学位論文要旨



No 120635
著者(漢字) 宮嶋,俊一
著者(英字)
著者(カナ) ミヤジマ,シュンイチ
標題(和) ハイラーの宗教理論
標題(洋)
報告番号 120635
報告番号 甲20635
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第488号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 名誉教授 金井,新二
 一橋大学 教授 深澤,英隆
 大正大学 教授 星川,啓慈
内容要旨 要旨を表示する

ドイツの宗教学者、フリードリッヒ・ハイラー(Friedrich Heiler: 1862-1967)は、『祈り(Das Gebet)』(1918)や『宗教の現象形態と本質(Erscheinungsformen und Wesen der Religion)』(1961)といった著作で学説史に名をとどめながら、その全体像を明らかにする研究がこれまでドイツ語圏においても存在してこなかった。宗教現象学派の一人として同様の傾向を持つ宗教学者と並べられ、その神学的傾向を批判されるケースが殆どであったのである。そこで本論文では類型論、及び宗教史理解という観点からハイラーの宗教理論の特徴をあらためて整理し、その問題点と今日的な有効性を明らかにすることを試みた。

本論文は、第一章「生涯と主著」、第二章「類型論の問題」、第三章「宗教史の問題」、および「補章」という構成をとる。第一章では、ハイラーの生涯を概観し(第一節)、また宗教学の領域における主著である『祈り』(第二節)と『宗教の現象形態と本質』(第三節)について、特にその方法論的特徴を明らかにした。ライフ・ヒストリーと関連づけながら、ハイラーが神学的な志向を強く持っており、それが彼の宗教理解に大きな影響を与えていること、だがここで言う「神学」が制度的に確立されたそれではないこと、そしてハイラー以前、また同時代のキリスト教神学者との拮抗関係の中で彼の「神学的宗教学」が形成されてきたことを指摘した。

そのような「神学的宗教学」の内実を明らかにするために、第二章では『祈り』の類型論を取り上げ、分析を加えた。『祈り』の大部分は「祈りの類型論」の叙述となっており、九つに分けられた類型それぞれの特徴や具体的な事例が示されているが、この類型の妥当性、問題、そして可能性を検討した。一般に、個々の具体的な宗教現象は歴史的、社会的、文化的拘束性を逃れえず、それゆえまずその歴史的な文脈に即して理解されねばならないが、たんなる「事実」の集積ではなく、何らかの観点から歴史を把握することにより、それは類型史となりうる。『祈り』はキリスト教の祈りをそのような歴史的展開の中で捉えようとした試みであり、祈りの「類型史的展開」の叙述と言える。ただし、歴史的被拘束性にもかかわらず諸宗教現象を比較しうるとすれば、それは通宗教的、超歴史的、抽象的な構成概念によってである。ハイラーの類型論は、それを超歴史的な構成概念にまで抽象しきれておらず、(キリスト教以外の)具体的な歴史的現象にキリスト教的なモデルをあてはめ、さらにそのような構成概念を最終的に実体視したことに問題が残る(第一節)。このような陥穽にはまった理由のひとつは、ハイラーがその類型形成に当たって諸宗教現象の中に自らの宗教性を読み込んでいったことにある。例えば、祈りの「儀礼化」である。祈りが義務として、また功徳のためになされるようになることは、さまざまな宗教に見られる現象であるが、それをハイラーは厳しく批判した。その批判の基層に「自由な心の吐露」こそが「真の祈り」であるとする、ハイラーの理念が存在していたことは明らかで、その価値評価には自らの祈りの理想が反映していた(第二節)。「哲学者の祈り論」にも同様の傾向が見られる。ここでハイラーは、近代の合理主義・啓蒙主義哲学を批判しながら、やはり素朴で自由な祈りを「真の祈り」と見なす。例えば、ハイラーはカント的な哲学宗教を批判する。たしかにカントは「教育的手段」として祈りの意義を認めているが、ハイラーにとってそれは祈りの「堕落」に他ならない。「教育的手段」という妥協的な位置づけは、ハイラーにとって「真の祈り」とは異なるものであった。「哲学者の祈りの理想」は、「生き生きとした神とのリアルな交わり」こそが真の祈りであるというハイラーの「祈りの理想」と衝突し、それゆえ「堕落」という価値判断が下される。このようなハイラーの宗教認識の背景には、ドイツにおいて教会宗教を離れながらも、いわゆる「宗教的なもの」を求めた教養市民層の形成がある。『祈り』がこのような教養市民層に向けて書かれたことは想像に難くない。ハイラーはこのような教養市民層に対して、「彼岸思考的」な、すなわち「罪と恩寵との関係を機軸にすえるような救済宗教」の意義をあらためて問い直していく。ただしハイラーはその中で救済宗教の復権を念頭に置きつつも、それを制度的教会宗教の再生として捉えていない。その理由として、ハイラーがローマ・カトリックの教会制度に対して批判的であったことを指摘できる(第四節)。このように、祈りの類型論には、ハイラーの個人的な宗教性が色濃く反映されているが、他方でその類型形成には今日からみても妥当な観点が含まれている。本論文ではハイラーの諸類型から、その類型形成の「観点」を抽出し、さらにそれらを独立変数として用いることで比較類型論の基礎となりうるのではないかという示唆を行った。例えば、神秘主義的/預言者的という類型に関して言うと、この類型の形成にあたっては、宗教思想、宗教行為、さらに宗教集団といったさまざまな観点が複合的に含み込まれている。本論文では、そこに個人主義と共同体主義という主軸を見出し、その有効性を指摘した(第三節)。

