学位論文要旨



No 120704
著者(漢字) カラファラ モナ モハメド ガラル
著者(英字)
著者(カナ) カラファラ モナ モハメド ガラル
標題(和) 上下水道がもたらす改善効果と健康、生態系および資源面の負荷との間のトレードオフに関する研究
標題(洋) Tradeoff between improvement effect of water and wastewater treatment and their impact to human health,ecosystem quality and resources
報告番号 120704
報告番号 甲20704
学位授与日 2005.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6124号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 花木,啓祐
 東京大学 教授 古米,弘明
 東京大学 助教授 福士,謙介
 東京大学 講師 片山,浩之
 東京大学 助教授 平尾,雅彦
内容要旨 要旨を表示する

エジプトでは、地方都市および大都市周辺に急速に広がる周辺都市において、環境および人口構造の変化が公衆衛生の質に顕著な影響を与えている。エジプトの地方都市での下水道整備は、上水道整備に対して遅れている。エジプト国民の大部分が上水を利用している一方、下水道施設が整備されているのは、大都市や地方の中核都市の一部である。エジプト南部で排出された下水すべてがナイル川に放流されていて、流域の水質が広範囲に悪化したことから、エジプトでは、下水の再利用が計画されている。エジプトにおける排水は、農業排水、産業排水、下水である。未処理家庭排水による排水の汚染は、下流の水利用者へ健康被害を与えるため、その水利用が制限される。現在、550万m^3の排水が河川水に混合された上で再利用されている。この量は、2017年末までに960万m^3に増加すると予測されている。衛生施設のない村においては、下水を農業排水として排出しづけるものと考えられ、排水水質を改善するための適切な処理オプションを示すことが喫緊の課題となっている。

上下水道施設は住民の要求に応じて、水を処理・配水し、最終的に安全に排出するように計画される。水の使用前、使用後に処理をすることで、水を飲んだり触れたりすることに起因する水系病原体感染のリスクを低減できる。世界保健機構(WHO)が1996年に行った試算では、8秒に1人のこどもが水関連疾病で死亡し、500万人の人が、安全でない飲料水や、不十分な公衆衛生に起因する病気によって死亡しているとしている。いくつかの主要な水系疾病および糞便性疾病の発生・流行のデータから、下痢の症例が一番多いことがわかる。発展途上国においては、下痢や腸感染症の罹患率・死亡率が最もが高く、子供の死亡率の3/4を占める。大都市、地方都市のいずれにおいても、エジプトの子供は、高い死亡リスクにさらされており、特に下痢による感染率が高い。カンピロバクターは感染性小児下痢症の主な原因となることがわかっている。

カンピロバクターは胃腸炎の原因としてよく知られている。エジプト保健省が1984年に行った試算によると、幼児の死亡率は1000人に72人(7.2%)にのぼり、そのうち腸感染症によるものは32人(4.3%)になるとしている。最近の報告書では、下痢による死亡率は、1990年代に1000人に34人だったものが、9人まで下がったとしている。カンピロバクター以外では、クリプトスポリジウムやロタウィルスも下痢を引き起こす代表的な水系病原体と考えられている。本研究では、これらの代表的な病原体が、下痢が引き起こすことの健康リスクについて検討する。また、上下水道整備による疾病率の低減効果についても評価する。

上下水道は、水系病原体の低減のみならず、水系生態系の質の改善のためにも不可欠である。未処理排水は、BOD成分を多く含み、溶存酸素の低下を招くため、多くの水生生物を消失させうる。水生生物において、経済的に重要であるのは魚である。本研究では、下水処理の重要性を、消失を免れる魚類の割合によって定量化する。

一方で、上下水道設備の建設・運転は、健康や生態系の質、資源面に関する影響を含む二次的な環境負荷をもたらす。建設・運転において材料・エネルギーを使用した際の排出物には、発がん性物質や、人間の呼吸器官に影響を与える物質が含まれている。また、これらの排出物は、酸性雨や富栄養化を引き起こし、それ自身が持つ動植物への毒性によって、周辺の生態系に影響を与えうる。処理施設を運転するためには、莫大なエネルギーが必要とし、結果として燃料や鉱物の採掘をすることになり、資源を消費する。こういった環境負荷の評価だけでは、上下水道施設建設の是非について判断が出来ない。施設運用から得られる便益と環境負荷を比較する必要がある。従って、上下水道に関して、3つのカテゴリすなわち健康、生態系、資源面について、プラスとマイナスの影響を定量的に評価することが特に必要である。

