学位論文要旨



No 120640
著者(漢字) 古川,裕佳
著者(英字)
著者(カナ) フルカワ,ユカ
標題(和) 志賀直哉研究
標題(洋)
報告番号 120640
報告番号 甲20640
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第493号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 助教授 井島,正博
内容要旨 要旨を表示する

本論考は志賀直哉(一八八三(明16)〜一九七一(昭46))とその作品について考察したものであり、志賀直哉の作品史を大きく三つに分けて、とくにその中期について検討している。この場合の初期とは、一九一〇年に『白樺』に「網走まで」を発表してから一九一四年に「児を盗む話」(『白樺』四月)を発表するまで。中期とは、三年の沈黙を経て、一九一七年に「城の崎にて」(『白樺』五月)で創作活動を再開してから改造社版『志賀直哉全集』(一九三七〜三八)刊行まで。その後を後期としている。

志賀直哉にとって中期とは『改造』誌上に断続的に「暗夜行路」を連載しながら、様々な雑誌メディアに短篇小説を発表し、活発に活動していた時期である。同人誌『白樺』を中心に創作活動を行う――すなわち顔の見える友人同士の世界で活動する――初期に対して、中期では、数々の文芸誌に作品を発表する――マスメディアを意識しつつ創作する――ようになる。メディアの状況に応じて作者の態度も変わらざるを得ないであろうし、作品もまたその姿を変えることになるかもしれない。読者の読みも変容を被るはずである。本論考ではこのような仮説を元に、中期における、作者、読者、作品それぞれの動態を明らかにすることを試みた。

以下、各章について要約する。

序章では、中期と初期の違いを見るために、初期について、森鴎外「花子」(『三田文学』一九一〇・七)に対する志賀直哉の批評「新作短篇小説批評」(『白樺』同・八)を手がかりに、読み手としての志賀直哉の問題点――自己の視線・肉体の不在――を確認し、鴎外の「花子」と志賀の「彼と六つ上の女」(『白樺』同・九)の比較から、書き手としての志賀の可能性――〈女〉を見ること、視線の交錯、自己の物語を編むことへの萌芽――を見出した。物語が展開しうる可能性(時間的、空間的)、可動範囲を物語領域と名づけ、女中や女性によって物語領域がより広がりを見せる中期に着目することの重要性を論じた。

第一章「女中という物語領域――中期作品の問題性――」では、中期の物語領域の広がり、中期作品の可能性について、女中の描かれ方に着目して検討した。家族ではないが家庭の一員である女中が、性的な存在として意識されたとき、男性主人公はそこに罪を見出しながら、罪悪感を持つ自己の物語を発動させる。里見〓や佐藤春夫の作品においては、女中はこのような形で罪なる存在として男性主人公に意識されている。このように一対一の関係を描く物語領域とは異なり、中期の志賀直哉の作品では女中はより複雑な関係性を含む物語領域を構成する。女中は家庭イデオロギーを撹乱し、そこに危険を持ち込むことで、物語領域にサスペンスを与えるのである。性的な存在としての女中の見えない内面に脅かされる夫婦を描いた「好人物の夫婦」(『新潮』一九一七・八)、透明な信頼関係に支えられるべき家庭に嘘を持ち込む女中を描いた「流行感冒」(『白樺』一九一九・四)などに、物語領域としての女中の様態を確認し、さらに「邦子」(『文芸春秋』一九二七・一〇〜一一)においては主婦と女中の曖昧な境界をめぐる、女性同士の抗争を見た。これをふまえて、中期においては、女性や女中を一対一の関係のみで捉えるのでなく、その関係性が置かれている状況、文脈を含めて描くことが課題だったことを明らかにした。

