学位論文要旨



No 120732
著者(漢字) 全,英美
著者(英字)
著者(カナ) チョン,ヨンミ
標題(和) 視覚障害鍼師の鍼施術における課題と衛生的施術方法の確立に関する研究
標題(洋)
報告番号 120732
報告番号 甲20732
学位授与日 2005.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博工第6152号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福島,智
 東京大学 教授 伊福部,達
 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 教授 浜窪,隆雄
 東京大学 特任教授 中野,泰志
 帝京平成大学 教授 會澤,重勝
内容要旨 要旨を表示する

本論文の背景と目的

鍼業は日本において江戸時代より視覚障害者の職業として根付いており、現在、障害の有無に関わらず国家試験によって資格が与えられている。しかし、韓国では現在、視覚障害者が鍼師として活躍できる制度が整備されていない。日本の占領時代に、鍼業が視覚障害者の職業として導入され視覚障害者が鍼業に従事できたが、日本軍の引き上げという政治状勢の変化に伴い鍼師制度が廃止された。その後、視覚障害者のたえまない復活運動にも関わらず、鍼師制度は未だに確立されていない。こうした韓国における鍼師制度の未整備には、以下の2つの要素が関係していることと推察される。

(1)治療を受ける側の一般人の意識が視覚障害者の施術能力に対して否定的であること。

(2)視覚障害者の鍼師としての能力が客観的・科学的に証明されていないこと。

つまり、韓国社会の人々の視覚障害者に対する意識と、実際の視覚障害者の施術能力との隔たりが存在し、このずれを修正するための現実的な手がかりが必要であると考える。

これまで、視覚障害者に対する一般人の意識については議論されており、視覚障害者の社会参加という観点からの職業教育の一環として鍼師制度や歴史についての研究はなされている。また、患者の治療に取り組む鍼師に必要な基本的な資質や有様については鍼灸の教育や臨床分野において議論されている。しかしながら、視覚障害者が鍼施術を行うにあたり、どのような課題があり、その課題は改善可能であるか否かについての研究はなされておらず、さらに、鍼師の施術のどのような行動内容に施術上の課題が存在するのかについては検討されていない。

そこで、本論文では、視覚障害者の鍼施術における課題の実態を明確にし、その改善の可能性を検証することを目的に、以下の2つの方法で検討を行った。

(1)一般人の意識を調べ、人々が視覚障害鍼師に抱く不安とは何であるかを韓国および日本において明らかにする。

(2)視覚障害鍼師に対する一般人の否定要因、すなわち、不安要素が、実際に視覚障害のある鍼師に存在するのか否か、もし、存在するのならそれは改善可能であるか否かを明示する。

これにより、人々に、視覚障害鍼師の施術能力に関する正しい情報を提供することで、将来韓国の鍼師制度の整備への一助となることを目指している。

研究の構成

視覚障害鍼師が施術を行うことに施術上の問題がないことを確認するために、以下の構成図に示した仮説を基に研究を行った。

問題の所在

治療を受ける側の一般人の意識の中に視覚障害鍼師の施術に対してどのようなイメージが存在するのかを明らかにするために2つのイメージ調査を行った。

第1の調査では、韓国人255名と日本人256名から、視覚障害者が鍼施術を行うことについてどのようなイメージを抱いているのかについて回答を得た。その結果、特に、韓国において、視覚障害鍼師に受療経験のない人の30%が、視覚障害者の鍼施術に対して不安を抱いていた(p<.01)。日本では、視覚障害鍼師に受療経験のない人の17%が視覚障害鍼師の施術に不安を持っていた。

第2の調査では、鍼師制度が整備されている日本において、183名を対象に、視覚障害鍼師に抱く不安がどのようなものなのかを調べた。その結果、視覚障害鍼師の施術に対して、特に、衛生面に関する不安が目立ち、その内容は、「人の援助なしに衛生管理ができない」(41%)、「手が清潔であるか気になる」(27%)などであった。

