学位論文要旨



No 120655
著者(漢字) 西,希代子
著者(英字)
著者(カナ) ニシ,キヨコ
標題(和) 遺留分制度の再検討
標題(洋)
報告番号 120655
報告番号 甲20655
学位授与日 2005.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第189号
研究科 法学政治学研究科
専攻 民刑事法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大村,敦志
 東京大学 教授 森田,修
 東京大学 教授 高田,裕成
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 教授 交告,尚史
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的と課題

本論文は、現代社会における遺留分制度の存在意義及びあり方を問い直すことを目的とした論文である。

近時、遺留分制度に関わる最高裁判決が急増しているが、そこには、遺留分算定の基礎となる財産及び減殺対象財産の限定、現物における遺留分の保障から価値における保障への転換など、一言で言えば、遺留分権の弱化、結果として、遺言者の意思の尊重という一つの傾向を認めることができる。このような判例や公証人実務などに対して、遺言中心の遺産承継を推奨し、平等な法定相続の砦である遺留分制度を無力化しようとするものであるという批判が向けられている。この見解は、家督相続廃止後の遺言が家族主義的な遺産承継の機能を担うようになっているという認識を前提として、遺言は無遺言均分相続と相反するものであり、遺言の偏重はイエ制度の復活につながると警戒する。そして、遺留分制度が共同相続人間の(形式的)平等を図る装置として設けられ、その(形式的)平等を守る「最後の砦」として位置づけられてきたと彼らが考える「母法」フランス法の制度趣旨に立ち帰り、それに沿った解釈を行うことを提唱する。現在有力化しつつあるのは、このような主張である。

しかし、筆者は、今日では、これらの主張が意図する強い遺留分制度を支持する積極的理由を見出すことは困難であると考える。所有権の絶対性、私的自治という伝統的な視点に加えて、高齢化社会を迎え、一方で、親の介護・面倒見などを負担した共同相続人の内の一人が他の相続人達の遺留分のために親の遺志に反して家を手放すことが少なくないという状況があり、他方で、「平等」という概念自体が揺らいでいるからである。

このような現状認識のもと、筆者は、遺留分制度廃止論の可能性も念頭におきながら、現代社会における遺留分制度の限られた意義を遺される者の扶養ないし生活保障に求め、遺言の有する、あるいは遺言に期待しうる実質的平等の実現という機能を活かせる相続制度を構築することを主張する。その第一段階として、本論文では、現在有力化しつつある上述の学説を支えている前提及び理解に疑問を投げかけ、遺留分制度の存在意義を再検討するみちをひらくことを目的とした。具体的には、フランスにおいて、遺留分制度は、無遺言相続における均分相続と同様、共同相続人間、つまり、子ども達の間の形式的・絶対的平等を図ることを目的として設けられた制度であるのか(課題1「フランス法における遺留分制度の趣旨の再検討」)、さらに、明治日本が出会い、とりいれた遺留分制度は、果たして、本当に、ナポレオン法典あるいは19世紀フランス遺留分法学説を含むフランス法であったのか(課題2「『母法フランス法』からの解放」)という二つの課題を設定し、これらを中心に検討を進めた。

本論文の構成と内容

序章では、本稿の目的を明らかにしたうえで(第1節)、遺留分制度をとりまく社会状況の変化を背景として、現在、遺留分制度の趣旨ないし存在意義の見直しが迫られていることを示し、日本におけるこれまでの遺留分制度に関する研究の特徴及び問題点を確認した(第2節)。これらをふまえて、上述の二つの課題を設定した(第3節)。

