学位論文要旨



No 120781
著者(漢字) 今野,元
著者(英字)
著者(カナ) コンノ,ハジメ
標題(和) マックス・ヴェーバーとドイツ国民国家 ドイツ・ナショナリズムに関する一試論
標題(洋)
報告番号 120781
報告番号 甲20781
学位授与日 2005.10.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第192号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 蒲島,郁夫
 東京大学 教授 太田,勝造
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ドイツ・ナショナリズムとはいかなる現象か――この問いに取り組んだ二〇世紀の政治史研究者は、大抵の場合次のように回答してきた――「それはドイツの西欧(特に英仏、あるいは更に米)に対する抵抗の思想である」と。このようなドイツ・ナショナリズムの西欧主義的理解は、西欧を中核とした今日のヨーロッパ統合の深化とその東方への拡大とを正当化する思想的基盤ともなってきた。なるほど従来の研究者も、ドイツ・ナショナリズムが決して西欧だけではなく、ポーランド人やチェック人に代表される東欧の人々にも鋭い攻撃を向けてきたことを無視してはいない。しかし彼らは、ドイツ国家が西欧的政治理念であるリベラル・デモクラシーに抵抗し、「権威主義的国民国家」(W・モムゼン)を構築したために、東欧の人々にも抑圧的な姿勢をとったのだと考えてきた。要するに「ヨーロッパ的ドイツ」(Th・マン)、すなわち西欧化したドイツこそ、過去のドイツのあらゆる害悪を克服する道だという実践的な対策が、ここから導出されることになるのである。

しかし第二次世界戦争に到るドイツ・ナショナリズムの暴発の過程を、その反西欧・非西欧的性格のみに還元することは出来ない。まさにTh・マンがそうであったように、ドイツを西欧化し、ドイツと西欧諸国との友好を育む方向でドイツ国民国家の発展を願った西欧派ドイツ・ナショナリストは少なからず存在したのであり、しかも彼らが激しい攻撃性、排外性を示すこともあったのである。フリードリヒ・マイネッケ、ハンス・デルブリュック、エルンスト・トレルチュ、フリードリヒ・ナウマンといったこれらの人々は決して無名ではなかっただけに、その存在を度外視ないし例外視して一般にドイツ・ナショナリズムの反西欧的・非西欧的性格のみを強調することが、政治史研究上正当化されるとは到底思えない。ドイツ・ナショナリズムという現象を安易に性格付けて攻撃するのではなく、そこに込められた人間の複雑な愛憎を解きほぐしてみるためには、対象を限定した上で西欧派ドイツ・ナショナリズムの実態に肉薄することが必要なのである。

本論が西欧的ドイツ・ナショナリズムの具体例として分析した対象は、マックス・ヴェーバー(一八六七年―一九二〇年)のそれである。社会科学者として世界的に名を馳せたヴェーバーは、ヴィルヘルム期ドイツを代表する西欧派ドイツ・ナショナリズムの論客の一人であり、その卓越した知性を現実政治の世界でも遺憾なく発揮した。ビルマルク期からヴィルヘルム期へと移り、ドイツ国民国家が国際権力政治の組織主体としての活力を喪失しているように思われることについて、ヴェーバーは燃えるような憂慮の念を抱いた。ヴェーバーのみるところその原因は、ビスマルク退陣後の指導者気質を有する政治家の欠乏、政治と学問とを蝕む「官僚制」化の進展、経済的基盤を失って私利私欲に走るユンカーの特権的支配、過去に満足して目標を見失っている市民階級、ディレッタント君主の愚行、弱者への憐憫に夢中で権力闘争の現実を正視しない平和主義者たちの跋扈であるように思われた。こうした停滞ぶりに渇を入れドイツ国民国家を再び国際権力政治における生き生きとした闘争主体にするために、ヴェーバーが示唆したのが西欧、特にアングロ=サクソン圏における人間の自由闊達な生活様式である。ヴェーバーの同時代人をみれば明らかなように、アングロ=サクソン圏はドイツ自由主義陣営の政治的論客にとっては憧憬の対象であることがしばしばであったが、ヴェーバーの場合には親類縁者がイギリス、アメリカ合衆国に多くいるという追加的事情もあった。ヴェーバーのアングロ=サクソン圏に対する強い興味、憧憬、劣等感は、一九〇四年のアメリカ旅行によって決定的に増幅された。第一次世界戦争でヴェーバーがアメリカの参戦を極端に恐れたのは、彼がアメリカの潜在力を非常に高く評価していたことと密接に結びついている。ただ注意しなければならないのは、ヴェーバーは単純にアングロ=サクソン圏を憧憬していたわけではなく、同時に多くのドイツ人同胞と同じようなアングロ=サクソン圏に対する違和感にも満たされていたということである。ヴェーバーもまたイギリス海上帝国の世界支配に不公正なものを感じ、ドイツの海外進出を(少なくとも観念的には)熱心に望んでいたし、リベラル・デモクラシーの理念を振りかざして国際権力政治に割って入ろうとするアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの高圧的な道徳主義には強い違和感を抱いていた。強い憧憬を感じながら、そこに文字通り没入することは出来ないでいるというのが、ヴェーバーのアングロ=サクソン圏に対する態度だったのである。