衛生操作の客観化システムの確立

以上で確認された衛生面の不安に着目し、視覚障害鍼師の施術の実態把握を目的に、衛生上の課題の有無を客観化する行動観察手法を検討した。資格取得後5年以上の経験のある視覚障害鍼師3名の標準的施術場面(3名×3回)を題材にし、記録手法、分析手法、観察手法を組み合わせることで、衛生操作の観点からチェックすべき内容を検討した。このときの施術部位は、肩、腰、足のツボに設定し、a.肩(肩外兪)・腰(腎兪)、b.肩(肺兪)・足(承筋)、c.腰(志室)・足(承山)とした。その結果、衛生操作の観点から施術中の施術者の動きと手指の接触の有無を最も正確にかつ客観的に判断するためには、8つの視点からの同時観察が必要であることが明らかになった。そこで、8台のビデオカメラを用いて、施術中の行動を記録する装置を考案し、衛生操作を行動観察によって客観化する記録手法とした。

また、記録した8つのビデオ映像の分析について検討した結果、分析要素である施術者の両手の動き等の施術操作間の因果関係を分析するためには、複数の映像を同時観察する必要がある反面、一人の観察者が同時に観察可能な映像も考慮する必要があることが分かった。そこで、これらの考慮点を勘案し、4つの映像を画面分割器によって同時提示することにした。さらに、個々の衛生操作の分析と因果関係の分析を行うために、事象見本法によるミクロ的観察手法を用いた。

この衛生操作の客観化手法によって記録したVTRを、衛生学・公衆衛生学専門家1名と鍼灸教育専門家1名にみてもらい、衛生上どのような問題が存在するのかについて、その内容を列挙してもらった。その結果、視覚障害鍼師は「手指消毒済みの手で、非消毒野へ接触する」、「手指消毒していない手で、消毒野に接触する」、「1枚の酒精綿で何回も清拭する」という指摘がなされており、触察による手指の清潔保持に関する指摘が多かった。

次に、専門家の評価内容を基に、衛生チェックリストを作成した。ビデオ内容に関する専門的知識をもたず、観察方法について十分な説明をうけた3名に、衛生チェックリストに基づいてビデオ内容のミクロ的観察を行ってもらい、事象見本法による分析を行った。その結果、視覚障害鍼師は、施術において、触察による確認が多く見られ、消毒野と非消毒野との行き来が顕著であることが明らかとなった。一方、術野消毒においては、視覚障害鍼師は3名とも押手の接触範囲を含む広い範囲を消毒していたものの、同一の酒精綿で複数回清拭していた。また、施術手順に応じて手指の衛生保持の因果関係を分析した結果、刺鍼時に手指衛生が保たれた施術者はいなかった。この問題が視覚障害鍼師特有の問題であるかを確認するために、同人数の晴眼鍼師との比較を行った。その結果、晴眼鍼師には触察による確認がほとんど認められなかったものの、刺鍼までの施術手順による手指の衛生保持の因果関係を分析した結果は、視覚障害者と同様、全員の手指の衛生が保持されていなかった。これは、鍼施術の特徴上、視覚障害の有無に関わらず、刺鍼前に二度以上触察を行う必要があるため、適切な施術手順なしでは衛生保持に問題を引き起こす可能性があることが示唆された。

衛生的施術方法の確立

以上の実験結果から、視覚障害者が衛生的な施術を行うには適切な施術手順と、適切な触察の方法の確立が必要であることが明らかとなった。そこで、衛生的施術を促すための教育プログラムを試作し、視覚障害鍼師の施術における衛生的問題の払拭の可能性を検討した。教育プログラムの作成にあたっては、(1)刺鍼時の術野の清潔保持、(2)刺鍼時の手指の清潔保持、(3)術野の清拭酒精綿の1回使用、(4)押手接触を含む広い範囲の術野消毒、を基準とした。

