学位論文要旨



No 120792
著者(漢字) 海原,亮
著者(英字)
著者(カナ) ウミハラ,リョウ
標題(和) 近世社会における医療環境の研究
標題(洋)
報告番号 120792
報告番号 甲20792
学位授与日 2005.11.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第507号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 横山,伊徳
 長野県立上田高等学校 教諭 青木,歳幸
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、近世社会における医療環境の特質を実証的に分析したものである。医療を提供する主体、享受する対象の存在形態や、背景となる社会構造との関連性を正確に踏まえ、それら諸要素を前提とし、複合的に形成される医療の具体像に着目した点は、本稿オリジナルの視角である。このことは、従前の医史研究で蓄積された膨大な成果(医書に記された技術・内容の解明、専門的な検討と学問上の達成に対する評価が議論の中心である)を参照しながらも、より精緻に時代的な動向を明らかにするため、不可欠な方法論と考える。

第一部では、地域社会レベルに残された記録・日記史料を手がかりとして、同時代における病と、その対応としての医療の実像を検討した。

第一章では、とくに流行病発生時の様相をとりあげた。当時、疫病は頻繁に全国的な蔓延をみせたが、それへの対応は、社会の安定を維持する意味からも、公儀(幕府・藩)、地域共同体が主体的に担うべきテーマだと考えられていた。筆者は、このような動機による医療の発現を、その「原初的」形態とみなした。上層民衆が、自らの社会的立場や地域内の人的結合・文化の成熟を根拠として自発的におこなった医療行為も、これと同種の達成であり、医に関する知識・技術の専業化が未成熟な段階では、当該社会全体に十分な機能を果たしていた。一方、都市社会では、出版流通の発展などによって、民衆一般が多様な情報を獲得し、それをもとに病への手段が講じられるようになる。しかし、これらがすべて科学的な思考へと転化することはなく、ひきつづき、人びとの信仰・民俗的な諸要素に依存する心性も残された。

第二章では、彦根藩領郷村の惣庄屋が書き留めた日記史料をとりあげたが、被治療者の存立形態を踏まえて、医療の実像を解明するため、支配関係や生活組織、消費生活にかかる地理的交流圏や、文化・宗教的な背景の詳しい分析を議論の前提とした。史料に則しては、収載された医療関連の記事をベースに、地域内における医療環境の実勢を明らかにした。医師による治療行為と祈療が併存したこと、惣庄屋クラスの民衆には医療機会の大きな可能性があったこと、とりわけ投薬に膨大な費用が支出されたことなどを指摘した。しかし、以上は経済的に特殊な事例であり、当時の民衆一般の様相を示すものではない。

近世中後期になると、医療を自らの生業として主体的に担う者が増え、その身分や存在形態、活動内容について公儀による掌握の必要性が認識され始めた。第二部では、藩レベルを単位とする彼らの実態を分析した。

第三章では、前章に続いて、彦根藩の事例を検討した。これまでほとんど未紹介だった「河村文庫」(滋賀医科大学附属図書館蔵)の史料群を使用し、藩がとりくんだ藩医の組織化と、在村医を含む医療統制の手法を明らかにした。同藩では、寛政期に藩医子弟の教育を目的とした医学寮が設立される。この医学寮の運営を軸として、医療政策は成立した。医学寮の教育機能は、天保期以降徐々に低調となるが、組織の枠組み自体は存続し、藩医の役務と行動に指針を与え、また、藩全体の医療環境を強く規定したと考えられる。

第四章では、近世後期から幕末の福井藩を事例に、藩レベルにおける医療の管理・統制と教育政策の社会的背景を解明した。同藩でも、文化期に医学所が創設され、藩医・子弟に対する専門の教育機構が実現した。また、藩医上層を中心に、蘭方医学の修得に熱心な者も多く、京・江戸との学問交流を踏まえて薬品会・観臓など独自の活動もおこなわれた。このような取り組みには、藩・藩主も、積極的な関与をみせていた。医学所は、藩全体の方針に沿って、安政四年、大きな制度改革を実施した。ここであらたに採用されたカリキュラムや進級システムは、藩医たちの知識・技術を向上させる目的のみならず、実際に彼らがおこなう医療の、藩による統括を視野に入れたものであった。さらに、同藩の実態に即せば、従来、研究史で理解されてきたような「漢―蘭」対立の構図は当てはまらず、むしろ両者は、医師たちの意識下で、論理的に矛盾なく「折衷」し得る性格をもっていたことを指摘した。

