学位論文要旨



No 120633
著者(漢字) 内海,敦子
著者(英字)
著者(カナ) ウツミ,アツコ
標題(和) バンティック語の構造と接辞の意味・機能
標題(洋)
報告番号 120633
報告番号 甲20633
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第486号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊本,裕
 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 助教授 西村,義樹
 熊本大学 教授 湯川,恭敏
内容要旨 要旨を表示する

序論

本論文は、オーストロネシア語族、西部オーストロネシア語派(Hesperonesian)に属するサギル諸語(the Sangiric Languages)の一つであるバンティック語の構造を記述し、多数の接辞とその意味・機能について詳しい統語的特徴と意味的特徴の記述を試みたものである。サギル諸語は、インドネシア国スラウェシ島北部、および近辺の多島海で話されているが、バンティック語は、スラウェシ島北部州の州都マナド近郊の9つの村、さらにそこから100キロほど西に行ったところの二つの村で話されている。

本論文は、バンティック語の基本的な構造を音声・音韻、形態、統語の各側面から見たものである。そして、多数ある接辞に関しては、その統語的な特徴と意味的な側面から詳述することを試みた。

音声と音韻

音声・音韻に関して述べる。バンティック語にはピッチの高さの違いが意味の対立を生む、高低アクセントが存在する。バンティック語の音素は子音が/b, p, t, d, k, g, s, h, r , 〓 , m, n, 〓 , y/の14、母音が/i, e, a, o, u/の5である。子音に関しては比較的問題が少ない。母音に関しては、音声的に言うと鼻母音と長めに発音される母音の存在があるが、これはそれぞれ環境によって現れる異音である。鼻母音は鼻音/m, n, 〓/の後に現れる母音が鼻母音化することによって現れるが、これは、/h, R , 〓 /の子音が現れても阻害されない。その他の子音が現れると鼻母音ではなくなり、通常の母音に戻る。長めに発音される母音は、母音が高のアクセントで終わるときに現れる。

音節構造は、V、CV、CVC、VCのいずれかで、(C)V(C)と表せる。音節頭の子音の場所には、/〓/を除くすべての子音がこられる。しかし、音節末の子音の場所には二つの鼻音/n, ng/と、声門閉鎖音/〓/のみしかこられない。声門閉鎖音は、正確に言うと語根末の位置にしか出てこられない。

一つの音節が高か低のアクセントを持っている。最初の音節と第二音節は必ずアクセントの高さが異なる。そして、高から低に移り変われる場所を本論文では「アクセントの核」と呼ぶが、これは一つの語につき一箇所である。音節数の数と同じだけのアクセントのパターンが存在する。二音節の語はHLとLHの二つのパターン、三音節の語はHLL、LHL、LHHの三つのパターンが存在する。

形態

次に、形態について述べる。バンティック語は、語根が語形成の重要な単位となる。語は、自立語と付属語に分けられる。このうち自立語は名詞、数詞、形容詞、動詞、前置詞、接続詞、副詞、の七つ、付属語は助数詞と小辞の二つである。そのほか、多数の接辞の存在がある。小辞は、比較的多くの品詞の後に置かれるのに対し、接辞はそれぞれ付加する語根が決まっており、付加した後に形成される品詞が定まっている。

前置詞、接続詞、副詞の三つの品詞は、常に語根のみで用いられる。名詞と数詞と形容詞は、語根のみで用いられるものもある。

名詞は、派生的なものを除き、語根のみで名詞として用いられる。文中の動詞とのかかわりあいで、名詞は主語、目的語1、目的語2、主体語、補語として機能するが、そのとき、接頭辞が付加される。接頭辞は、単数の人を表す名詞に付加するときと、それ以外の名詞に付加するときで形が異なる。以下、最初に挙げる形が単数の人を表す名詞に付加するときの形、次に挙げる形がそれ以外の名詞に付加するときの形である。主語のときは i-/0 、目的語1の時は si-/su- 、目的語2のときは ni-/nu- が付加される。補語は接頭辞 si-/su- か ni-/nu- で、動詞によってことなる。なお、単数の人を表す名詞以外の名詞に関しては、動詞によっては、目的語1、目的語2、補語のときに、何も接頭辞が付加しないことがある。単数の人を表す名詞には、常に接頭辞が付加される。

そのほか、形容詞や動詞を形成する語根が、名詞形を派生するときに、 ka- 、 mangka- 、 pa- 、 paN- 、 -AN などが付加する。また、reduplicationを起こすこともある。 paN- の最後の音素のように/N/で表した音素は、付加した語根の最初の子音が同じ位置で調音される鼻音に変化するか、同じ位置で調音される鼻音が挿入されることを表す。

数詞は、数えるときや名詞を修飾するときは接辞が付加しないが、序数として用いられるときは接頭辞 ka- 、回数を表現するときは、接頭辞 ka- と ne- が付加される。形容詞は、語根のみで形容詞として用いられるものと、接頭辞 ma- が付加して形容詞として用いられるものがある。そのほか、程度が高いことを表す ingka- 、程度が低いことを表す riN- 、その他動詞から形容詞を派生する tahaN- などの接辞が付加する。形容詞はテンスの対立を持たず、常に同じ形で用いられる。

