学位論文要旨



No 120641
著者(漢字) 平野,多恵
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,タエ
標題(和) 明恵の研究
標題(洋)
報告番号 120641
報告番号 甲20641
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第494号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 月本,雅幸
内容要旨 要旨を表示する

本論は、『明恵上人伝記』『明恵上人遺訓』を中心に説話・法語の流布と生成を探った第I部と、明恵の和歌を多角的に検討した第II部、明恵と弟子の関係を論じた第III部に分かれている。以下、各部の論旨を略述する。

第I部は、明恵の伝記・法語・説話の生成と流布の様相を、『明恵上人伝記』(以下、『伝記』)と『明恵上人遺訓』(以下、『遺訓』)の伝本調査に基づいて、明らかにしようとしたものである。

第一章では、伝本が未整理で基礎的研究も完全でなかった『伝記』諸伝本について、出来る限り多くの写本を調査し、その系統と成立を大づかみであれ、捉えることを目指した。第一節では、明恵の根本伝記とされる『高山寺明恵上人行状』と『明恵上人伝記』の特徴を述べ、第二節では、『伝記』版本と写本について述べた。第三節では、諸写本の書誌情報と特徴を系統ごとに記した。第四節では、『伝記』の系統と成立を検討した。慶應貞治本や高山寺秀智本が未整備の段階の伝本で古態を保つことを見出し、『伝記』の本文系統が二大別されることを明らかにした。また近世に同一本文で流布した『伝記』版本について、版本の草稿に関わる写本として仁和寺本・高山寺残缺本の存在を指摘し、版本化の道筋を浮かび上がらせた。『伝記』の古態本を明らかにし、その成長過程に見通しが得られたことで、『伝記』に収められた逸話の真偽と伝播のありようを、より具体的に探ることができるようになった。初期『伝記』の編者や増補記事が作られた場についても検討し、真言系の僧が初期の『伝記』の基礎を作り、真言と禅が兼修された場で増補説話が作られていったと考えた。『伝記』において新たな説話が増補されていく背景には、明恵に関わる印明の伝授や典籍の書写などを通じての寺院間の交わりが関係していたと思われる。

『伝記』伝本研究に伴い、第二章では『明恵上人遺訓』の成立過程を掘り起こした。第一節では、『遺訓』成立を考える際の問題の所在を明らかにし、第二節〜第四節では、初期の段階では『伝記』下巻に組み込まれていた語録が、「上人御詞抄」として一つのまとまりとされ、徐々に整えられて条文も増補されて、最終的に『遺訓』として版本化される過程を明らかにした。第五・六節では、「御詞抄」と弟子の記した『明恵上人遺訓抄出』との関係を検討し、それぞれが『明恵上人遺訓』原本から条文を取り入れた可能性のあることを指摘した。これによって、『遺訓』に収められた明恵語録が明恵のものか否かを見定める基礎が作られた。

第三章は、第一・二章の成果をふまえ、『沙石集』所収の明恵説話を検討したものである。第一節では、『沙石集』巻三「栂尾の上人の物語の事」に載る「あるべきやう」の法話と『伝記』『遺訓』及びその他の明恵関連資料に見える「あるべきやうは」を比較検討し、「あるべきやうは」の成立と成長過程を明らかにした。第二節では、『沙石集』に見える春日大明神御託宣の周辺を検討するなかで、明恵の事跡への関心が高かった当時の状況を浮き彫りにし、無住の明恵関連説話情報源として、南都の菩提山と西大寺を想定した。第一・二節での検討によって、『沙石集』の明恵関連説話には、無住の作為的な編集の可能性があることも示した。

第II部は、明恵の和歌をめぐる諸問題を検討しながら、その和歌と和歌観のありようを見定めようとしたものである。

第一章では、『伝記』の伝本研究をふまえて、西行や明恵の和歌を論じる際に注目されてきた〈西行歌話〉を再検討した。第一・二節では、〈西行歌話〉の問題点と従来の研究に触れ、第三・四節では、『伝記』の古態本を抄出したと見られる高山寺慶長四年本で〈西行歌話〉の一部に異同があることを指摘し、この話が後代の増補であることを明らかにした。第五節では、〈西行歌話〉に見える西行歌への疑問点を提示した。第六節では、〈西行歌話〉に含まれる思想内容を検討し、そこに書かれる内容が西行だけでなく明恵の思想とも重なるものであることを論じた。〈西行歌話〉が生まれた背景としては、西行と明恵における思想や資質の類似性が想定される。また増補部分に見られる和歌真言観は、後代の『沙石集』や鵜鷺系偽書『三五記』に確認され、この歌話の核心思想が、鎌倉後期から南北朝にかけての時代が生み出した和歌観の反映であったと結論付けた。

