学位論文要旨



No 120758
著者(漢字) 河原,純子
著者(英字)
著者(カナ) カワハラ,ジュンコ
標題(和) 幼児の有機リン系殺虫剤曝露評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 120758
報告番号 甲20758
学位授与日 2005.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第148号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳沢,幸雄
 東京大学 助教授 新井,充
 東京大学 助教授 熊野,宏昭
 横浜国立大学 教授 中井,里史
 東京大学 助教授 吉永,淳
内容要旨 要旨を表示する

緒言

殺虫剤は毒性を有しながらも意図的に使用される化学物質である。中でも有機リン系殺虫剤は最も汎用性の高い物質であるが、近年、一部の物質について遅発性の行動・機能学的障害を引き起こすことが動物実験で明らかになるなど、発達期にある小児の脳や神経の発達への影響が懸念されている。農業活動に伴って殺虫剤が頻繁に試用される地域では、有機リン系殺虫剤による環境汚染が数多く報告されており、このような環境で生活する小児は、健康影響を被る可能性の高い潜在的集団であるといえる。しかしながら、現状では、小児を対象とした曝露評価は行われておらず、ましてや人の曝露と密接な関係にある身体・行動学的特性を考慮した包括的な曝露評価は行われていない。本研究では、幼児の有機リン系殺虫剤への曝露量評価手法の検討を行うとともに、農業地域に生活する幼児を対象とした包括的な曝露評価を行う事を目的とする。

各種媒体からの有機リン系殺虫剤曝露量評価手法の検討(第三章)

方法

本研究では、ジクロルボス、トリクロルホン、フェニトロチオン等、国内において出荷量の高い有機リン系殺虫剤を目的物質として選定した。幼児の潜在曝露媒体である、大気、土壌、ハウスダスト、および食物を対象とし、目的物質のの分析方法の確立を行った。

結果と考察

吸着剤および石英フィルターからの目的物質の回収率は81-94%の範囲であり、再現性も10%未満と良好な結果が得られた。目的物質吸着量100μgに対する破過率はいずれの物質とも5%未満であり、十分な保持力を示した。以上の測定法を用いた場合に予想される目的物質の定量下限値は、環境庁が定める大気濃度参考値あるいは厚生労働省が定める室内空気濃度指針値を十分に下回る値であった。

土壌からの目的物質の回収率は揮発性の高いジクロルボスを除いておよそ80%以上の回収率が得られ、再現性も良好であった。一方、ハウスダストからのトリクロルホンとフェニトロチオンの回収率は30±6%、18±3%であった。

また、陰膳試料分析試験においては、概ね80%以上の安定した回収率が得られたが、試料トリクロルホンの回収率は50±0.5%と、低い値であった。またジクロルボスの回収率は66.7±13.8%であり、回収率と安定性ともに低かった。抽出プロセスにおける複数回の減圧濃縮による揮発が変動の要因と考えられた。これまで国内あるいは諸外国で得られている乳幼児の1日の曝露特性を参考とし、媒体ごとに目的物質の曝露量推計下限値を試算した結果、以上の分析方法を用いた場合に推計可能な曝露量は、農薬に対して設定されている1日許容摂取量を十分に下回り、媒体間の下限値のずれも許容可能な範囲であった。

幼児の生活環境における有機リン系殺虫剤汚染調査(第四章)

方法

関東圏内のA町に在住する幼児を対象とし、自宅や保育施設等の主要な生活環境における大気、土壌、ハウスダストの有機リン系殺虫剤汚染調査を行った。調査は、2003年5月と、7月と8月の非散布期と非散布期において実施した。以下は試料の採取方法である。

大気

対象幼児の自宅および保育施設において大気中の有機リン系殺虫剤の捕集を行った。吸引口側に直径37mm石英濾紙を連結した吸着剤充填管ChromosorblO2を床または地上70から100cm地点に設置し、24時間捕集を行った。

土壌およびハウスダスト

被験者の自宅屋外および保育施設の運動場において、滞在頻度の高い場所1地点の表層1cmの土壌を採取した。一方、対象家庭には、予め集塵パックを配布し、電気掃除機を用いて床上ハウスダストを3日間採取するよう依頼した。また、保育施設では、教室1室においてハウスダストを採取した。

