学位論文要旨



No 120643
著者(漢字) 今井,上
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,タカシ
標題(和) 源氏物語の表現論的研究
標題(洋)
報告番号 120643
報告番号 甲20643
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第496号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 尾上,圭介
内容要旨 要旨を表示する

『源氏物語の表現論的研究』と題する本論文は、全体を三部に分かち、はじめに本論文全体を統括する序論を付す。序論はさらに「源氏物語の作中人物」「源氏物語の作中和歌」「源氏物語の構造と表現」の三部に分かれ、本論分の第I〜III部にそれぞれ対応する。戦後の源氏物語研究に対する異議申し立てとして、ニュークリティシズムや読者受容論の影響の下に現れた新たな研究の多くが、読者の権利だけを肥大化させ、自閉した「私の読み」を量産するところに低迷してしまった今、私たちに求められているのは、たしかな文献学的手続きに基づいた上で、源氏物語そのものを表現に即して緻密に読み直す作業に他ならないと思われる。そのことを、具体的事例の処理を通じて明らかにすることが本論文の基本的姿勢である。

第I部「作中人物に関する表現論的研究」に収めた諸論考においては、この物語の登場人物の幾人かを取り上げ、源氏物語固有の論理なり主題なりを、特定の鍵語(「うき」、「情け」、「心変わり」など)に注目したり、文章の読み取りを具体的に検討することの中から明らかにする。この物語の登場人物の形象について考えることを通じて、源氏物語の主題や作品世界の成り立ちを明らかにしようとする方法自体はオーソドックスなものであるけれども、ともすると従来の作中人物論の立場が、物語中の人物一人一人をあたかも生身の人間のように見て、彼らの人間性や性格について批評したり、どのような環境がそうした彼らを育んだのか、その生い立ちや人間関係の分析といったところに終始しがちであったことは問題なしとしない。個性というものが重視されるようになったのは近代以降の傾向ともいわれるように、作中人物の性格や個性に過大な意味を見出そうとする態度は、この物語の理解をむしろ低いところにとどめてしまうと考えられる。

序論I「源氏物語の作中人物」では、従来その人物像をいかに把握するかに関してさまざまの議論が重ねられてきた宇治の大君を取り上げて、彼女が薫を拒んだのは、単なるナルシシズムや利己的性格によるものではないこと、つまり彼女の個性に還元できるものではないことを文脈の読み取りのうちから明らかにする。彼女が繰り返し心にかけていたのは、人の心の移ろいやすさ、愛情の非永遠性の問題なのであり、それは古今和歌集の主題にも通底してゆくものである。前代の万葉集がその点に関してはきわめて淡白であったのに対し、古今和歌集の歌歌は移ろいやすく頼みがたい人の心というものをとりわけ丹念に描き出して行くのであり、人の心の無常性の問題は古今集から、源氏物語を貫く、優れて王朝文学的な主題に他ならなかったことを明らかにする。作中人物への関心を、安易な実体化やその苦悩への共感、あるいは物語固有の文脈から切り離した上で彼らの思想や性格を論じるといったところに低迷させてはならないのであり、作中人物それぞれの造型を考えることを通して、源氏物語の主題、ひいては平安朝文学固有の価値観をも浮き彫りにする道を模索することが、この第一部に収めた各論考に共通するモチーフである。

第一章「情け・六条御息所と光源氏」では、平安朝随一の美的心性などとも言われてきた「情け」が、源氏物語においては、時に作中人物たちに不自由を強いる軛としても作用する機微を、御息所と源氏の関係に即して明らかにする。御息所のものを思いつめがちな性格が生霊化を招いたとするこれまでの見解に反省を求め、人物の内面や性格に過大な意味を見出すことの危うさを論じる。

第二章「六条御息所 生霊化の理路―「うき」をめぐって―」は、六条御息所の生霊化事件は、彼女が苦悩を重ねた挙句のものであったとされる従来の把握に対し、繰り返される「うき」という言葉じたいが、彼女の魂の「浮き出す」、物語のクライマックスを招き寄せる、源氏物語ならではの言葉のダイナミズムを論じる。

第三章「朝顔姫君の形象と主題―「変わる心」と「変わらぬ心」」は、朝顔姫君の物語においては「心変はり」、人の心の無常の問題が極めて重い意味を持っていたことを析出し、これまでもさまざまに論じられて今なお決着を見ない、源氏拒否のゆえんに説き及ぶ。あわせて人の心の無常の問題は、紫上、宇治の大君にもかかわる、源氏物語の根本的なモチーフであったことも明らかにする。

