学位論文要旨



No 120644
著者(漢字) 佐藤,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ケンタロウ
標題(和) 13〜15世紀マグリブ・アンダルスにおける預言者生誕祭
標題(洋)
報告番号 120644
報告番号 甲20644
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第497号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蔀,勇造
 東京大学 教授 高山,博
 東京大学 教授 羽田,正
 早稲田大学 教授 佐藤,次高
 流通経済大学 教授 関,哲行
内容要旨 要旨を表示する

イスラーム世界において祭といえば,まず想起されるのは犠牲祭(イード・アルフィトル)と断食明けの祭(イード・アルアドハー)の二大祭(イード)である。しかし,ムスリムたちの信仰にかかわる祭の機会は他にもある。その中でも,現在に至るまで特に幅広くおこなわれているのが,預言者ムハンマドの生誕祭である。ただし,この預言者生誕祭は,必ずしも初期イスラームの時代から見られるものではなく,それゆえにこの祭をビドア(スンナにない新奇な逸脱)であるとして非難する意見も,現在に至るまで存在している。

しかし,ただ一つの「正しい」イスラームを措定して,それを規準に現実のムスリムたちの多様な宗教的実践をはかるような立場を取るべきでないのは言うまでもないだろう。これらの宗教的実践にはそれぞれ正当化の論理があり,それは各々の時代や地域の現状を反映したものだったと考えられるからである。本研究で対象とする預言者生誕祭もまた,それを創出し受容した社会にとってはそれ相応の理由と正当性のある信仰の表現形態だったのだと考えるべきであろう。

本研究では広大なイスラーム世界のうち西地中海周辺に広がるマグリブ・アンダルス地域を対象としたが,この地域ではじめて預言者生誕祭の事例が現れるのは,13世紀の都市セウタにおいてである。このことは,当時のセウタ社会が新たな形での信仰の表現の仕方を求めていたと考えることができるだろうし,セウタで始まったこの預言者生誕祭が13世紀から14世紀にかけてマグリブ・アンダルス各地に大きく広がっていったことを考えれば,新たな形態での信仰を求める土壌はより広がりを持っていたといえる。

本研究では,このような新たな祭の出現と広がりを,マグリブ・アンダルス地域が当時置かれていた状況と関連付けつつ検討した。その結果をまとめれば以下のようになる。

まず第1章では,マグリブ・アンダルスにおける預言者生誕祭の出現とその揺籃の地セウタについて,特に預言者生誕祭奨励の書『連ねられた真珠』に焦点をあてて検討した。

この著作は,セウタのカーディー(裁判官)をつとめていたアザフィー父子(父のアブー・アルアッバースおよび子のアブー・アルカースィム)によって13世紀前半に執筆されたもので,後世のムスリムからは,マグリブ・アンダルスにおいてはじめて預言者生誕祭の挙行をよびかけた書とみなされ,しばしば参照されてきたものである。この中でアザフィー父子は,従来ムスリムたちが市中で祝っていたイエスや洗礼者ヨハネにちなむ祭はキリスト教徒たちのものであり,それに代わってイスラームの預言者ムハンマドの生誕祭を挙行すべきであると主張している。

このような書を執筆したアザフィー父子の動機としては,セビーリャ陥落(646/1248年)を頂点とする「大レコンキスタ」の展開やカタルーニャ海軍の成長といったセウタ周辺におけるキリスト教徒の脅威が痛感される状況にあって,ムスリムとしての意識を強めたこと,そしてそれに伴ってキリスト教徒との境界線を明確にしようという意識が働いたことが考えられる。そのためにアザフィー父子は市中の祝祭にイスラーム的な意味を付与しようとするが,その際,イスラームとキリスト教とを分かつ上で決定的な存在である預言者ムハンマドの生誕を祝う祝祭を導入しようとしたのである。預言者生誕祭はスンナにその定めがないという点で,ビドアであるという弱点を持っていたが,これについてはアザフィー父子は「善きビドア」という論理で克服しようとした。

その一方で,『連ねられた真珠』の構成に目を向けると,その大部分は預言者生誕祭とは直接のかかわりがない預言者ムハンマドのうんちく話で埋め尽くされている。ここには12世紀に執筆された一連の「ムハンマドづくし」とでも呼ぶべきジャンルの著作の影響が明らかに見て取れ,アザフィー父子以前の時代から高まりを見せつつあった預言者崇敬を反映するものであったといえる。預言者生誕祭自体は新奇な祝祭ではあったが,先行する知識人たちの活動の伝統に依拠する形で,その挙行が奨励されたのである。