西欧に対して愛憎半ばするヴェーバーは、東欧の政治勢力に対してもまた別な意味で両義的な姿勢で臨んでいる。ヴェーバーにとって東欧における最大の問題はロシアとドイツとの角逐である。前年のロシア第一革命を踏まえて一九〇六年に書かれたロシア政治分析において、専制政治と農村共同体とを基盤とする後進国ロシアが非常な困難を抱えつつも、(ドイツを含む)西欧の政治理念の洗礼を受けて徐々に変化しつつあると認識したヴェーバーは、ドイツの自由主義知識人として改革の先頭に立つロシアの同志たちに共感し、官僚制という新しい武器をもってこれを弾圧しようとする皇帝政府に激しい憎悪を燃やしている。しかしヴェーバーはドイツ・ナショナリストとして、ロシアが西欧化によってその列強としての実力を増大させるのを危惧した。人間改革による国力増大に注目するヴェーバーは、ドイツが西欧化によって国力を増大させるように、ロシアも西欧化によって国力を増大させることに一抹の不安を覚えたのである。「ロシアの脅威」に対するヴェーバーの不安が爆発するのが第一次世界戦争で、それは一九一七年の二度に亙るロシア革命を通じても全く払拭されなかった。こうしたヴェーバーのロシア観との関連で興味深いのが、彼の生涯に亙るポーランド問題に対する取り組みである。そもそもヴェーバーが政治評論家として初めて世に知られるようになったのは、彼が社会政策学会でポーランド人農業労働者がドイツ東部に拡大することを警告したときのことであった。ヴェーバーはポーランド人農業労働者という彼のみるところ「文化」の低い人間たちがドイツ国境を越えて侵入し、ドイツ人農民たちの仕事場を奪っていくという事態に我慢が出来なかったのである。ヴェーバーはこの活動の一環として、全ドイツ連盟やドイツ・オストマルク協会といったドイツ・ナショナリズム煽動団体に加入し、論客としての頭角を現すことになる。ところが一九〇六年にロシア政治分析に従事するようになり、ロシア国内のポーランド人がその文化的自治の代償としてロシアと連合する気配があることを知るや否や、ヴェーバーはポーランド人農業労働者排除論を撤回しないまま、同時にプロイセン領内のポーランド人に文化的自治を与えることを要求するようになる。第一次世界戦争でロシアの脅威が深刻なものになると、ヴェーバーのポーランド人との和解要求はより真剣なものになっていく。ところが敗戦によってポーランド独立国家が誕生し、その領土要求がドイツ東部のポーランド人居住地域に及びようになると、ヴェーバーのポーランド人に対する態度は急速に硬化したのである。

結局ヴェーバーの五十四年の生涯を概観してみえてくるのは、彼の西欧志向によってそのドイツ・ナショナリストとしての苦悩が深まったということである。ヴェーバーは西欧・ドイツ・東方という序列意識を強烈に意識しており、その上でドイツが西欧諸国に倣い西欧諸国と同様に世界の「名士民族 [Herrenvolk]」の一角を占めることを強く望んだのである。しかしドイツ人としての自尊心もあるヴェーバーはそうした西欧諸国のありかたに没入することは出来なかったし、第一次世界戦争になるとヴェーバーが西欧列強がドイツを自分たちの仲間から排除しようとする光景に遭遇し憤激した。ドイツの「名士民族」への昇格に躍起なヴェーバーが、ドイツ人よりもその理想に遠いようにみえたポーランドやロシアなどの諸民族に非常に冷淡にならざるを得なかったというのは、悲劇的なことではあるが驚くには当らないことなのであった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「マックス・ヴェーバーとドイツ国民国家」は、ヴェーバーの生涯をたどりながら、彼の政治的言説を丹念にフォローし、ヴェーバーにおけるドイツ・ナショナリズムの特色を解明しようとするものである。ドイツ・ナショナリズムは、様々な形で論じられてきた大問題であるが、本論文はヴェーバーという学者として傑出した人物が、現実の政治に情熱的に関与し続けた有様を描き、彼の発言を時代の文脈のなかに位置づけんとしている。ちなみに、論文提出者は、ベルリン大学第1哲学部歴史学科に留学し、そこで論文を提出して博士号を授与されている。この学位論文はその後手を加えた上で日本語版(『マックス・ヴェーバーとポーランド問題―ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説―』、東京大学出版会、2003年)、ドイツ語版(Max Weber und die polnische Frage(1892-1920):Eine Betrachtung zum liberalen Nationalismus in Wilhelminischen Deutschland, Nomos 2004)の両方が刊行された。本論文は、この学位論文を基礎としながら、研究の射程をさらに広げ、一方では、ナショナリズムに関わるヴェーバーの言説を彼の政治的思惟に一貫して存在する特色との関連で捉え、他方では、ヴェーバーの行動と言説を通じて、帝政期ドイツにおけるナショナリズムの多面的性格を明らかにしようとしている。

本論文の構成は、いままでのドイツ・ナショナリズム論を概観した「序論」から始まり、幼少期・青年期を扱った「第1章政治的人格の形成1864-1892年」、学者として立場を形成し、政治評論にも取り組んだ時期を解明した「第2章プロイセン・ユンカーとの対決1892-1904年」、神経症に悩まされながら研究・評論活動を続け、アメリカを旅行して多くの影響を受けた時期を扱った「第3章ドイツにおける人間変革の模索1904-1914年」、第1次世界大戦中の活動を描いた「第4章第1次世界戦争の試練1914-1918年」、晩年にあたる戦後からヴァイマール共和国初期の時期を扱った「第5章失意のなかでの死1918-1920年」が本論であり、それを「結論」で結んでいる。

序論は、まず「1.コーンの二元論」において、比較ナショナリズム研究の代表的研究者であるハンス・コーンが提唱した、ドイツ・ナショナリズムはフランスやイギリスなどの「西欧」に対抗する政治理念であるという主張を「コーンの二元論」としてまとめ、それがドイツ歴史学に及ぼした影響を概観する。これは換言すれば西欧主義的な観点からするドイツ・ナショナリズム批判であり、論者により幅とニュアンスは異なるものの、第1次世界大戦後のF・マイネッケ、『遅れてきた国民』を著したヘルムート・プレスナー、戦後西ドイツの代表的歴史学者であるテオドール・シーダー、現在活躍しているハンス=ウルリヒ・ヴェーラーやハインリヒ・A・ヴィンクラーがその系譜にたつとする。著者はこのような系譜に対して、「西欧対ドイツ」という二元論的単純化に疑問を投げかけ、「西欧」の代表的理念といわれるリベラル・デモクラシーの世界的普及と受容に伴う論争として19-20世紀の政治思想を扱う視座を提唱し、この視点からドイツ・ナショナリズムに取り組むとする。「2.西欧派ドイツ・ナショナリストとしてのマックス・ヴェーバー」では、このような視点からドイツ・ナショナリズムを分析するために、特定の対象に絞込み、それを実証的に扱う方法を選択すると宣言する。筆者が着目するのは、反西欧派ナショナリズムとは異なる「西欧派ドイツ・ナショナリズム」といわれる系譜の存在であり、その代表的人物がマックス・ヴェーバーだとされる。ヴェーバーのアングロ・サクソン志向は既に多々指摘されているところであるが、同時にロシアやポーランドに対する彼の言説を分析に組み込むことによって、「西欧派ドイツ・ナショナリスト」としてのヴェーバーの実相を描こうとする。