第1章「ナポレオン法典における遺留分制度」では、課題1に取り組んだ。すなわち、子ども達の間の形式的・絶対的平等という理念が遺留分制度において追求されたのかという問題を軸として、ナポレオン法典における遺留分制度の趣旨及びその沿革的位置を探った。日本では従来、フランス法はローマ=ドイツ法型(系)と対峙するゲルマン=フランス法型(系)として位置づけられ、ゲルマン法とは明らかに異なるフランス法それ自体について深く検討されることはほとんどなかった。そればかりでなく、この分野に関しては、本国フランスにおいても特定の分析視角から立法史料を繙いた研究は見あたらない。そこで、間接的には、ナポレオン法典編纂に至るまでの中間法を含めた諸前提に対するナポレオン法典の態度を手がかりとして、より直接的には、遺留分権利者の範囲の縮小及び遺留分割合の決定方式の転換の過程であらわれた議論を素材として、検討した。具体的には、はじめに予備的な考察として、フランス遺留分制度の全体像及び革命前までの遺留分制度の歴史を概観し、ゲルマン法=パリ慣習法=北部慣習法=フランス近世遺留分法という定説ともなっている歴史認識の一面性を指摘した(第1節)。続いて、遺留分及び遺言権・遺言の自由の根拠、それらの自然法及び実定法上の位置づけ、遺留分権と相続権との関係など、革命期の立法のみならず19世紀における遺言の自由及び遺留分制度に関する議論の枠組みをつくりあげた近世自然法思想(GROTIUS、PUFFENDORF、ROUSSEAU、MONTESQUIEU他)及びフランス17、18世紀の法学説(DOMAT、LE BRUN、D'AGUESSEAU、BOURJON、POTHIER)をナポレオン法典の思想的背景として紹介した(第2節)。その後、ナポレオン法典の前提となった革命期を、政治状況の変化も視野に入れて三つの時期に区分し、各時期の立法に見られる遺留分制度の趣旨を分析した。ここでは、前期・中期においては、一見、子ども達の間の形式的・絶対的平等が遺留分制度の趣旨とされているように見えるものの、より深い意図は、革命支持層の拡大を目的とした、父権からの子どもの解放及び新規土地所有者の大量創出にあったこと、さらに、革命末期においては遺言による家族外への処分が主として念頭に置かれ、所有権から導かれる処分の自由と家産維持との調整場面として遺留分制度があらわれたことなどを示した(第3節)。これらをふまえて、ナポレオン法典における遺留分制度の趣旨及び沿革的な位置付けを試みた(第4節)。その結果、ナポレオン法典における無遺言均分相続の趣旨は子ども達の間の形式的・絶対的平等に求められるとしても、遺留分制度はそれを保障する制度として、また、強い遺留分制度を理想として設計されたわけではないことが明らかになった。同時に、ナポレオン法典がゲルマン法型(系)に属するとは必ずしも言えない、より正確に言えば、ナポレオン法典編纂過程でその系譜が選択されたわけではないことも立証した。

第2章「フランスにおける議論の形成と確立」では、第1章をうけて、現在フランスにおいてもナポレオン法典における遺留分制度の趣旨であると信じられている「平等」という視点が、いつ、どのように、獲得されたのかを確定するために、19世紀フランスにおける遺言の自由及び遺留分制度をめぐる議論を検討の対象とした。まず、遺留分制度に対する批判をよびおこす主要な原因の一つとなった19世紀前半の強い遺留分権保障へと向かう裁判例の変遷を、二つの争点に焦点を当てて分析した(第1節)。次に、そのような状況のなかで登場したLE PLAY及びその学派による遺留分制度批判の全貌とそれに対する国民の熱狂的な支持を、その背景も含めて紹介した(第2節)。続いて、この遺留分制度への攻撃を機に活発化した、遺言自由の拡大とその制限をめぐる議論を検討し、19世紀フランス遺留分法学が、無遺言均分相続におけるそれとは異なり漠然としたものではあるが、「平等」という視点を見つけ出し、遺留分制度の趣旨として掲げる過程を跡付けた。そして、「平等」という視点は、19世紀半ばの遺留分制度に対する激しい批判のなかで、それまで遺留分制度の趣旨として挙げられていた、父の権力からの子の保護、家族の共同所有概念などがその趣旨としての弱さを露呈し、絶対的とも思われた扶養という趣旨も遺留分の債権化につながる理論を提供する結果になってしまったことを受けて、19世紀後半、遺留分制度の存在を正当化するために、「自由」という革命の理念から導かれる遺言の自由に対抗しうるものとして、苦しみの末に新たに生み出された、あるいは探し出された趣旨であるとの見方を示した。他方で、やはりLE PLAYが提起し、19世紀フランス遺留分法学のもうひとつの焦点となった、無遺言均分相続及び遺留分制度と土地細分化問題、人口問題などをめぐる社会経済的議論についても整理・分析した(第3節)。

