学位論文要旨



No 120773
著者(漢字) 毛利,公美
著者(英字)
著者(カナ) モウリ,クミ
標題(和) 境界をみつめる目 : ナボコフのロシア語作品をめぐって
標題(洋)
報告番号 120773
報告番号 甲20773
学位授与日 2005.10.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第503号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 助教授 安岡,治子
 京都大学 教授 若島,正
内容要旨 要旨を表示する

序章では、ロシアで生まれた亡命作家ウラジーミル・ナボコフについての最近の研究の動向を整理する。ペレストロイカ以降、亡命作家の作品がロシアで解禁されてから、ナボコフをロシアでもナボコフ研究・亡命研究が盛んになり、ナボコフの作品は、ロシア文学の流れの中に取り戻されつつある。亡命社会という環境の中で培われたナボコフの作品は、革命前のロシア文学との関わりだけでなく、同時代のソ連、ヨーロッパの亡命ロシア人コミュニティ、移住先の国の文化という多様な文化が交差する中で育まれたものであり、研究の際にもそうした視点が必要である。

ナボコフ研究は、「文体の魔術師」としてナボコフの作品のメタフィクション的な構造の分析を中心とするものが多かったが、ボイドによる詳細な伝記と、作品の根底に流れる彼岸思想を指摘したアレクサンドロフの研究以来、メタフィジックな思想をもつ作家としての研究に重点が移っている。また、従来あまり扱われてこなかった長編小説以外の作品にも目が向けられるようになった。近年の文学研究の流れを反映し、芸術の他の分野との関係を問うものも多く見受けられる。

本論では、これらの研究の動向や成果をふまえ、20世紀における映画の飛躍的発展に代表される映像文化の普及がナボコフの作品に与えた影響を考え、亡命という運命の中で、他の多くの亡命者たちのように悲観的になることなく、新しい芸術のあり方を模索したナボコフの世界観を明らかにする。

ナボコフの楽観的な世界観の根底にある彼岸信仰が表れている最も初期の作品から、父の死後一周忌に書かれた詩「復活祭」と、息子をなくした父親の絶望と生のなかに秘められた救いを象徴的に描いた短編「クリスマス」を取り上げる。

亡命による祖国の喪失に加え、敬愛する父の死は、ナボコフに大きな衝撃を与えた。死や喪失に絶望して生の喜びから目を背けるような姿勢を批判したナボコフが父の死後に書いた「復活祭」という詩には、最愛の父を失った悲しみを乗り越え、魂の復活を信じる若き詩人の思いがこめられ、ナボコフの彼岸信仰の原点を見ることができる。

父の死という彼自身が体験した悲劇は、ナボコフの作品の中で、しばしば別の形となって現れる。作品には子供や妻など親愛な人物を失う主人公がしばしば登場する。そのなかのひとつである短編「クリスマス」では、息子を失った悲しみのあまり世の中にあふれる美や善を否定する主人公スレプツォフ(「盲目」を意味するスレポイから作られた名前)の姿を通して、自分ひとりの視野のなかに閉じ込められた人間の自我の盲目性を描出している。短編の最後には、彼岸の真実につながるこの世の美や善を見極める目の象徴として眼状模様をもった蝶の羽化が描かれ、喪失の悲しみからの救いが提示されている。自我の壁に閉じ込められた人の意識の有限性、盲目性というテーマは、その後、ナボコフが生涯にわたって繰り返し作品の中で追求していくテーマである。

亡命者にとって望郷は大きなテーマだが、ナボコフはノスタルジーの根底にある、記憶の作用を用いて新しい虚構の創造をしようとした。短編「ロシアへの手紙」とナボコフの処女長編『マーシェンカ』の根底には、両方の母体とされている未刊の小説のタイトルが「幸福」と名づけられていることからも明らかなように、人生のなかに秘められた幸福を見つけ出してそれを作品のなかに留めようとする作者の意識が流れている。

