学位論文要旨



No 120775
著者(漢字) 池田,嘉郎
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ヨシロウ
標題(和) 革命期ロシアにおける国家運営と民衆統合 : モスクワ市から見る
標題(洋)
報告番号 120775
報告番号 甲20775
学位授与日 2005.10.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第505号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,規衛
 東京大学 教授 近藤,和彦
 東京大学 教授 奥田,央
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 小森田,秋夫
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、革命期(1917年2月‐1921年3月)のロシアにおける国家運営と民衆統合の相互関係を分析することにある。革命期のロシアでは、国家運営と民衆統合とは独自の仕方で結びついていた。端的にいえばボリシェヴィキは、国家運営に民衆層を直接に参加させることによって、体制への民衆統合を実現することを目指したのである。本稿では民衆層を国家運営に引き込むためにボリシェヴィキが展開した試みの諸相を、モスクワ市の事例に即して分析する。モスクワ市を対象とするのは、同市の党員集団によって、民衆層を国家運営に引き込むための数多くの試みが提起されたからである。

1917年2月の帝政崩壊によって、ロシアでは政治文化の再編が開始された。「ソヴィエト権力」のスローガンを掲げるボリシェヴィキは、政治文化のこの再編過程を、民衆層主体の政治秩序の確立、コミューン国家の創出へと収斂させることを目指して、政権の座についた。その後、内戦期(1917年10月‐1921年3月)の間、ボリシェヴィキ政権はコミューン国家の実現に向けて様々な試みを繰り広げた。そうした試みは党・政府中央のみならずモスクワ市のローカルな党員集団によっても精力的に展開された。閉鎖的な都市行政機構と共存し、かつ民衆層と直接に対峙しなければならない彼らは、自分たちの統治の現実とあるべき政治秩序との懸隔を、党・政府中央の同僚以上に強く感じていたのである。

十月革命の後、モスクワ市では都市行政機構の再確立が進められた。市ソヴィエトが都市行政機構として形を整えるのに並行して、その活動家たちの行動スタイルも変化を遂げた。中央官庁との関係においても、市の諸部局との関係においても、彼らの行動は徐々に相互の調整を志向するものとなった。一言でいえば、彼らは革命家から行政官になったのである。

期待されていた民衆層の行政機構への参加は実現せず、行政機構は職員集団の構成においても、個別利害を追求する行動規範においても、自己完結的で閉鎖的な性格を保持し続けた。のみならずその運営を任された活動家たちも、各自の機構利害の間で分裂し、党員集団としての一体性を喪失していった。市党組織はそうした都市行政機構の現状に大きな不満をもちつつも、都市生活を維持するためにその行動に大きな自主性を与えることを余儀なくされた。階級原理を基本とする党員集団のイデオロギー自体も、彼ら自身が都市行政の運営に臨むに当たっては、末端活動家のラジカリズムを抑止する方向で作用し得た。自らとは様々な点で異質な要素を含む都市行政機構に対して、活動の自立性を保障しなければならないという状況は、市党組織を間歇的に「官僚主義批判」へと追い立てることとなった。

1919年に入ると党員集団は、党組織自体を含む個々の機構の線に沿って、より深く分断されていった。むしろそのような分断を前提とした上で、党員集団は日々の実践の中で役割分担の慣行を築いていった。行政機構職員もまた市の政治秩序の中で一定の自立性を保ち続けた。内戦期の終わりまでに市党組織と職員集団の関係は、対立と相互依存とをともに含むものとなった。他方、都市行政機構の再確立の過程は、次第に末端レヴェルにまで及んだ。市ソヴィエト総会を活性化するための市党組織の試みも、総会そのものの行政機構化を導くものでしかなかった。

都市行政機構のこのような現状を前にして、市党組織は民衆層の意識を揺さぶり、国家運営への参加へと彼らを向かわせるために、ソヴィエトとは別のところに目を向けねばならなかった。とくに1918年夏の同調者の組織化を皮切りにして、日常生活の場に密着しつつ、党外の広範な民衆層の意識に働きかけることが、市党組織の基本的な活動路線となった。この活動路線の結果として生み出された企図が、スボートニク(土曜労働)である。これは、「共産主義労働」、つまり集団主義的な理念に基づいて組織された労働を媒介にして、日々の生活の中で住民の意識の改造を図る試みであった。