第3章「明治日本が出会った遺留分制度−民法典編纂とBOISSONADE」では、課題2の検討、すなわち、日本民法典における遺留分制度の沿革に関する検討を行った。日本遺留分法の母法はナポレオン法典であるという従来の定説を覆し、フランス法を日本遺留分法解釈の基礎とすることの問題性を明らかにして、日本遺留分法学を「母法フランス法」から解放することを目指した。そのために、明治日本が採用した遺留分制度がナポレオン法典のそれでも、「平等」を遺留分制度の趣旨として探し当てた19世紀後半のフランス遺留分法学におけるそれでもなく、従来、相続法には関与しなかったと信じられてきたBOISSONADEが、ナポレオン法典、19世紀フランス遺留分法学の発展、さらに他国の法制度、日本の慣習などをふまえたうえで、明治日本において理想的であると考えて提示した独自の遺留分制度であったことを明らかにした。具体的には、まず、フランス遺留分制度研究史にその名を残すBOISSONADEがフランスにおいて発表した遺留分制度に関する多くの論稿をもとに、来日前のフランスにおけるBOISSONADEの遺留分制度に対する立場を、19世紀フランス遺留分法学のなかでの位置づけも含めて確定した(第1節)。次に、来日後、講義や意見書などを通してBOISSONADEが日本人に伝えようとした遺留分制度を整理し、仏日でのBOISSONADEの見解の変化とその理由を探った(第2節)。それらと明治初期の立法草案とを比較検討する作業及び新聞記事などから、BOISSONADE学説の日本民法典遺留分規定への影響とその具体的な内容を明らかにし、あわせて、BOISSONADEの力を借りて明治日本が遺留分制度の中に埋め込んだ趣旨が、子ども達の間の形式的・絶対的平等というよりは、むしろ、扶養であり、遺言の自由ないし自由分による実質的平等の実現に一定の価値を見出すものであったことを示した。あわせて、起草者自身、明治民法典がゲルマン=フランス法型(系)に属するとは必ずしも考えていなかったことを指摘した(第3節)。

結章では、前章までの研究を振り返り、二つの課題に対する結論をまとめた。そして、現在有力化しつつある見解は、偏った沿革理解を根拠に共同相続人間の(形式的)平等を遺留分制度の趣旨として掲げて強い遺留分制度を追求するものであって、到底受け入れることはできず、本論文で明らかになった沿革、起草者意思、現状などを総合的に考慮すると、将来的には、遺留分の扶養債権化や遺留分廃止論の可能性も視野に入ってきうると結論づけた(第1節)。続いて、本論文から明らかになった遺留分制度の沿革や趣旨に関する理解を現在争われている遺留分に関わる争点の解釈に反映させる試みとして、遺留分の事前放棄制度や特別受益たる贈与に対する減殺の可否をめぐる問題等について検討を加えた(第2節)。最後に、残された課題の一部を挙げて論文を閉じた(第3節)。

審査要旨 要旨を表示する

「民法条文の規定する相続人間の平等は、いまや瀕死の状態にある」。これは、最近公刊された相続法概説書の巻頭の一節である。こうした見方によれば、遺留分をめぐる最近の裁判例や公証実務の動向は、「平等な法定相続の砦である遺留分をできるだけ無力化しようと図る」ものと位置づけられ、これに対して強い遺留分制度の擁護の必要性が説かれることになる。この有力な主張を支えるのは、日本民法典の遺留分制度の沿革に関する一つの理解、すなわち、日本の遺留分法はフランス法を母法とするものであり、フランスの遺留分法においては、遺留分制度は共同相続人間の平等を図る装置として設けられているという理解である。本論文は、ナポレオン法典から19世紀中葉までのフランス法の歴史とボワソナードを媒介として明治民法に至る遺留分制度の歴史を詳細にたどることによって、このような理解の妥当性に疑問を呈し、それにより、現代における遺留分制度の再検討の途を開くことを目的とするものである。さらに言えば、本論文には、配偶者相続権及び遺留分権の強化や寄与分の創設など、家族の財産関係にかかわる諸問題を相続法によって解決しようとする現在の立法政策の当否を再検討に付すべきではないかとの問題意識が伏在する。