アブー・アルアッバース・アザフィー自身が具体的にどのような形で預言者生誕祭を実践しようとしていたのかは定かではないが,13世紀半ばにはユハーニスィーという名のスーフィーによる預言者生誕祭挙行の事例がセウタに現れる。これはサマーウ(音曲を伴う修行),ろうそく,香といった五感に直接訴えかけるような演出を伴う点で,その後の預言者生誕祭の実践の先例であるといえる。また,預言者崇敬はムハンマドこそが究極のスーフィーであるという点で,スーフィズムとも密接な関係を持っている。アザフィー父子とユハーニスィーとの接点は曖昧模糊としているが,少なくともアザフィー家がスーフィズムに理解をもっていたことは確認できる。

続く第2章では,13世紀後半に始まる国家行事としての預言者生誕祭について,ムワッヒド朝による統一の崩壊という状況を念頭に検討した。

まず最初に国家行事として預言者生誕祭の挙行を開始したのは,『連ねられた真珠』の執筆にも携わったアブー・アルカースィム・アザフィーが647/1250年に樹立したセウタの半独立の政権だった。ここでは『連ねられた真珠』の執筆意図どおり,市中での祝祭というかたちで預言者生誕祭が挙行されるとともに,アザフィー家政権で重要な役割を担っていた水軍の影響下でスーフィズム的な要素も見られた。

アザフィー家政権は,自らの提唱した預言者生誕祭を挙行するよう各地に呼びかけるが,それに真っ先に応えたのが滅亡直前のムワッヒド朝のカリフ・ムルタダーだった。この背景には,彼自身の敬虔さやスーフィズムへの傾倒とともに,当時のムワッヒド朝が建国のムワッヒド・イデオロギー(無謬のマフディーの後継者として歴代のカリフが統治をおこなうという理念)に代わる支配の正当性を模索する中で,イスラーム君主として自らを演出する新たな機会が求められたことが考えられる。

14世紀に大々的に預言者生誕祭を挙行するマリーン朝も13世紀半ばからこの祭に関心を持ち始めるが,当初から大規模な祭典が催されていたわけではない。本格的な導入は,ムワッヒド・イデオロギーの正統な後継者を自任するハフス朝への従属をやめ,またアンダルスへのジハードにも展望が望めなくなった中で,新たな支配の正当性が求められる時期のことだった。これは首都フェスのカラウィーイーン・モスクの大々的な改修事業ともほぼ時を同じくするもので,より直接的に知覚できる信仰のあり方を模索するものでもあった。

第3章では,現在のモロッコ地域からマグリブ・アンダルス全域へと広まった国家行事としての預言者生誕祭をマリーン朝との関連を軸に検討した。

14世紀半ばになると,フェスのマリーン朝宮廷のみならず,チュニスのハフス朝,トレムセンのザイヤーン朝,そしてグラナダのナスル朝など各地の宮廷でもよく似た形態の預言者生誕祭が挙行されるようになった。いずれも夜おこなわれ,サマーウの形をとった預言者生誕讃歌の朗唱,ろうそくやランプの明かり,香のけむりやかおりといった具合に視覚・聴覚・嗅覚にうったえる神秘的な雰囲気の中で君主の威光が強調される催しだった。このような形態の預言者生誕祭は「西方」流・「マグリブ」流と呼ばれるが,それはマリーン朝宮廷,特にアブー・アルハサン治世のものをモデルとしたからだと考えられる。

このような「西方」流の預言者生誕祭とマリーン朝との関係がもっとも明確に現れるのは,14世紀半ばのチュニスにおける例である。748/1347〜750/1349年にかけてチュニスを占領したマリーン朝スルタン・アブー・アルハサンが挙行した預言者生誕祭は,チュニスの新たな支配者がマリーン朝スルタンであることを占領地の人々に見せつける効果をもっていた。また,それに先立って,チュニスのハフス朝スルタン・アブー・ヤフヤー2世も「西方」流の預言者生誕祭を挙行したことがあったが,この君主はマリーン朝との緊密な同盟関係に依拠して支配の維持をはかろうとしたことで知られる。ただし,サマーウという音曲を伴うこの祭典は,チュニスのマーリク派法学者の容れるところとならず,対外的にはともかく,対内的には支配の強化にはつながらなかった。