だがスボートニクは、じきにアジテーション機能だけではなく、労働動員機能をも強めることとなった。その理由は、諸々の行政機構が各自の経済的な課題を達成するために、スボートニクを利用し始めたからである。スボートニクにおける「共産主義労働」普及の試みと労働力動員との拮抗は、1919年末のモスクワ市、またソヴィエト・ロシアの政治秩序において、行政機構が占めるに至った比重と、コミューン国家実現に向けた党員集団のエネルギーとが拮抗状態にあることを意味していた。この拮抗状態をいかに展開させるかという問題が、1920年にソヴィエト・ロシア全体において、正面から問われることとなったのである。

1920年初頭、党・政府中央は「共産主義労働」を主要な要素の一つとする経済復興政策に着手した。労働の「共産主義的な」組織化を通じて、政権は二つの課題を統一的に果たすことを目指した。一方では労働力を合理的に活用して、経済復興を進めることが追求された。他方では労働行為を通じて「共産主義的な」価値観を住民の間に普及し、彼らの意識を改造することが課題とされた。すなわち政権は、閉鎖的な行政機構による国家運営という現状を認め、なおかつその現状を促進するような労働動員をも実行する一方で、まさにその労働動員を通じて、民衆層の国家運営への参加を実現することを目指したのである。全般的労働義務制とスボートニクが、そのための柱となった。

全般的労働義務制は、モスクワ市でも、また全国規模でも、自らの目標を達成出来なかった。労働力の合理的な活用と「共産主義的な」労働理念の普及という当初の目標はおろか、最大限の労働力の動員というより単純な課題さえも、十分には遂行されなかった。結局1921年春、モスクワ市で騒擾が起こり、政権は労働動員解除を宣言することを余儀なくされたのである。

スボートニクも順調には進まなかった。一方では、「共産主義的な」労働理念と接点をもたない動機(食糧配給など)による参加者の割合が増大し続けた。他方では、本来の目標に沿ってスボートニクに理想主義的な性質を与えるには、市党組織はあまりに脆弱なアパラートしか有していなかったのである。

1920年中旬、モスクワ市では労働者の不満が再び強まり始めた。そのため市党組織は「共産主義的な」労働理念の普及という課題を離れて、民衆層の生活改善に力を注ぐことを余儀なくされた。市党組織のこの新路線は、この時期にモスクワ市で開始された「労働保護週間」型のキャンペーンとも共鳴していた。この型のキャンペーンでは、国家運営に民衆層を引きこむことではなくて、生活条件の改善という彼ら自身の関心事に配慮することが主要な課題となった。そのためこの型のキャンペーンは、年末までに純然たるリソース再配分の性格を一層強めていった。同時に1920年中旬からは、市党組織の内部でも混乱が深まっていった。

1920年冬、袋小路に入りつつあった市党組織と労働者の関係にあらたな局面を開くような企図が、モスクワ市で開始された。それが生産プロパガンダである。生産プロパガンダの下では、生産現場における労働者各人の個々の作業それ自体が、彼らを国家運営の直接の参加者につくりかえるための行為となる、という展望が生み出された。この展望は、日常生活の場において、より広範な民衆層の意識に働きかけることを追求してきた市党組織の努力によって、切り開かれたものであった。内戦期末の時点では、生産プロパガンダが示したこの展望はあくまで可能性に留まっていた。だが1920年代末に始まる急進的工業化の中で、この展望は政権と労働者の双方の手によって現実のものとされたのである。

かつて市党組織が標榜した集団主義は、「上からの革命」の後、労働現場に留まることなく、社会主義ロシアの生活全般において、新しい規範として広まっていった。だがボリシェヴィキ的な規範が社会に広まれば広まるほど、その中での党組織の位置づけは曖昧なものとなった。前衛は最早、前衛ではなくなってしまったのである。その替わりに社会全体が、前衛として底上げされることとなった。それを構成するのは、新しい規範を身につけた「ソヴィエト人」であった。

ソヴィエト人の成立は、近現代ロシア史における大きな出来事であった。19世紀後半に帝政政府は、行政機構主導の近代化に着手するとともに、近代化の前提であるネイション形成という課題に突き当たることとなった。内戦期に共産党組織によって展開された国家運営への民衆層の引き込みの試みは、ネイション形成の試みと部分的には重なるような特質をもつこととなった。ある共通原理に則って国内の全住民に国家の一員としての帰属意識をもたせることがネイション形成の試みであるとすれば、党組織は民衆層だけを対象に限定した上で、それと並行的な試みを展開していたからである。その結果として1930年代にソヴィエト人が形成された。これは旧ロシア帝国=ソ連のネイションであった。

