学位論文要旨



No 120623
著者(漢字)
著者(英字) Portillo Manuel
著者(カナ) ポルティジョ マヌエル
標題(和) ボディスケープ : 東京の都市景観における身体的要素に関する研究
標題(洋) BODY-SCAPES : A study on the relationship between bodily elements and the urban of Tokyo.
報告番号 120623
報告番号 甲20623
学位授与日 2005.09.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6088号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

この論文では、構築環境における最も重要な要素とは「身体」であるということが論じられる。この論文で着目する研究の主題は次のようなものである。身体の持つ有形性や物質性を疎外しないような、建築的視点から考えたときに、「身体」と都市環境の関係を、私たちはどのように説明できるのであろうか。

この身体の精神からの哲学的な疎外は、建築の意味についてのほぼすべての理論における具現化された経験の欠如に由来する。建築理論における意味と参照の過度の強調は、意味の解釈を完全に概念的な現象としてしまった。身体は、それがそもそも建築理論の中におかれたとしたとき、多くの場合集合的な要求と抑制に矮小化され、結局行動分析とエルゴノミクスに基づいたデザイン技法によって調整されてしまうだけのだ。この思考の枠組みのなかで、身体とその経験は、建築の意味の構築と実現に関わることはない。

(ガートナー 1990)

なぜ身体?

この引用は、以下に述べる研究を行うにあたって私が感じていた関心と動機を、もっとも端的に表している。これを読むと、私たちは身体と環境の関係についての豊かな理解をどれだけ見失ってしまっているか、またどれだけ遠く離れたところにいるかということを、思い起こさせられる。この研究を行うにあたっての第一の問題は、「身体」という定義に関する共通認識の欠如であった。歴史を振り返れば、古典主義者、ルネッサンス期の人々、そして近代主義者などいつの時代でも、人々は身体と、それが物理的な構成であれ物質的ではない本質的なものであれ建築とを関係させる方法を探そうと試み、そして多くの場合失敗してきた。それは主に人々がただ一つの性質にしか着目しなかったためである。身体は均質な形で存在する物質と捉えられていた(the Electics);それは概念と物質的な現実を表すためのものとされた(原子論者);それは現実界の存在する体系の文脈にその構造を持つ秩序化の過程の一部と見なされてきた(プラトン);それは個人の構造的エイドスと物質的オウジアであり、その二つは終わりのない連携を生み出すとされた(アリストテレス);身体なしにはなにも相互に作用することは出来ず、また空間や空隙も作り出すことは出来ないと言うことを規定する、所与の規則であるとされた(禁欲主義者);それは建築との関係のなかで完璧なる比率を見いだすために研究された(ヴィトルヴィウス、レオナルド、ル・コルヴィジェ、等)。結局のところ、身体と建築を定義し関係づける試みは、いつでも多面的な考え方を欠いているのである。

一方で他の領域において「身体」の持つ様々な要素や形態、そして意味を定義し理解しようとする時に使われる方法と概念を見れば、そこには洞察に満ちた考えへの幅広い資源がある。例えば心理学と地理学から、私はいくつかの便利な方法を得た。フロイトの無意識の概念は、意識というものが人間の行動と経験を理解するための土台にはなり得ない事を意味する。人々の選択は、自分では制御できないところに存在する力によって動機づけられ、また抑制される。この考え方は人間が自分の理性では説明の出来ない多くの行動に関するギャップを埋め、それゆえそのような行動を無意識の働きに帰することは説明のされない事に関して一つの代替案となる。しかし、この想定に関する難点の一つに、次のような疑問がある。どのようにそれを測定すればよいのだろうか。そしてまた、私たちはその明白な事々から何を作り出すべきなのだろうか。地理学者の、心理学者とも共有するもっとも重要な関心事は、個人というものと、またその個人と「内部の」ないし「内的な」世界、「外部の」ないし「外的な」世界両方との関係に関わるものである。「内的な」や「外的な」という言葉が括弧書きになっているのは、行動地理学者と精神分析の定型化において、「内的」と「外的」とはその両者における能動的な関係の形態であると認められているためである。それをどのように理解し、概念化すればよいかと言うことについては両者の間で意見の違いはあるものの。(1)

人々の主観的な経験と、同時に人々を物理的、地理学的、そして社会的環境の内側に位置づけること(それは一方で人々がそれらを自分たちの行動によって変化させることができるものなのだが)を考慮に入れるためには、ひらめきによってゲシュタルト心理学者に転じたカークの著作は極めて有効である。彼はクルト・カフカ(1929)やウォルフガング・コーラー(1929)の著作について論じている。カークにとってゲシュタルト心理学は驚くほど便利であった。なぜならそれは、人々が絶え間なく世界やその他の知覚対象を「ゲシュタルト」と定義された心理的図式において知覚する過程に着目することで、人間と自然を関係づける作業仮説を与えたからである。