第二章は、明恵が和歌を学んだ場を明らかにしようとしたものである。第一節では、明恵の自筆和歌草稿や聖教に記された和歌の書付を分析することで、明恵が花山院・行尊・西行の歌を心に留めていたことが明らかになった。第二節では、明恵が影響を受けた和歌の享受者層と明恵の師で『和歌色葉』の著者でもある上覚が仁和寺で接点を持つことから、明恵が仁和寺周辺の文化圏のなかで和歌を学んだ可能性を浮かび上がらせた。明恵は先行歌人の中でもとりわけ西行に惹かれていたが、西行が追慕した人物の和歌を同じく享受するという状況が、明恵を初め仁和寺周辺の和歌文化圏における西行に関係の深い歌人について確認された。

第三章は第二章を承けたものである。明恵詠のなかに西行歌の歌句と発想を意識的に受容した歌があることを指摘し、明恵における西行歌の影響を具体的に見出した。〈西行歌話〉の内容すべてを事実として受け入れることはできないが、明恵は仁和寺という和歌文化圏の中で、西行と同じものにとりわけ強く惹かれ、影響を受けていたといえる。

第四章では、従来明恵の作歌法の根本とされてきた「安立」「心ゆく」を、明恵の著作類を辿りなおすことで再検討し、明恵が自ら編んだ歌集の意味を探り出そうとした。「安立」が言葉に表す意、「心ゆく」及び「遣心」が心を慰める意であることを明らかにし、「遣心和歌集」所収歌の分析によって、その撰集の志向が「遣心」であることを見出した。このような志向は、『却廃忘記』の発言に窺える心のままに詠む明恵の詠歌姿勢とも通じ合うことを述べた。

第五章では、明恵晩年の思想と詠歌の関係を実証的に掘り起こすことを目指した。第一節では、菩薩として衆生を導いて解脱させるために詠歌するという『解脱門義聴集記』に見える明恵の発言を紹介し、第二節では、明恵が晩年傾倒した五秘密真言、仏教の根本として重視した人法二空を歌に詠み込み、教理的な内容をふまえた倶舎・因明に寄せた歌があることを指摘し、その内容を分析した。第三節では、歌が記された書状や『明恵上人歌集』(以下、『歌集』)所収の贈答歌を読み解くことで、明恵の菩薩としての詠歌のありようを考察した。第四節では、明恵の詠歌姿勢の相違について触れた。

第六章では、自筆詠草や『歌集』、『伝記』、勅撰集等に見える明恵詠を読み解きながら、明恵の詠歌姿勢の変遷を追い、その特質を浮き彫りにしようとした。第一節では、「高弁四季詠草」と「自筆墨消和歌」という二つの自筆詠草の改作過程を追うことで、若い頃の明恵が詠歌の改作に逡巡する様と、その苦悩から脱する瞬間を浮かび上がらせた。第二節では、坐禅を契機として詠まれた歌に着目し、坐禅によって澄んだ心が生じ、その上で明恵が詠歌していたことを明らかにした。また、禅定に励んだ時期の多く生じた瑞夢と和歌の関連性を探り、「心」によって繋がっていることも指摘した。第三節では、明恵の和歌の変遷と特質をまとめた。1では本章の要点をまとめながら、これまで注目されてこなかった明恵の詠歌傾向の変化を明らかにした。明恵の詠歌傾向は、伝統的な和歌の規範に則った四季詠の和歌草稿から窺える和歌初学の若年期、「遣心」としての和歌を志向して「遣心和歌集」を編んだ承元三年、三十七歳頃の壮年期、菩薩としての詠歌姿勢を語った五十二〜四歳という晩年期と、年代の推移に伴って大きく三つに分けられるのであった。2では、西行の和歌と対照させることによって、明恵の和歌の特質を浮かび上がらせようとした。和歌において、「数寄」「やさしき心」を重視する点は西行に通じるが、澄んだ心を前提として詠歌した点で、二人は決定的に異なっている。明恵は修行によって培われた澄んだ心の上で和歌を詠み出すことで、狂言綺語観の延長上にあり、和歌への執着を抱え続けた数寄が入り込んだ袋小路を抜け出していたのである。このような明恵の和歌観は和歌及び思想史上特筆すべきものといえる。

