学位論文要旨



No 120652
著者(漢字) 尤,海燕
著者(英字) You,Haiyan
著者(カナ) ユウ,カイエン
標題(和) 『古今和歌集』両序の和歌思想論
標題(洋)
報告番号 120652
報告番号 甲20652
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第595号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 助教授 齋藤,希史
 東京大学 教授 藤原,克己
内容要旨 要旨を表示する

『古今和歌集』の勅撰思想を考えるうえで、重要かつ不可欠な一環としての両序研究には、近代以来、主に仮名序への重視、両序の作者や成立の先後関係の考定と典拠探しの三つの流れがあり、いずれも排他的・二者択一的で、または典拠を特定しようとする傾向が目立ち、必ずしも生産的であるとは言いがたい。こうした両序研究に、歌固有の音楽性に由来する楽論の視点を持ち込み、勅撰和歌集の編集を儒教的礼楽思想という大きな枠組みのなかに置くことによって、『古今集』研究の新しい方向を示したのは渡辺秀夫氏である。しかし、氏の研究じたいは必ずしも両序を作品論的に解読・分析し、両序そのものを包括的、かつ徹底的に追究するようなものではない。

本研究は渡辺論を踏まえた上で、『古今集』両序と正面から向き合い、そこに見られる和歌思想論を儒教的な「楽」思想の観点から検証し、一つの「楽」の思想的体系を浮かび上がらせることを試みる。

まず、序章では、本研究の研究史における位置付けを示し、音楽論の視点で両序を捉えなおす必要性と可能性を検討する。和歌が本質的に「楽」と共通しており、したがって歌論が楽論に通底することは、古来多く説かれたところであり、本研究の前提である。さらに、こうした観点は、現代の『古今集』研究の原点にもなると言える。

第一章「「楽」の思想について」は、『古今集』両序の作品論に入る前の予備考察である。この章の役割は本論の考察に用いる視点・枠組みである「楽」の思想を概観することと、日本における受容状況を確認することである。本章においては、まず、『礼記』楽記を始めとする中国の楽論に見る「楽」の概念を紹介し、その内実や精義を本研究の内容と関連づけながら明らかにする。特に強調するのは、本研究に用いる「楽」の概念が、現在ふつうに言う「音楽」の娯楽的・芸術的次元にとどまらず、「礼楽」というように、常に「礼」とセットで言挙げされ、外的な側面から規定する礼と相互補完的に、人々の道徳を陶冶し、人格を完成させつつ、社会全体の調和を実現するという内的な側面からの教化作用を旨とすることである。次に、こうした「楽」の思想に関する、『古今集』が成立するまでの日本側の受容を概観する。楽書や音楽関係の資料のみならず、史書や詩文集に多く見られる「楽」の表現・言説を検証することによって、「楽」の思想の受容と展開の流れを浮き彫りにし、『古今集』を取り巻く音楽的・音楽思想的な状況を把握する。同時に、日本における「楽」の思想の独自性も提示する。

第二章「『古今集』における尚古主義――「礼楽」という大枠の中で」から、両序の解読に入る。この章では和歌本質論など具体的な歌論ではなく、両序の描き出した和歌史を概観し、そこに見られる「古(いにしへ)」に対する執着意識を取り上げ、その叙述の図式が「礼楽」という大枠によって規定されていることを考察する。この章は両序の記述が基づく思想的大枠を示し、具体的な歌論考察の前提になるため、両序論の最初に置く。

本章では、まず、『古今集』の命名問題を糸口に、その「続万葉」から「古今」へという改変の過程に秘められる「古」へのこだわり意識を明らかにする。そして、両序の和歌史に照明を当て、「古」についての叙述を三つの段階に分けて考察し、そこに見られる「歌で王道をたすける、治世に歌が必要である」という儒教的な礼楽思想を検証する。次に、近代和歌衰亡論を読みなおし、「耳目之翫」として和歌が男女の恋情の道具に堕落してしまうのは、おおやけで和歌の治世作用を放棄したのが起因であることを指摘し、両序に見る和歌隆盛の古代から和歌衰退の近代へという図式は、自国の史実を踏まえたものではなく、礼楽興隆の古代から邪音氾濫の近代へという礼楽史上の論理を基に構築した独自の和歌史であることを示す。最後に、「古」に対する執着や、それを「今」に中興しようとする意識を撰者のなかに見出し、両序の「古」へのこだわりが、儒教的礼楽思想における尚古主義と同質のものであるという結論を導き出す。