活動特性の調査

被験者の母親に時間-行動記録票を配布し、被験者の24時間の滞在空間と活動強度の記録を行うよう依頼した。この記録票では、被験者が自宅室内、自宅室外、保育施設、その他室内、その他室外のうち、いずれの空間に滞在したかを30分ご、とに記録すると同時に、各時間帯の被験者の活動強を4段階で評価した。

被験者の活動調査

保護者に自記式の行動調査票を配布し、測定期間24時間中の被験者の活動環境と強度を、30分毎に記録するよう依頼した。通園児の保育施設滞在時の活動は、保育士に記録票を配布し、保育指導内容と指導環境を記入するよう依頼した。

結果と考察

大気

農薬散布期間においては、散布薬剤の主成分であるトリクロルホンあるいはフェニトロチオンが家庭および施設の室内外から高い頻度で検出された。濃度範囲はそれぞれ、室外:<3-367ng/m3,室内:<3-50ng/m3、室外:2-567ng/m3、室内;2-56ng/m3であった。両時期とも、室内外の殺虫剤の濃度は相関を示し、屋外における農薬散布が室内の殺虫剤汚染に寄与したことが示された(Figure1)。トリクロルホンの散布期においては、トリクロルホンの分解生成物であり、より毒性の高いジクロルボスも高頻度で検出された。

土壌7月では、1試料からトリクロルホンを検出したが、濃度は定量下限未満であった。8月は、2試料からフェニトロチオンを検出したが、いずれも定量下限未満であった。

ハウスダスト7月においては、調査対象家庭および保育施設の76%からトリクロルホンを、8月においては56%からフェニトロチオンを検出した。濃度範囲はそれぞれ、<48-1014ng/g、<48-652ng/gであった。両期間とも、最高値を呈したのは農薬散布作業従事者の家庭であった。いずれの家庭においても、試料採取前1ヶ月間に室内で殺虫剤を使用した履歴は無く、屋外で散布された農薬に由来する可能性が高いと考えられた。室内空気とハウスダスト中の残留量には相関関係が見られ、室内に土足で進入する習慣のない場合においても、大気拡散がハウスダスト汚染の要因でとなることを示唆した。

食物由来の有機リン系殺虫剤曝露量調査(第五章)

東京都と埼玉県、およびA町在住の幼児から採取された陰膳試料の分析を行った。調査の結果、29検体のうち、フェニトロチオンは6検体から検出され、次いでダイアジノン、クロルピリホスが4検体から、マラチオンが3検体から検出された。ジクロルボスおよびトリクロルホンは検出されなかった。一日平均摂取量は、それぞれ<21 to 803 ng/day,<15 to176 ng/day,<24 to 103 ng/day,<66 to 105 ng/dayと推定された。

幼児の有機リン系殺虫剤曝露量の評価(第六章)

方法

調査結果で得られたデータを用いて、幼児の各媒体からの有機リン系殺虫剤曝露量の推定を行った。曝露量の算定には、(1)式を用いた。

個々の被験者の食物由来の曝露量は、年齢による食品の摂取量の違いを考慮し、平成14年度国民栄養調査おける日本人の平均1日食物摂取重量を参照し、補正を行った。曝露量推定に用いた曝露係数および参照データをTable1に示した。

結果

幼児の一日のトリクロルホン曝露量は9-42ng/kg/day、フェニトロチオンでは7-36ng/kg/dayと推定された。総曝露量に対する経気道曝露量の比率(中央値)は、50%、76%であり、食物由来の曝露と同程度もしくはそれを上回ることが示された。この結果から、農薬散布期においては、幼児の有機リン系殺虫剤曝露量の著しい増加が起きていることが推定された。また、乳幼児期に懸念されるハウスダストや土壌からの曝露は、10%未満にとどまり、食物や大気からの曝露に比べてわずであることが示された(Figure.2,3)。

結言(第七章)