1章で明らかにされたナボコフの特徴としての楽観的な世界観は、同時代の亡命社会を覆っていた悲観的な雰囲気を背景にしたときにより際立つ。この章では、同時代の亡命作家との比較を通して、ナボコフの世界観の独自性を明らかにすることを試みる。

比較の手段として用いるのは、写真というモチーフの扱いである。過去の一瞬を焼き付ける写真は、記憶と密接に結びついたメディアであり、記憶を重要なテーマとする亡命文学を扱うにあたって、写真のモチーフを分析することは、すなわち、記憶に対する考えを明らかにすることにつながる。分析の対象とするのは、常に記憶を内に抱える亡命者に特有のヴィジョンを二重写しの写真の比喩を用いて表したホダセーヴィッチの「ソレントの写真」、失われた過去のロシアの美を追求したブーニンの自伝的作品「アルセーニエフの生涯」と、ナボコフの初期の詩「スナップ写真」および短編「ベルリン案内」である。

ノスタルジックな回想にふけって現在の生の中に価値を見いだそうとしない悲観的な態度を否定したナボコフは、写真をノスタルジーや記憶のロシアと結びつけるのではなく、写真によって促される「時間をさかのぼる」行為を通して現実の見失われがちな価値を見いだし、保存することを芸術的創造の意義とした。

『マーシェンカ』の中でエピソードとして描かれたエキストラ体験を、当時の回想などを参考にしながら、実際の亡命者がおかれた当時の状況に即して検証しなおす。その上で、エキストラや映画撮影のシーンが描かれた他の初期作品(詩「キネマトグラフ」および戯曲『ソ連から来た男』)を分析し、単なるエピソードとしてあまり重用視されることがないエキストラ体験がナボコフの世界観に落とした影について考察する。

自身の運命についての観察や、エキストラ体験によって、ナボコフは、作家の仕事とは、「運命によって書かれた人生という物語」の内部で文学作品というもうひとつの虚構物語を作ることだと認識する(短編『乗客』)。その結果として書かれた『マーシェンカ』につづく長編二作目『キング・クイーン・ジャック』や『暗箱』は、映画的な世界を模したものである。

人間の生(『キング・クイーン・ジャック』)や誤って認識された世界(『暗箱』)は映画の比喩において語られる。ロシア語作品の中期に書かれた『絶望』のヘルマン、『密偵』のスムーロフはいずれも、現実を〈映画として〉拒否し、自分にとってより都合の良い世界を想像力によって生み出そうとして破滅する。自我に囚われた人間の認識は、レンズを通して見た世界と同じように、ゆがみや視野の限界を運命付けられているからである。自我の牢獄の外に広がる真実の世界に至るためには、此岸と彼岸の境界を踏み越えなくてはならない。本論第2章で扱った初期の作品において、別々の問題として語られた二つの境界(生死の境、虚実の境)は、『密偵』においては、重なりあうものとして描かれ、スムーロフは自殺したと思い込むことによって、映画の観客のように外側から世界を眺める視点を得ようとする。(幽霊の視点=映画の視点)。

戯曲「事件」を題材に、虚構と現実の壁の問題を、演劇の第四の壁との関係で考える。ナボコフにとって、虚構と現実の間の境界は、生と死を隔てる壁と同じく、「一方からしか見ることができない」という約束事は絶対的なものだった。虚構世界がスクリーン上に写った映像として提示される映画とは異なり、演劇においては、客席と舞台が同じ空間上に存在し、両者を隔てる「第四の壁」は、あくまでも約束事としてそこにあるだけである。ナボコフは、演劇空間における約束事である「第四の壁」を意識化させるため、芝居の途中で客席と舞台の間に透明な幕を下ろす。この幕は、「第四の壁」を目に見えるものとして表すものであると同時に、彼岸と此岸を隔てる目に見えない壁を表すものでもある。愛のさめた夫婦の間に暖かい気持ちが甦ったつかの間のひとときに、二人をこの幕の外に出させることにより、ナボコフは、現世と見えない壁で接する彼岸という愛や善の領域の存在を表現した。