こうした観点から、本論文は次のように課題を措定する。課題の第一は、フランスにおける遺留分制度の趣旨の再検討を行うことであり、著者は、相続人間の平等が、ナポレオン法典の編纂に際して遺留分の制度趣旨とされていたのかと問う。第二は、日本法の母法とされるフランス法からの解放を図ることであり、著者は、明治日本が出会った遺留分法は何であったのか、19世紀の学説を含むフランス法が母法であったと言えるのかと問う。この二つの課題に答えるために、著者が採用した本論文の構成は明解である。すなわち、序章において、上に述べたような課題設定を行うとともに従来の遺留分研究を概観した上で、著者は、第1章「ナポレオン法典における遺留分制度」において、ナポレオン法典における遺留分制度の趣旨およびその沿革的な位置づけを論ずる。続く第2章「フランスにおける議論の形成と確立」においては、ル・プレ及びその学派による遺留分制度批判を中心に据えて、19世紀フランス遺留分法学の展開をたどる。第3章の「明治日本が出会った遺留分制度――民法典編纂とBOISSONADE」では、転じて、遺留分に関するボワソナードの学説とそれが明治民法の遺留分規定に与えた影響の解明がなされる。そして、結章においては、それまでの議論がまとめられるとともに、解釈論への架橋の可能性が探られている。

以下、本論文の概要を提示した上で、本論文に対する評価を述べる。

第1章では、第1節「序」第1款において、読者にとってあまりなじみのない「フランス遺留分法」の概略が示された後、第2款「前史」において、ローマ法・ゲルマン古法、南部成文法地域・北部慣習法地域、アンシャン・レジーム末期の立法のそれぞれが概観され、パリ慣習法=北部慣習法=フランス近世遺留分法という理解は一面的であるとの指摘がなされる。そこでは、ゲルマン法→フランス法、ローマ法→ドイツ法という従来の図式に対する疑問が投げかけられている。第2節「思想的基礎――ナポレオン法典の前提」では、ルソーやモンテスキューを含む近世自然法思想において、所有権から遺言権を導くとともに、相続分の最低保障として遺留分を位置づけるという今日の議論をも規定する枠組みが成立したことが示されるとともに、17・18世紀のフランス法学説としてドマからポチエに至る5人の諸説が検討され、遺留分の基礎づけのために扶養義務・家産維持・平等など様々な視点が提示されたことが明らかにされる。

第3節「中間法における遺言の自由制限の意味と平等の位置」では、革命期の立法(中間法)が3つの時期に分けて検討されるが、そこでは、旧制度以来の伝統や習慣、自由・平等という革命の理念に加えて革命のプロセスにおける政治状況の変化が視野に入れられ、遺言の自由とその制限としての遺留分に関して、従来、フランスでも日本でも説かれてきた相続人間の平等こそがその理念であったという見方が大きく相対化されている。確かに、法定相続の場面においては平等こそが指導原理とされたが、遺言の自由とその制限としての遺留分が問題になる場面においては、表面上は平等原則に言及されることがあるとしても、真の争点は別の点にあったというのである。では、真の争点とは何か。それは、遺言の自由=父権の維持か遺留分=父権からの解放かという対立であり、前期・中期には、革命への支持を確固たるものとするとして遺言自由の制限が説かれたのではないかというのが著者の見方である。これに対して、カンバセレス第2草案以降の末期においては、所有権の自由の名の下に遺言の自由が復権し、家産の維持がこれに対置されたが、ここで維持が説かれている家産とは革命前期・中期の立法によって生み出された新規土地所有農民のそれであるという。

以上をふまえて、第4節「ナポレオン法典による中間法の否定とその沿革的位置」では、第1款「序」において中間法の集大成として起草委員会草案が位置づけられた後、第2款「編纂過程における修正」においては、二つの変化(直系卑属の総体的遺留分における固定方式から漸増方式への移行、傍系血族の遺留分の肯定から否定への移行)が指摘され、中間法との間の断絶が示唆される(この点は直接には、第4款「ナポレオン法典における遺留分制度の沿革的位置」における同法典におけるローマ法源の持つ意味の指摘へとつながる)。このような視点に立って、続く第3款「ナポレオン法典における中間法の趣旨の否定と新たに遺留分制度に期待された役割」では、一方では、遺留分制度の新たな目的として、階級の固定と社会の安定が語られるようになったこと、新規土地所有者の創出のために絶対的平等を要求する必要は減じたことが指摘される。他方、かつて否定的に評価された父権が再評価され、父は家庭内の司法官・立法官(諸利益の裁定者)として位置づけられるようになったことも指摘されている。また、第5款「ナポレオン法典における『扶養』という趣旨の復活・拡大と弱められた趣旨」では、ナポレオン法典における遺留分の制度趣旨としては、様々なものと並んで、一貫して「扶養」の重要性が承認されていたことが確認され、これはローマ法との連続を意識した趣旨理解であるが、もはや自然法的な基礎づけがなされていないとされている。