第二章「女中は軍人と結婚すべきか――「佐々木の場合」――」では、「佐々木の場合」(『黒潮』一九一七・六)における、女中のセクシュアリティという物語領域の検討と、その物語を伝えることをめぐる表現方法の問題を併せて考察した。従来は「自分」という聞き手の存在が佐々木を相対化する点が評価されてきたが、この「自分」は作品世界のメタレベルではなく相談の現場におり、しかもコミュニケーションは失敗している。そこで新たに女中を主語として問いをたてなおすことによって、男たちの相談の現場で見落とされているもの、〈家族国家〉観の下で天皇に奉公する軍人と、〈家父長制〉の下で親に仕えるごとく主家に奉公する女中という好配偶が何故実現しないのかを考察した。当時の社会状況における子守→御付きの女中への出世の意味を考えに入れると、経済的安心と悲恋の物語とを両立させようとする女中の欲望という別解が見えてくるようになる。相談の現場におけるコミュニケーションの失敗こそがそのような別解を可能にしたことを確認した。

第三章「見出された「心境小説」――「焚火」――」では、語り―聞くことのずれを描いた「佐々木の場合」を受けて、「焚火」(『改造』一九二〇・四)を取り上げ、他者の物語を聞く=受け止めることの可能性について論じた。芥川・谷崎論争における「大きな蛇」がいるといった〈話〉に対する芥川龍之介の批判を手がかりにして、「大蛇」や「大入道」とは異なる「不思議」な〈話〉を「皆」が探り出してゆく過程を確認している。ここでは語り手も〈話〉の選別・挿入・再構成を行っており、聞くことを通して「自分」の中に小説が生れる過程が描かれていると分かる。また「焚火」が、私・心境小説論争と芥川・谷崎論争の二つに巻き込まれた作品であるという文学史的な問題性と、作品の方法意識の関係を考察することによって、志賀と芥川が〈話〉を扱う技術への関心を共有していたことを明らかにした。

第四章「時任謙作とその時代――連載小説としての「暗夜行路」――」では、物語を聞くことの影響が前章と反対の形であらわれた場合を確認した。「暗夜行路」(『改造』一九二一〜一九三七)には自分の出生の秘密=運命という物語を聞くことで主人公が自己の物語を見失うさまが描かれているが、その自己物語の変転を長篇の連載過程に沿って確認し、同時代評との関わりから、作品と読みと作者の作り出す磁場として作品を捉えなおそうとした。主人公の謙作は、時代の子と「不義の児」という二つの自己像の間で、一度は「不義の児」としての運命悲劇を生きようとするが、妻の直子の姦通を知ると運命悲劇を拒否し、自己の内なる敵と戦うべく大山へと発つ。同時代の読みは主人公に「自己改造」を経て「調和」に向かうことを期待しているが、連載最終回に、自己完成の物語から排除されようとした直子が主人公の位置を簒奪するという事件が起きる。それが「恋愛小説」という新たな評価を生むまでの様相について検証した。

第五章「文壇小説としての「邦子」――妻の死を収奪する「私」――」では、努力目標としての「主婦」像がいかに女中や愛人といった女性たちに脅かされていたかを描いた「邦子」(『文芸春秋』一九二七・一〇、一一)を取り上げた。登場人物の夫婦が自己を物語化しながら、そこに固執するさまと、その物語が交錯しすれ違う様相を見た。作中の「私」は「芸術至上主義」という物語に、妻の邦子は「家庭の平和」という物語にそれぞれ固執している。「私」は自身の不倫のために邦子が自殺すると、当時の文壇事象を参照しながら妻の自殺を、自分の「為事」と家庭の対立の果てに起きた事件として物語化しようとする。モデルとされた島崎藤村や広津和郎について事実と併せて確認し、「私」の物語の欺瞞性を明らかにした。「私」を文壇的な人物として仮構し、挫折させることで作者の生活や態度と作品の問題とを混同している文壇を批判する、というこの作品の機構を確認した。