ナチスドイツが勢力を強めていた1937年に書かれた『断頭台への招待』は、「互いに透明な」没個性の大衆の中で一人自由な個性を備えた主人公シンシナトゥスが、その個性ゆえに有罪となって死刑を宣告され、牢に入れられる物語である。本章では、シンシナトゥスが閉じ込められた牢獄(камера)を「カメラ」と読み換え、映像という複製技術と全体主義の時代に書かれたこの作品を「見ること」と「見られること」の関係において考える。

「カメラ」に捕えられた映像の世界を描いた『断頭台への招待』には様々な写真が使われている。それらは1.報道写真:大衆の一方的な視線を促す2.古い雑誌の挿絵写真:過去を保存し郷愁によって事物を美化する3.少女エミイの写真を使ったコラージュ写真:映像に対して鑑賞者がもつ"偽りの所有形式"(ソンタグ)である。一方、シンシナトゥスが読む流行の前衛作家の小説の文体は「カメラがとらえるような描写」と特徴付けられているが、それに対する評価は否定的なものである。写真や映画に対するそれらの記述を整理し、ナボコフが映像の時代における真の創造行為とはどういうもの捉えていたのかを考察する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ロシア語・英語の二か国語で執筆したロシア出身のバイリンガル作家、ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)について、その前期のロシア語作品に焦点を当て、亡命ロシア人コミュニティの社会的背景を視野に入れたうえで作品のテキストの緻密な読解を試み、この亡命ロシア作家が切り拓いた芸術的手法やその背後にある世界観を解き明かそうと試みたものである。

すでに膨大な先行研究の蓄積があるナボコフ研究に新発見や創見を付け加えることは容易ではないが、毛利氏は序章において最近の研究動向を英語文献・ロシア語文献の両方にわたって的確に整理したうえで、第1章でナボコフの最初期の作品に見られる「彼岸」思想に着目し、それを出発点にして、その後の本論において独自の視点を明確に打ち出すことに成功した。

本論文の独自の成果として高く評価できるのは、主に以下の3点である。

第1に、写真・映画・演劇といったジャンルとのナボコフの関わりを第2〜第4章で章ごとに順次論じたうえで、最後の第5章ではそれらの論を総合するように、長編『断頭台への招待』で主人公を取り囲む3つの異なる次元の壁の問題へと展開した。この論の流れを通じて鮮やかに浮かび上がるのは、現在と過去、現実と虚構、舞台・スクリーンと客席、現世と彼岸などの間にある様々な「境界」を凝視し、それを作品構造の中に組み入れたナボコフ独自の創作方法である。

第2に、本論文はナボコフの創作を亡命ロシア社会の具体的な場に置いて検討しており、亡命ロシア人の映画産業との関わりや、写真に対する亡命ロシア人作家たちの様々な態度といったあまり研究されていない側面を取り上げ、分析している。

第3に、これまでのナボコフ研究で注目されることの少なかった詩・戯曲などのジャンルの作品も積極的に扱い、ナボコフの文学技法や世界観を総合的に解明するための新しい知見をもたらした。

これらの点は、疑いもなくナボコフ研究に対する重要な学術的貢献であり、国際的にも注目されるべき創見を多く含んでいるが、それだけではない。本論文は、文学作品のテキスト分析という作業を亡命ロシア社会のコンテクストと有機的に結びつけることによって、亡命文学研究に新たな地平を切り拓き、さらには20世紀前半に急速に発展しつつあった視覚芸術の文学との関係という大問題を考察するための重要な手掛かりを与えるものでもある。

論文審査においては、文献・人名表記の不統一といった形式的な側面から、「彼岸」思想の理解、写真・映画・演劇との関係を論ずる際の理論的枠組みといった思想的・方法的な側面まで、改善すべき点、さらに慎重な検討を要する点等が指摘された。しかし、それらの指摘は本論文の豊かな内容と鮮やかな独創性を損なうものではない。それゆえ審査委員会は全員一致で、本論文が博士(文学)の学位にふさわしいとの結論に至った。

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