学位論文要旨



No 120787
著者(漢字) 岩井,良夫
著者(英字)
著者(カナ) イワイ,ヨシオ
標題(和) 低速多価イオンと金属表面の相互作用による多重高励起状態の形成と崩壊過程の研究
標題(洋) Study of the formation and decay of multiply and highly excited states in the interaction of slow highly charged ions with metal surfaces
報告番号 120787
報告番号 甲20787
学位授与日 2005.10.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4752号
研究科 理学系研究科
専攻 物理専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西山,樟生
 東京大学 教授 蓑輪,眞
 東京大学 助教授 鳥井,寿夫
 首都大学東京 教授 東,俊行
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

大きなポテンシャルエネルギーと強い反応性を持つ低速多価イオンが金属表面に近づくと、自分自身の鏡像電荷により表面に向かって加速される。Classical Over Barrier Model(COBM)によれば、金属表面と多価イオンの間のポテンシャルバリアーはイオンが表面に近づくとともに下がり、仕事関数と等しいところまで到達すると、伝導帯電子は多価イオンの励起状態に共鳴的に電子移行をはじめる。この時、電子が捕獲される準位の主量子数ncはイオンの価数をq、標的表面の仕事関数をWとすると、nc〜q (2W(1+(q/8)1/2))1/2になると予測されている(全て原子単位)。本研究で扱ったq〜10とニッケル標的(W=0.18)に対しては、nc〜q+1.5と近似できる。イオンがさらに表面に近づくと、電子の共鳴捕獲を続けて内殻空孔を残したまま高励起状態に多くの電子を持つ多重高励起状態が形成されることになる。このような大きな内部エネルギーをもつ多重高励起原子(イオン)は、中空原子(イオン)(Hollow Atom)と呼ばれる。本研究では、これまでその全貌が知られていなかった多重高励起状態の形成過程と、それに続く脱励起過程の理解を目的とした。

中空原子は表面上空で形成された段階で表面方向に有限の速度を持っており、短時間(〜10-13秒)で金属表面と衝突してしまうため、これよりも遅い脱励起過程を調べる事は困難であった(図3参照)。この困難を回避するために、本研究ではマイクロキャピラリー標的を採用した。これは内径約100nmの直線状細孔が開口率にして約30%存在し、大きさ約10mm2、厚さ約1μmの薄膜である(以下ニッケル製及び金製キヤビラリーを標的とした場合それぞれNi標的及びAu標的と表記する)。細孔と平行に低速多価イオンを入射すると、細孔に入ったイオンの一部は内壁表面から電子を捕獲し、内壁と衝突する前に標的を通過するため、標的下流で中空原子の脱励起過程を観測できる(図1)。キャビラリーを用いた実験は、半導体検出器によるX線測定と可視光分光が行われているが、前者はエネルギー分解能が悪いため遷移を特定できず、後者は高励起準位間の遷移しか観測できない。そこで、脱励起過程で放出されるX線を高い分解能で測定するため、高分解能軟X線回折分光器(図2)を設計製作した。ところで、この分光器では高励起状態にあるspectator電子を特定することは出来ないので、Si(Li)半導体検出器を用いてX線とそれを放出したイオンの最終荷電状態の相関を同時計測法により調べた。本研究では、内殻空孔が1つのイオンとしてN6+とAr9+、空孔が2つのN7+、更に多くの空孔を持つAr11,13+を用いた。

2.3keV/u Nqi+7(qi=6,7)イオンをNi標的及びAu標的に入射し、標的を通過してきたイオンから放出されるKX線を標的直下のtd=0.0nsからtd=6.0nsの範囲で分光器を用いて観測した(tdはイオンが標的細孔を通過してからの時間)。観測された遷移は全て特定した。図3はqi=7のイオンをNi標的に入射した時の各遷強度I(td:np-1s,qi=7)の時間依存性である。図3に示したように、I(td<1.5:np-1s,qi=7)の半減時間は〜0.1 nsであるのに対して、I(td>1.5:np-1s,qi=7)の半減時間は〜1 nsで、遷移強度の半減時間がtd〜1.5nsを境に〜10倍長くなる傾向が見られた。同様の傾向はI(td: Isnp1P1-1s2n,q1=6,7)でも見られた。また、I(td>1.5:ls2p1P1-1s2,qi=7)はI(td>1.5:2p-1s,qi=7)よりゆっくり減衰した。