第三章「和歌の発生――物と心」は、両序の歌論を対象に、歌の本質やその発生が儒教的な楽論とどうかかわっているかを解明するものである。この章は歌論の中で最も基本的な和歌の本質・発生論を取り扱うため、解読の順序に従って、歌論考察の最初に位置付ける。

本章では、日本の歌論は自然心論で、中国の詩論は反映論であるという見方や、仮名序優勢論などの諸説に反論し、修正を加えるべく、原初の「人の心」という原点に立ち返り、その本質を見据え、それが動き出す(外に発露する)際に触発物として欠かせないもう一つの要素(第四の要素)である「繁きこと、わざ」(様々な人的営為、人事)を浮き彫りにし、和歌の発生における新たな物心論を提出する。具体的には、まず、中国詩論や真名序における「志」の意味を、表現史を追って検証し、その「(心)物に感じて動く」(『毛詩正義』)というきわめて「情的」な一面を明らかにする。次に、仮名序の「ことわざ繁きものなれば」についてのさまざまな解釈を検討し、その意味が、真名序の「志」の形成過程と重なることを指摘するとともに、「ことわざ繁きもの」が「心、物に感じて動く」の「物」に相当し、心の感動を呼び起こす「外物」、すなわち、「心」「ことば」「見るもの聞くもの」以外の、和歌発生の「第四の要素」であることを確認する。さらに、こうした和歌発生の原理がまた仮名序の「古代和歌讃美論」の文章によって裏付けられていることを認め、最後に、こうした物心論は儒教的楽論に共通することを示す。以上の作業を通して、和歌の発生における心と物との関係を捉えなおし、発生の過程が「楽」の発生原理に基づくことを究明し、従来の心詞論に対する補充を図ると同時に、両序が和歌発生論をめぐって、相互的に解釈し、敷衍するというダイナミックな関係にあることをも解明する。

第四章「「音」と「楽」――勅撰集の論理」では、和歌起源論を糸口に、楽論の観点から『古今集』の勅撰集としての編集論理を捉える。この章は、第三章に引き続き、歌論の考察を行うが、そこから歌集の構成・配列などにも目を配り、それらと関係づけて勅撰集の撰集論理を考えるものである。

本章では、まず和歌起源論に見られる天理から人理へ、さらに人為へというプロセスを考察し、それが楽論の「声」から「音」への原理に通じることを指摘する。次に、「声」「音」「楽」の原理を改めて紹介し、それが『古今集』の和歌といかに対応するかを追究する。両序が「徳」を和歌の価値判断の基準とするのは、理想的な「歌」が倫理的・道徳的な意味合いを有する「楽」と通じていることを示しており、よって「楽」としての歌は当然「古質之語」である、ということを儒教的楽論の観点から証明する。最後に、歌集全体という大きな角度から勅撰集の撰集論理を解明する。『古今集』の整然たる構成・配列に見られる、調和する四季の順行と序列化され規範化された抒情の様式は、その「内なる礼楽」の具現であり、撰集資料で、イデオロギーの意味合いのない個別の歌々と、礼楽的文化的な意図のもとに構築された歌集、またはそういう組織に組み込まれて、生まれ変わった歌との関係は、そのまま「音」と「楽」との関係であることを指摘し、勅撰の意味はすなわち王者の至徳の具現である正雅な「楽」によって、人心の教化・陶冶を図ることにあるとし、章を結ぶ。

第五章「「風」から「そへ歌」へ」は、六義の「風」(そへ歌)を取り出して論じるものである。『毛詩』の精神的基底であり、形式上の音楽性・歌謡性と暗喩性、内容上の政治性を特徴とする「風」は、『古今集』両序を初めとする日本の勅撰集序文や歌論に積極的に用いられ、完全に勅撰集の論理になっている。こうした「風」に対する全面的かつ詳細な考察は、両序解読の更なる掘り下げであると思われる。