ゲシュタルト:(名詞)そのそれぞれの部分の総和というだけでは描写することができないように組み上げられた構造や構成。

(ワードネット 2.0, 2003, プリンストン大学)

カークにとっては、「心理-物理的領域」は欠かすことのできないものであった。なぜならそれは人々の内的な精神的世界を、社会や自然の外的な物理的世界に結びつけるものであったからである。それは直接的な、そして自発的な方法で人々を環境と結びつける。この観点から、歴史的地理学の技法は時間に沿って内的/外的な世界をたどることにあり、またこのことは、全ての時点においての人間と自然の関係について、注目を促した。カークは、人間-自然関係は二つの方法論に分割できることを確認した。現象論と行動論である。現象論的環境は「実世界」であり、同時にそれは人間の行動の生産物と状態である。従って、現象論的環境は知覚の対象物であるが、私たちが見ようと選んでいるものは行動環境のなかで修正されている。(2)

身体とその建築との関係に関する私の検討は、「身体の外観」と「身体イメージ」の間に区別をつけることから始まる。この概念は、オリバー・サックスとポール・シルダーについての本の中でそれらの用語を定義したマルコ・フラスカーリによって非常に良く定義された。「身体の外観」は、建築とは全く対応したり意味を持ったりすることのない、人間の身体そのままの表現として定義された。換言すれば、文脈なしの飾り気のないイメージである。「身体イメージ」は、心の中で形成された、意味づけされた身体のイメージとして理解される。このイメージは興奮や表現や知覚の単なる生産物ではない。それはそれら三者から生じるものであり、その人の解剖学的な状況そのものとは全く異なる身体に関する理解を発生させる。この目に見える身体と目に見えない身体のイメージとの融合はゲシュタルトとなり、人間の生体構造と姿勢を文化的、社会的観衆に織り交ぜる。(3)このような知覚の方法-個人的、かつ文化的な想像の表象の複雑な融合体に織り込まれた身体像で構成される-は、建築設計において、私が理解したいと考えるある種の非常に有効な戦略である。

なぜ東京?

初めてこの都市を訪れたときに多くの人が持つ東京に関する最初の印象の一つは、たいていの場合都市に存在する大量の人々によって形成される。この知覚は、人口密度のみならず、多くの場所において空間が極めて窮屈で、そのため世界に類を見ないほど群衆が蓄積するという事実によってもたらされる。東京都には3200万人の住民が住み、それらの人々は駅や街路、商店街、混み合った住宅など至る所で知覚される。近年都市の多くの場所で建築が建物の外部と内部との力強い結びつきを提供しているという事実とともに、このシナリオを東京という都市をこの研究を実行するための適切な環境としている。身体と構築環境の関係を見いだそうとすることは、表参道、銀座、汐留、六本木ヒルズなどの、透明でぼやけた、かつ浸透性のある商業建築によって身体と建物の境界が易々とまぜこぜにされている場所を研究することによって、容易になって来ている。

このように、ある特殊な消費文化のおかげで東京には極めてユニークな現象が生まれ、そこでは顧客の嗜好と興味を引くためのブランド間での熾烈な闘いが、そのブランド自身を常に変動する東京のランドスケープのなかで偶像化させるため、もっとも高度な技術的革新とデザインに向かわせた。技術の果たす役割は、優秀さを超えた。それはもっとも大胆な構造的表現と素材によって行われる実験である。結果は、か弱い見かけの透明な表皮をまとった、大胆な無柱空間であり、構築環境の中に新たなランドスケープを与えた。この変化は、「既知の」環境からの逸脱を意味し、またこれによって人間の身体、知覚、そして行動の状態に変化が生じた。それゆえ、上記の事柄は以下のような疑問を導く。このような建築において、身体と構築環境の間にはどのような関係があるのだろうか。

研究の構成

この研究は7章からなる。第一章では主題と研究内容、目的、方法論、そして期待される結果が述べられる。第二章では透明感に関する様々な背景と、地理学、心理学、そして建築の分野からの人間と環境に関する理論が集められる。第三章においては、東京の社会-政治的、また文化的文脈が述べられる。第四章では東京で「都市のイメージの知覚」について行った調査(回答者205名)の結果が分析される。第五章では東京の都市環境において発見された身体の種類が整理と特定され、第六章ではいくつかの選ばれた地域におけるケーススタディーでの写真とビデオが分析され、準備的な結論が提示される。第七章においてはフィールド調査と研究の背景において調査された理論とを関係づけることにより最終的な結論が導き出される。

発見

結論

スティーブ・パイル、1996、「身体と都市:精神分析、空間と主観性」、ロンドンフラスカーリ・マリオ、2002、「建築的形態の伝統:ヴィタ ベータの探求」、身体と建築、ジョージ・ドッズ、ロバート・タバナー編、MIT press、ロンドン
審査要旨 要旨を表示する

