学位論文要旨



No 120778
著者(漢字) 川名,典子
著者(英字)
著者(カナ) カワナ,ノリコ
標題(和) 地下鉄サリン事件被害者にみられる心的外傷後の慢性被害者後遺症症状
標題(洋)
報告番号 120778
報告番号 甲20778
学位授与日 2005.10.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2581号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 助教授 大嶋,巌
 東京大学 助教授 佐々木,司
内容要旨 要旨を表示する

緒言

被害者の精神的後遺症研究は、1976年にHorowitz(1976)によって外傷体験後の反応が記述され、それに基づいてDSM-IIIにPosttraumatic Stress Disorder(以後PTSDと略す)の診断基準が採用されてから飛躍的に発展し、日本では1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の後にPTSDへの関心が高まり、臨床的学術的研究が行われるようになってきた。

外傷体験への反応は、文化やストレスへのコーピング方法、社会における被害者支援体制により異なるといわれる。筆者は事件当時から地下鉄サリン事件被害者のケアに携わってきたが、被害者の多くに、心的外傷後ストレス症状に加えて、サリン中毒によることが確認できない特定不明の身体症状が観察された。この経験から、DSM-IVによるPTSDの診断基準だけでは、わが国で被害者の心身の苦悩を記述するには不十分ではないかとの指摘がなされるようになり、臨床家からMasked PTSDの概念が提唱されるようになった。基礎的な研究として日本人に見られる被害後の反応についての記述的研究が求められているといえるだろう。

研究目的

本研究の目的は、まず第1に、筆者らが地下鉄サリン事件被害者の後遺症症状調査のために作成し過去の調査で用いてきた被害者後遺症症状調査票を、慢性期の被害者後遺症調査での使用に向けて心理測定法上の検討を行うこと、第2に、その調査票を用いて地下鉄サリン事件後5年目以降の慢性期における被害者後遺症症状の経時的推移を分析することである。

研究方法

対象者。2つの地下鉄サリン事件被害者群(事件当時S病院で治療を受けたS群629名と、あるNPO法人に登録しているRSC群1130名)を研究対象とした。本研究はS病院にて倫理委員会の承認を得ており、調査および2次データ使用に際しては、対象者にその都度説明を文書で行い、文書による同意を得た。2つのグループを合併するに際しては被害者が同様の傾向を持つ集団であることを分析し、合併することの妥当性を確認した。

慢性期の被害者後遺症症状調査に向けた既存の調査票の心理測定法上の検討。筆者らはS病院において、地下鉄サリン事件被害者に多く見られた身体症状14項目、PTSDの過覚醒4項目、回避4項目、再体験3項目、眼科症状8項目を含む33項目の地下鉄サリン事件被害者後遺症症状調査票(5段階リカートスケール)を作成し、後遺症調査を実施してきた。この調査票に基づいて行われた5年目RSC群の調査データから、サリン毒後遺症の疑いのある眼科症状を除いた25項目の調査データを用いて、項目選定を行った。項目選定には25項目の項目相関、回答の分布による床打ち・天井効果の確認、中央値より上位の群対下位の群の得点比較(Man-WhitneyのU検定)によるGood-Poor分析、Cronbachα係数および項目-全体相関による内的整合性確認、因子分析による下位尺度決定および単一因子性の確認を行った。妥当性検討には、7年目RSC群調査データを用いて、因子分析による尺度構成妥当性確認を行い、並存的妥当性確認には本調査票項目とIES-R(Impact of Event Scale-Revised)、GHQ30およびPOMSとの相関係数(Spearmanのρ)を用いた。基準関連妥当性確認には、外的基準をIES-RによるPTSD群と非PTSD群、および7年目RSC群対非被害者群とし、両群の得点比較(Man-WhitneyのU検定)を行った。信頼性検討には、Cronbachα係数の算出および、Test-retestを行った。

被害者後遺症症状調査票得点の経時的推移の分析。まず2つのグループの被害者の得点推移の傾向を調べ、合併することの妥当性を確認した。次に5年目時点でのIES-R得点を分類基準として、IES-Rcutoff点である25点以上(全体の約25%)、12点から24点(約25%)、中央値である11点以下(約50%)に分け、群ごとに調査票得点およびIES-R得点の年数効果を分析し、調査票得点の推移とIES-R得点の推移を比較検討した。対象者の回答年と回答回数は個人により異なり、5年目時点で得点には個人差があったので、個人差を考慮にいれた線形混合モデルを用いて解析を行った。パラメーターの推定には制限付き最尤推定法を用い、共分散構造は無構造を指定し、ロバスト分散を用いた。従属変数は今回新たに選定した項目の合計得点、下位尺度得点、およびIES-R得点とし、説明変数として、年数および一般的属性である年齢、性別を投入した。