第六章「「菰野」――見せ消ちの〈色〉と〈欲〉――」では〈文芸復興〉期の志賀直哉について「菰野」(『中央公論』一九三四・四)を取り上げ考察した。「菰野」の主人公である〈小説の書けない小説家〉は、むしろまつわりつく物語から逃げようとしているように見える。主人公に書けないと言わせつつも結局何が書けないかを書いてしまう、というこの作品の方法を見せ消ちの方法として、それが〈色〉と〈欲〉の物語を馴致する技術であるとした。弟の金銭上の不始末=〈欲〉の物語も、また旅館の女将との実現しなかった不貞という〈色〉の物語も書きとめられている。改稿に注目すると、初出「日記帖」から「菰野」への変化は、メロドラマ的な病む〈女〉を最後に浮かび上がらせる効果を持つと分かる。見せ消ちの方法は、メロドラマを頓挫させつつ〈小説〉に取り込んむためのものであった。これを踏まえて同時代評の分析を行い、志賀が同時代の文壇に対して「緊張」感をもって臨んでいたことを明らかにした。また同時代の「自意識」的な小説家小説との差異から志賀直哉の小説の技術への自信について考察した。

中期に関して、従来は志賀は狭い家庭を舞台にした私小説を書くようになり、物語性が枯渇したように言われてきた。しかし女中という物語領域に注目することで、まさにその家庭という一見ドラマチックでない環境が、実はサスペンスに富んでいることが明らかになった。家庭イデオロギーを撹乱するという女中の存在を中期の作品世界は充分に活かしているのである。また、「焚火」の聞くという方法、「暗夜行路」の自己物語の方法、「菰野」の見せ消ちの方法を、物語を小説に流し込むための苦心として眺めると、中期の志賀直哉作品の物語を扱う技術の完成度に驚かされる。中期の作品群では物語領域の広がりと併せて、物語の表現方法においても実に様々な挑戦が展開されているのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は志賀直哉の中期(1917〜1937年)の作品を中心に、作中の女性の自律的な役割に注目することによって、これまで男性原理の典型的な体現者であると目されてきたこの作家の見直しを行うと共に、単なる「私小説」にとどまらぬ方法意識、あるいはまた、同時代の文壇との生きた応答関係を明らかにすることをめざしたものである。

第一、二章では近代小説における「女中」像が、男性主人公の内面を形成していく上で重要な役割を果たしている点に注目し、「佐々木の場合」を初めとする志賀の作品群において、「女中」の存在が一見自明のものと思われていた家庭のイデオロギーを撹乱していく様相を導き出している。

第三章では「焚火」を対象に、「心境小説」というジャンルが生成される過程でこの作品の果たした役割を検証している。その上で、従来作者の事実を随筆風に描いたものと見なされていたこの短篇が、「話」をいかに創り上げるかという独自のモチーフを内在させていること、またそこに同時代の芥川龍之介の問題意識との接点が見出せる事実を指摘している。

第四章では、「暗夜行路」が二十年近くに及ぶ発表の過程で大きくその性格を変容させていった過程を検証している。すなわち、時代的な苦悩と、不義にまつわる運命悲劇という異なる二つの受容が並立する中で、次第に調和的な自己完成に向けて連載が進み、さらに結末でこうした枠組みまでもが自壊し、対等な男女の「恋愛」が現出するに至る、という分析は、作者の意図と読者の期待との相互関係の中で小説が生成されていく過程を時間的に明らかにした試みとして注目されるものである。

第五、六章においては、「邦子」において自殺する「妻」の、その言葉の持つ批評的機能に着目し、これが主人公、ひいては同時代の芸術至上主義的な価値観を相対化していく構造を指摘している。また、「菰野」の分析においては、何が書けないかを書くことによって物語と小説家との関係を表現していく、この作品独自の構成に注意を促している。

志賀の文学の総体を論じるには今後さらにより多くの作品を対象にしていく必要があるが、志賀直哉が自ら描く女性像によって絶えざる自己相対化を試み、その上で「私小説」という通念にとどまらぬ、さまざまな方法を駆使していた事実を明らかにし得た点は高い評価に価する。

以上の点から、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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