「第1章

「第2章

「第3章

「第4章

最終章である「第5章失意のなかでの死1918-1920年」は4つの節からなり、1920年6月に死去するまでのヴェーバーの晩年の活動を扱う。敗戦とドイツ革命の激動のなかで、ドイツ民主党の幹部ともなったヴェーバーが、まず関心を振り向けたのがドイツ国民国家の精神的革新であり、ドイツ官憲国家の階層秩序のなかで歪曲されたドイツ人の卑屈な人間性をアングロ・サクソン流の平等主義的かつ貴族主義的教育で矯正し、ドイツ民族を「名士民族」とすることであった。しかしそれ以上に焦眉の急となったのが、革命の進展のなかで起きた戦争責任論であり、国内で戦争責任肯定論がでるなかで、それは罪深いドイツが罰をうけたという「罪責告白」にしかすぎないとして断固反対の論陣をはり、それと関連するドイツ国民国家の道徳的否定にも敏感に対応し、ヴェルサイユ講和条約にも反対を貫いたのである。同時にドイツ領土が削減されるなかで、ヴェーバーはドイツ東部のポーランドへの割譲にはこれまた断固反対した。加えてヴェーバーが精力を注いだのが、1918年11月に発表された「ドイツの将来の国家形態」などで開陳された新生ヴァイマール共和国の国制問題であった。ヴェーバーにとってこの国制構想は状況依存的且つ危機管理的なものであったが、そこには3つの原則が示されたという。まず第1が共和制の支持であり、これは君主に対する痛烈な批判の裏返しでもあるが、「無気力への意志」に陥った帝政ドイツの精神構造から脱皮するためにも必要と考えていた。第2がドイツ系オーストリアの併合である。これは民族自決原理のドイツへの適用への要求であると同時に、ドイツ文化の共有を基盤として国民を形成しようとするヴェーバーの「文化国民」論にも依拠するものであった。第3がドイツの一体性を重視する「統一主義(Unitarismus)」への支持であり、具体的にはライヒ大統領の直接公選制の提唱となって示された。しかし1919年以降のヴェーバーは不遇であったという。憲法制定国民議会への出馬断念などの政治的不遇、新たに赴任したミュンヘン大学での学生とのいざこざなどである。そして1920年6月ヴェーバーは病魔に倒れ逝去することになった。

この本論に短い「結論」が続いている。この前半部分は本論の要約であり、後半部分において戦後西ドイツにおけるナショナリズム解釈を振り返り、特にドイツ統一後漸進的にドイツ・ナショナリズムが擡頭をみせているものの、それは反西欧的ではなく親西欧的なものであり、それは繰り返し現れる西欧派ドイツ・ナショナリズムという現象とみなすことができるという。

以上が本論文の要旨である。以下にその評価を述べる。

本論文の長所として、第1に指摘しなければならないことは、ヴェーバーの公刊された著作ばかりでなく、書簡等の非刊行の史料も渉猟し、またこの時代の歴史書もほぼ網羅的に扱った、極めて実証的で本格的なヴェーバーの政治評論に関する研究であることである。同時にヴェーバーの言説に対する評価は、論争性を意識しつつも、努めて距離をとろうとしており、この点も高く評価できる。第2は、伝記的手法をとることによって、「政治家」ヴェーバーの全体像を提示しえたことである。これはヴェーバーの言説をその公表時期の政治的文脈を踏まえて分析・評価する手堅い方法の積み重ねからなっており、それはヴェーバーの生きた時代に関する該博な知識があってこそ可能となったものである。第3は、ヴェーバーのナショナリズム論を西欧派ドイツ・ナショナリズムとして把握することによって、西欧対反西欧の2項対立のなかで理解されることが多いドイツ・ナショナリズム論に一つの明確な視座を提供しえたことである。西欧派ドイツ・ナショナリズムがヴェーバーに尽きるものではないことは自明であるが、この系譜が存在することをヴェーバーを通して明確にした意義は大きいといえる。さらに付言すれば、ヴェーバーの言説を扱った文章は時として難解な表現になることがあるが、本論文の文章は読みやすく、これは筆者のヴェーバーの言説の咀嚼能力の高さを物語るものと評価することができる。

しかし本論文にも以下のような短所があることも指摘しておかざるをえない。第1は、西欧派ドイツ・ナショナリストとしてのヴェーバーに焦点をあてたため、比較ナショナリズム論として射程が限定されていることである。ヴェーバーのロシア論、ポーランド論などのドイツ東方諸国の評価という論点を取り上げたことは優れた着眼であるが、これも個別的特徴の指摘にとどまり、十分体系的な議論とは言いがたい。第2は、分析に使われる幾つかのキーワード、特にリベラル・デモクラシーという言葉に筆者が与えている意味内容は十分操作的ではなく、そのために議論されている問題の全体的構図がみえにくくなったり、論述が混乱したりする箇所が散見されることである。このことは、本論文で多用される「文化」という用語に関しても指摘できることであり、概念がより精緻に規定され使用されれば、より説得力のある論文になったと指摘できよう。第3は、西欧派ドイツ・ナショナリズムの視点を前面に打ち出したことにより、ドイツ自由主義の系譜のなかでのヴェーバーのナショナリズム論の位置づけが希薄になったことであり、それは他の自由主義者との比較・対比においてより明確にできたものと判断することができる。

以上のように、本論文にも短所はあるものの、それは本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、わが国のナショナリズム研究、ヴェーバー研究に大きく貢献するものであり、学界に寄与することの大きい特に優秀な論文と評価することができる。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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