結果

被害者後遺症症状調査票の心理測定法上の検討。5年目RSC群638名のデータによる25項目の項目相関では「だるい」と「疲れやすい」の相関係数が0.75と高かったが、過去の不定愁訴の調査と研究者らの臨床的観察から異質の症状と考え、2項目のままに残した。項目「食欲がない」は、最小値の回答が84%で、弁別力がない床うち効果と判断し調査票から削除し、以後24項目で検討を進めた。Good-Poor分析の結果、全ての項目に有意差が認められた。Cronbachのα係数は24項目で0.93と高値を示し、1項目ずつを除いた23項目のα係数も0.92以上であり、項目一全体相関では相関係数はすべて0.4以上だったため、内的整合性はあると考えられた。24項目で因子分析(主因子法、バリマックス回転)を行った結果、初期の固有値1以上の5因子が抽出された。回転後の第1因子は精神機能低下症状(いらいら、集中力低下、無関心・無感動、忘れっぽさ、無気力・ゆううつの5項目)で寄与率13.4%、第2因子は恐怖体験への反応症状(外傷体験に特異的と思われる悪夢、フラッシュバック、びくびく、事件の話題の回避、不眠の6項目)で寄与率13.2%、第3因子は身体化症状(吐き気、下痢、腹痛、めまい、微熱、頭痛の6項目)で寄与率9.4%、第4因子は慢性ストレス症状(だるい、疲れやすい、風邪を引きやすい、体の緊張の4項目)で寄与率8.7%、第5因子は死の切迫症状(息苦しい、胸が締め付けられる、どきどきするの3項目)で寄与率8.5%、累積寄与率は52.8%であった。各因子毎に項目の因子分析で単一因子性が確認された。

構成概念妥当性は、事件後7年目RSC群のデータによる因子分析で前述の5因子が抽出され、因子ごとの項目の因子分析で単一因子性が確認されたことから、概ね妥当と考えた。

事件後7年目のIES-RおよびGHQ30の得点と本調査票24項目の相関係数はそれぞれ0.78、0.65であった。IES-R得点と調査票下位尺度得点の相関係数は「恐怖体験への反応症状」尺度が約0.8と高く、次いで「精神機能低下症状」0.7、「慢性ストレス症状」0.6、「身体化症状」0.5、「死の切迫症状」0.5であり、GHQ下位概念得点とも中程度弱の相関(0.35<ρ<0.5)を認め、POMSの「活気」以外の下位概念得点とも中程度の相関(0.5<ρ<0.6)を認めた。以上から、並存的妥当性は概ね確認されたと判断した。

IES-R得点によるPTSD群(25点以上)と非PTSD群(24点以下)の調査票得点比較と、既知グループ法による被害後7年目R群対非被害者群の調査票得点比較による基準関連妥当性検討の結果では、調査票得点はPTSD群および被害者群にて高値(p<0.01)であった。信頼性検討の結果は、7年目RSC群529名のデータによる24項目のCronbachのα係数は0.92であった。Test-retestの結果、22項目が相関係数0.6以上、21項目がk係数0.4以上と算出され、この調査票の信頼性は概ね確認されたと判断した。

以上、心理測定法上の検討の結果、従来の調査票から再構成した24項目の被害者後遺症症状調査票の信頼性と妥当性が確認された。

被害者後遺症症状の経時的推移の分析。本調査票の上記24項目を用いて事件後5年目以降の1542名分のデータの内、複数年次回答のあった798名を分析した。一般的属性では、性別効果が認められ、男性は得点が低いという傾向があった。年齢効果は「身体化症状」得点のみに負の効果が認められ、「身体化症状」は加齢による変化ではないことが示唆された。5年目IES-R得点によって分けた3群での被害者後遺症症状得点の年次推移では、5年目IES-R高得点群では、IES-R得点およびそれと相関の高い「恐怖体験への反応」に負の年数効果が認められ、5年目以降得点が低下していくことが明らかになったが、合計得点および「恐怖体験への反応症状」以外の下位尺度得点には年数効果が認められなかった。5年目IES-R得点中間群では「精神機能低下症状」得点に正の年数効果が認められたが、それ以外の得点に年数効果は認められなかった。5年目IES-R低得点群ではIES-R得点と「恐怖体験への反応症状」得点の年数効果は認められないが、合計得点と「恐怖体験への反応症状」以外の下位尺度得点は正の年数効果が認められた。

考察

今回使用した被害者後遺症症状調査票は、ある程度の信頼性・妥当性が確認され、今後、慢性期の被害者後遺症症状調査に際して有用性があると考える。但し、質問項目や順序尺度であるべき回答選択肢には心理測定法上問題もあり、本研究の限界である。本調査票を用いて、被害者後遺症症状の慢性期の推移が明らかになった。5年目IES-R高得点群ではIES-R得点は年数とともに低減していくが、IES-Rでは把握できない身体の症状は事件後5年目以降も低減することなく推移しており、身体症状に関してはKessler et al(1995)の調査結果を支持する結果となった。IES-R得点が年数により低減していくのは、外傷体験に対して「事件を忘れず、許さず、戦う」よりは「忘れるように努力する」日本人の反応の傾向や文化的特徴が影響している可能性があり、この点は今後の重要な研究課題である。