第三章では、第二章で検討した類型論の基盤を為す「宗教」理解(第一節)と、方法論的な基礎づけとされる「歴史」理解(第二節)を、ハイラーの宗教史理解の問題として考察した。これまでハイラーを含む古典的宗教現象学は、上述のようにその本質探求の姿勢が神学性と結びつき、キリスト教中心主義的になっていると批判されてきたが、ハイラーの場合そのキリスト教理解が狭義のキリスト教神学とは異なることに注意を要する。彼の示した宗教モデルは、最終的に(あるいは理念的に)「単一宗教的」であり、かつ「キリスト教」的であることは否めないにしても、彼が具体的な諸宗教現象をつねに重層的に捉えようとしていた面も看過できず、この視点は翻って彼のキリスト教理解にも反映している。つまり、キリスト教そのものを本来的に雑種的なものと捉え直した上で、それが諸宗教をも包含しつつ理念的な〈宗教〉へと一元化していく「運動」として把握していたのだ。(第一節)

今日、諸宗教間の対話・共存の必要性が叫ばれているが、ハイラーはきわめて早い時期からその問題に関心を示した宗教学者の一人であった。が、諸宗教の多様性を認めつつも、それが最終的に「キリスト教」的な〈宗教〉へと包含されていくという思想には問題が含まれていたと言わざるをえない。ハイラーはたしかに、自らの営為の正当性を主張するに当たり、その研究が「歴史的」であることを強調するのだが、そのような正当性要求がもたらす問題性を顕著に示しているのが、インド人キリスト教伝道師、サドゥー・スンダー・シングの発言の真実性をめぐる「サドゥー論争」であった。そこで、論争におけるハイラーと牧師・宗教心理学者であるプフィスターの対立を中心に取り上げ、分析を加えた。この興味深い論争は、スンダー・シングが「聖人」(サドゥー)なのか、あるいはサドゥーの名を借りた「ペテン師」なのか、という論争へと展開していったが、宗教の「真理」性や、個々の宗教現象の「真実」性をナイーブに問うことは、宗教学の課題ではなく、よってスンダー・シングという宗教者に対して「使徒かペテン師か」という問題設定をし、彼を「使徒」(宗教的真理)と見なし、伝記に記された出来事を「真実」と規定した時点で、ハイラーの姿勢はすでに宗教学とは疎遠なものとなっている。(同様に、スンダー・シングを「ペテン師」、つまり宗教的非真理と評したプフィスターの態度もまた、同じ意味で宗教学的な態度とは相容れない。)ハイラーは結局、スンダー・シングに自らの理想の宗教性、すなわち「福音主義的カトリック性」を読み込んでいったと言わざるを得ない。もちろん、研究者が個人的な宗教性や思想からまったく価値自由な立場に立つことはできないが、この論争では、ハイラーはこのことになお未自覚のままであり、こうした態度に彼固有の実践的な「神学的宗教学」のあり方を明らかに看取できる。(第二節)