本章ではまず、六義の初めとして、『毛詩』大序に起源する「風」の本質や意味を究明した上で、漢から唐の時代までの「風」の歴史的変遷を概観し、大序の精神を正しく受け継いだ、白居易の詩文における「風」的特質を示す。次に、仮名序の「六つのさま」の研究現状を把握してから、「そへ歌」に焦点を当て、「風」の日本的受容と展開を追求し、ほかの「五つのさま」と異なる「そへ歌」の特別な意味を捉える。そして「そへ歌」の系譜を辿りつつ、仮名序がその大きな到達点であることを認め、それ以降の注釈史や、勅撰集序を始めとする和歌序における享受・継承の流れをそれぞれ描く。注釈史における多種多様な受容と対照的に、勅撰集序や和歌序においては、「風」がそのまま取り入れられ、勅撰集の精神の一端をなしている。最後に、菅原道真の詩作に見られる「風」の傾向や、その表現形式における白詩との相違を示し、道真が、「風」に合う詩形、つまり音楽性の高い古体詩である楽府体を自覚的に選ぶ意識がなかったのは日本の漢詩における音楽性の欠落によるものと考える。視覚的・貴族的な本朝漢詩と比べ、歌のほうが音楽的・民衆的であり、「風」と音楽的思想基盤を共有し、それを受け入れる素地を備えていたため、「風」は日本漢詩の論理に成り得ず、歌の論理に転用され、定着したのだということを結論として掲げる。

第六章「「献和歌」の深層――采詩制との関連について」は、古来難解とされてきた「賢愚の性、是において相分る。民の欲に随ひて、士の才を択ぶ所以なり」・「賢し、愚かなりと、知ろし召しけむ」の意味を正面から突き止め、両序に見られる、和歌のやりとりを通して理想的な政治を行うという采詩制的な一面を検証するものである。この部分は両序の和歌思想論を考察するうえで、避けては通れない問題であり、これを解明するのは、両序の勅撰思想の全貌を復原することにつながる重要な仕事である。この章は前各章の考察成果の上に立っており、内容的にも両序の和歌思想論を収束する役割があるため、本論の最後に収める。

本章ではまず、問題箇所の注釈史や先行研究を紹介・整理し、「献和歌」という理想を生み出す背景には、中国古代の采詩制があることを提示する。次に、紀長谷雄の詩序を手掛かりにし、『古今集』序と読み比べ、表現上の類似から長谷雄の詩序とつながってはいるが、思想的には『古今集』序の記述が独自で、采詩制を根拠としていることを指摘する。そして、「献詩」「采詩」の楽論的な思想基盤と政治学的な本質を究明し、和歌を献じることが民意を代弁し得る、いわゆる「戸を出でずして一天下の思を知り、席を下らずして四海内の心を明らかにす」(紀長谷雄「九月尽日惜残菊応製」序)という理想的政治が実現できるゆえんを考える。最後に、両序が描き出した理想的な官人・侍臣像を考察し、そこに見える、和歌を詠むことを通して、民情を伝え、君主を諌め、さらに「君臣合体」の政治を図るという采詩官的な側面を確認する。同時に、こうした序文を生み出した歴史的な背景も視野に入れて考え、『古今集』における切実な律令政治の理想をさぐる。

以上の個々の結論を一体につなぎ合わせて見たとき、『古今集』両序の歌論の「楽」としての性質が改めて確認されたことになり、『古今集』の編纂が儒教的な礼楽思想の枠組みのなかで行われたものであるということは、総結論として浮かび上がってくる。要するに、両序は「楽」という共通する思想的な枠組みを踏まえ和歌論を展開しているからこそ、一つの全体としての、調和する和歌の思想的な体系がおのずと成り立つものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

『古今和歌集』の仮名序と真名序をめぐっては、これまでそれぞれの序の作者や成立の先後についての考察とか、本文表現の出典の探索が積み重ねられてきており、内容にかかわる研究としては、日本固有の和歌をめぐる歌論史的な観点から、いたずらに仮名序が高く評価されてきた。

本論文は、渡辺秀夫氏が新しく切り開いた、東アジアにおける楽論と儒教的礼楽思想の枠組みにもとづき勅撰和歌集の編纂がなされたと理解する立場に立って、時代思潮の中で仮名・真名両序を支える「楽」の思想の体系を浮かび上がらせようと試みたものである。

本論文は序章と終章をはさんで、第一章から第六章まで六本の柱を立てている。序章で「研究の目的と方法」を明らかにし、全体をコンパクトにまとめて「各章の概要」を示したのち、第一章「「楽」の思想について」では、『礼記』楽記以下の中国における「楽」の概念を丹念にあとづけ、ついで日本における礼楽思想の受容をたどる。ここで注目すべきことは、楽が礼と相互補完的に道徳を陶冶し、社会の調和を実現する教化作用を有していることと、日本でもこれが初期には正しく受けとめられるが、一〇世紀中葉よりのちの時代になると民間の俗楽が太平の世のしるしとされ、今様の集成が勅撰されるなど、日本的に変容していくさままで見通していることである。『日本書紀』『続日本紀』などから引用する資料も適切で、たまたま残存する時務策や対策文の考察も論旨をよく支えていて、説得的である。