第四章「光源氏論―澪標巻「思ふ様にかしづき給ふべき人」をめぐって―」は、副題に掲げた澪標巻の一文の理解を考えることを通じて、澪標以後、光源氏が権勢家に変貌するという従来の理解に見直すべき点がないか問うたもの。試練によって人は成長・変貌するといった作中人物論によく見られる把握が、ある種のパターナリズムに陥っていないか、近代以降のビルドゥングスロマーン的発想にひきつけて物語を裁断しようとしていないか、警鐘を鳴らす。

本論文第II部は「作中和歌に関する表現論的研究」と題し、この物語に織り込まれた作中和歌の意義に関して考察した諸論考を収める。この物語の作中和歌がいかなる意義を持ち、作品世界の形成にどのように関与しているのかということに関してはなお明らかでない点が多く、またそれは一口に説明できるようなものではない。すなわち物語に織り込まれた和歌の一つ一つが、物語の局面それぞれにおいて果たす役割を、その展開に即して明らかにしてゆくことが求められるのであり、「登場人物の意図」、「物語作者の意図」、「読者にもたらす表現効果」といった観点を混同することなく、作中和歌を多角的に評価してゆく姿勢が必要とされることを主張する。

例えばこの物語の作中和歌の意義として、散文部分では語られることのない人物の心情や深層心理を和歌が明らかにするということが言われもするが、そうした散文と和歌とを対立的に捉える姿勢は、実態に即したものでないことを、従来もさまざまに議論されてきた浮舟の手習い歌を再検討することで明らかにするのが、序論II「源氏物語の作中和歌」である。源氏物語の読解に、人物の深層心理といったきわめて近代的な価値観を持ち込むことは適切でないのであり、作中和歌、ことに独詠歌を人物の心の結晶のように捉える従来の把握は根本から見直される必要がある。

第五章「氷閉づる月夜の歌―朝顔巻の和歌の解釈をめぐって―」では、朝顔巻末近くに配された光源氏と紫上の和歌を取り上げ、一首のうちに人物の心情を表す言葉がいっさい含まれていないにもかかわらず、そのとき彼らは何を考えていたのか、一首に託した思いはいかなるものであったかと、作中人物の心を深読みしようとする態度が、解釈上のアポリアに陥っていることを指摘する。この物語のうちに織り込まれた和歌を単に人の心のあらわれと見るだけでは不十分なのであり、本章では「場面」を作り出してゆくための和歌というものが少なからず源氏物語のうちに存在することを論じた。

第六章「浮舟と「峰の雨雲」―浮舟巻「かきくらし」の一首をめぐって―」では、「峰の雨雲」にわが身をなし果ててしまいたいと歌う浮舟の和歌のうちに「高唐賦」の世界像が揺曳していることを指摘した。それは一首を詠んだ浮舟の意図せざるものであったが、和歌のうちに、この時代、女人の死と深いかかわりを持った詩文として受容された「高唐賦」のイメージが取り込まれることで、一首が浮舟の入水という物語の先行きを示唆するものとなっていることを明らかにした。作中和歌を読むということは、単に一首にこめた作中人物の意図を明らかにすることにはとどまらないことを具体的に述べる。

第七章「踏み惑う薫と夢浮橋−宇治十帖の終末についての試論―」は、源氏物語最後の和歌の読解を通じて、宇治十帖終局の世界が果たしてどのようなところに行き着くのかを明らかにしようとしたもの。物語の最後を飾る薫の歌が、父柏木の歌と非常によく似ていることを指摘し、遠く離れた作中和歌どうしを響き合わせることで、作中人物たちの運命を浮き彫りにしようとする物語の方法を明らかにする。

源氏物語の形成に、作中和歌が果たす役割は非常に重く、また多様であり、その評価には常に複眼的な視点が求められることを具体的な例に即して明らかにすることが、この、第II部所収の論考に共通するモチーフである。

本論文第III部は「構造に関する表現論的研究」と題し、第I部、第II部所収の各論考で用いた、作中人物へのアプローチ、作中和歌への視点を統合し、源氏物語の巻と巻とがいかに連結し、ひとつらなりの物語世界を形作ってゆくか、その成り立ちや構造を明らかにしようとする。序論IIIでは本論文の基本的立場である表現論の意義と物語の構造に関する問題を、源氏物語研究の現在ということに絡めて論じる。

第八章「平安朝の遊離魂現象と源氏物語−葵巻の虚と実―」においては、近時まるで源氏物語が一から創造したものであるかのように論じられることが少なくない、葵巻の生霊事件について、この時代の古記録や和歌資料に目配りをしたうえで、どこまでがこの時代に現実に信じられていたことで、どこからが物語ならではの虚構であるのかを腑分けしようとする。この時代の人にとっても名のみ知られて実態は明らかでなかった生霊という材料を選び取ることで、虚とも実ともつかぬ世界のうちに読者を巧みに誘いこむ葵巻の方法について論じる。