本研究の主たる目的は、水供給・衛生システムがもたらす健康リスクの低減と、それに伴って引き起こされる二次的な環境負荷との比較およびその定量化にある。同時に、上下水道整備が与える生態系の質および資源面への影響を定量化する。最終的に、これら3つのカテゴリ間での統合的な比較を行う。リスク評価モデルは罹病率低減の定量化、ライフサイクルアセスメント(LCA)は健康、生態系の質、資源面に対する二次的な環境負荷の定量化に使われる。本研究では、上下水道施設の建設・運転によってもたらされる、健康に関する便益と二次的影響の両方について定量化する。

便益については、(特に下痢性の)水系病原体による罹病低減率を、単純なリスク評価(RA)モデルで表現する。また、下水処理による水系生態系の質の改善は、生態系の質への便益として評価される。ここでは、処理された水が放流される水域で、消失を逃れた魚類の割合で表現する。健康、生態系の質、資源面への影響はLCAにより評価する。LCAおいては、影響評価にエコインディケーター99を使うこととする。

健康への便益と悪影響は、障害調整生命年(DALY)という単位で表現する。DALYは疾病の影響評価するための尺度で、ここ10年以上の間、世界銀行と世界保健機構(WHO)が発展させてきたものである。DALYは健康的な生活を何年失ったか、すなわち早く死亡して失った時間や障害を抱えて過ごした時間を示す。生態系の質への便益と悪影響は、PDF*m^2*年という単位で表現する。PDFは種の絶滅可能性を表す。資源面での影響は、超過熱量単位(MJ)で表す。

エジプト南部の都市群を仮定した上で、上下水道整備の選択肢を設け、それぞれに対してRAモデルとLCA手法を適用する。上水道施設は、平均的水使用量200L/人・日として、20万人都市の需要を満たすよう66,000m^3/日の能力を有するものとする。この施設は、急速撹拌、フロック形成、沈殿、急速砂ろ過、塩素消毒からなる通常タイプのものとする。下水道は、50,000m^3/日の能力を有し、処理方式の異なる2つの選択肢を設定する。これらの施設は、エジプトの排水基準を遵守できるものとする。1つ目の下水処理施設は散水ろ床方式とし、2つ目は活性汚泥方式とする。施設の設計基準は日最大流出時において、BOD: 30 mg/L、SS=30 mg/Lの基準で処理水を放流できるものとする。塩素注入設備は、あらゆる流出条件においても、残留塩素0.5 mg/Lを満足できるものとする。

本研究は、3つの段階からなる。第1段階では、3つの病原体すなわちクリプトスポリジウム、カンピロバクター、ロタウィルスが処理プロセスを通じてどの程度除去できるのか、いくつかの上下水道技術について俯瞰する。第2段階として、健康リスクの低減(リスク評価モデル)と上下水道施設の建設・運転に係る二次的な環境負荷(LCA手法)の定量化について述べる。最終段階として、各選択肢について、便益および環境負荷について定量化し、比較する。検討した選択肢はそれぞれA0、A1、A2、A3と呼ぶことにする。最初の選択肢A0は、上下水道が整備されない最悪のケースとする。一方、選択肢A3は、上下水道が完備された理想的なケースとする。選択肢A2、A3は上下水道のどちらかが整備されないケースとする。A1では、仮定した都市やその上流側の都市に下水処理がないケースであり、河川水には未処理下水による汚濁負荷がある。

検討の結果から、環境負荷は発生するものの、下水道施設によって水系疾病の感染が大幅に低減されることがわかり、その重要性が示されることとなった。4つのケースにおいて、選択した病原体による罹病率を比較すると、ロタウィルスは人口の17%にしか作用しないが、罹病率は98%に及ぶものと計算される。一方、飲料水水質は、上下水道システムの両方が整備されることがより望ましいことがわかった。4つのケースにおいて、選択した病原体による罹病率を比較すると、ロタウィルスは人口の17%にしか作用しないが、罹病率は98%に及ぶものと計算される。これは、ロタウィルスはもともとの河川水中での濃度が高く、他の病原体に比べて用量反応値が高いことによる。一方、A3のケース(通常の浄水処理と活性汚泥法による下水処理を想定)で、石炭火力発電所での発電を考えた結果、健康被害については、最大5.0*10^-4 DALY/人・年となった。健康被害は二酸化炭素、硫黄酸化物、窒素酸化物、粒子状物質、メタン以外の炭化水素、クロムといった排出物に起因するもので、主に施設運転時のエネルギー消費におけるものであった。生態系の質については、被害は最大で5.4×10^5 PDF*m^2*年/年、下水道を整備した場合は、1.1×10^7 PDF*m^2*年/年となり、ここでも水系生態系の質の改善に関して、処理施設整備の重要性を示すこととなった。資源面での被害は、ケースA3(活性汚泥法で処理、天然ガスのコンバインドサイクル発電所における発電を想定)において、最大1.6×10^7 MJ/yrとなった。ここでの被害は主に天然ガスの採掘によるものであった。本研究においては、上下水道の整備による資源面での改善はないものとした。