ソヴィエト・ロシアにおけるネイション形成は、党組織・行政機構・民衆層の複雑な関係の下で進んだ。革命期の数年間、党組織は、中央と地方の行政機構に民衆層を引き込むための様々な試みを繰り広げた。まさにその試みの延長線上において、1930年代、行政機構は残り、ソヴィエト人が生まれ、党組織の存在意義は曖昧化した。コミューン国家創出に向けた党組織の努力は、結果的に、行政機構主導のロシアの近代化をさらに推し進めるための前提――ネイション――を生み出したのである。その代償は、党組織自身の存在意義の低下であった。かくしてネイション創出をもって、党組織の歴史的使命は終わったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、1917年2月から1921年3月というロシア国家社会の全面的な再編の時期における国家運営と民衆統合の相互関係、具体的にはモスクワ市の国家機構・共産党組織と、民衆との相互関係を分析することを通して、革命後に形成されたソヴィエト共和国のもつ特徴と、その歴史的意義を解明することにある。分析に際して、モスクワ市の共産党組織、行政機構の未刊行史料、当時の新聞、刊行史料、などがひろく利用された。また周到な研究史の検討を踏まえて、とくに欧米諸国において近年有力な潮流となっている政治文化論的な方法に、新たな可能性を見い出そうとする。

第一部は、モスクワ市の国家組織と共産党組織の相互関係の詳細な分析を、その内容とする。権力を掌握したボリシェヴィキ活動家は、民衆の日常生活を保障するために機能的な行政機構を再建し、専門職務に通暁した人物を重用したが、その結果、行政機構は革命前と同じく、民衆層から遊離した存在となった。ソヴィエト総会も行政の論理に従属し、その活動の仕方も再編成された。その一方で、行政機構で活動する党員集団と、党組織で活動する党員集団との間で絶えず紛争が起こり、行政機関に入らない共産党員は独自性をあらわすためにも「官僚主義批判」のキャンペーンを開始したことなど、のべ7章にわたって当時の複雑な実態を詳細、かつ多面的に解明している。

第二部は党組織の活動内容を分析する。国の生活で行政が中心となるという第一部で確認した現実に直面し、脇役に転ずるのを危惧した共産党組織は、国家統治への参加に向けてではなく日常生活や労働のレベルで民衆に働きかけ、集団主義的な労働倫理を彼らに植え付けるという方向に活動の重点を移したが、代表的なスボートニク(土曜日に無報酬で行なわれる集団労働)キャンペーンも非体系的であり、内戦終結が迫るにつれて行政主導の体系的な労働動員に組み込まれ、独自性を失ってゆくこと、などが解明されている。

第三部は、国家機構を介した労働者の動員と、党組織を介した労働者の集団主義的な意識改革の試みという、重り合う二つの側面を分析し解明した部分である。労働動員も、労働者の意識改革の企ても十分な成果を挙げられなかった事実を踏まえて1920年の秋から全国的に精力的にとり組まれた「生産プロパガンダ」という企図は、革命後の国家機構・党組織・民衆の相互関係史上画期をなすものとの評価が与えられている。その画期性は、30年代に確立するソ連社会の原型であるとの認識が示され、さらには「ソヴィエト人」という独自のネイション形成や、党組織の歴史的役割についても仮説的に議論が及んでいる。

本論文は、共産党と国家機関の相克、労働者と党組織の相互関係、モスクワ市の末端行政、さまざまなプロパガンダ、などの複雑な実態を、モスクワ市の行政と党組織の膨大な未刊行史料などに基づきはじめて解明した点で、国際的水準に照らしても重要な貢献である。また現時点における近・現代ロシア史研究を、新たな方法的視点から総合しようとする一つの試みでもある。たしかに、実証的に解明した部分を全体的展望の下に位置づける際や、独自の概念を設定する際に、議論をさらに彫琢し、隣接する諸領域の研究との対話を深める余地はまだ残されている。しかしながら本論文の達成した上記の顕著な成果を鑑みて、審査委員会は一致して、本論文に博士(文学)の学位を授与するのが適当であると判断した。

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