第1章で、ナポレオン法典における遺留分は専ら相続人間の平等をはかるための制度とされていたという従来の理解を否定した著者は、第2章では、フランスにおいて「平等」を遺留分の制度趣旨とする理解が形成・確立される経緯を明らかにすることを目指す。まず第1節「19世紀前半における遺留分制度の存在感」では、強い遺留分制度へと向かった裁判例の変遷の様子が示される。続く第2節「LE PLAYの衝撃とその位置」は本章の中心をなす部分であるが、ここでは、このような法状況において登場したル・プレとその学派による遺留分制度批判が国民によって歓迎される様子が描き出される。すなわち、第1款「序―LE PLAYの人と学問」におけるル・プレに関する予備的な説明を経て、第2款「LE PLAYによる遺留分批判」、第3款「LE PLAY学派の形成と発展」が順次示され、第4款「LE PLAY学派の衝撃」が測定されている。

19世紀の前半から中葉にかけて、裁判例が示すように、現物均分分割の考え方が厳格に適用されたことによって土地の細分化が進む。このことがフランスの農業・工業にマイナスの影響を与え、これに伴いフランス経済は退潮し人口にも伸び悩みも見られた。その原因は均分相続及び遺留分制度にあり制度改革が必要であるというのがル・プレの主張であった。社会経済的な分析を中心とするル・プレとその学派の議論は、一般市民や経済学者・ジャーナリストたちにも理解可能なものであり、遺留分制度は人々の大きな関心の対象となったという。具体的には、ル・プレは相続制度を強制保存・強制分割・遺言自由の3類型に分け、そのうちの強制分割制度を強く批判し、これこそが家族の解体、小土地所有の崩壊、出生率低下の原因であるとして、遺言自由制度の採用を主張した。ル・プレの主張は必ずしも支配的なものとなったわけではないにしても、法学説は、これまでとは別の論拠によって、遺留分制度に新たな基礎づけを与えなければならない状況に追い込まれることとなった。著者によれば、こうして19世紀後半に「相続人間の平等」という理念が再発見されるというわけである。

第3節「19世紀後半における遺留分制度をめぐる議論」では、その過程が描き出される。遺留分制度をめぐる19世紀後半の議論の蓄積は膨大なものであるが(その成果は1938年改正の重要な資料となったという)、著者によれば、それらは二つの流れにまとめられる。第1款「遺留分制度の基礎及び存在意義――『自由』対『平等』の確立まで」では、表題に掲げられた点に関する議論がたどられる。これが第一の流れである。この点につき、著者は次のように説く。そこでは「遺留分制度の趣旨のいわば選抜が行われ、最終的に『平等』という趣旨がつくりあげられ、あるいは、発見され、『自由』に対峙させられた。ここにおいて遺留分制度は、否定され得ない確固たる基盤を確立することになった」。父の権力からの子どもの保護や家族の共同所有といった基礎づけは、もはや遺留分の制度趣旨としては十分ではないと感じられるようになり、また、絶対的な根拠であると見えた扶養も結果として遺留分の債権化を帰結することとなった。そうした中で、「平等」という価値が賞揚されるに至ったというわけである。なお、第2款「社会的経済的問題」では、第二の流れである農地細分化問題や人口問題をめぐるその後の議論、そしてそれが惹起した立法の動向が紹介されている。

第3章で日本法へと転じた著者は、本論文の第二の課題に取り組むべく、日本民法典の遺留分制度の沿革を解明する。まず第1節「BOISSONADEの遺留分制度論」では、ボワソナード来日の年である1873年にフランスで公刊されたその著書『遺留分制度とその精神的経済的影響の歴史』を中心に、フランス時代の彼の議論の内容が明らかにされる。ボワソナードは「平等」を強く主張し、遺言の自由に対して否定的な態度をとるが、その理由は長子権の復活に対する危惧にあった。とはいえ、ボワソナードは遺留分の意義について「平等」を援用することはなく、第2章で示された19世紀後半の学説の最終段階には未だ到達していない。また、著者によれば、ボワソナードは長子権を批判するものの、遺言の自由そのものを否定するわけではないという。