今後、保健看護領域において、本調査票の下位尺度得点のパターンによって、精神科受診紹介、カウンセリング、ストレス緩和技術指導などケア方法選択に役立つことが期待される。そのためには、異なる種類の被害者集団で本調査票を用いて調査を行い、合計得点および下位尺度得点の基準値を求めることが今後の研究課題である。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、心的外傷後の被害者にみられる主観的な後遺症症状を、PTSD(Posttraumatic Stress Disorder)の診断基準に盛り込まれた精神症状だけでなく、身体的症状をも網羅し多角的に把握するために、文献検討を行い、地下鉄サリン事件被害者後遺症調査票に心理計量学的検討を加えて被害者後遺症調査票として再構成し、この調査票を用いて同事件後5年目から8年目の慢性期にみられる被害者後遺症症状の経時的推移の記述を試みたものである。本研究により、以下の知見を得ている。

文献検討によれば、心的外傷後の被害者後遺症症状調査にはPTSDの診断基準に基づくIES-R等の調査票あるいは構造化面接が用いられている。一方、PTSDあるいは被害者には身体症状が合併することを示唆するいくつかの知見が得られているが、その解釈には定説がない。そのため、身体症状を網羅した被害者後遺症症状の記述的研究がまず求められている。

慢性期被害者後遺症症状を調査するために、過覚醒症状4項目、回避症状4項目、再体験症状3項目、身体症状14項目、眼科症状8項目を含む既存の地下鉄サリン事件被害者後遺症症状調査票に、5年目の同事件被害者を対象とした調査データを用いて心理計量学的検討を加え、I精神機能低下症状、II恐怖体験への反応症状、III身体化症状、IV慢性ストレス症状、V死の切迫症状、の5下位尺度をもつ合計24項目からなる「被害者後遺症症状調査票」が作成された。

同事件7年目被害者データによる本調査票の計量心理学的検証では、全ての下位項目で内的一貫性が確認され、構成概念妥当性が確認された。IES-R(Impact of event scale revised)、GHQ30、POMSとの相関を検討した結果、並存的妥当性が確認された。

IES-R得点によるPTSD群と非PTSD群における本調査票得点比較と、既知グループ法による被害者群と非被害者群の本調査票得点比較を行い、いずれもPTSD群あるいは被害者群が有意に高値を示し、本調査票の基準関連妥当性が確認された。

Test-retestの結果、2回のテストの相関係数、k係数は概ね良好な値を示し、Cronbachのα係数は0.92であり、本調査票の信頼性は概ね確認されたと判断した。

地下鉄サリン事件被害者798名を対象とし、本調査票およびIES-R得点により事件後5年目から8年目の被害者後遺症症状を調査した。5年目のIES-R得点により高得点群(25点以上)、中間群(12-24点)、低得点群(11点以下)に分けて慢性期の得点推移を分析した結果、高得点群ではIES-R得点およびそれと相関の高い本調査票下位尺度「恐怖体験への反応症状」は5年目以降に低下傾向を示したが、合計得点および他の下位尺度得点は変化が認められなかった。低得点群では合計得点と「恐怖体験への反応症状」以外の下位尺度得点の上昇傾向がみられた。

慢性期においては、被害者後遺症症状は、IES-R得点および本調査票による下位尺度「恐怖体験への反応症状」という、外傷体験の直接的な想起に関連する精神症状は減少するが、むしろ「精神機能低下症状」あるいは「身体化症状」「慢性ストレス症状」という身体症状として遺残する可能性がある。

以上により、本研究において信頼性・妥当性が確認された「被害者後遺症症状調査票」は、慢性期の被害者後遺症症状を、従来のPTSD診断基準に含まれる精神症状のみならず、一般的な精神機能低下症状および身体症状を網羅して評価することができる。本調査票による被害者後遺症症状の評価により、従来は特定不能と思われていた被害者の心身の健康問題を、心的外傷後の後遺症症状として新たに解釈できる可能性が示唆される。また、本調査票の下位尺度得点の傾向から、慢性期の被害者に対する具体的ケア計画策定の方向性を示すことができるようになる可能性があり、本調査票は、今後、保健・看護領域における臨床実践に貢献できるであろう。

さらに、本研究により慢性期の被害者後遺症症状について得られた知見は、この領域における数少ない記述的成果であり、今後、被害者救済計画策定に貢献する有用な基礎資料になるであろう。

以上の成果から、本研究は学位の授与に値するものと考えられる。

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