家庭における女性の役割を重視した。一方梁啓超は、1922年に突如として「女権」を主張し始める。その背景には、士人運動から国民運動へという梁啓超の大きな思想的変化があった。

第五章では、国際関係を背景とした女性主体の形成について論じる。1920年代、女性も「人」であることを重視するのみならず、「母」であることをより重視する意見が出てくる。独身で母性から逃げてしまい己の快楽と幸福のみを追求する女性が出現したことを批判し、「母性」を重視する議論である。これによって、女性も「人」であるとしながらも、結局「母」役割が重要視されることになった。そして、「女」には「被抑圧者」という意味づけがなされる。抑圧からの解放をめざす新思想がこの時期大量に導入されていたのだが、それと同時に、「抑圧されている女性」そのものが形象され始めるのである。

近代中国の「女権」論と、ジェンダー概念とをつきあわせてみると、結論として以下の三つの点が指摘できる。

第一に、近代中国においては、従来のジェンダー概念によって想定されていたような、一国内の親族関係・経済関係・政治関係のみによってジェンダーが構築されたのではなかった。清末の「女権」論の中でたびたび指摘された中国女性の「弱さ」は、中国男性との比較によって認識されたものではなかった。国際関係の中で中国が弱国であったがために、民族/国家の国際関係上の強弱が女性に投影された。ゆえに、中国の富強という目的と、女性の強化の目的が一致した。これが、清末の女性論が男性主導と言っていい形で行われた原因の一つを構成しているといえよう。近代中国のジェンダーは国際関係を投影されて形成されたのである。

そして、「女権」をどのように発現させるかをめぐって、「国民の母」、「男性化」、「性役割からの脱却」、「国家の否定」という四つの型がそれぞれ主張された。これら四つには、20世紀フェミニズムの代表的パターンが、萌芽的ではあるとはいえ、保守的なものから急進的なものまで全て見られる。それは、中国において、西洋の「文明」的国家体制と人権思想やそれに付随する女性解放論が、両方とも西洋諸国の富強の要因ととらえられ、この二つをいかにすり合わせるかをめぐって「女権」論争が起こったためであった。すなわち、西洋諸国の国家体制と西洋起源の人権思想の間にそもそも矛盾があり、それが辛亥革命前中国の「女権」概念をめぐる論争において表面化したと言えるのではないだろうか。

また、中国が「人権」「民権」「女権」の全てを体現する国だとする意見も出されていた。現在、アメリカから人権状況を批判されている中国が、近代において人権思想を体現する国と自らを位置づけていたことは注目に値する。このような主張をなしえたのは、これら三つの概念が究極的には中国の富強を目標としており、共通の敵として中国の外部の列強が想定されていたためである。中国の「人権」「民権」「女権」概念は、列強に侵略される中国の人権要求であり、その中でさらに清朝による支配を受けている漢民族の人権要求であり、またさらにその中で男性による支配を受けている女性の人権要求を全て含んでいる。現在、人権一般については、(1)植民地では人権が認められなかった、(2)実はブルジョアジーの権利に過ぎない、(3)「人」権は男性の権利に過ぎず、女性が入っていないという三つの点で批判がなされているが、これらは20世紀初めの中国においてすでに指摘されていたのである。

第二に、近代中国の女性論全般には、女性の「公」的活動(職業)と「私」的活動(母性)のあり方という軸があった。これらもまた、フェミニズムの重大な論点である。「女権」と、「良妻賢母」、そして1920年代に登場した「母権/母性」という三つの流れは、全てこの「公」と「私」のバランスを軸として論じられている。これを父娘で論じたのが、梁啓超と思順であった。