なお、補章では、ハイラーの「祈り」論の批判的継承を意図して、一遍の踊念仏の現象学的考察を試みた。これは、ハイラーの「祈り」論が祈りの身体性を看過していることに着目し、身体行為としての「祈り」(祈祷行為)を分析したものである。「身体の共振」、「公共空間における宗教空間の開け」といった視座から、踊り念仏において名号が<私>と<他者>をつなぐ働きをしており、また運動の当初は公共的な空間で宗教者と俗人がともに宗教的な空間を形成していたこと、しかし教団化が進むにつれて踊り念仏そのものが様式化していったことを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

宮嶋俊一氏の『ハイラーの宗教理論』は、二十世紀前半から中葉の宗教学の主潮流であったいわゆる宗教現象学派の重鎮、フリードリッヒ・ハイラー(Friedrich Heiler: 1882-1967)の宗教理論を、二つの主著『祈り(Das Gebet)』(1918)と『宗教の現象形態と本質(Erscheinungsformen und Wesen der Religion)』(1961)を中心に詳細に読解、検討し、今日的視点からの再評価を試みたものである。ハイラーは、その名声にもかかわらず、欧米においてもこれまで本格的研究の対象とされることがほとんどなく、本論文はモノグラフ的ハイラー研究としても貴重である。宮嶋氏は、ハイラーが戦時期を除き一貫して所属していたマールブルク大学に三年間にわたって留学し、当地におけるハイラー的宗教学の学統に親炙するとともに、収集したさまざまな二次文献も活用して本論文を仕上げている。

ハイラーらの宗教現象学派の業績は、そこで標榜される宗教現象記述の客観性、神学的価値判断からの自由の主張にもかかわらず、今日では、研究者たちが陰に陽に有するキリスト教中心の宗教理解のゆえに、隠れた神学との側面を強くもったものとして批判されることが多い。宮嶋氏はそうした現代からの評価を十分に踏まえつつも、ハイラーの仕事を神学とは区別された宗教学の業績として読み、そこに肯定的に継承すべきものを読み取ろうとする。それは、ハイラーの仕事のどの部分にどのような神学性が潜在するかを摘出し、そこから反省して彼の宗教学を純化しようとする、という手順となっている。じっさい、第一章でハイラーの生涯と主たる業績が概観されるが、そこでは、カトリシズムとプロテスタンティズムの狭間にあって普遍的「宗教」の理想のもとにキリスト教の両教派を、さらには世界の諸宗教の根本的統一を願っていた実践家としての側面が注目され、彼は大学教授として宗教学を研究した人物というより、「宗教学を生きていた」人として描かれる。第二章では、古今の諸宗教における祈りの現象を記述分類した大著『祈り』を精密に読み解き、祈りの集団性と個人性、言葉の即興性と定式化、また神秘主義的/預言者的、宗教の祈り/哲学者の祈り、といった分類の原理自体に潜在しているハイラー自身の神学的宗教観が取り出される。第三章では、ヒンドゥー教とシーク教からキリスト教に回心して二十世紀初頭のヨーロッパで話題をまいたサドゥー・スンダー・シングへのハイラーの評価に、彼の理想のキリスト教ないし宗教観を読み取る。こうしてハイラーの宗教研究に見られる潜在的キリスト教中心主義ないし神学性を冷静に見て取った上で、宮嶋氏は、ハイラーが工夫したさまざまな類型論を批判的視点から洗練することで現代的な宗教類型論形成の可能性を見いだしている。「補章」でなされる『一遍聖絵』に描かれた祈りの形態の分析はその実践であり、一定の成果を挙げている。ハイラーの著作群の精密な読解に集中するあまり、彼の仕事を当時の他の宗教理論や、神学、思想状況の中に位置づける作業が十分にはなされていないうらみがあるが、従来看過されてきた主著群の精密な読解に正面からとり組んで彼の宗教学的思考の核心に迫った意義は大きい。今後の宗教現象学派研究に不可欠の作業であり、新たな宗教類型論形成の可能性に開かれてもいる。よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものであると判断する。

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