最後に、3つのカテゴリにおける被害と便益を統合的に比較した結果、二次的な環境負荷は発生するものの、上下水道施設整備は、健康被害の低減、水系生態系の質の改善の効果が大きく、総合的に見て導入効果が大きく勝ることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

人々の安全と環境保全のために広く用いられている上下水道の施設を建設し、運用することに伴って副次的な環境負荷が生じる。上下水道の導入によってもたらされる効用とこの副次的な環境負荷の間のトレードオフの定量的な評価はこれまでなされておらず、それを明らかにする必要がある。

本論文はこのような背景の元に行われたもので、「Tradeoff between improvement effect of water and wastewater treatment and their impact to human health, ecosystem quality and resources(上下水道がもたらす改善効果と健康、生態系および資源面の負荷との間のトレードオフに関する研究)」と題し、8章からなる。

第1章は序論で、問題意識とともに研究の目的を示している。

第2章は既往の研究についてのレビューである。この章では、水系感染症を念頭に置いたリスクアセスメントの手法を整理する一方で、上下水道を対象にしたLCAの研究例を示し、また被害算定型のインパクト分析を行っているEco-indicator 99の概要を整理している。

第3章は研究の方法である。本研究では、エジプトのナイル川の流域に立地する仮想的な人口20万人の都市群を想定し、そこに水道と下水道をともに整備した場合、どちらか一方だけを整備した場合、あるいはいずれも整備しない場合の4ケースをモデル的に設定し、これらの施設がもたらす効果を評価した。これらのケースに対して、病原性の細菌、ウイルス、原虫による下痢の発症のリスク評価の方法、Eco-indicator 99の手法における人間健康、生態系、資源の3種の被害カテゴリーの表現とそれらの統合化、排水処理導入による水域生態系の改善効果の評価の方法を示している。この方法の特徴は、人間の健康へのインパクトを表す指標としてDALY (障害調整生存年数、Disability Adjusted Life-Years)を用いることによって上下水道がもたらすリスク低減とLCAによって求める環境負荷としての健康影響を同一の単位で比較可能にしたこと、同様に下水道がもたらす生態系改善効果とLCAによって求める環境負荷としての生態系への影響をPDF(潜在的な生物種の消滅比率、Potentially Disappeared Fraction)という同一の単位で表現したこと、さらに人間健康、生態系、資源の3種の被害カテゴリーの統合化を行ったことである。これらの手法により、これまで独立に評価されていた上下水道の効用とLCA的な環境負荷を同一の単位で定量的に比較することが可能になったのである。

第4章は上下水道がもたらすリスク低減効果の評価の結果である。上水道と下水道を単独で比較すると、上水道のリスク削減効果の方が大きいが、上水道のみでは十分にリスクが提言できないことが定量的に評価できた。

第5章は水系生態系への下水道の寄与の評価についてである。下水道の導入によ放流先の河川中の溶存酸素が高く維持される効果を、典型的な自浄作用を表すモデルで評価した。一方、河川水中の溶存酸素の濃度と魚種数の関係をナイル川のデータに基づいて一般化し、これらから下水道の導入による魚種数の増加を推定した。

第6章は上下水道施設の建設と運用に伴う環境負荷をLCAによって評価した結果である。建設時のセメントと鉄の利用、運用時の塩素の利用と電力、エネルギーの利用を対象として評価を行った。評価に当たっては、仮想的な浄水場および下水処理場を設計し、そこで得られた必要資材量やエネルギー消費量に、Eco-indicator 99に示された環境負荷原単位を乗じて求めた。環境負荷項目としては、二酸化炭素排出量、大気汚染物質排出量、各種重金属、資源採掘量を網羅的に扱っている。これらの環境負荷をもとにして、人間の健康への損害、生態系への損害、資源への損害をそれぞれ求めた。

第7章は、統合的な比較と議論である。この章では、前章までで求めた上下水道による効用と副次的な環境負荷を比較している。まず、人間の健康への効果については、上下水道の効用が10 DALYs/person-yearのオーダー、副次的な損害が10^-4 DALYs/person-yearのオーダーで、前者が10万倍程度大きい。生態系への影響については上下水道の効用が10^10 PDF*m^2*year/person-year程度、損害が10^5 PDF*m^2*year/person-year程度であり、これも前者が10万倍程度大きい。なお、資源への影響は損害のみ生じる。人間健康、生態系、資源への影響を統合評価した結果、上下水道の効用は副次的損害の約1万倍大きいことが示された。

第8章は結論である。

本研究は、上下水道のようにトレードオフが生じるような施設に対して定量的にトレードオフを解析している面で非常にオリジナリティが高く、上下水道の評価のみならず、LCA研究の面でも新たな面を切り開くものである。

以上、本研究において得られた成果には大きなものがある。本論文は環境工学の発展に大きく寄与するものであり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク