学位論文要旨



No 120772
著者(漢字) 吉田,寛
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ヒロシ
標題(和) 近代ドイツのナショナル・アイデンティティと音楽 : 《音楽の国ドイツ》の表象をめぐる思想史的考察
標題(洋)
報告番号 120772
報告番号 甲20772
学位授与日 2005.10.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第502号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,裕
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 教授 西村,清和
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 杉橋,陽一
内容要旨 要旨を表示する

本論は、音楽思想における「ドイツ的なもの」の理念を歴史的に考察することで、近代ドイツのナショナル・アイデンティティが形成される過程で音楽という芸術がいかなる重要性を担っていたかを明らかにし、それを通じて、《音楽の国ドイツ》という文化的表象の歴史性と政治性を問い直す試みである。

第一章ではルネサンスとバロック期の音楽書にみるドイツの国民意識を考察する。フランドルやイタリアが音楽の中心地であったこの時代、ドイツ人は「音楽性のない国民」として周辺諸国から軽蔑されていた。オルニトパルクスやフィンクはドイツ人としてこうした状況を嘆いたが、依然、ラテン語で著作をなすスコラ的伝統に属していた以上、彼らも「ドイツ国民」の代表ではなかった。国語の確立という点でイタリアやフランスに大きく遅れていたドイツの後進性が、音楽の分野での劣勢、さらにはナショナルなアイデンティティの未成熟にそのまま直結していたのである。また、ドイツで生まれながら「イタリア化」したキルヒャーの国民様式論にみられるように、当時は「ナショナリティ」の定義自体が一九世紀以降のそれとは大きく異なっていた。

第二章では、愛国主義的なドイツ語純化運動と連動して一七世紀に始まったハンブルクの国民オペラ運動に焦点をあてる。ハンブルクでは1678年に市民劇場が設立され、イタリア・オペラに対抗しうる自国語の音楽劇を求める気運が高まり、その結果、フランスの古典主義的芸術論を批判してローカルなオペラの芸術的価値を擁護する理論が早くから発展をみた。ファイントは多元主義的芸術観および観衆の教化というルター派的な観点から、フランスの古典主義的な演劇を退けてイギリスの民衆劇の伝統、とくにシェイクスピア劇を評価したが、この視点はヘルダーやヴァーグナーに継承される。ハンブルクの国民オペラ運動は、イタリア・オペラの全ヨーロッパ的流行を前にして1730年代には頓挫するが、「ドイツ的」な音楽のあり方を模索し、理論化した先駆的な業績として大きな意義があった。

第三章では音楽の国民様式論争の展開と「混合趣味」の理念を考察する。伊仏音楽の優劣論争に対する妥協案として一七世紀のフランスで提唱された「混合趣味」は、マッテゾンやハイニヒェンらによって一八世紀前半のドイツに紹介された。彼らは、「第三者」の立場にあるドイツ人こそが、イタリアとフランスの趣味の「幸せな混合」を有利に達成できるはずだ、と考えたのである。この「ドイツ的なもの」としての混合趣味は、テレマンやグラウンの作品を通じて実践され、クヴァンツによって理論化された。クヴァンツは、諸国民の美点を「混合」した「ドイツの趣味」は、イタリアやフランスの趣味を凌ぐ「より普遍的」な趣味に他ならないと主張した。ドイツ人は《遅れてきた》からこそ、かえって「普遍妥当性」を獲得することができる、という逆転の発想が、さらには、独自性の欠如そのものをドイツの独自性として肯定する《捻れた》論理が、ここにはみられる。すなわち、音楽における「混合趣味」は、「ドイツ的なもの」を「普遍的なもの」との結びつきにおいて定義する、近代のドイツに特有の《捻れた》ナショナル・アイデンティティの最初期のあらわれといえる。

だが一九世紀に入ると、混合趣味を「ドイツ的」とみなす議論は急速に衰退し、混合趣味の音楽家は一転して「非ドイツ的」と否定的に評価されるようになる。この変化の背景にあった「ナショナルなもの」の構造転換を、一八世紀後半の音楽思想に生じた三つの事象に注目しつつ考察したのが第四章である。第一は、混合趣味が広く行き渡った結果、ヨーロッパ音楽にはもはや「ナショナルなもの」は見られない、という歴史認識がドイツで登場したことである。混合趣味の歴史的役割は終わった、と考えられたのであった。第二は、イギリス人バーニーがそのドイツ旅行記のなかでドイツ人には音楽的才能がないと書き、ドイツの愛国主義者の反発を呼んだことである。ドイツの音楽はどれもイタリアの模倣にすぎず、ドイツには「国民的音楽」は存在しない、というバーニーの指摘は、混合趣味をドイツの音楽的アイデンティティとすることの限界をドイツの音楽家達に痛感させたのであった。そして第三に、もっとも重要な点として、混合趣味の美的価値そのものへの疑念があげられる。マールプルクは芸術家の「生まれつきの才能」を重視する立場から、ドイツの混合趣味を称賛する風潮を批判し、ドイツ音楽も「固有の趣味」を追求せねばならないと言った。また彼は「ナショナルなもの」が最も顕著にあらわれる音楽ジャンルは「民謡」である、とも指摘したが、民謡のなかに「ドイツ的なもの」を見出す試みを最初に実践したのは哲学者のヘルダーであった。ヘルダーはその民謡論のなかで、ドイツ語の "Volk" の二つの意味を意図的に重ね合わせて、芸術は「民族=民衆の精神」を基盤にしなくてはならないと説いた。一九世紀以降のドイツで「混合趣味」がもっぱら「不純」で「不自然」なものと考えられるようになった最大の理由は、このヘルダー流の「民族精神」の理念が広く浸透したためであった。

第五章では、一九世紀のドイツで発展した音楽史叙述と音楽美学における「ドイツ的なもの」を検討する。ヘルダーやフォルケル以降の音楽の歴史哲学の展開を通して、一九世紀初頭には「ドイツ的=和声的=器楽的=近代的」という観念連合が成立したが、そこにさらに「国民的英雄」としてのベートーヴェンの神話化と、彼の交響曲を頂点とする進歩主義的音楽史観が付け加わることで、ヨーロッパ音楽史におけるドイツの優位が学問的に正当化された。1820年代以降、ベートーヴェンの死にロッシーニの台頭も重なって、ドイツの音楽史は一種の「歴史の終焉」状態に陥ったが、ミュラーやシューマン、ヴァーグナー、ブレンデルらが音楽における「イタリア的なもの」を美学的に批判したことで、ドイツ音楽の精神的主導権はいっそう揺るぎないものとなった。

だが「ドイツ」が決して一枚岩ではなかったことが、ヴァーグナー派とハンスリックの論争から理解できる。ヴァーグナー派のブレンデルやザイドゥルは、ハンスリック流の形式主義を「非ゲルマン的」で「南方的」な芸術観として批判した。ここには、一九世紀後半にドイツ統一の主導権を争って生じたプロイセンとオーストリアの政治的対立が、そのまま文化的アイデンティティの違いとなって表面化している。ヴァーグナー派は、音楽における「ドイツ的なもの」を民衆主義としてのプロテスタンティズムや「北方のゲルマン精神」と結びつけたが、これは新生ドイツ帝国に体現される、プロイセン=プロテスタント的な「国民国家」としての「ドイツ」の理念に対応していた。一方、ハンスリックは、ヴィーン古典派の伝統に根ざしたドイツ楽派の器楽を「普遍人間的」で「国際的」な芸術として最重視し、民族的な音楽語法を用いる「国民楽派」を批判したが、彼のこの音楽観は、ドイツの言語と文化を「共通語」として多民族帝国の一体性を維持しようとする、オーストリア=ハプスブルク的な「ドイツ」の理念を表象している。すなわち、一九世紀後半にドイツ音楽の方向性をめぐって生じた「絶対音楽」派と「綜合芸術」(あるいは「標題音楽」)派の対立の背後には、国土の南北分断に伴ってもたらされた「ドイツ的なもの」の理念そのものの分裂が潜んでいたのである。