本研究では、幼児を対象とした有機リン系殺虫剤に対する曝露量の評価を行った。本研究における、各種媒体からの曝露を考慮した包括的な曝露評価によって、有機リン系殺虫剤が用いられる農業地域に生活する幼児は、農繁期における大気汚染の上.昇に伴い、非散布期あるいは非農業地域に比べて高いレベル殺虫剤を摂取しており、同集団のリスクが高められている可能性があることが示された。本研究は、人の「曝露」の量的、質的側面からの評価の重要性を示すものである。

【謝辞】

ご指導頂いた、柳沢幸雄先生、吉永淳助先生をはじめとする諸先生方、調査を行うにあたり、ご協力頂いた方々に対し、ここに記して感謝の意を表する。

Figure 1 Relationship between pesticide concentration in outdoor air and indoor air a)Trichlorfon and dichlorvos in July,and b)Fenitrothion in August

Table 1 Data and models used to estimate

Figure 2 Trichlorfon exposure and contribution of each media

Figure 3 Fenitrothion exposure and contribution of each media

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章から成る。第1章では、殺虫剤使用とそれに伴う潜在的健康影響、および研究の現状をレビューし、殺虫剤が使用される農業地域で生活する幼児を対象とし、彼らの身体・環境・行動特性を考慮した包括的な有機リン系殺虫剤曝露評価を行うことを研究課題としている。

第2章では、有機リン系殺虫剤に関する物理化学的・毒性学的性質について述べ、次に幼児の化学物質に対する脆弱性および有機リン系殺虫剤の潜在曝露経路に関するレビューを行い、これらの知見をもとに、幼児の有機リン系殺虫剤曝露評価の課題について考察を行なっている。

第3章では、大気、土壌、ハウスダスト中の有機リン系殺虫剤の測定方法の確立に関する試験を行なっている。大気中有機リン系殺虫剤の測定法の確立試験では、少量の溶媒で超音波を用いた抽出を行なうことによって、簡易かつ環境に対する負荷の低い抽出法を確立している。また、土壌、ハウスダストの分析においては、逆相系固相抽出カラムを用いた分離・精製をおこなうことにより、高極性物質を含む多成分の殺虫剤の同時分析法を確立している。

第4章では、農業地域に生活する幼児を対象とし、生活環境における曝露媒体中の有機リン系殺虫剤の汚染濃度および幼児の生活行動環境と時間についての調査を行い、その結果の考察を行なっている。調査の結果、農業地域における一斉防除に伴い、殺虫剤による居住環境大気の汚染が起きており、その汚染は室外にとどまらず、室内の空気や幼児の潜在曝露媒体であるハウスダストにも及んでいることを明らかにしている。また、室内に侵入したトリクロルホンはジクロルボスの二次的発生源となり、室内濃度の汚染上昇に寄与していること、ハウスダストの汚染には殺虫剤の固相への吸着傾向が影響していること、一部の殺虫剤は1ヶ月にわたってハウスダストに残留していること、等を明らかにしている。

第5章では、幼児の包括的曝露評価に資するデータの収集を目的として行なった、食物由来の有機リン系殺虫剤曝露量調査およびその結果について述べている。本調査で得られた幼児の1日の有機リン系殺虫剤曝露量は、既存の成人を対象とした研究において得られていたデータよりも低いレベルにあることを明らかにしている。

第6章では、農業地域における環境調査結果および食物由来曝露量調査結果をもとに、農業地域に住む幼児の、複数の経路からの曝露を想定したトリクロルホン、ジクロルボスおよびフェニトロチオンの曝露量の評価を行っている。評価の結果、散布期における幼児の経気曝露量は食物由来の経口曝露量と同程度もしくはそれを上回るレベルであり、幼児期に懸念されるハウスダストや土壌からの曝露量は食物あるいは大気からの曝露に比べてわずかな量であるなど、幼児の曝露量とそれに寄与する経路を明らかにしている。

第7章は本論文の結言である。以上で述べてきたように、本論文では、農業地域における幼児を対象とした包括的な曝露評価を行なうことにより、これまで国内外でも知見の乏しかった、幼児の有機リン系殺虫剤への曝露特性について新たな知見を得ていることから、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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