学位論文要旨



No 120744
著者(漢字) 李,慶美
著者(英字) Lee Kyung Mi
著者(カナ) イ,キョンミ
標題(和) 海産魚トラフグの浸透圧調節に関する分子生理学的研究
標題(洋) Molecular and physiological studies on osmoregulation in a marine pufferfish,Takifugu rubripes
報告番号 120744
報告番号 甲20744
学位授与日 2005.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2924号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 會田,勝美
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 助教授 良永,知義
 東京大学 助教授 兵藤,晋
 東京大学 助教授 金子,豊二
内容要旨 要旨を表示する

硬骨魚類の体液浸透圧は淡水魚,海産魚を問わず海水の約1/3に相当する300 mOsm/kg程度に保たれている。魚類は淡水,海水という大きく異なった塩分環境中でも,鰓,腸,腎臓といった浸透圧調節器官の調和のとれた働きにより,体液の浸透圧を生理的範囲内に維持している。これまでの魚類の浸透圧調節に関する研究は,主にサケ科魚やウナギなどの回遊性魚類あるいはティラピアなどの広塩性魚を用いて知見が蓄積されてきた。一方で,海産魚の浸透圧調節あるいは低張な環境水への適応能に関する知見は乏しいのが現状である。

トラフグ(Takifugu rubripes)は水産食品の中でも重要な位置を占める魚種のひとつであり,水産資源としての価値も高い。また,ゲノムサイズは約400 Mbで脊椎動物の中では最も小さく,すでにゲノム解析の95%以上が終了している。本研究では海産魚のモデルとしてトラフグを用い,海産魚の浸透圧調節における分子生理学的メカニズムの解明を目指した。

海産魚トラフグの低塩分耐性

海産魚であるトラフグの低塩分耐性を検討するため,トラフグを淡水,25,50,75,100%海水に移行して3日間飼育し,各群における生存率と血液浸透圧を調べた。淡水に移したトラフグはすべて死亡したが,これ以外の環境水ではすべての魚が生存し,その体液浸透圧は正常な値を示した。次に,低塩分環境に移した際の血液浸透圧の経時的変化を調べた。トラフグを海水から淡水,25, 50, 100%海水に移した結果,淡水では高い死亡率が見られ,血液浸透圧は移行に伴う急激に減少した。25%および50%海水群では,移行12時間まで浸透圧の低下が認められたが,その後回復した。

さらに,25%海水より薄い環境水への適応能を調べるため,トラフグを淡水,1,5,10,15,25%海水に移行して3日間飼育し,各群における生存率と血液浸透圧を調べた。5%海水以上の塩分濃度ではすべての魚が生存したが,淡水では70%の魚が,1%海水では40%の魚が死亡した。10%海水以上の環境水に移したトラフグでは海水飼育と同様な活動性が認められ,血液浸透圧は325〜337 mOsm/kgの値を示した。一方,淡水から5%海水の低塩分環境においてトラフグの活動性は著しく低下し,血液浸透圧は300 mOsm/kg以下の低い値となった。さらに,トラフグを25%海水に1週間馴致した後,同様に淡水,1,5,10,15,25%海水に移行して3日間飼育し,生存率と血液浸透圧を調べた。5%海水以上の塩分濃度ですべての魚が生存したが,淡水では30%の魚が,1%海水では20%の魚が死亡し,海水から直接移行した場合と比べて生存率がやや向上した。しかし,いずれの場合も低塩分耐性の下方限界は5〜10%海水の間にあり,5%海水以下の低塩分環境下で血液浸透圧が大きく低下した。

また,低張な環境水への移行に伴う鰓の塩類細胞の変化を調べるため,トラフグを100%海水から淡水,1,5,10,15,25,50,100%海水に移行して3日間飼育し,塩類細胞をNa+,K+-ATPaseに対する抗体を用いて免疫染色するとともに,鰓のNa+,K+-ATPase活性を測定した。その結果,塩類細胞の大きさに変化は見られず,またNa+,K+-ATPase活性にも各群において差は認められなかった。

トラフグにおけるプロラクチンおよびその受容体の発現

魚類においてプロラクチンは淡水適応ホルモンと考えられ,その一般的作用は浸透圧調節器官の上皮の透過性を低下させることにあり,鰓においてはNa+およびCl-の体外への流失を防ぐことで,イオンを体内に保持することが知られている。一方,海産魚におけるプロラクチンの生理作用はいまだ解明されていない。本章では海産魚のプロラクチンの生理作用を解明する端緒として,トラフグ下垂体からプロラクチンcDNAを,また鰓からプロラクチン受容体cDNAをそれぞれクローニングし,全塩基配列および演繹アミノ酸配列を明らかにした。

次に,プロラクチン遺伝子の発現部位をRT-PCRおよびノーザンハイブリダイゼーション法により調べた結果,プロラクチンは下垂体に特異的に発現することが示された。またRT-PCRおよびin situハイブリダイゼーション法により,プロラクチン受容体は鰓の塩類細胞,腸粘膜の上皮細胞,および腎臓の近位細尿管の上皮細胞で発現していることが確認された。

以上の結果,プロラクチンは海産魚の下垂体でも発現しており,さらにその受容体が浸透圧調節器官で発現していることから,海産魚であるトラフグにおいても,プロラクチンがイオン・浸透圧調節に関与している可能性が高いと考えられた。

トラフグの低浸透圧環境への適応に伴う生理学的変化

トラフグの低浸透圧環境への適応に伴う生理学的変化を調べるため,トラフグを100%海水から25%海水に移行し,血液浸透圧およびNa+, Cl-濃度の変化を一週間にわたって経時的に調べた。また,下垂体におけるプロラクチンと成長ホルモンの発現量の変化を調べた。その結果,浸透圧およびイオン濃度は移行直後に一過的に低下し移行3日目までにほぼ回復したが,この間にプロラクチンの発現量は約5倍に増加した。このことから,トラフグにおいてもプロラクチンが低浸透圧環境に適応する際に,体液のイオン濃度と浸透圧を上昇させる方向に働くホルモンであることが示唆された。一方,海水適応ホルモンとして知られている成長ホルモンの発現量は,プロラクチンとは対照的に約半分に減少した。

次に,鰓,腎臓,腸におけるプロラクチン受容体の発現量の変化を調べた。鰓の場合,25%海水に移行してもプロラクチン受容体の発現量は変化しなかった。腎臓におけるプロラクチン受容体の発現量は海水中では低い値を示したが,移行7日目に大きく増加した。また,腸におけるプロラクチン受容体の発現は移行後,一過的に低下したが,その後増加した。25%海水に移行後,プロラクチン受容体が増加傾向を示した腎臓と腸では,プロラクチンの作用で海水型から淡水型の機能に切り替わるとともに,up-regulationによりプロラクチン受容体の発現が増えたものと思われる。

一方,プロラクチン受容体の発現量に変化が見られなかった鰓は,海水,25%海水双方の環境でプロラクチンが機能していると考えられる。特に鰓に存在する塩類細胞はNa+やCl-の輸送の場であり,鰓におけるプロラクチンの主要な標的細胞である。そこで,海水から25%海水に移行した際の塩類細胞の変化を,Na+,K+-ATPase抗体を用いた免疫染色と走査電子顕微鏡により調べた。その結果,25%海水への移行に伴う塩類細胞の大きさに変化は認められなかったが,塩類細胞の開口部は小さくなり,またその密度が低くなった。塩類細胞は海水中で体内に過剰となるイオンを排出していると考えられるが,低張な環境である25%海水中では開口部を閉じることでイオンの排出を抑制していると推察された。

低浸透圧環境下におけるトラフグの成長

トラフグの低浸透圧環境における長期的な適応能および希釈海水での養殖の可能性を検討するため,100%海水と低浸透圧環境である25%海水でトラフグの成長を比較した。まず, 100%海水で飼育していたトラフグを25%および100%海水の水槽に移して8週間飼育し,毎週,体重と体長を測定した。飼育終了後,肝臓体重比と血液浸透圧および鰓のNa+,K+-ATPase活性を測定した。また,浸透圧調節に関与すると考えられるプロラクチンおよび成長ホルモンの発現量を調べた。餌は1日に体重の3%を与えた。その結果,100%海水と25%海水のトラフグは毎週,体重および体長が増加したが,25%海水のトラフグでも100%海水群と同様な成長を示し,両者に差は認められなかった。また,100%海水と25%海水で飼育したトラフグの肝臓体重比および血液浸透圧も同様の値を示した。一方,鰓のNa+,K+-ATPase活性は100%海水よりも25%海水で低い値となった。このことから,鰓で浸透圧調節に費やされるエネルギーは,100%海水よりもむしろ25%海水の方が少なくて済むと考えられる。

さらに,淡水適応ホルモンとして知られているプロラクチンの発現量は25%海水で100%海水よりも有意に高い値を示し,逆に海水適応ホルモンの側面をもつ成長ホルモンの発現量は25%海水で低い値となった。これらの結果は,トラフグが25%海水に長期的にも十分に適応できることを示すとともに,プロラクチンおよび成長ホルモンが浸透圧調節に関与することを示唆する。一方,25%海水で成長ホルモンの発現量が低下したにもかかわらず,100%海水と25%海水で成長に差は見られなかったことは興味深い。

以上の結果,海産魚であるトラフグは淡水には適応できないが,10%海水までならば十分に適応可能であることが明らかとなった。低浸透圧環境に適応する際,下垂体におけるプロラクチンの発現量が上昇すること,また鰓,腎臓,腸といった浸透圧調節器官でプロラクチン受容体の発現が見られたことから,海産魚のトラフグにおいても広塩性魚と同様に,プロラクチンが低浸透圧環境への適応に重要なホルモンであることが示唆された。しかし鰓の塩類細胞は低浸透圧環境下でもイオンを取込む淡水型へと発達することはなく,海水中におけるイオン排出機能が抑制されるものと考えられた。さらに長期間の飼育成長実験から,25%海中でも100%海水と比べ遜色なく成長することが示され,希釈海水を用いたトラフグの陸上養殖の可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では海産魚のモデルとしてトラフグを用い,海産魚の浸透圧調節における分子生理学的メカニズムの解明を目指した。

