学位論文要旨



No 120789
著者(漢字) 横山,太郎
著者(英字)
著者(カナ) ヨコヤマ,タロウ
標題(和) 世阿弥発見 近代能楽の思想史的研究
標題(洋)
報告番号 120789
報告番号 甲20789
学位授与日 2005.10.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第598号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 石光,泰夫
 東京大学 助教授 内野,儀
 早稲田大学 教授 竹本,幹夫
内容要旨 要旨を表示する

1909年-日本が近代国民国家としての体裁を整え、帝国主義列強の一つとして名乗りをあげつつあったこの年に、世阿弥は文字通り発見された。歴史地理学者吉田東伍が、それまで世間一般はおろか、知識人や能楽関係者にすらほとんど知られていなかった中世の能役者世阿弥の書いた能楽伝書群の存在を知り、『世阿弥十六部集』と題して翻刻出版したのである。その後アジア太平洋戦争の終結に至るまでの時期に、時代を代表する数多くの知識人たちが彼について論じるようになり、世阿弥は一躍日本文化史上の最も重要な芸術家・思想家のひとりとして位置づけられるようになった。この〈世阿弥発見〉とそれに引き続く一連の言説の出現は、以下に述べるように、戦後の実証的な能楽研究と、芸能の身体性をめぐる日本文化論の、両者の忘却された起源として、「世阿弥」という記号へ向かう我々の態度を現在に至るまで規定し続けている。

本論文は、20世紀前半の日本におけるこの〈世阿弥発見〉という出来事を、近代日本の文学・思想の文脈の中に位置づけ、この出来事が、自らの裡に抱え込んだ近代の「超克」を中心的課題としつつ編成された当時の日本の学問的・思想的布置の中にあって、いかなる意味を持ったのかを明らかにすることを目的とする。

第1章では、世阿弥発見の前史として、明治維新によって壊滅的な状況に追い込まれた能狂言が、「能楽」という新たな社会的存在に自己形成し、近代社会に適応していったさまを記述した。この過程で、もっとも中心的な出来事が近代最初の「能楽堂」である芝能楽堂の建設であった。この能楽堂建設事業は、能楽社という華族を中心とする団体によって担われ、その中核的存在が岩倉具視であった。彼らが能楽のうちに見いだしたものは、西洋のオペラに対応する、日本固有の高尚な娯楽といったものだったが、こうした貴族趣味的な理念による能楽保護事業は、その後に進展した近代国民国家体制のうちに居場所を見いだせず、限界に直面する。

こうした限界のうちから、新たな理念に基づく第二次能楽保護事業が開始する。その中心となったのが、池内信嘉であった。第2章では、この池内を中心に展開した第2次能楽保護運動の中から、世阿弥発見という出来事が生起したことを跡付けた。池内は能楽を国民文学のうちに位置づけることによって、それを公的な保護の対象にするという戦略を取った。そのための機関として設立したのが能楽文学研究会であり、そこには著名な研究者が多数参加した。そのうちの一人である歴史地理学者吉田東伍が、研究会での活動の中で世阿弥の遺著を発見し、『世阿弥十六部集』と題して翻刻出版したのが、世阿弥伝書が世に知られるようになった最初である。ここでは、こうした一連のプロセスの詳細を明らかにし、これが当時「作者」の不在故に低い価値しか与えられていなかった謡曲の文学的価値を飛躍的に高めたこと、またこうした発見を通じて能楽研究という学そのものが開始されことなどを明らかにした。

世阿弥は、発見の当初から研究者や知識人に受け入れられたわけではなかった。第3章では、発見後の世阿弥をめぐる言説の定量的な調査をふまえた上で、大正期にはほとんど世阿弥受容が進展せず、昭和初期になって急激に世阿弥ブームと呼びうる状況が到来したことを、まず明らかにした。その上で、大正期の数少ないながらもその後に影響を与えたいくつかの受容例を検討した。

第4章では、昭和初期においてついに本格的に開始された世阿弥受容の実態を分析した。まず、急激な言説の拡大を可能にしたメディア的条件を分析し、世阿弥の翻刻テキストの増加、国文学専門誌・能楽雑誌といった雑誌メディアの充実といった状況を明らかにした。さらに、こうした中で、雑誌『文学』をはじめとする岩波書店の媒体が突出していることを指摘した。その上で、主要な著者とその立場によりながら、言説の全体像とその内部の配置を明らかにした。これによって、世阿弥言説の中枢をなすのが、大正教養主義を主導した夏目漱石門下の知識人(野上豊一郎、安倍能成、小宮豊隆ら)と、教養主義の思潮の強い影響下にあった能勢朝次、西尾実という国文学研究者であること、また彼らの研究にそうした思想的立場性の認められることを示し、世阿弥は教養主義に特有の思想的欲望によって召喚されたとひとまず総括した。