終章ではヴァーグナーの「ドイツ的なもの」の理念に焦点をあてる。青年ドイツ派の影響下でコスモポリタンとして出発した彼は、パリでの挫折の後、「祖国ドイツ」に忠誠を誓う愛国主義者となった。しかし三月革命期の彼は、一人の共和主義者として、ザクセンに「共和主義的王制」を樹立し、宮廷劇場に代わる「国民劇場」をドレスデンに設立することを求めて、政府および宮廷に反旗を翻した。1849年以降、亡命者となったヴァーグナーは、「ドイツ」をいったん思考の中心から外し、ヘルダー的な「民衆」の理念を土台に据えて、「国民性」の限界を打ち破る「普遍人間的」な芸術として「未来の芸術作品」を構想した。だが1851年を境に、彼は再び「ドイツ的なもの」を追求するようになり、『オペラとドラマ』では「完璧なドラマ作品はドイツ語によってのみ成就される」と宣言し、さらに祝祭劇場をライン河畔に建設する計画を立て始める。

ドイツへの帰国が許され、1864年にはルートヴィヒ二世からミュンヘンの宮廷に招かれたヴァーグナーは、その地で自らの芸術理念の実現を目指す。革命家から国家主義者に転向した彼は、若き国王に「ドイツ精神」の本質を教示し、政策に助言することで、バイエルンを「もっともドイツ的な国家」にしようと奮闘した。だが宮廷での政争に敗れ、また普墺戦争に際してビスマルクから接触を受けたことが契機となって、ヴァーグナーのなかに親プロイセン的な態度が芽生える。また彼がプロテスタント主義に傾き始めたのもこの時期である。彼の親プロイセン的で反オーストリア・カトリック的な立場は、普仏戦争に並行して書かれた『ベートーヴェン』および新生ドイツ帝国の誕生を祝した《皇帝行進曲》を通じて揺るぎないものとなる。

ところが1871年以降、ビスマルクに再三にわたって財政援助を断られた彼は、プロイセン主導のドイツ帝国に幻滅する。そのためバイロイト時代の彼は、ドイツ帝国を批判する姿勢を鮮明にし、ドイツ精神への失望から、アメリカに移住することを真剣に考え始める。こうしてヴァーグナーのなかで「ドイツ的なもの」は、現実の「ドイツ」を離れて、再び理念的で内面的なカテゴリーに帰着する。このことは、キリスト教の起源と本質を「東洋的なもの」のなかに求めた《パルジファル》や、ユダヤ的な文明の汚染からのヨーロッパ=キリスト教世界の救済を説いた最晩年の著作からも明らかである。そこにおいて「ドイツ的なもの」は、「ユダヤ的なもの」の対極に位置する理念──純血性、自然との調和、自己批判の徹底、自己への親近感など──にまで抽象化されているのである。

このように近代のドイツでは、政治的ナショナリズムが顕在化するはるか以前から、音楽のなかに「ドイツ的なもの」が追求されてきた。音楽はドイツの人々にナショナルなアイデンティティの拠り所を提供したばかりでなく、「ネイション」の輪郭を想像させ、「ドイツ精神」の本質を開示する役割をも果たしてきたのである。それは、一九世紀以降のドイツで、理想的な共同体のあり方がしばしば音楽的な比喩で説明され、またときに音楽そのもののなかに表象されてきたことにも示されている。ドイツ音楽がナショナリズムを「反映」してきた、というより、近代のドイツにおいては「ナショナルなもの」それ自体が、音楽的想像力を媒介として美的に構築された理念であった。ドイツ人が音楽を作ってきた以上に、音楽が「ドイツ」を作ってきたのだ。そして、《音楽の国ドイツ》という今日までわれわれを支配している神話は、こうした歴史的過程を忘却し、むしろそれを隠蔽したところに成立しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