海産魚トラフグの低塩分耐性

海産魚であるトラフグの低塩分耐性を検討するため,トラフグを淡水,25,50,75,100%海水に移行して3日間飼育し,各群における生存率と血液浸透圧を調べた。淡水に移したトラフグはすべて死亡したが,これ以外の環境水ではすべての魚が生存し,その体液浸透圧は正常な値を示した。さらに,25%海水より薄い環境水への適応能を調べるため,トラフグを淡水,1,5,10,15,25%海水に移行して3日間飼育し,各群における生存率と血液浸透圧を調べた。5%海水以上の塩分濃度ではすべての魚が生存したが,淡水および1%海水で死亡する個体が見られた。10%海水以上の環境水に移したトラフグでは海水飼育と同様な活動性が認められ,血液浸透圧は正常な値を示した。一方,淡水から5%海水の低塩分環境においてトラフグの活動性は著しく低下し,血液浸透圧は低い値となった。このことから,トラフグの低塩分耐性の下方限界は5〜10%海水の間にあることが明らかとなった。

トラフグにおけるプロラクチンおよびその受容体の発現

海産魚のプロラクチンの生理作用を解明する端緒として,トラフグ下垂体からプロラクチンcDNAを,また鰓からプロラクチン受容体cDNAをそれぞれクローニングし,全塩基配列および演繹アミノ酸配列を明らかにした。次に,プロラクチン遺伝子の発現部位をRT-PCRおよびノーザンハイブリダイゼーション法により調べた結果,プロラクチンは下垂体に特異的に発現することが示された。またRT-PCRおよびin situハイブリダイゼーション法により,プロラクチン受容体は鰓の塩類細胞,腸粘膜の上皮細胞,および腎臓の近位細尿管の上皮細胞で発現していることが確認された。

以上の結果,プロラクチンは海産魚の下垂体でも発現しており,さらにその受容体が浸透圧調節器官で発現していることから,海産魚であるトラフグにおいても,プロラクチンがイオン・浸透圧調節に関与している可能性が高いと考えられた。

トラフグの低浸透圧環境への適応に伴う生理学的変化

トラフグの低浸透圧環境への適応に伴う生理学的変化を調べるため,トラフグを100%海水から25%海水に移行し,血液浸透圧およびNa+, Cl-濃度の変化を一週間にわたって経時的に調べた。また,下垂体におけるプロラクチンと成長ホルモンの発現量の変化を調べた。その結果,浸透圧およびイオン濃度は移行直後に一過的に低下し移行3日目までにほぼ回復したが,この間にプロラクチンの発現量は約5倍に増加した。このことから,トラフグにおいてもプロラクチンが低浸透圧環境に適応する際に,体液のイオン濃度と浸透圧を上昇させる方向に働くホルモンであることが示唆された。一方,海水適応ホルモンとして知られている成長ホルモンの発現量は,プロラクチンとは対照的に約半分に減少した。

低浸透圧環境下におけるトラフグの成長

トラフグの低浸透圧環境における長期的な適応能および希釈海水での養殖の可能性を検討するため,100%海水と低浸透圧環境である25%海水でトラフグを8週間にわたって飼育し,成長を比較した。その結果, 25%海水のトラフグでも100%海水群と同様な成長を示し,両者に差は認められなかった。さらに,淡水適応ホルモンとして知られているプロラクチンの発現量は25%海水で100%海水よりも有意に高い値を示し,逆に海水適応ホルモンの側面をもつ成長ホルモンの発現量は25%海水で低い値となった。これらの結果は,トラフグが25%海水に長期的にも十分に適応できることを示すとともに,プロラクチンおよび成長ホルモンが浸透圧調節に関与することを示唆する。

以上の結果,海産魚であるトラフグは淡水には適応できないが,10%海水までならば十分に適応可能であることが明らかとなった。低浸透圧環境に適応する際,下垂体におけるプロラクチンの発現量が上昇すること,また鰓,腎臓,腸といった浸透圧調節器官でプロラクチン受容体の発現が見られたことから,海産魚のトラフグにおいても広塩性魚と同様に,プロラクチンが低浸透圧環境への適応に重要なホルモンであることが示唆された。さらに長期間の飼育成長実験から,25%海中でも100%海水と比べ遜色なく成長することが示され,希釈海水を用いたトラフグの陸上養殖の可能性が示唆された。

以上のように,本論文では海産魚トラフグの低浸透圧環境への適応能とその生理学的機構が明らかとなり,学術上および応用上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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