学位論文要旨



No 120668
著者(漢字) 黄,郁珊
著者(英字)
著者(カナ) ファン,ユサン
標題(和) In vivo 時空間分解ラマン分光による生きた単一酵母細胞の構造変化と生物活性の研究
標題(洋) Structure changes and bioactivity of single living yeast cells studied by in vivo time and space-resolved Raman spectroscopy
報告番号 120668
報告番号 甲20668
学位授与日 2005.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4744号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濵口,宏夫
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 助教授 鍵,裕之
内容要旨 要旨を表示する

【序】

本研究は生きた単一細胞の機能、反応と構造に対応する物質の変化を実時間、実空間、in vivo,分子レベルで捉えることを目的としている。すなわち本研究は物理化学的な観点から、生細胞内のできごとを観察するので、物理化学と生物化学の境界領域に位置する研究である。実験手法としては時空間分解ラマン分光法を採用して、研究対象には、生物化学者に頻繁に利用され、遺伝学的な手法も確立されている分裂酵母(Schizosaccharomyces pombe)を選んだ。研究内容は以下の三つのテーマに分けられる。1.化学物質で標識することなく、生きた細胞の細胞分裂を時空間分解ラマンスペクトルで記録することによって、細胞周期による生細胞の物質変化を分子レベルで捉えることに成功した。2生きた細胞のスペクトル中に、生命活性と強い相関を持ち、未知の分子種のものと思われる強いラマンバンドが観測された。このバンドの帰属を究明するため、生きた細胞の呼吸阻害剤に対する反応をラマンスペクトルで記録し、呼吸酵素の活性とこのラマンバンドの関連を明らかにした。3.このラマンバンドを与える分子種の細胞内の分布をラマンイメージング測定して、細胞活性の可視化を行った。

【実験】

共焦点ラマン顕微鏡(東京インスツルメンツ製Nanofinder室〓)の対物レンズを通して、レーザービームを生きた細胞に集光し、ラマンスペクトルを測定した。632.8nmの励起光を用い、全長約10μmの分裂酵母(Schizosaccharomyces pombe)に対し、250μmの空間分解能で細胞内のオルガネラの時間変化を解析することが可能である。呼吸阻害剤としてKCNを試料に投与して細胞の呼吸を阻害させ、ミトコンドリアのラマンスペクトルの経時変化を測定した。試料部でのレーザーパワーは約3mWであり、露光時間は180秒=3分間である。ラマンイメージング測定にはサンプルをピエゾステージで1ステップ/2秒間、1ステップ=500nmで移動させ3mWのレーザーでスキャンした。細胞のラマン信号を収集し、得られたシグナルの強度を色(強→弱を赤→青)で表して二次元的なイメージを作成した。

【結果・考察】

細胞分裂による細胞内構造変化:

細胞分裂は細胞の持つ機能の中、最も重要なものであり、細胞分裂についての理解は細胞の研究で非常に重要な課題である。本研究による生細胞の細胞分裂の時空間分解ラマン測定の結果から、ラマンスペクトルは細胞周期により顕著に変わることが分かった。その結果を図1に示す。この実験では、レーザーは細胞の中央に集光され、ビームスポットの位置は図1の細胞写真中の〓で示される。スペクトルは実験開始の(a)細胞核から、開始後9分(b)の細胞質、1時間13分(c)のミトコンドリア、2時間19分(d)の新生隔壁、5時間54分(e)の成熟した隔壁まで細胞分裂によるオルガネラの生成と移動に対応して変化した。スペクトル(a)の主なバンドはタンパク質に帰属することができる。すなわち1655-1660cm-1、1250-1300cm-1領域はペプチド骨格によるアミドI、アミドIIIモードの振動;1448cm-1、1340cm-1はCH2の変角振動;1003cm-1はphe残基のバンドである。スペクトル(b)と(c)に観測された1655cm-1は不飽和脂肪酸のcisC=C伸縮振動、1446cm-1はC-Hの変角振動、1301cm-1はCH2のねじれ振動、714cm-1はリン脂質の頭部グループに帰属することができる。いずれも生体膜の主要構成成分のリン脂質のバンドである。1000-1150cm-1の領域のバンドは脂質の炭化水素のコンフォメーション情報を含んでいる。この領域にある三本のバンドのうち、真ん中の1083cm-1のバンドはゴーシュ形による信号であり、両側のトランス形のバンドより強く観測された。この結果はミトコンドリアの膜が流動性に富んでいることを示している。1602cm-1のバンドの帰属は不明であるがこのバンドについて後に呼吸阻害の実験結果に基づいて議論する。スペクトル(d)と(e)はよく似ており、いずれも糖類のスペクトルである。しかし糖の多量体化を反映して両スペクトルに差異が見られた。それは新生隔壁の成熟に伴い、スペクトル(d)の1454cm-1の還元型バンドがスペクトル(e)の1462 cm-1の非還元型のバンドへシフトしたことと、単糖類をつなぐグリコシド結合のバンド(891cm-1)がスペクトル(e)に現れたことである。