動詞は、語根のみで用いられることが大変まれである。ほとんどの場合は接辞を伴う。動詞に付加する接辞が一番数が多い。まず、基本的な動詞を形成する接辞をヴォイス接辞と呼ぶ。これは、どの接辞が付加するかによって、おおむねどの態を動詞がとっているか分かるからである。ヴォイス接辞に分類されるものは、接中辞 -um-/-im- 、接頭辞 ma-/na- 、接頭辞 maN-/naN- 、接尾辞 -AN 、接頭辞 ni- の五つである。接中辞 -um-/-im- 、接頭辞 ma-/na- 、接頭辞 maN-/naN- のうち、最初に挙げた形が非過去形、次に挙げた形が過去形である。それ以外のものを動詞派生接辞と呼ぶ。「装着」を表す gi- 、「意図」を表す tingka-/tiN- 、「非意図」を表す i- 、「能力」「非意図」を表す ka- 、使役を表す pa- 、applicative verbを形成する paN- 、使役を表す paki- 、locative verbとbenefactive verbを形成する接頭辞 paN- と接尾辞 -AN の組みあわせ、instrumental verbを形成する接頭辞 pa-/paN- 、malefactive verbを形成する接頭辞 ka- と接尾辞 -AN の組み合わせなどがある。また、継続アスペクトを表す接頭辞 ka-/kapa-/kapaN- と接尾辞 -AN の組みあわせ、習慣アスペクトと反復アスペクトを表す形態もある。動詞の接辞が一番豊富で複雑である。動詞は、非過去形と過去形の二つのテンスを持つ。この点で形容詞と区別される。

動詞は、最大三つの態をとることができる。態の種類は、Active Voice、Passive Voice1、Passive Voice2の三つである。このうち、Active Voiceは、 -um-/-im- 、 ma-/na- 、 maN-/naN- のどれかの接辞を持っている。Active Voiceの形しか持たないものはintransitive verb、Active VoiceとPassive Voice1の形しか持たないものはtransitive verb、Active Voice、Passive Voice1、Passive Voice2のすべての態を持つものはditransitive verbと呼ぶ。ヴォイス接辞が付加した動詞は、ほとんどintransitive verbとtransitive verbであり、少数のditransitive verbがある。接辞のうち paN- と paki- が付加したものにはditransitive verbが多く含まれる。

Active Voiceの形、つまり -um-/-im- 、 ma-/na- 、 maN-/naN- のどれかの接辞が付加した形を全く持たず、態の変化をもたない動詞群がある。場所を表す名詞句を主語に取るlocative verb、道具を表す名詞句を主語にとるinstrumental verb、受益者を主語にとるbenefactive verb、被害者を主語に取るmalefactive verbである。これらは、Active Voiceを持たない動詞として扱う。

統語構造

バンティック語の統語構造について述べる。バンティック語は、Active Voiceの場合、主語、動詞、目的語1の語順をとるSVOが基本的な語順である。文は主語と述部からなる。主語は名詞句である。述部は、名詞句からなる場合、形容詞からなる場合、動詞句からなる場合がある。等価文は、述部が名詞句のみからなる。述部が形容詞からのみ形成される場合は形容詞文と呼ぶ。述部が動詞のみ、あるいは動詞と目的語1、目的語2、補語や主体語などの名詞句からなる場合は動詞文と呼ぶ。以下、文の中核をなす部分を中心的な部分、それを修飾をする部分を修飾部分と呼ぶ。

まず、中心的な部分について述べる。intransitive verbを用いたActive Voiceの文の場合、主語と動詞のみが現れる。transitive verbを用いたActive Voiceの文の場合、主語と動詞、その後に目的語1が現れる。ditransitive verbを用いたActive Voiceの文の場合、主語と動詞の後に、目的語2が現れ、最後に目的語1が現れる。

Passive Voice1の文は、transitive verbとditransitive verbのPassive Voice1の動詞が含まれる文である。主語はActive Voiceの文中における目的語1に対応する名詞句である。語順は、主語、動詞、そして動詞の直後に動作者を表す名詞句でActive Voiceの文中の主語に対応するものが主体語として現れる。ditransitive verbのPassive Voice1の場合は、主体語の後に更に目的語2が現れる。Passive Voice2の文は、ditransitive verbのPassive Voice2の動詞を含む文である。主語はActive Voiceの文中における目的語2に対応する名詞句である。主語、動詞、主体語、目的語1の順で文中に現れる。このほか、Active Voiceを持たないlocative verbなどの動詞の場合、主語の後に動詞、その後に動作者を表す主体語、その後に補語が現れる。

動詞を用いた文の基本的な語順はSVOであるが、Passive Voice1やPassive Voice2においては、動詞句(動詞+動作者を表す主体語、場合によっては他の名詞句も含まれる)が文頭に置かれ、主語となる名詞句がその後に続く形、VSやVOSの構造もよく用いられる

