No | 120791 | |
著者(漢字) | 水野,朱音 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ミズノ,アカネ | |
標題(和) | ヒトの二足歩行の柔軟な制御機構 | |
標題(洋) | Flexible control mechanisms of human bipedal locomotion | |
報告番号 | 120791 | |
報告番号 | 甲20791 | |
学位授与日 | 2005.10.27 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第600号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 緒言 身体運動の特徴は、環境や身体自身等の運動を取り巻く状況の不確定な変化に対して、運動が即時的に柔軟に適応することである。例えばヒトの最も基本的な身体運動である歩行では、疲労、突然の障害といった身体変化や、地面の変動、物体との衝突といった環境変化(いわゆる外乱)に対して、歩行パターンが直ちに変化して運動が継続される。この様な身体運動の即時的適応性、即ち「制御の柔軟性」は、バイオメカニクス、神経生理学、ロボテクスにおける重要な問題であり、かつその機構を解明することは、身体運動科学の発展に大きく貢献すると考えられる。そこで本研究は、歩行運動をケースに「制御の柔軟性」の機構を理論的に理解することを目的とする。 仮説の構築 バイオメカニクス的考察(第2章の2) 生体力学的には、歩行の本質は逆振り子の反復運動であり、歩行生成のポイントは、立脚相における逆振り子運動の減速相を乗り越えるところにあると捉えられる。外乱は大抵この位相に不安定化作用として現れると考えられる。もし、減速相の時間間隔の調整が可能なら、外乱に対して歩行が安定に維持されると考えられる。例えば、立脚相の初期相(BSP =the beginning of the stance phase)に膝を屈曲することで、減速相をとばしていきなり加速相に入ることができる。このことは、歩行運動の柔軟な制御がBSP時の膝の伸展程度の調整によって実現されている可能性を示唆する。 神経生理学的考察(第2章の3) 神経生理学的研究を概観し、上述の可能性を支持する知見を、小脳を中心とする神経回路において得た。即ち予測不可能な外乱に応じた歩行運動の柔軟な適応には、小脳による脊髄運動ニューロンの活動に対する位相依存的制御が重要な役割を果たしている。小脳虫部と半球中間部(傍虫部)のプルキンエ細胞は、歩行中の脚の伸展状態を適切に制御し、1歩行周期中、BSP時に顕著に活性化する(動物実験)。これらの知見から、実際の小脳が外乱に対する適応的戦略として、BSP時の脚の伸展状態を適切に制御していることが示唆される。 理論的考察(第2章の4) 外乱への即時的適応が可能な2足歩行運動の生成原理として、理論研究はtwo coupled dynamics モデルを提出している(Taga et al. 1991)。このモデルでは、神経系の中枢歩行パターンジェネレータ(CPG)と身体のダイナミクスとの相互作用が形成するアトラクターが身体内外の環境変化に対して構造的に安定であるため、その安定性の範囲内では外乱に対する即時的適応が可能である。アトラクターの安定性の範囲を超える外乱に適応する為には、アトラクター(歩行パターンに相当する)の適応的変容が要求されるが、その機構として、これまで神経系(CPG等)の活動パターンを変更する機構のみがモデル化されてきた(Taga 1998;Ishiguro et al. 2003; Yamasaki et al. 2003)。本研究では、歩行パターンの適応的変化を身体のダイナミクスから自己生成的に引き出す機構をモデル化し、その数理的構造を考察する。 仮説(第2章の5) バイオメカニクス的考察および神経生理学的考察から、歩行運動の柔軟な制御がBSP時の膝関節の伸展程度の調節によって実現されている可能性が示唆された。また理論研究の分野では、この観点から歩行の適応性を説明した研究はない。