生きた細胞の呼吸阻害剤に対する反応:

細胞内外の情報交換と情報伝達を解明するのに薬やストレスの細胞に対する効果が研究されてきた。しかし、そのメカニズムをどこまで解明できるのかは、細胞内で引き起こされた一連の生化学的応答をどれくらい早く検出できるのかに依存する。本実験では呼吸阻害剤を試料に投与して細胞の呼吸を阻害させ、その反応を記録した。ミトコンドリアは呼吸を通じて細胞にエネルギーを供給して細胞の生死の決定をしている、ということが知られているから、本実験の持つもう一つの意味は、細胞分裂実験で見た"細胞の生"と全く逆な"細胞の死"を観察することである。図2に示すのは投薬された酵母のミトコンドリアの時空間分解ラマンスペクトルである。レーザーはこの細胞のあるミトコンドリアに集光した。KCNを投与する5分前のスペクトル(a)に強い1602cm-1のラマンバンドが観測された。KCN投与3、11、19、36分後のスペクトル(b)-(c)からわかるように、1602cm-1のラマンバンドの強度は激減して観測されなくなった。この結果は、1602cm-1のラマンバンドが呼吸活性と強い関連を持つことを示唆している。後期に見える脂質バンドの強度、位置及び形の変化は、呼吸活性の低下がミトコンドリアの膜の構造の崩壊を引き起こした結果と考えられる。1602 cm-1のバンドを与える分子種はまだ明らかになっていないが、KCN投与直前と直後の差スペクトル(図3)をこの分子種のスペクトルと考えてよい。図3により、この分子は単純な構造を持つ小分子である可能性が高い。ミトコンドリア内の呼吸に関与するFe…O2…CuとFe=O2などの可能性が考えられる。図2のラマンスペクトル変化は顕微鏡観察でわからない細胞の死の初期過程を見ているものと考えられる。その意味で16O2cm-1のバンドを「生命のラマン分光指標」と名付けた。

細胞の活性の可視化:

細胞の生体機能を可視化する従来の方法では、外来のプローブを細胞に導入する必要がある。GFPによるバイオイメージング技術はその一例である。本実験は生きた細胞のラマン信号を画像化することにより、多数の分子の分布を一遍に解析して(20個のバンドに対応する分子の分布を10分以内に同時に解析できるが、ここにその中の6つの結果を示す)、より効率よくかつ直接に細胞の生体機能を可視化した。ですから1602cm-1のバンド、脂質のバンド(1446cm-1,1301 cm-1)とタンパク質のバンド(1003cm-1)、糖のバンド(891 cm-1,426 cm-1)のラマンイメージを測定することにより、細胞内の1602cm-1のラマンバンドを与える分子種の分布、脂質の分布、タンパク質の分布と糖の分布に対応する図(図4)が得られる。ミトコンドリアに局在するGFP融合タンパク質の局在と、1602cm-1のラマンバンドの局在とを比較した結果、2つのパターンは一致した。よって、この1602cm-1のバンドを与える分子種はミトコンドリアに局在することが証明された。C-Hの振動による脂質分布をマッピングした結果は、細胞膜を含めてリン脂質膜を持つ全てのオルガネラが検出されており結果は細胞の形になる。なかに2重膜を持つミトコンドリアは、他のオルガネラに比べてリン脂質の密度が高くてラマンバンドがより強く観測されから、図中の点在する赤い部分に対応する。蛋白質は細胞全体に均一に分布しているように見える、糖類は細胞壁より隔壁に集中しているように見える。