第二章「『古今集』における尚古主義――「礼楽」という大枠の中で」では、仮名・真名両序の読解に踏み込み、まず「続万葉」から「古今」に変更するという命名の由来を探り、両序が和歌隆盛の古代から和歌衰退の近代へという、史実とは思われない和歌史を描き出していることに疑問を呈して、そこに周の文王の世の文化と礼楽制度を春秋の世に再興しようとした孔子とのアナロジーを見て、君臣一体の古き世の柿本人麻呂を理想と仰ぐ『古今和歌集』の撰者たちの観念を透かし見ようとする。

第三章「和歌の発生――物と心」では、両序の和歌の本質と効用を論じる部分につき考察する。従来、仮名序は中国詩論を一歩進めた和歌に即した卓論であると評価されてきたが、本論文ではまず第一節で、日中詩歌論で決定的な相違とされる「志」の有無の問題から出発し、古代中国詩論においても「志」は仮名序でいわれる情意の発動の意味を次第に含み持つようになったことを論証し、第二節では仮名序の「事、業繁きもの」の典拠を追認して前後の文脈を新たにたどりなおした結果、和歌発生の四要素を提示する。その際、仮名序・真名序の読解にあたっては、相互補完的に読み込む必要があると主張するが、これは研究史的には、両序とも紀貫之の筆になるという上田秋成以来の説、また両序の作者が事前の打ち合わせをしたとする寺田純子説など、散発的にしばしば唱えられる説とも接点をもつひとつの観点であろう。第三章の論述については、多くの審査委員から高く評価するとの讃辞が寄せられた。

第四章「「音」と「楽」――勅撰集の論理」では、『礼記』楽記や『毛詩』大序にうかがえる楽の論理に従い、動物性・自然性にとどまる「声」から、人為性・芸術性を帯びた「音」へ、さらに道徳的・政教的な意味をもつ「楽」へという三段階を抽出して、これにもとづき『古今和歌集』が勅撰であることと、個々の和歌を編纂し配列して秩序だてる撰者たちの作業の意義をみごとに説明する。

第五章「「風」から「そへ歌」へ」では、詩の六義のうち「風」には「上は以て下を風化し、下は以て上を風刺す」、すなわち上に立つ者は下を徳によって教え導き、下にある者は上の気づかぬことについて遠回しに諫めるという実質的な意味があって、仮名序において「風」に対応する「そへ歌」の背景をなしていることを指摘する。その際、唐の白居易が古代中国の歌謡であった楽府体で諷喩詩を作ったのに対して、日本の菅原道真が楽府体を採用しなかったのは、日本漢詩では音楽性が失われたからであって、音楽性の備わる和歌に「風」の精神が受け継がれたと分析する。

第六章「「献和歌」の深層――采詩制との関連について」では、中国古代の献詩、采詩官の制度とのかかわりで、両序の思想基盤を究明する。臣下が和歌を献じて天皇を諫めたり、民心を伝えたり、天皇の耳目や口舌となったりするという、君臣合体の理想的な政治のあり方を語ろうとしているというのである。

終章では全六章のまとめとして「研究の結論と意義」を説くほか、「今後の課題と展望」として日本の国風文化の進展とのかかわりを考えることと、日本の芸術論の展開史へと視野を広げていくことがいわれる。

全体として、これまで個々別々に表面的に典拠として気づかれていた問題を執拗に掘り下げ、『古今和歌集』の両序が礼楽思想の楽の論理で貫かれているということを主張して、丁寧に論じている点は高く評価される。しかし逆に、第四、第五、第六章などにおいて、勅撰集であることの意味とか、編者たちの抱負とかいう問題は、楽の論理だけで説明して済むのかどうか、という批判も当然出てこよう。

審査委員からは、礼楽思想だけでなく六朝の文学論も顧みる必要がありはしないかとか、楽器と和歌の関係についてさらに突き詰めるとよいとか、日本の中世の資料の読みに手薄なところがあるとかいう指摘もあったが、いずれも本論文の価値を損なうものでなく、従来の研究を大きく一歩も二歩も進めたという高い評価を得た。

よって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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