梁啓超の清末の議論では、夫に寄生せずに経済的独立を果たすという職業と、優れた子供を生み育てるという母としての役割の双方が重要で、それらを実現させるために女子教育が重要だとされていた。しかし、女性の家庭内での役割と、仕事の両立といった具体的問題点については等閑視されていた。1922年の「人権と女権」でも、「母」役割はまったく論じず、教育・職業・参政という家庭外に限定された女性論になっている。梁啓超の女性論で念頭に置かれている「女性」とは、「公」的存在としての女性であった。一方思順は、一貫して家族に対する妻として母としての女性の役割を非常に重視し、「私」的な女性の役割を根幹に据えて女性を論じている。参政権や職業など家庭外での女性の果たすべき役割に関しては、限定的な肯定にとどまっていた。

梁啓超と思順の女性論は、一見対立しているようだが、梁啓超が論じなかった「私」的側面を娘の思順が論じ、逆に娘が論じない「公」な側面を父が論じるという、相互補完性があった。梁啓超と思順は、二人合わせてようやく「公」と「私」両方の女性を語ることができた。この相互補完性は、近代中国の女性論全体の特徴を体現していると考えられる。この「公」と「私」、具体的には職業か母性か、という命題は、民国期でも常に問題であり続けた。そしておそらくは現代においても最も大きな問題として存在している。彼らは、父娘二人合わせて、現代につながる問題を提起したと言えるのである。

第三に、1920年代には国家と女性とが分断され、「同じ女」という共通意識が国家意識より優越しかかった。清末では女子教育が進んでいるほど国家は強いという例として日本女性が挙げられていたのだが、1920年代になると、一転して日本女性は国内で抑圧されているとみなされ、同情される存在となった。中国と日本には儒教という社会的共通性はあったが、中国・日本の女性たちが「同じ女」の共通項に求めたのは、参政権が未獲得であるなど、欧米のフェミニズムの要求課題を、中国も日本も共に得ていないという点であった。ともに「抑圧されている」という認識の枠組みそのものの共通性が重要視されたのである。

近代中国では、フェミニズムは、女性への抑圧状態を認識させる思想として機能し、それを軸として、「同じ女」意識が国家意識よりも優越しかかった。しかし、それは結局、国民国家間の争いに中国が全面的に巻き込まれていくなかで、ストップモーションがかかった。以後、今日にいたるまで、「同じ女」意識の模索は数多くなされているが、ストップモーションはそのままかかり続けているように思われる。近代中国における「女権」概念の議論は、このような国民国家形成途上に表れた、多くの可能性を矢継ぎ早に展開する議論であり、現代の女性論にも極めて示唆に富むものであったと言えるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

須藤瑞代氏の学位請求論文「近代中国の「女権」概念──人権とジェンダー」は,中国が近代国家の形成に向けて大きく変容してゆく清末期から中華民国初期の時代を対象に,「女権」概念の変遷とその社会的文化的な意味づけのありようを,人権思想との関わりの中で分析しようと試みたものである。従来から,近代中国の女性解放運動をめぐっては,資料や作品をもとにその具体的プロセスをたどる歴史・文学的アプローチと,アジア的価値と「人権」の相克を通じて中国近代の質を問おうとする社会科学的アプローチが併存してきた。本論文はこの二つのアプローチに橋をかけることを試み,そこから中国近代,ひいては東アジアの近代が生み出してきた多義的で豊かな意味をくみとろうとしている。副題にも示されるとおり,中国を対象とした「ジェンダー」と「人権」という二つの視座の結合に,本論文の最大の特長があると言っていいだろう。

論文は,序論と本論五章,および結論からなり,付録として日本と中国の辞書に見られる「人権・民権・女権」の概念変遷を整理した図表二種を収める。本文は160ページで,図表,参考文献一覧を含めると,総ページ数は177ページ,400字詰め原稿用紙に換算して,約630枚の分量になる。

以下,章をおって本論文の内容を紹介する。まず,序論では,近代中国の「女権」概念を考察するに際して,「民権」「人権」との連関の重要性が指摘され,ジェンダーによる歴史像の再構築という課題を,一国史研究のみならず,国際関係の文脈に据えて研究する必要性が提起される。