この1602 cm-1のラマンバンドを与える分子種のラマンイメージングを利用してミトコンドリアの活性度の差を区別することもできる。ここに一つの例(図5)を示す。図5に示すのは酵母の(a)ミトコンドリアのGFP蛍光写真と(b)1446cm-1(c)1602cm-1両ラマンバンドのラマンイメージングである。赤い円で囲まれたのはある二つのミトコンドリアのグループである。GFPの蛍光イメージから見ると、この二つのミトコンドリアのグループはサイズもGFPの蛍光強度も非常によく似ていて、あまり区別できない。1446cm-1の脂質のバンドのラマンイメージもこの二つのグループにはほぼ同濃度の脂質が存在していることを示している。一方1602cm-1のバンドのラマンイメージでは、下のグループは上のグループより色が赤く観測される。これは下のグループの中から、より強い1602cm-1のラマンバンドが検出され、つまり下のミトコンドリアのグループの方が上のミトコンドリアのグループより活性が高いことを示していて、両グループの活性が異なることを示唆している。このように1602cm-1のラマンバンドのイメージを測定すれば、GFP標識のようにミトコンドリアの分布を可視化するだけではなく、さらにミトコンドリアの活性を可視化することもできる。そもそもミトコンドリアは外観が同じように見えても、実際それぞれの活性度が異なる。ラマンイメージ測定はその違いを見分けることができる。

【まとめ】

本研究は物理化学の手法を生細胞に適用することによって、新しい領域を開拓することを試みた。細胞分裂の時空間分解ラマンスペクトルは細胞周期に伴う生体分子の構造や分布の変化を実時間、実空間的に記録した。一方、細胞の死の初期過程を記録する実験では、ミトコンドリアの時間変化ラマンスぺクトルを測定した。「生命のラマン分光指標」である1602cm-1ラマンバンドの強度は呼吸阻害剤の投与に素早く応答して激減した。この結果は、16O2cm-1のラマンバンドが呼吸活性と強く関連を持つことを示唆している。ラマンイメージングによりこのラマンバンドを与える分子種の分布を可視化することに成功した。これは生きた酵母細胞内のミトコンドリアの活性度をマッピングしていることを意味する。本研究は細胞の機能、反応と構造を解明して生細胞に関する研究の基礎を固める化学と生物学の新しい掛け橋になるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、時空間分解ラマン分光法(time- and space-resolved Raman spectroscopy)による生きた単一酵母の構造、機能変化と生物活性の研究を主題として、4章から構成されている。

第1章では導入として、酵母を研究対象として選んだ理由、従来の生化学手法の問題点など本研究の背景ならびに本研究の目的が述べられている。第2章では本研究に用いられたサンプルの製作、実験条件とデータ処理法の詳細が述べられている。細胞を一番自然に近い状態で測定するため、実験に合わせた独自のサンプルの製作法が述べられている。632.8 nmの励起光を利用することによって、250 nm (x,y) 2μm (z)という非常に高い空間分解能が得られた。これにより従来不可能であったin vivo の生細胞空間分解測定が可能になった。第3章は、測定結果と考察に関する記述である。細胞分裂が停止された状態での空間分解ラマン分光測定から出発し、続いて時空間分解ラマン分光法により細胞分裂の過程を追跡した。細胞周期の進行に伴う細胞の構造変化が詳細に調べられている。ミトコンドリアのスペクトル中に未知の分子種に由来するラマンバンドが観測された。このバンドの帰属を究明するため、生きた細胞の呼吸阻害剤に対する反応の時空間分解ラマン測定を行った。呼吸活性とこのラマンバンドの関連が実験的に明らかなり、"Raman spectroscopic signature of life"と呼ぶべき分光指標であることが明らかにされた。このラマンバンドの強度をマッピングすることにより、細胞内の活性ミトコンドリアの分布を可視化することができた。この結果により、ラマンマッピング法は、細胞の生物活性を可視化するうえで、従来のバイオーイメージングより有力な手法であることが示された。第4章では、研究成果が簡潔にまとめられている。

本研究において提出者は、従来試みられていなかったin vivo の生細胞の時空間分解ラマン分光測定を実現した。また細胞分裂中と薬剤に反応する細胞の構造変化および生物活性に注目して実験を行い、「生命のラマン分光指標」という新しい概念につながる重要な知見を得た。結果として提出者は、本手法が生細胞内の事象を分子レベルで解明するうえで、極めて有力であることを示した。これらの業績は独創性に富み、また丁寧に実行された実験に基づいており、極めて高く評価される。

本論文第3章はJournal of Raman spectroscopyの速報2編, Biochemistry誌のfull paperとして公表済み(辛島健、山本正幸、小倉尚志、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

以上の理由から、論文提出者黄郁珊に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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