こうした教養主義知識人や西尾実は、岩波書店の創業者岩波茂雄との個人的つながりを通じ、岩波の出版事業を支えていた。第5章では、このことをまず指摘し、前章において投げかけられていた「なぜ岩波なのか」という問いに解答を与えた。こうして、昭和初期の世阿弥言説の急激な拡大という現象においては、岩波書店というメディア、教養主義という思潮、野上や西尾という担い手とが、三つの別々の要因というよりは、むしろはじめから切り離すことのできない一つの条件として存在したことが知られる。世阿弥に向けられたこうしたメディア−思潮−主体の眼差しが、世阿弥のうちに見出したもの──かりにそれを世阿弥における「岩波的なもの」と呼ぶとして、それはいかなるものだったのか。それを明らかにするのが本章の課題である。野上、阿倍、能勢を主要な対象として、彼らの世阿弥に関する言説を読解した結果、次のようなことが明らかになった。まず、教養主義に特有の近代的な個人主義の眼差しが、理論的思考の単独性において歴史上に屹立する世阿弥を見出したと考えられること。また、こうして個別性において世阿弥を捉える視点が、文化還元主義に抵抗するスタンスにつながっており、それが同時代の民俗学が芸能へ眼差す視線とは対照的であったこと。さらに一方で、戦前最大の能楽研究者である能勢朝次による、世阿弥の思想的解釈が、生命主義や西田哲学の影響下になされつつ、民族的全体性へ個人を還元する思想として世阿弥を読む傾向を持ったこと。こうして、同一の担い手による世阿弥受容の思想的欲望のうちに、相反する二つの指向性があったことが明らかにされた。

終章では、こうした戦前における世阿弥受容の帰結として、世阿弥に依拠した「日本的身体論」という言説が流通していることを批判的に検討し、これが、戦前における京都学派の身体の哲学と、世阿弥受容との両方の経験の忘却によって生じていることを明らかにした。そして以上を通じて、世阿弥へ向けられた文化主義的な欲望が、さまざまな言説の転倒を生み出す構造が批判された。

もとより、過去から伝わるいわゆる「伝統文化」について、文化主義的な欲望が喚起されるのは、仕方のない面があるが、そうした文化主義的な眼差しは、たとえば能のような身体の文化そのものの、多様で豊かな拡がりを、またその歴史的変容のダイナミズムを掬い取ることはできない。世阿弥発見とは、一面において、まさにこうした文化主義的欲望の切断の出来事であった。つまり、世阿弥は、「変わらない伝統」の象徴とも思われた能楽の起源の位置に、その思考の単独性によって変化のダイナミズムを引き起こした存在として発見され、そのことが文化の動態を眼差す歴史主義的な学を形成する契機となったのである。しかしその一方で、文化主義的な欲望は、ふたたび世阿弥を文化の全体性のうちに還元しようともしたのだった。以上の言説の歴史が、本研究によって明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

横山太郎氏の博士学位請求論文『世阿弥発見―近代能楽の思想史的研究』は、1909年(明治42年)、吉田東伍によって『世阿弥十六部集』が出版されたことを〈世阿弥発見〉と名づけ、〈世阿弥発見〉及びそれに続く一連の言説を、従来のように能楽史の中だけに位置づけるのではなく、思想的・社会的コンテクストの中に位置づけることを試み、全体としては、世阿弥を鏡として日本近代思想の欲望を読み込もうとする意欲作である。

第1章は、〈世阿弥発見〉前史として、明治維新によって壊滅的状況に追い込まれた能・狂言が「能楽」という名前の下、新たな社会的存在に生まれかわり、近代社会に適応していった有様を、岩倉具視を中心として推進された芝能楽堂(能楽堂もこの時期の発明である)の建設という出来事を主軸に描いている。

第2章では、岩倉中心の貴族趣味的な理念による能楽保護事業が限界に直面した後、池内信嘉を中心に、新たな理念の下で能楽保護事業が展開される様が述べられる。池内の戦略は、能楽を国民文学の中に位置づけることで、公的な保護の対象とするというものであり、池内によって組織された「能楽文学研究会」の主要メンバーの一人吉田東伍が、この会の活動の中で世阿弥の遺著を発見し、それを『世阿弥十六部集』として翻刻・出版するまでが語られる。

第3章では、明治末に〈世阿弥発見〉がなされた後、大正期に世阿弥受容がそれほどの進展を見せないことが、この期の数少ない重要な受容例とともに示される。

第4章では、昭和初期になって、世阿弥ブームというべき状況が出現したことが述べられる。これを担ったメディアが岩波書店の雑誌『文学』であった。またこの時期の世阿弥言説の中核を担ったのが、大正教養主義を主導した知識人で夏目漱石門下の野上豊一郎、阿部能成、小宮豊隆らであり、彼らの教養主義の強い影響下にあった世阿弥学者、能勢朝次、西尾実たちであった。この章では、大正教養主義の思想的欲望によって召喚された世阿弥が語られている。

第5章では、教養主義に特有の近代的な個人主義の眼差しが、理論的思考の単独性において歴史上に屹立する世阿弥を見出すという局面が述べられる一方で、たとえば能勢朝次が西田哲学に拠りながら世阿弥を解釈しようとするとき、それが民族的全体性へと世阿弥を還元しかねない傾向が指摘される。

終章では、能勢朝次にあった、民族的全体性への世阿弥思想の還元という見えない前提に立って、戦後のいわゆる「日本的身体論」の言説が流通していることに対する批判が述べられている。

審査委員会では、1〜3章の歴史叙述部分のヴィヴィッドな記述に比べ、4章以降の言説分析部分に多少、ステレオタイプ化が見られ、記述に精彩を欠くことへの批判や、日本的身体という問題において、文化還元主義的思考を全面的に捨て去れるものか、という疑念が出されたりはしたものの、全体として、この論文の出現によってはじめて、〈世阿弥発見〉が日本近代思想史上の事件として記述されたことの意義は大きい、という認識では各委員一致した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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