最後の第4章では,イスラーム世界の代表的な知識人である法学者たちにとって,この新たに出現した祭がどのように受け取られたのかを,ファトワー(法的見解)を通して検討した。

分析の対象とした7件のファトワーには,預言者生誕祭を批判する議論と擁護する議論の双方があるが,その多くはスーフィー,とりわけ集団でズィクルやサマーウのような修行にふけるフカラーと呼ばれるスーフィーたちの預言者生誕祭が問題となっている。これらのフカラーの行動を容認するか否かが法学者の関心の的であり,預言者生誕祭にかかわる議論もこの枠組みの中に位置づけられるものがほとんどだった。しかし,フカラーの集会を批判する法学者や,そもそも預言者生誕の日付に特別な価値を見出さない法学者ですらも,預言者崇敬そのものの意義まで否定することは決してなく,むしろフカラー的な集会や預言者生誕祭に代わる,より「正しい」預言者崇敬の方法への誘導がしばしば看取された。一方,預言者生誕祭を擁護する法学者も,無条件でこれを容認したわけではなかった。彼らはしばしば預言者生誕祭の場に男女の同席のようなよからぬ行為が見て取れることへの懸念を表明しており,預言者生誕祭を擁護するためにこのような行為を排除する必要性を感じていた。

このように,13世紀のセウタで始まったマグリブ・アンダルスの預言者生誕祭は,キリスト教徒の脅威や,ムワッヒド・イデオロギーの凋落,スーフィズムの隆盛など当時のさまざまな状況のもとで,マグリブ・アンダルス各地に広まっていった。その具体的な実践のあり方にはさまざまな批判はあったが,預言者崇敬の高揚という潮流は,最終的にこの新たな祭が社会に定着するのに大きな役割を果たしたと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

論文「13〜15世紀マグリブ・アンダルスにおける預言者生誕祭」は、13世紀にマグリブ西端の町セウタに出現し、以後マグリブ・アンダルス各地域に広まっていった預言者生誕祭(マウリド・アンナビー)について、詳しく論じている。筆者が掲げる本論文の主要な課題は、生誕祭出現の経緯を検討するとともに、13世紀後半にはじまる宮廷での預言者生誕祭が、支配者の威光を公に示すことによって、政権の安定化にも利用されていたことを、アラビア語史料を用いて実証的に明らかにすることである。

第1章では、預言者生誕祭を提唱したセウタのアザフィー父子による『連ねられた真珠』を検討し、この執筆意図がキリスト教徒の脅威に対抗してムスリム独自の祭を提唱することにあったことを明らかにした。第2章では、アザフィー家の半独立政権、滅亡間近のムワッヒド朝、勃興期のマリーン朝を事例として、国家行事としての預言者生誕祭が、スーフィー的な要素を取り入れて華やかに行われ、それらの挙行には統治理念強化の期待が込められていたことを実証した。つづく第3章では、マリーン朝宮廷で挙行された預言者生誕祭の演出法が、北アフリカ、中部マグリブ、アンダルスなどの諸地域で採用され、どの宮廷でも音・光・香による演出や預言者生誕賛歌による君主と預言者双方への賛辞などの共通の要素が見られたことを多彩に論じている。最後の第4章では、このような預言者生誕祭の挙行を法学者たちがどのように受け止めていたのかを、「ファトワー(法的意見)集」を手がかりにして分析する。これを批判する者は、スーフィーたちによる華美な演出と男女の同席を問題とし、逆にこれを擁護する者は、男女の同席さえ排除すれば、生誕祭は有意義な祭礼となることを主張していたと結論する。

以上は、同時代のアラビア語史料を綿密に分析・整理して得られた手堅い結論であり、イスラーム史における祭礼と王権の関係を考える上でも、今後参考にすべき重要な論点をいくつも提示している。ただ、マグリブ地方に預言者生誕祭が出現するに際し、東方イスラーム世界からの影響があったのかどうか、また各章間の議論をさらに有機的に展開させるべきではないか、など今後研究を深めるべき余地は残されている。しかし、手稿本を含むアラビア語史料を駆使して、各地の宮廷における生誕祭の挙行と王権との関係を具体的に明らかにしたことは貴重な成果であり、博士(文学)論文として十分な評価に値する。

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