遷移強度の時間変化から多重高励起状態の初期分布を求めるために、1電子(水素様)イオンのカスケードシミュレーション計算を行った。qi=7の場合、標的から1電子を捕獲した1電子励起状態の初期分布PI(n,l:qi=7)を各遷移強度の時間変化から求めた。低速多価イオンが金属表面から共鳴電子捕獲する準位のうち角運動量の大きい準位(l〜n-1)については、Arqi+(qi〜7)イオンとNi標的を用いた可視光分光により特定されており、主量子数分布(n分布)はn〜qi+1.5を中心に幅〜2(FWHM)である。本研究で得たPI(n,l:qi=7)のn分布の傾向は可視光分光の報告と一致し、その結果から角運動量lの広い範囲でn分布の中心値がCOBMの予測とほぼ一致することが分かった。PI(n,l:qi=7)によってI(td>1.5:np-1s,qi=7)は再現したが、I(td<1.5:np-1s,qi=7)は再現しなかった。そこで、2番目に捕獲される電子が感じる有効電荷をqe〜6として、2電子を捕獲して形成した2重励起状態を概算し、エネルギー保存則からAuger脱励起後の分布PA(n,l: qi=7)を求めた。算出したPA,(n:l:qi=7)によってI(td<1.5:np-1s,qi=7)を再現した(図3)。このことから、td<1.5nsではAuger過程を経たイオンが支配的で、np-1s遷移するイオンは、標的から1電子捕獲したイオンの割合が〜50%である事が分かった。I(td>1.5: Is2p1P1-1s2,qi=7)は、I(td>1.5:2p-1s,qi=7)よりゆっくりと減衰しているので、 PI(n,l: qi=7)を初期分布として計算結果の時間軸を74/64=1.9倍引き延ばしたところ、I(td>1.5: Is2p1P1-1s2,qi=7)をほぼ再現した(図3)。1電子励起状態の電子の遷移確率は有効電荷qeの4乗(qe4)に比例するため、上記の操作はqeを7-6と変換したことに相当する。このような1電子捕獲の遷移よりも2電子捕獲後の遷移の減衰が遅くなる現象は、2.8keV/uAr13+イオンとNi標的を用いたLX線の高分解能分光でも確認した。以上のことから、高励起状態の電子が脱励起を始める前に他の電子が速やかに内殻を埋めた事によって、残った高励起状態の電子が感じる有効電荷が小さくなり、内殻空孔が長寿命化する事が分かった。速やかに内殻を埋める脱励起過程は、その遷移確率の大きさからAuger過程が支配的だと考えられるので、 Is2p1P1-1s2 1S0遷移するイオンの多くが標的から3電子以上捕獲したイオンだと分かった。 qi=6の場合は、COBMの予測nc〜q+1.5に従って1電子を捕獲した1電子励起状態の初期分布をPI(n,l:qi=6)〜PI(n-1,l:qi=7)として求め、qi=7の場合と同様にPA(n,l: qi=6)を求めた。qe=6の時の遷移確率を用いてシミュレーション計算を行い、PI(n,l: qi=6)とPA(n,l:qi=6)でI(td:1snp1P1-1s2,qi=6)を再現した。

分光器では特定することが出来ない高励起状態にあるspectator電子を調べるために、2.1keV/uのNqi+(qi=6,7)イオンとNi標的を使ってKX線と最終荷電状態Nqf+(qf=3〜6)の同時計測をした。イオンビームと半導体検出器の間に設置した遮蔽板を、ビーム下流方向へ引き出すことによって、入射価数(qi)及び最終荷電状態(qf)で特定される条件(qi,qf)毎のX線強度及びエネルギーの時間変化を測定した。図4はNqf+(qf=6.5)と同時計測されたスペクトルで、実線は高分解能分光で特定された遷移エネルギーを用いた解析結果である。図4に示したように、X線のエネルギーは遮蔽板の位置に依存しなかった。図5は、解析によって求めた(qi,qf)及び内殻電子数別のX線強度の時間依存性である。図5に示したとおり、(1)(gi,qf)=(7,6)は(7,5)及び(7,4)に比べてX線の減衰が速かった、(2)遮蔽板の位置が0mmの場合の(7,6)と(7,5)のX線強度はほぼ等しく、複数の空孔を持った入射イオンでもX線強度が捕獲電子数(qi-qf)に依存しなかった。 Nイオンで見られた(1)は、 2.8 keV/u Arqi+(qi=13,11,9)イオンとNi標的を用いたLX線と最終荷電状態Arqf+(qf=7〜12)の同時計測でも見られ、「複数の空孔をもつ入射イオンが最終的に1電子捕獲した場合は、複数の電子を捕獲した場合に比べてX線の減衰が速い。」と一般化された。これは、電子が速やかに内殻を埋めたことによって、残った励起電子が感じる有効電荷が小さくなり、内殻空孔が長寿命化するためだと理解できる。一方、Arイオンの(qi,qf)=(13,9〜12)の場合、遮蔽板の位置が。mmの時のX線強度は捕獲電子数(qi-qf)にほぼ比例して大きくなり、Nイオンの(2)と異なる結果となった。これは、NイオンのK殻を埋める脱励起過程はAuger過程が支配的であるのに対し、ArイオンのL殻を埋める脱励起過程はNイオンのK殻ほどAuger過程が支配的ではないことを示唆しており、光子放出過程の遷移確率が有効電荷の4乗(qe4)に比例するのに対し、Auger過程が比例(qe1)するためだと理解できる。表1はNイオンの条件(qi,qf)及び内殻電子数別のイオンあたりのX線収量である。表1に示したとおり、(7,6)のX線収量は〜0.4であった。