第2節「BOISSONADEの日本における遺留分学説」では、来日後の司法省及び明治法律学校における講義や政府への意見書などが素材とされて、フランス時代の見解と来日後の見解の異同が示される。結論として著者は、「BOISSONADEが日本に紹介した『フランス』法は、決してナポレオン法典ではなく、BOISSONADEが考えるところのあるべきフランス民法でもなく、後進近代国家である日本用にアレンジされた法律であったと考えるべきではないだろうか」と言う。具体的には、たとえば、明治20年になされたある講義では「扶養という観点から一定の財産を直系卑属に遺留するという主張を基礎としながら、形式的な枠組みは、BOISSONADE自身が批判してやまない長子相続に依拠している」ことが指摘されている。

以上をふまえて、第3節「民法典の編纂とBOISSONADE」が続くが、この部分が本章の中心をなす。著者は、これまでの検討から導かれたボワソナードの見解と明治初期の立法草案とを比較する作業などを通じて、ボワソナード学説が明治民法の遺留分制度に与えた影響を明らかにしようとする。具体的には、日本における立法の出発点となる「近世以前の日本相続(慣習)法」(第1款)と時期的にボワソナードの関与が考えにくい「BOISSONADE来日以前の民法草案」(第2款)の内容が明らかにされた上で、「諸草案へのBOISSONADE関与の可能性」(第3款)、そして「旧民法の編纂とBOISSONADE」(第4款)の関係が検討され、旧民法の親族相続部分(人事編および財産取得編中の相続の部分)はボワソナードの手によって起草されたものではないが、「旧民法における遺留分制度の趣旨及び基礎は、必ずしもナポレオン法典の精神にしたがったのではなく、BOISSONADE学説を採用したと見るべきだろう」とされる。起草理由や起案者・磯部四郎の注釈書には、ボワソナードの説明と同様の説明がなされているというのである。さらに著者は、「明治民法典におけるBOISSONADEの遺産」(第5款)の解明へと進み、「遺留分制度の趣旨及び基礎」「遺留分の割合及び割当」「価額賠償」をとりあげて、ボワソナードの影響を摘示する。最後に、著者は「日本遺留分法の沿革」(第6款)に関する考察を整理して、「混合型としての明治民法」という見方を提示する。そして、1947年改正によっても遺留分制度は基本的には変更を受けていないので、現行民法典もまた混合型の立法にほかならないとするのである。なお、明治民法の立法過程では現在の通説とは逆に、ゲルマン法→ドイツ法、ローマ法→フランス法という沿革理解がなされていたことがあわせて指摘され、現在の沿革理解はなぜ生じたのかという疑問が提示されている(解答は将来に留保されている)。

結章においては、第1節「まとめと結論」で、第1章〜第3章の議論が要約され、結論として、第一に、「ナポレオン法典における遺留分制度の趣旨は、従来考えられていたように、相続人間の『平等』にあったわけではない。フランスにおいて現在、遺留分制度の趣旨の一つと考えられている相続人間の平等(形式的平等)は、遺留分割合の大きさ、そして遺留分制度の存在そのものに対する激しい批判を受けて、19世紀後半、試行錯誤の末に、ようやく探し出されたものである」こと、第二に、「明治日本が採り入れた『フランス法』は、ナポレオン法典でもなければ、遺留分制度の趣旨を『平等』に求めた19世紀後半におけるフランス遺留分法学の到達点でもない。明治日本が受け入れたのは、比較法研究に優れ、遺留分法学に通じてBOISSONADEが、フランスにおける遺留分法学の発展、他国の立法、日本の慣習をふまえた上で提示した、ナポレオン法典をその中核部分をはじめ大幅に修正した改訂版であった」ことが改めて示されている。

こうして著者は、次のように主張する。「日本遺留分法学は、『母法フランス法』から自己を解放し、また、その力に依存することを諦めなければならない」。「明治日本がBOISSONADEの力を借りて明治民法典に埋め込んだ遺産相続における遺留分制度の趣旨も、やはり『平等』ではなく、『扶養』であった」のであり、「日本において、遺留分制度に何らかの存在意義が認められるとすれば、それは、被相続人による近親者の死後扶養に求めるしかないであろう」と。