ドイツという国は、しばしば音楽の「本場」として言及され、「音楽の国」などと呼ばれることも多い。本論文はそのような自己表象がドイツにおいてどのようにして成立したか、それがその後の音楽史像をどのように規定し、またドイツ人のアイデンティティ形成にどのように関わってきたのかをめぐる言説史研究である。今日一般的になっているドイツ音楽表象の原型が成立するのは19世紀になってのことであるが、本論文はそれに先立つ17世紀のアタナシウス・キルヒャーの音楽論や18世紀のイタリア音楽とフランス音楽の論争のドイツにおける受容といった「前史」の部分も含め、ドイツの音楽思想に関わるきわめて浩瀚な文献を丹念に調査し、それらをドイツ表象という一貫した視点から位置づけ直し、それらの言説の系譜や変遷を再構成することを試みた労作である。

これまで純粋に美学や芸術論の問題圏で論じられてきた「ドイツ音楽」の問題を政治史的な視点もふまえて捉え直そうとする動きは近年急速に盛んになってきており、アップルゲートとポッターの編んだ論集 "Music and German National Identity"(2002) をはじめ、様々な成果が出はじめているが、いまだ散発的で、かつそれらの議論の多くが19世紀以降に集中しており、本論文のように「前史」部分も含めて「ドイツ音楽」表象の歴史を包括的に取り扱ったものは欧米にも例がない。その点だけでも画期的な業績といいうるだろう。

取り上げられている個々の対象には、これまでに個別研究の蓄積があるものも少なくないが、本論文はそれらを単に歴史的コンテクストに沿って整理したことをはるかにこえて、個別研究としても評価できるようなポイントを随所に含んでいる。「ドイツ的」なものの表象という一貫した視点からの通時的な考察を通して、個々の対象自体に対してもこれまでにない新しい見方が可能になったケースが数多く認められる。

中でも、従来の研究の中では絶対音楽といった概念と結びつけてもっぱら純粋に美学的な問題として議論されてきた19世紀の「ドイツ音楽」表象のあり方が当時のドイツの政治的状況との関わりという観点から分析され、それが単に当時の政治的状況を反映しているという以上に、音楽がこの時代の思想や歴史記述の中に織り込まれ、近代国家としてのドイツのアイデンティティ形成過程で中核としての役割を果たしてきた側面をもつことが明らかにされたことは特筆すべき成果である。このことによって本論は音楽研究に新たな知見をもたらしたのみならず、ドイツ史やドイツ思想研究にも一石を投じるものとなりえよう。また、この時期、ドイツ内部でも北ドイツと南ドイツとの間に「ドイツ的なもの」をめぐる対立構図が存在しており、それが音楽美学上の論争の背景ともなっていたことが明らかにされたことも重要な成果である。そのような見方は、この種の論争をも一枚岩的な「音楽の国ドイツ」の表象のうちに包摂してすべてを片づけようとしてきたきらいのある従来のドイツ音楽観に対してその見直しを強く迫るものとなっている。

本論文は400字換算にして2000枚におよぶ大部の論文であるが、テーマ設定自体の大きさゆえ、論じる余地の残されている問題も多い。また、多様な問題を一つの筋道にそってやや一方向的にまとめすぎた面もなしとはしないが、この大きなテーマ設定にこたえて本論文の提示した全体像の大きさや個々の知見の豊穣さに照らすならば、その欠点はほとんど取るに足らないものであり、著者が今後の研究で十分に克服できるものと判断できる。

以上の理由により、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものであるという結論に達した。

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