修飾部分に関しては名詞を修飾する関係節について述べた。関係節化を起こす名詞はほぼ主語に限られる。つまり、関係節中の動詞は、先行詞となる名詞句を主語としたときの形に限られるということである。場所や時間を表す名詞句など、文中の主要な要素とならないものに限り、関係節中の動詞の主語にあたる名詞句でなくても関係節化を起こすことができる。主題を含む文も、よく見られる。これは、既知の情報を文頭に提示し、その既知の情報と関連のある命題をその後に置かれる文で表す構造をしている。

テンスとアスペクト

バンティック語の動詞には非過去形と過去形という二つのテンスを表す形態がある。そのほか、継続アスペクト、習慣アスペクト、反復アスペクトという三つのアスペクトを表す形態がある。このうち、継続アスペクトはテンスを表す手段を持たず、いつも同じ形で用いられるため、それが過去において進行中の動作か、現在進行中の動作かは、前後の文脈を参照しなければ分からない。習慣アスペクトと反復アスペクトに関しては、過去における事態であっても非過去形が用いられるのが普通であるが、動作の対象が限定されたり、動作が行われる期間が限定されたりする場合に、過去形が用いられることがある。

本論文では、テンスに関して、動詞を6種類に分けた。第一、第二、第三のタイプは事態の開始時点より前が非過去形、開始時点より後が過去形になる動詞である。このうち、第一のタイプは、継続アスペクトが進行中の動作を表すものである。第二のタイプは継続アスペクトが反復する動作を表す。第三のタイプは継続アスペクトを持たない。

第四と第五のタイプは、動作の終了時点より前が非過去形、終了時点より後が過去形になるものである。このうち、第四のタイプは、継続アスペクトが進行中の動作を表す。第五のタイプは継続アスペクトを持たない。

第六のタイプは、習慣アスペクト、反復アスペクト、能力や非意図を表す接頭辞 ka- が付加した動詞などからなる。これらは、過去の事態であっても非過去形を用いて表現できるという特徴を持っている。しかし、限定された状況下では過去形が用いられることがある。

以上、本論文においては音声と音韻、形態、統語とテンスとアスペクトの各側面において、バンティック語の記述を行った。

審査要旨 要旨を表示する

バンティック語は、インドネシア・スラウェシ島北部のいくつかの村で話されているオースロネシア語族西部オーストロネシア語派の言語である。優勢なインドネシア語におされて、現時点では若い世代ではほとんど用いられなくなりつつあり、近い将来に消滅の恐れの大きい言語の1つといえる。著者は過去10年にわたり毎年1・2回の現地調査を通じて、この言語についてのデータを蓄積し、また個別のテーマについて研究論文を発表してきたが、今回の論文はそれらの集大成として、バンティック語の音韻・形態・統語の全領域をカバーする総合的な文法を目指したものである。

本論文は、音韻を扱う部分、形態を扱う部分、統語を扱う部分と大きく分けることができる。音韻に関しては、とくにアクセントの記述が重要で、各音節が高か低で発音され、高から低へ変わる位置の違いが音韻的な対立をなすことを指摘している。形態に関しては、名詞・形容詞・動詞に付加される接辞の記述が中心だが、本論文ではこの言語の文法にとって特に重要な動詞につく接辞が詳細に分析されている。著者は、この言語の記述に際して、系統的により近い関係にあるフィリピン諸語の動詞に特有の「焦点」による分類をとらず、動詞をintransitive (ActiveVoiceのみを持つ), transitive (ActiveとPassive1のVoiceを持つ)およびditransitive (Active, Passive1, Passive2のVoiceを持つ)に分類して記述することが、バンティック語の動詞構造の分析として適切であると主張する。このような、ヴォイスを形成する「ヴォイス接辞」は、もっとも基本的なものとして原則としてすべての動詞に現れるが、これに加えて、意図や非意図を表すもの、causativeやapplicativeなどの機能を付加するもの、習慣・継続・反復などのアスペクトを表すものなど多数の動詞派生接辞が記述される。形態に続く統語を扱う部分では、名詞・形容詞・動詞に個々の接辞が付加された形を豊富な文例で例証している。特に動詞については、ヴォイス接辞と動詞派生接辞について、可能な限り1つ1つの動詞についてあり得るすべての形をチェックしようとしている。

本論文が現地調査に基づいた豊富なデータを分析して、この言語の包括的な文法を提示しようとしていることは疑いない。その意味で本論文はオーストロネシア言語学にとっても一般言語学にとっても重要な成果であり、また著者が若手研究者として着実な出発をしたと充分評価できる。他方で、語例・文例に与えられた英語の翻訳には改善の余地があり、また全体の構成も、重複が見られる一方で各章が必ずしも有機的に結びつけられておらず、よりわかりやすい提示のためには改めるべき点も多い。しかし本審査委員会は、バンティック語に関するこれまででもっとも充実した記述研究である点を重視し、著者の挙げた成果は上記の欠陥を補って余りあるものと評価した。

以上の理由により、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

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