本論文は東京の都市景観における身体的要素に注目し、構築環境における最も重要な要素としての「身体」、身体の持つ有形性や物質性を疎外しないような「身体」と都市環境の関係を論じている。

建築理論の中で、身体は行動分析と人間工学に基づくデザイン技法によって調整されるだけで、身体とその経験は建築の意味の構築と実現に関わることはなく、身体と環境の関係についての十分に理解がなかったという認識が背景にある。

ここでは、身体と建築との関係を、建築との対応や意味の全くない身体そのままの表現としての「身体の外観」と、心の中で形成され意味づけされた身体のイメージとしての「身体イメージ」とに区別した。このイメージは興奮や表現や知覚の三者から生じるもので、解剖学的な状況そのものとは全く異なる身体の理解を発生させる。この目に見える身体と目に見えない身体のイメージとの融合は、人間の生体構造と姿勢を文化的社会的慣習に織り交ぜる。このような知覚の方法-個人的、かつ文化的な想像の表象の複雑な融合体に織り込まれた身体像で構成される-は、建築設計において非常に有効な戦略であるとしている。

この論文は7章からなる。

第1章では主題と研究内容、目的、方法論、そして期待される結果を述べている。

第2章では透明感に関する背景と、地理学、心理学、そして建築の分野からの人間と環境に関する理論について概観している。

第3章においては東京の社会-政治的、文化的文脈を述べている。東京の3200万の人々は駅や街路、商店街など至る所で知覚される。近年、東京では多くの場所で建物の外部と内部との力強い結びつきがつくられている。透明でぼやけた浸透性のある商業建築によって身体と建物の境界がまぜこぜにされている場所で、身体と構築環境の関係を見出すことができる。東京では消費文化により顧客の嗜好と興味を引くための闘いが、そのブランド自身を常に変動する東京の都市景観のなかで偶像化させるため、もっとも高度な技術的革新とデザインに向かわせユニークな現象となった。それは大胆な構造的表現と素材によって行われる実験であり、結果は、か弱い見かけの透明な表皮をまとった大胆な無柱空間であり、新たな都市景観を与え、人間の身体、知覚、そして行動の状態に変化を生じさせた。

第4章では東京で「都市のイメージの知覚」について行った調査の結果が分析された。調査は「都市の印象」を5-10分程度の簡単なスケッチする方法で行い、205人から回答を得た。その結果、建築物68.0%、道路40.5%、樹木33.0%、家屋23.4%、自動車22.0%、人22.0%などの限られた要素がスケッチに繰り返し表れた。このうち動きのある要素(自動車や人)は都市環境を絶えず更新しているものと考えられ、刻一刻変化するため人々の日常的な行動に与える影響は少なく、2次的な要素となっている。調査結果では、人間があまり認識されていないことが示されているが、都市環境を考える上で人間の存在やその関係性が影響力を持つことも示している。

第5章では東京の都市環境において発見された身体が分類され、物理的特性(表皮、骨格、材料)と観念的特性(イメージ、映像、シルエット、陰影など)に分けられる。建築的考察を行う際には、身体と都市環境との相互作用から「直接性」「物語性」「幻想性」「反射性」「開放性」の5つの関係が明らかにされた。

第6章ではケーススタディーとして、表参道、渋谷、秋葉原における写真とビデオが分析された。店、カフェ、ビューティサロン等がどのような建物(フラッグショップ、デパート、商業ビル、独立のビル、オフィスビル)の何階(1,2,3階)にあるか、そしてそこでの身体要素がフレームに視覚的に占める割合が数量的に求められ分析された。

また、実際にこの種のデザインに携わった4名の建築家へのインタビューにより、この種のデザインにおける思考プロセスを調査した。ここで身体を見せるファサードは必ずしも既成の概念ではないことを確認している。

第7章においてはフィールド調査と研究の背景において調査された理論とを関係づけ結論をまとめている。

人間の実在性は古来より様々な活用がなされ、常に変化する存在である。建築の分野では、この関係について実体的観点から時間、場所、文化性も含めて考察を試みてきた。今日の技術により環境における身体は新たな展開を見せ、建築は消失するかのように軽くなり、身体を都市風景の主要素にまつり上げた。都市の建築に関して意匠、材料に関する規制は少なく、透明で軽い建築を可能にする東京での体験は独特である。視覚的に開放された状況下において、人間が限界を生み出す要素となり、都市環境に対する知覚の変化をもたらすものとなっている。

本論文は、身体に注目し、身体を、構築環境を構成する要素としてとらえたものである。人間にとっての建築・都市空間がハードな構築物だけで構成されるのではなく、構築物の役割が薄れ、人間の果たす役割が増えつつある状況において、身体そのものも都市景観の一要素ととらえる一つの新しい構築環境の読み取り方を提案したといえる。

以上のように本論文は、人間-環境系として建築をとらえる建築計画学的な空間解釈の一つの方法を提示し、建築計画学の発展に大いなる寄与を行うものである。

よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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