第III部では、第I・II部で論じ残した問題の一部として、明恵と弟子の関係を切り口とした論を扱った。

第一章では、『歌集』末尾の五首の配列に着目し、そこから浮かび上がる明恵像を考察した。編者の自由になる詞書のない末尾五首には、明恵の高弟であり『歌集』の編者でもあった高信の捉えた師の姿が映し出されている。高信は、最終的に悟りに至った明恵の姿を『歌集』の末尾で提示して、締め括りとしたのであった。

第二章では、明恵の自筆書状や講義録、『華厳縁起(華厳宗祖師絵伝)』の詞書などを丹念に読み込むことで、尼寺善妙寺の尼僧たちと明恵との関わりを浮き彫りにした。明恵は真摯に尼僧たちを育て導こうとしており、尼僧たちもまたその期待に応えようとしていたのである。なお、明恵が制作に関わったとされる絵巻『華厳縁起』の詞書と講義録『解脱門義聴集記』に見える明恵の発言との一致をはじめて指摘し、その他、聞書類に見える明恵の女性観を示す発言を新たに紹介している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中世の文化を考察する上で見逃せない個性を体現している、鎌倉時代前期に華厳宗の僧として高山寺を拠点に活動した明恵を対象として多面的に考察したものである。本論は三部に分かれ、四点の附録と四点の図版を付す。

第I部「伝記・法語・説話」は、明恵の没後に成立した伝記、説話などの流布と生成を探る。第一章「『明恵上人伝記』の系統と成立」は、従来伝本が未整理で基礎的研究も不十分であった『明恵上人伝記』(以下『伝記』と略す)諸伝本の調査・検討であり、伝本間で錯綜する所収説話の収録順序や有無のあり方の考察から、慶応大学蔵貞治本・高山寺蔵秀智本が、未整備の段階の伝本であり古態を保っていることを見出し、『伝記』本文が二系統に分かれることを明らかにする。また、仁和寺蔵本・高山寺残缺本が近世に流布した版本の草稿に関わる写本であることを指摘し、『伝記』の成長過程に見通しを得ることで、『伝記』収録説話の真偽とその伝播のありようを具体的に探ることを可能にした。第二章「『明恵上人遺訓』の成立」では、初期の段階で『伝記』下巻に組み込まれていた明恵の語録が、「上人御詞抄」として一つのまとまりとされ、徐々に整えられて条文も増補され、最終的に『明恵上人遺訓』(以下『遺訓』と略す)として版本化された過程を明らかにした。これらにより、『遺訓』に収められた明恵語録が明恵のものか否かを見定める基礎が作られたと言える。第三章「『沙石集』における明恵関連説話」では、「阿留辺幾夜宇和」の成立とその成長過程を明らかにし、明恵関連説話の流通経路を明らめ、『沙石集』編集の問題にも一石を投じている。

第II部「和歌」第一章「『伝記』における西行歌話の再検討」では、第I部の成果を援用して、従来、西行の歌観を示すものとして論じられてきた、『伝記』中の西行歌話の一部が後代の増補であることを明らかにし、この歌話の核心が鎌倉後期から南北朝にかけてのころの和歌観の反映であるとする。第二章・第三章では明恵の和歌が仁和寺の文化圏や西行の影響を受けていることを立証する。第四章・第五章では、明恵における和歌の意義を考察し、第六章では第II部を総括して、伝統的な和歌の規範に則った初学の若年期、「遣心」としての和歌を志向した壮年期、菩薩としての姿勢から詠歌した晩年期と、年代により推移したことを明らかにする。

第III部「明恵とその弟子をめぐって」は第一章で『明恵上人歌集』を編んだ弟子高信を、第二章では尼僧たちと明恵との関わりを中心に考察する。

本論文の扱う範囲は多岐に亘るが、『伝記』や『遺訓』の伝本系統や成長過程の解明は今後の研究の重要な立脚点を作った点に大きな意義があり、明恵の和歌に関しても多くの新見を提示した。付録として付された『明恵上人歌集』の注釈も、難解な歌集の詳密な読解として極めて意義深いものである。『夢記』の問題や、思想の一層の究明など、今後に期待する部分もあるが、本審査委員会は上記のような研究史的意義を認め、本論文が博士(文学)に十分値するとの結論に至った。

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