続いて第一,二章では,近代中国の啓蒙思想家であり,また先駆的女性解放論者としても知られる梁啓超の思想を検討し,さらにそれを,康有為・鄒容ら同時代の他の思想家と比較考量しつつ,近代中国の女権論の特徴を抽出する。ここから浮かび上がってくるのは,「国民の母」という理想的女性像であり,女性解放が国家の富強と一体不可分のものと認識されていたという,ジェンダーとナショナリズムの強い結びつきである。

この特徴は,第三章で論じられる女性自身による「女権」主張においても変わらない。ただ,国家の近代化や社会・文化の大きな変容にともない,論者の理想的女性像には分岐が生じてくる。それを著者は,「国民の母」に加えて,「男性化」「性役割からの脱却」「国家の否定」の四つの類型に分類整理し,以後展開するフェミニズムの多様なパターンが,すべてここに胚胎していたと述べる。

第四章では,第一章で取り上げた梁啓超の女性論を,娘梁思順との対比の下に描き出し,晩年に彼が「女権」を積極的に論じるに至る背景を考察する。最後の第五章では,中国近代の女性解放思想の総体を,国際関係の中において位置づけるべく,代表的女性誌『婦女雑誌』における日本の女性運動に対する紹介,さらには外国のフェミニズムへの認識や日本との直接交流の歴史を,興味深いエピソードを交えつつあとづけてゆく。

以上論じ来たった上で,著者は「結論」部で,国家主導の枠組みの中で「女権」が常に議論されてきたこと,言い換えればジェンダーが一貫して「国家化」されてきたことを指摘する。さらに,良妻賢母や「国民の母」,「男性化」した女性といった,女権論者が掲げた理想的女性像は,いずれも「西洋」諸国の「文明」や富強の起源と捉えられたものであったが,実は「西洋」「文明」の内部にも,そもそも国家体制と人権思想の間に緊張関係や矛盾が存在していたことに,著者は目を向ける。この点,近代中国の女性解放の思想と実践の歴史は,西洋/非西洋の区分には還元できない広がりと問題性をはらむものであったという指摘で,本論文は締めくくられる。

審査委員会では,当時の新聞雑誌など一次資料を丹念に渉猟しつつ,清末から民国期にかけての「女権」論の多様な側面を浮き彫りにしたこと,またそれらを理想的女性像という視点から,整合的ないくつかのパターンに分類整理したこと,さらに一国史を超えるジェンダー研究の可能性を示したことなどの点で,本論文に対する高い評価が述べられた。

だが,以下のような短所も複数の審査委員から提起された。すなわち,資料の読解や翻訳に未熟な点が散見されること,ことばとしての「女権」に囚われるあまり,「女権」思想の内実についての分析が不十分なこと,女性解放論の四パターンがその後いかなる変化発展を遂げたのかを考察する章を欠いていることなどである。さらに,各章の有機的関連についての説明も十分とはいえず,編別構成や論述の方法にもっと工夫があってしかるべきだったとの注文も出された。総じて,本論文は先駆的な着眼点と意欲的な問題提起を含むだけに,個々の論点について今後の課題とせざるを得ない箇所があるのは避けがたい。このことは何より,著者自身の自覚するところである。

しかしながら,以上述べたような短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではない。従来断片的に論じられてきた近代中国の「女権」論を一貫した視座の下にまとめ上げた著者の力量は高く評価されるべきであるし,実際,本論文は中国近現代史・地域研究・ジェンダー論・国際関係論など複数の領域を横断する斬新な研究の方向性を示した点,学術界に大きな貢献を果たしたものといえる。さらに,本論文の主人公の一人・梁啓超の研究史上の空白を埋めた点も,本論文のもたらした大きな貢献である。

以上の理由から,本審査委員会は一致して博士(学術)の学位を授与するのにふさわしい論文と認定した。

UTokyo Repositoryリンク