さらに、高齢化社会を迎えた今日、被相続人死亡時における相続人に扶養の必要性は一般にはさほど高くないことを考えれば、遺留分制度の廃止論もありうることが示唆されているが、現段階では直ちに廃止論に与するわけではないとして、第2節「解釈論の試み」では、「被相続人の意思の尊重と実質的平等に配慮した遺産分配」を実現すべく、二つの解釈論上の問題の検討が試みられる。そして最後に、残された課題として、法定相続における平等の意義やフランスにおける相続法改正の現状がさらに検討されるべきことなどが示されている。

以上が本論文の概要である。以下、評価を述べる。

本論文は、「遺留分の無力化」に反対する最近の有力学説を批判するために、その論拠となっている現行制度の沿革理解を批判するという課題を設定しているが、この課題設定は適切なものであり、かつ、ナポレオン法典における遺留分の制度趣旨は必ずしも「共同相続人間の平等」を目的とするものではなかったこと、また、そもそも日本民法典の遺留分制度はナポレオン法典と直結するものではなかったことを、十分な説得力を持って示したことによって、上記有力説の基礎を切り崩すことに成功していると評することができる。この説に依拠する論者は、今後は少なくとも従来のような単純な理由づけに止まることはできなくなったと言える。

本論文は、広い範囲で多数の資料を収集し詳しい検討を行うことを通じて、遺留分制度を支える議論の様子を重層的に描き出している。今後、遺留分を論ずる研究者は、著者の立場に賛成するか否かを問わず、本論文で示された豊富な素材と多面的な検討の成果を利用することが可能になっている。本論文以前にも、フランスの遺留分法の沿革を扱う先行研究はなかったわけではないが、それらが主として法制史概説書を利用して書かれていたことを考えると、本論文はこれらを大きく凌ぐものであると評価することができる。また、本論文は、従来、親族相続関連の立法には関与しなかったとされてきたボワソナードが、少なくともこの領域の立法のある部分には影響を与えていたことを解明した点でも大きな意味を持つ。本論文の登場を契機に、他の問題に関しても再検討を行う可能性が開かれたと言えるだろう。

さらに、本論文は、現代社会における遺留分の存在意義を再検討に付するという明確な問題意識に貫かれており、具体的な課題に即した叙述の編成が整っていることとも相俟って、長大なものではあるがその議論をたどるのが容易になっている。この点も本論文の長所であると言える。

もちろん、本論文にも欠点がないわけではない。

本論文は、上記有力説の批判の局面においては成功していると言えるが、著者が提示する「扶養」中心の制度趣旨理解は必ずしも本論の歴史分析に裏打ちされておらず、それ自体は可能ではあるものの十分な説得力を有するものとはなっていない。有力説の批判を超えて、より積極的に制度趣旨理解を示すのならば、「平等」と「扶養」の関係をどう考えるのか、法定相続における「平等」の意義をどう評価するのか、「実質的平等」をどのように制度に組み込むのかなど、予想される疑問に対してさらに踏み込んだ対応が必要となると思われる。もっとも、これらの点の一部は、著者自身が今後の課題としているところであり、今後さらに検討がなされることを期待することができる。

本論文は豊富な素材を含むがゆえに、細部においては必ずしも十分に整理されていなかったり、提示された問題が未解決のまま残されている点がある。たとえば、ゲルマン法とローマ法の対比図式をどう考えるのかはなお検討を要するところである。とりわけ「ローマ法」「ローマ的」といった概念が、いかなる意味において用いられているかは私法史研究において常に自覚されるべき方法論的な問題であるが、概観的叙述において方法的緊張感を失っている部分もないではない。また、本論文は沿革研究を主眼とするものであり、解釈論の部分は付随的なものではあるが、各所に示された遺留分制度の技術的諸側面に関する検討結果が、必ずしも解釈論の試みに結びついていない憾みもある。

本論文には合計3000近くの詳細な注が付されており、それは本論文の素材・検討の豊かさの証左でもあるが、該当の注のみを一覧しただけでは本文の議論を支える引用箇所を直ちには特定できない箇所が散見される。読者にとって必ずしも親切な態度とは言えず、表記の改善が望まれるところである。

しかし、以上のような欠点は本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文はその課題を十分に達成しており、遺留分の存在意義をめぐる学説の議論を新たな段階に導くだけでなく、遺言の自由と公序としての法定相続の関係をめぐる様々な議論にも影響を及ぼしうる内容を持つものである。本論文は、自立した研究者としての著者の高度の能力を示すものであることはもとより、これまで相対的に手薄であった相続法の基礎理論に対する大きな貢献をなす点で学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であると認められる。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと評価する。

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