そこで本研究では、身体のダイナミクスが持つ適応性に着目し、特定位相における特定部位の「姿勢」が、運動パターンの適応的変化を生じさせる重要な要素として機能している可能性を追求する。 シミュレーション結果―外乱に対する2足歩行モデルの適応歩行例― 2足歩行モデルの特徴(第3章の2) 仮説の妥当性を検証する為モデルを構築した。 Ohgane et al. (2004)のモデルに、姿勢制御系を付加した。この姿勢制御系は、外乱に応じた平衡角を自ら生成し、BSP時の膝関節に与え、膝の伸展程度を調整する(姿勢調節)。この姿勢調節により身体固有のダイナミクスが、アトラクターを望ましい収束先に誘導する。つまり外乱に適応的な歩行パターンは、神経系のダイナミクスの変化より決定されるのではなく、身体のダイナミクスの変化から自然発生する。平衡角が外乱に応じて生成されることで、外乱に適応的なアトラクターの柔軟な生成が可能である。また、身体のダイナミクスを利用することで、経時的な神経制御がなくても、適応的なアトラクターの生成が可能である。また、適応のための拘束条件を自己生成する能力をもつことは、生物的歩行モデルとして妥当である。このモデルが様々な外乱条件を克服できるかどうかを調べることで、仮説の理論的妥当性を検証できる。(Biological Cybernetics, 93(6), 2005) 足関節トルクを突然0レベルに低下させた場合の適応(第3章の3) 計算機シミュレーションにより、身体的外乱に対するモデルの適応性を検証した。定常歩行を得た後、足関節トルク(1側肢・両側肢)を突然0レベルに低下させるケースを検証した。その結果、1側肢・両側肢の場合共、姿勢制御系から身体への修飾信号(姿勢調節)がない場合にモデルは倒れたが、姿勢調節がある場合にはモデルは外乱に適応的な歩行パターンを即時的に生成し歩行運動が継続された。BSP時の膝関節角度は外乱の程度に応じて規定されていた。また、修飾信号はBSP時にのみ効力を有した。(Biological Cybernetics, 93(6), 2005) 股関節部を突然後方、前方から様々な外力で押された場合の適応(第4章の3の1) 次に、環境的外乱に対するモデルの適応性を検証した。環境的外乱の例として、股関節部(重心の近傍)を突然後方・前方からの外力で押されるケースをシミュレーションした。定常歩行が得られた後、股関節部を突然0.5秒間押すという外乱を歩行モデルに与えると、姿勢調節がない場合、20N以上の外力負荷でモデルは倒れた。一方、BSP 時に姿勢制御系からの修飾信号を2秒間与え、膝関節の平衡角を調整した場合、モデルは外力が150Nより小さければ、外乱に即時的適応し歩行運動を継続することができた。外力を与える位相をいろいろと変えてもほぼ同様の結果が得られた。(Forma, 19(4), 427-441, 2004) 足関節部を突然前方からの外力で押された場合の適応(第4章の3の2) 次に、定常歩行が得られた後、足関節部(重心の遠傍)を突然前方からの外力で0.1秒間押されるケースをシミュレーションした(足首に何かがあたってつまずく様な場合を想定)。その結果、姿勢調節がない場合、140N以上の外力負荷でモデルは倒れた。さらに、本ケースでは膝関節角度の調節は有効でないことが判った。そこでBSP 時に股関節へ修飾信号を2.5秒間与えたところ、モデルは外力が260Nより小さければ、外乱に即時的に適応し歩行運動を継続することができた。(Forma, 19(4), 427-441, 2004) 路面変化(傾斜)が負荷された場合の適応(第5章の3の1) 次に、外力とは別種の環境変化即ち傾斜が突然負荷されるケースをシミュレーションした。その結果、姿勢調節がない場合、0.005πrad以上の傾斜でモデルは倒れたが、BSP時に膝関節角度の調節を行った場合は、傾斜0.015πradまでモデルは外乱に即時的に適応し歩行運動を継続することができた。これらの結果から、傾斜の変化が突然生じた場合に対しても、2足歩行モデルは即時的適応力を有することが判明した。 