これらの基準を遂行するために、(1)合理的な施術手順(施術行動の順序)、(2)より大きいサイズの酒精綿の使用、(3)適切な触察法の確立、の3つの手順を提案した。なかでも、3つ目の適切な触察法の確立については、さらに、以下の2つの基準を設けた。

(1)消毒野の確認の際は、手掌・指腹を使用する。

(2)非消毒野の確認は手指背を使用する。

この衛生施術方法を同一の視覚障害鍼師3名にフィードバックし、方法を教示し、手順の実現可能性を検討した。同様に、非専門家3名にチェックしてもらい、事象の因果関係によって、刺鍼までの衛生保持状態を分析した結果、全ての施術者において、適切な手指の使い分けと衛生的な刺鍼を確認できた。これにより、視覚障害者であっても適切な衛生教育を受けていれば、衛生面において安全性の高い施術を遂行可能であることが明らかとなった。また、晴眼者といえども、衛生操作に関する適切な手順を習得する必要があり、このことからも、視覚障害の有無に関わらず、施術における正しい衛生教育が必要であると思われる。

本研究のまとめと今後の課題

今回、視覚障害鍼師の施術における課題を把握・検証し、その解決の可能性を検討した結果、以下のことが明らかとなった。

(1)視覚障害鍼師からの受療経験のない韓国人の30%が視覚障害鍼師に受療するのに不安を感じていたこと。

(2)日本の一般人の27%は、視覚障害鍼師の施術に対して、いろいろなことを触って確かめるので、手が清潔であるか気になると思っていること。

(3)視覚障害鍼師は施術において触察行動が顕著であったこと。

(4)しかし、視覚障害鍼師の施術の衛生操作は晴眼鍼師のそれに、決して劣らなかったこと。

(5)衛生施術方法の提示により、視覚障害鍼師の施術は衛生的な施術となったこと。

(6)視覚障害鍼師の施術は適切な施術手順の導入によりその改善が可能であること。

以上、一連の研究、すなわち視覚障害鍼師の施術における課題の抽出、課題の検証、その解決策の構築により、視覚障害鍼師の衛生的施術方法を提示し、その効果をはかることができた。

今後の課題としては、以下の2つの側面からの検討が必要である。

(1)視覚障害鍼師の鍼施術については、臨床教育において、衛生面における適切、かつ具体的な施術プログラムを構築するとともに、衛生教育を鍼の臨床教育に位置づけること。

(2)一般人に対しては、各種の教育機関、および社会的な啓発活動等を通して、視覚障害者とその職業活動に関する正確な情報を提供することにより、視覚障害者の能力とその職業上の適正について、正しい理解と正当な評価がなされることをねらった、教育プログラムが用意されること。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、視覚障害鍼師が衛生面において安全な施術が可能なことを立証するために、教育学・教育心理学の観点から計画された調査・実験研究である。日本の鍼術は、視覚障害者によって発展してきた長い歴史を持っているにもかかわらず、これまで「視覚障害者」と「鍼術」を融合分野とした客観的・科学的研究はほとんどなされてこなかった。本論文では、視覚障害鍼師の施術における衛生的問題を客観化するために、(1)施術行動の客観的記録・分析・観察システム、(2)衛生操作をチェックするための評価リスト、(3)行動観察による客観的評価手法を考案し、その有効性について検討を加えている。そして、これらの客観化手法を用いて、視覚障害鍼師の衛生操作上の課題を明らかにした上で、(4)衛生的施術のための教育介入プログラムを考案し、(5)その教育効果を検討することで、(6)視覚障害鍼師の施術における衛生的問題が解決可能であることを証明している。

本論文は12章から構成されている。

第1〜5章は、序論であり、まず本論文の背景として、日本の視覚障害者における鍼業の歴史と視覚障害者の鍼業への就業の現状(第1章)、韓国の視覚障害者の鍼業における歴史と鍼師制度の復活運動の変遷(第2章)について述べた上で、第3章で研究の動機と目的を整理している。第4章と第5章は問題の所在を明確化するための調査研究をまとめたものであり、(a)韓国と日本における一般人の視覚障害鍼師の施術に対する意識調査、(b)一般人の視覚障害鍼師の施術に対する不安に関する調査の結果について考察している。その結果、一般人の意識の中には視覚障害鍼師の施術に対する衛生面での不安があることが明らかにされた。