図1 マイクロキャピラリー標的の電子顕微鏡写真と左から入射した多価イオンが標的の細孔終端で電子を捕獲して衝突せずに下流に抜け出ていく様子の模式図。

図2 回折格子とCCDを使った高分解能軟X線分光器の概略図。

図3 N7+イオンをNi標的に入射した時に観測された各遷移強度の時間変化。図中の線はカスケードシミュレーション計算。

図4 2.1 keV/u Nqi+(qi=6,7)イオン入射時にNqf+(qf=5,6)と同時計測されたX線スペクトル。実線は分光器で特定した各遷移エネルギーの文献値を用いた回帰曲線。

図5 N イオンの各条件(qi,qf)でコインシデンスした内殻電子数別のX線強度。

表1 Nイオンの内殻電子数別X線収量。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。第1章では、本論文の主題である低速多価イオンと金属表面の相互作用の背景を過去の研究を引用し、中空原子を真空中に取り出し時間分解測定を行う為に、マイクロキャピラリー標的を用いる必要性を論じている。目的と方法について「多重高励起状態の形成と脱励起過程を統一的に理解」することを目指し、「最適化した高分解能軟X線回折分光器を用いた分光測定」と「イオンの荷電変化数とX線の同時計測」を行うとしている。特に解析の基礎としている古典的モデルCOBM (Classical Over Barrier Model) の基本的解説とその中でも多段モデルの妥当性を論じている。

第2章では用いた実験装置について紹介しているが、本論文で最も重要な位置を占める高分解能軟X線回折分光器については回折格子と受光素子CCD等の要素と全体の構成、解析法、分光器としての性能評価が詳述されている。特にCCDの2次元データから、単光子計数処理を用いて、ノイズ除去を行う方法は優れている。定量性のある議論をするためにCCD受光素子、Si(Li)半導体検出器の検出効率の評価も行われている。第3章では、N 6,7+イオン及びAr13+イオンで行われた高分解能軟X線分光の実験結果とN 6,7+イオン及びAr 9,11,13+イオンで行われた荷電変化数とX線の同時計測の実験結果が示されている。N6+では8本の遷移が分離され、N 7+では10本の遷移が分離、同定され各々の遷移の強度の時間変化が得られた。これらの結果を第4章でCOBMおよび1電子イオン(水素様イオン)を基にしたカスケード計算により解析し、さらには同時計測実験の結果をふまえ、オージェ過程と2電子以上捕獲した状態である多重励起状態を考慮することによって初めて各遷移強度の時間変化の説明がつくことをシミュレーションで明らかにした。第5章ではこの実験で得られた結果をまとめ、さらに研究を発展させるためにはマイクロキャピラリーを用いたオージェ電子測定の必要性を説いている。

この論文で以下の事が明らかになった。

共鳴電子捕獲した準位の主量子数分布は角運動量分布の広い範囲でCOBM予想と一致する。

複数電子を捕獲して形成した多重励起状態からのオージェ脱励起状態を経由した1電子捕獲を考える必要がある。(標的から直接1電子捕獲したイオンの割合はX線遷移を示すイオンの半分でありX線収量が〜0.4なので、最終的に1電子捕獲したイオンの中で標的から1電子捕獲したイオンの割合は〜0.2にすぎない。

イオンのK殻空孔を埋める脱励起過程はオージェ過程が支配的で、ArイオンのL殻空孔を埋める脱励起過程は光子過程が支配的である。

複数の空孔を持つ入射イオンが最終的に1個の電子を捕獲した場合、複数個の電子を捕獲した場合に比べX線強度の減衰が速い。

これらの現象は高分解能軟X線回折分光器を用いた遷移強度の時間変化の測定によって、またイオンの荷電変化数とX線の同時計測によって明らかにされた知見であり、特に多重高励起状態の存在を初めて間接的に実証したものと言える。本論文は中空原子の研究にとって欠くことのできない重要な貢献をもたらす。

なお、本論文第3章は安藤剛三、星野正光、Roger Hutton、池田時浩、金井保之、小牧研一郎、益田秀樹、村越大、中井陽一、中尾正史、西尾和之、大山等、玉村敏昭、Sebastien Thuriez、鳥居寛之、山崎泰規との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験装置の設計製作を行い、実験結果の解析、得られたデータの分析および考察をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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