傾斜が足関節トルクレベル変化と突然同時に負荷された場合の適応(第5章の3の2) 次に、環境変化(傾斜)と身体変化(両足関節トルクレベルが0に変化)が突然同時負荷されるという極端に歩行困難なケースをシミュレーションした。その結果、姿勢調節がない場合、傾斜0.001πrad以上でモデルは倒れるが、一方BSP時に膝関節角度の調節を行った場合は、傾斜0.014πradまでモデルは外乱に即時的に適応し歩行運動を継続することができた。これらの結果から、身体変化とある種の環境変化が同時に突然生じた場合に対しても、2足歩行モデルは適応力を有することが判明した。 結果のまとめ(第6章の1) このように本研究で提出されたモデルは、突然の身体変化、種々の環境変化、および身体変化と環境変化の同時負荷に対して、外乱負荷のタイミングにかかわらず柔軟な適応性を示した。このことは、いつどんな外乱に遭遇しても適応できるというモデルの適応性の高さを示している。このような適応性は、BSP時の姿勢が、歩行パターンの柔軟な変化を誘導するという、単一のストラテジーだけでもたらされた。即ち、歩行周期の特定位相(BSP)における、身体の一部分のフォーム(膝関節角度や股関節角度)調整のみで、種々の外乱に対する歩行の柔軟な適応性がもたらされることが証明された。 総括論議(第6章の2〜6) これらの結果から、本研究の意義は次のようにまとめられる。 歩行の柔軟な適応性をもたらす姿勢調節が、BSP近傍でのみ有効であったことから、BSP近傍の姿勢は、歩行システムの収束状態を規定すると考えられ、理論的にはNishiura et al. (2003)の指摘したダイナミカルシステムに潜在する「中立状態」近傍の状態に相当すると考えられる。本研究は、数学的に証明された「中立状態」を具体的現象に初めて適用した点で評価できると思われる(理論的意義)。 本研究で構築したモデルは、生理学的に妥当な構造から、妥当な機能を導出したので、今後様々な身体運動の研究に発展利用できると思われる(モデリング的意義)。 本研究で提示した適応的ストラテジーの特徴は、システムの将来の状態を決定する拘束条件を、システム自身が、その場に応じて作りだす点である。本研究は、Shimizu et al.(1994)が指摘した生命システムの「拘束条件の自己生成の仕組み」の一端を解明した点で評価できると思われる(生命科学的意義)。 スポーツの分野では、指導者は「コツ」「ポイント」「フォーム」や「型」といった概念を運動学習の効率向上のために用いてきた。これらの概念は、本研究で指摘した、身体固有のダイナミクスを利用した適応制御の概念に構造上共通する。従ってこのような制御を研究することは、身体運動科学の今後の重要な課題である(トレーニング科学的意義)。 | |
審査要旨 | 身体運動の特徴は、環境や身体自身等の運動を取り巻く状況の不確定な変化に対して、即時的に柔軟に適応することである。例えばヒトの最も基本的な身体運動である歩行では、疲労、突然の障害といった身体変化や、地面の変動、物体との衝突といった環境変化(いわゆる外乱)に対して、歩行パターンが直ちに変化して運動が継続される。この様な身体運動の即時的適応性、即ち「制御の柔軟性」の機構を解明することは、身体運動科学において重要な貢献をなすと考えられる。 本論文は、このような観点から、歩行運動をケースとして「柔軟な制御flexible control」機構を理論的に理解することを目的として行った申請者の研究を、第1章にflexible controlの定義及び姿勢制御に関する先行研究のレビューおよび研究目的、第2章から5章に申請者が行った研究の成果、第6章に総括論議を加えてまとめたものである。 第2章では、バイオメカニクス的観点と神経生理学的観点から適応歩行を考察し、「歩行運動の柔軟な制御は、小脳のプルキンエ細胞を中心とする神経回路が、力学的に不安定な立脚相初期(BSP =the beginning of the stance phase)における膝関節の伸展調整を行うことによって実現される」という仮説を構築し、その仮説に基づいて2足歩行モデルを構築した。