第6〜7章では、鍼施術を行動観察の観点から記録・分析・観察するための新たな分析手法について論じている。まず、第6章で、「視覚障害」と「鍼術」や「鍼師」に関する先行研究を分析し、鍼施術における衛生操作の客観化システム作成のための要件を考察している。その結果に基づき、第7章では、衛生操作の客観化システムとして、記録手法、分析手法、観察手法をそれぞれ考案し、装置の設計を行っている。ここで開発された客観化手法の最も大きな特徴は、衛生操作を(1)徹底した行動記録手法、(2)人間の知覚・認知特性を考慮した分析手法、(3)きめ細かい観察手法によって検討している点である。例えば、行動記録装置には、8台のビデオカメラを用い、施術中の施術者の動きと手指の接触の有無を詳細に判断できるような工夫を行っている。また、施術者の両手の動き等の施術操作間の因果関係を明らかにするための同時表示画面数の検討では、人間が同時に処理できる知覚・認知特性を考慮している。さらに、観察の客観性を向上させるために事象見本法と時間見本法を組み合わせたミクロ的な行動観察手法を考案している。

第8〜9章では、衛生操作を観察する際、専門知識や障害者に対するイメージによるバイアスを最小限にするためのチェックリストの作成とそのチェックリストを用いた評価実験について論じている。まず、第8章で、衛生操作上チェックすべき事項をリストアップするために衛生学・公衆衛生学、鍼灸教育学の専門家に対して実験を実施し、その結果に基づいて、衛生操作評価リストを新たに提案している。次に、第9章では、考案した評価リストを用い、バイアスの少ない非専門家による評価実験を実施し、視覚障害鍼師と晴眼鍼師の衛生操作について検討を行っている。その結果、視覚障害鍼師は、触察による確認が多く、消毒野と非消毒野との往復が顕著であり、刺鍼時の手指と術野の衛生保持が保たれていないという課題を明らかにした。さらに、晴眼鍼師との比較検討を行った結果、晴眼鍼師においても刺鍼時の手指と術野の衛生保持がなされていないことを示している。

第10〜11章では、衛生操作上の問題を解決するための教育介入プログラムの考案とその教育効果について論じている。まず、第10章で、鍼施術における衛生操作の問題を解決するための衛生施術教育プログラムとして適切な施術手順と手指の触察方法の確立を提案している。次に、第11章で、衛生的施術方法を視覚障害鍼師に教示し、再度実験による検討を行った結果、施術者全員において衛生的指針が認められたことを示している。これらの分析結果から、正しい手順による施術によって視覚障害者であっても衛生的安全性のある施術が可能であることが示された。

第12章では、本論文の結論を述べた上で、今後の課題について総合的に考察し、(1)衛生操作を保持するためには視覚障害の有無にかかわらず衛生教育が必要であること、(2)衛生操作のための教育プログラムの作成とカリキュラム化が必要であること、(3)一般人が視覚障害鍼師の施術を正確に理解できるようにするための理解教育が必要であることを述べている。

以上のように、本論文では、(a)鍼施術行動を衛生操作の観点から客観化する新しい研究手法と(b)鍼の衛生的施術に関する教育介入プログラムを確立した上で、(c)視覚障害鍼師は衛生面において安全な施術が可能であることを実証している。本論文の成果は、(1)鍼師の衛生操作研究に新たな研究手法を提供しただけでなく、(2)日本における視覚障害鍼師の資質向上や職業的自立度の促進、および(3)韓国における視覚障害者が従事できる鍼師制度の確立等の社会的な貢献も期待できる。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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