第九章「松風巻論−光源氏の栄華の起点として−」では、松風巻に描かれる光源氏の大井逍遥の背後に、宇多法皇の大井川行幸の事跡が重ねあわされていたという事実をまず新たに指摘した。松風巻の物語は宇多大井川行幸に献上された貞信公忠平の歌「小倉山峰のもみじば心あらば今ひとたびのみゆき待たなん」を引用することで光源氏を宇多天皇に重ね合わせるのだが、それは源氏が帝の父として准太上天皇の座に就くという、それ以後の物語の展開と密にかかわっていたことを明らかにする。歴史的事跡を巧みに取り込みながら虚構世界を織り成してゆく源氏物語のありよう、歴史上の事跡と物語が交差するダイナミズムを析出しようとする。

第十章「宿木巻論−時間・語り・主題−」は、従来宇治十帖の中継ぎの巻として片付けられることの多かった宿木巻を、時間構成、語りの方法、主題と巻名との関わりなどの観点から改めて検討し、この巻が宇治十帖の内にきわめて重い位置を占めていたことを明らかにする。宿木巻が中君の悲哀を語りつつもそこに没入することなく、むしろそのことには早々に見切りをつけて新たな話題、浮舟物語を切り開いてゆく機微、巻頭の時間をあえて曖昧にすることで新たな話題をそれまでの物語世界のうちに周到に接続させてゆくあり方などを、宇治十帖後半の世界の主題をどのように把握するかといった問題とあわせて明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』の精緻な表現分析を通して、その心理描写や人物造型、物語世界形成の方法を究明したものである。はじめに本書全体の問題意識と分析方法を明晰に提示した序章を置き、本論は三部に分かたれた十章から成る。

第I部「作中人物に関する表現論的研究」第一章「情け・六条御息所と光源氏」では、一般に六条御息所の、光源氏の正妻葵上に対する嫉妬・怨念がその生霊化を招いたと解されがちであるけれども、物語本文に彼女の嫉妬・怨念を語る言葉など無いのであり、「情け」すなわち真情を矯めて演じねばならぬ貴族的優雅さの抑圧こそが、その生霊化の基底をなしていたのだとする。そして第二章「六条御息所 生霊化の理路」ではさらに、御息所の和歌や心情表現に頻出する「憂き」という言葉が常に「浮き」を響かせつつ、それがやがて身から「浮かれにし心」すなわち遊離魂の生霊化を必然たらしめてゆく過程を克明に析出し、和歌的な表現によって心情がかたどられてゆくこの物語の心理描出が、近代小説の写実的な心理描写とはまったく位相を異にするものであることを明らかにしている。第三章「朝顔姫君の形象と主題」は、朝顔姫君が六条御息所と常に対比して描かれていることに注目し、この姫君のになう主題を明らかにする。第四章「光源氏論」は、澪標巻以後の光源氏について、摂関家的な権謀術数に長けた政治家に変貌するという従来のあまりにも現実的水準に引き寄せた読みを鋭く批判し、やはり物語本文に即した読みから、光源氏の理想的な人間性と超越性を彫り深く浮かび上がらせている。

第II部「作中和歌に関する表現論的研究」の三章はいずれも、作中人物の和歌が、先行和歌や漢詩文の引用によって、一種のドラマティック・アイロニーのように、当人の与り知らない意味を帯びつつ、物語世界の生成に寄与している事例を指摘し、そのような作中和歌表現の諸相を多面的に解明している。第III部「構造に関する表現論的研究」の第八章「平安朝の遊離魂現象と源氏物語」では、生霊に関する平安時代の資料を博捜し、六条御息所の生霊化におけるこの物語独自の様相を浮き彫りにしている。第九章「松風巻論」では、松風巻の光源氏が、史上の嵯峨天皇や宇多上皇を髣髴させることを指摘し、光源氏が後に准太上天皇になるという物語展開の上でこの巻の有する意義を闡明する。第十章「宿木巻論」では、宿木巻の年立て上の問題に関する従来の議論を根本的に批判し、宇治十帖後半の始発となるこの巻固有の時間構造と語りの特徴を明らかにしている。

このように本論文は、貴重な新見を数多く提示している。そのなかには若干、なお再検討を要するものもあり、また〈近代的な解釈〉に対する批判には、やや性急な一面化も認められるものの、しかしながらたしかに近代の小説の写実性とは異なるこの物語の心情表現や人物形象、物語世界形成の方法を丹念に明らかにした功績は高く評価される。よって本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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