外乱への即時的適応が可能な2足歩行モデルとしてはcentral pattern generator(CPG)とbody dynamicsとの相互作用によってアトラクターとしての歩行パターンを生成するtwo coupled dynamics modelが提出されている(多賀ら1991)。しかしこのモデルは、単一のアトラクターしか生成できないために、そのアトラクターの安定限界を超えた外乱には適応できない。本研究のモデルは、このtwo coupled dynamicsに姿勢制御系を付加することによって、アトラクターの柔軟な変更を可能にしたもので、適切な姿勢調節信号をCPGに与えておくことによって、外乱に応じた平衡角を自動的に生成してBSP時の膝関節に与え、膝の伸展程度を調整して、アトラクターを望ましいパターンに自己生成的に誘導することができるのが特徴である。 第3章から5章では、このモデルに様々な外乱を与えるシミュレーション(数値実験)を行い、モデルの妥当性を検証した。すなわち、1)一側および両側の足関節トルクが突然ゼロに低下した場合(第3章:足首が怪我をして地面が蹴れなくなった場合を想定)、2)股関節部(重心近傍)を突然後方・前方から押された場合(第4章:突然何かに衝突した場合を想定)、3)足関節部に突然前方から外力が加わる場合(第4章:足が何かにぶつかって躓く場合を想定)、及び、4)地面の傾斜が突然負荷される場合及びそれに両足関節トルクレベルがゼロになるという極端に歩行困難な場合(第5章)を取り上げて、従来モデルと本研究のモデルの性能を比較した。その結果、いずれの場合においても、姿勢制御系がない従来モデルに比べて、姿勢制御系を付加した本研究のモデルでは、外乱に対する適応限界が大幅に向上することが明らかとなった。 このように、本研究で提出されたモデルは、突然の身体変化、種々の環境変化、および身体変化と環境変化の同時負荷に対して、外乱負荷のタイミングに関わらず柔軟な適応性を示した。このような柔軟性は、BSP時の姿勢が、歩行パターンの柔軟な変化を誘導するという、単一のストラテジーだけでもたらされた。即ち、歩行周期の特定位相(BSP)における、身体の一部分のフォーム(膝関節角度や股関節角度)調整のみで、種々の外乱に対する歩行の柔軟な適応性がもたらされることが証明された。 これらの結果から、第6章(総括論議)において申請者は、本研究の意義を次のようにまとめている。 歩行の柔軟な適応性をもたらす姿勢調節が、BSP近傍でのみ有効であったことから、BSP近傍の姿勢は、歩行システムの収束状態を規定すると考えられ、理論的には西浦ら(2003)の指摘したダイナミカルシステムに潜在する「中立状態」近傍の状態に相当すると考えられる(理論的意義)。 本研究で構築したモデルは、生理学的に妥当な構造から、妥当な機能を導出したので、今後様々な身体運動の研究に発展利用できると思われる(モデル論的意義)。 本研究で提示した適応的ストラテジーの特徴は、システムの将来の状態を決定する拘束条件を、システム自身が、その場に応じて作りだす点である。本研究は、生命システムの「拘束条件の自己生成の仕組み」の一端を解明した点で評価できると思われる(生命科学的意義)。 スポーツの分野では、指導者は「コツ」「ポイント」「フォーム」や「型」といった概念を運動学習の効率向上のために用いてきた。これらの概念は、本研究で指摘した身体固有のダイナミクスを利用した適応制御の概念に構造上共通する。従ってこのような制御を研究することは、身体運動科学の今後の重要な課題である(トレーニング科学的意義)。 これらの研究成果は、従来のものとは違う申請者独自のモデルを導入することにより、特定の時点における特定の関節角度すなわち姿勢だけを制御すれば、あとは自動的に状況に応じた動作が遂行されるという、スポーツなどの身体運動における効率的運動制御のメカニズムの存在を理論面から明らかにしたものであり、学術業績として極めて有意義であると認められる。よって、本審査委員会は、本論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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