第五章では、福井藩・府中の藩医・皆川氏の日記史料を用いて、府中藩医の公的な役務、藩医に対する統制の状況を明らかにした。また、藩医という生業それ自体、ある一定レベルの治療技術修得を担保として、師弟関係や藩医中の集団的な意志のもとに成立する性格のものであったことを論証した。さらに、城下町で活動した町医の動向を踏まえ、藩全体を対象とした医療政策・制度の検討をおこなった。町医もまた、年番制度の形で組織化を達成したが、彼らが存立するためには、藩医中の介在が不可欠の条件となっていた。このことは、町医の身分、彼らの活動自体が、藩医の間接的な管理・統制で担保されたこと、そして、藩はそのような仕組みを巧みに使い、城下町にみられる医療の内実を把握したことを示すのである。

第六章では、伊勢崎藩医・栗原氏にかかる史料群を素材とし、藩医としての役と行動の特質について検討した。同藩は、地理的・財政的に小規模なため、各村を活動の拠点とする医師たちとのあいだに「御出入」関係を結び、藩領域外を含め、地域社会全体の医療を担当させた。その様相は、在村医のそれとも近似して、きわめて曖昧な内容を含んでいた。具体的には、藩医の役としての「療治書上」「容体書」のもつ意義や、家経営の状況にもふれ、地域社会の文化主体としても包括的な医療環境の整備を期待された藩医が、どのように自らの役を遂行したか、詳しく分析した。

以上のように、公儀=藩による医療の管理・統制は、仕官する医師たちの身分的な掌握を基礎として実現した。だが、近世の医師たちは各々、強固な師弟関係を結び、何らかの形で、医の学統とのあいだに接点を有するのが一般的なすがたであった。この独特の人的紐帯、文化構造も同時に、近世の医療環境を規定した要因のひとつである。第三部では、医の知識・技術がどのように全国諸藩へ普及したか、との問題意識に即し、立論を試みた。

第七章では、「京学」という、当時の医師たちに特徴的であった意識・行動の実態と歴史的な意義について検討した。冒頭で、大槻玄沢による言説をもとに「京学」に関する理解を確かめ、彼が提示する課題の内容を整理した。続いて府中藩医・彦根藩佐野領の医家を事例として、彼らの就学履歴や修業中の生活状況をうかがった。修業行為は、当事者の学問研鑚を主たる目的とはするが、同時に、都市と地方を連携し、文化の普及・浸透にも大きく寄与した。内容・達成度・成果などの面で、当地の社会構造の影響を受けるものの、基本的に、医師自らの意思と、彼の所属する学統の論理がその様相を決定づけた。近世における医療を実質的に規定するのは、すなわち、当該期の社会構造に根ざした学統のありようなのである。

続く第八章では、近世後期の江戸で、独自の展開を遂げた医療環境の実態をとりあげた。同地における医療の状況については、各地から江戸に集まる医師、とくに藩医レベルの果たした役割が大きい。そこで、彼ら藩医の動向を中心に藩邸社会との連関性を主眼としつつ、生業の内容や分布、身分のあり方などを明らかにした。そして、江戸を拠点とする多様な学統の存在を介して、藩医がどのように学問上の関係を構築したか、都市に展開した医療を各地に伝播する手法についても考察した。

江戸の医療環境を主体的に形成したのは、藩医、そしてそれとほぼ同規模の町医であったが、さらに医療に類似する行為・売薬などを生業とする周縁的な存在も、無視できない位置を占めている。彼らは医療を「商品」化し、広範な民衆への普及を達成した。第九章は、叙上の認識に立ち、都市社会に現出した医療環境の全体像を明らかにした。そのさい、繁華な空間=広場・広小路での諸状況に注目した。これまで、都市に活躍した周縁的な医師・医療に関しては、考証随筆類の分析に依拠した断片的な事例紹介こそみられるが、その全体像は依然、論じられていない。本章では、とくに引札・名所図会などの画像史料も駆使し、多面的な視角からの立論を試みた。

近世社会において、医療を担う者たちは、自らの意思で形成する学統関係を基礎に、それが保障する正統性を担保として生業を成立させた。一方、公儀は医療環境に関する管理・統制の枠組みを形成するが、その内実にも学統のもつ性格に多くを依拠した部分があった。以上、本稿では、医療という文化事象を理解するさいには、当該期における社会構造の特質を踏まえることこそが重要との認識に立脚して、具体的な事例の分析につとめた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本近世社会における医療の具体相を、多様な医師存在と被治療者を中心に解明し、それぞれが置かれた社会的状況(医療環境)の歴史的特質について考察するものである。冒頭の「問題の所在」で研究史の批判と、本論文の課題を詳細に述べたあと、本論を3部・9章から構成し、さいごに全体のまとめを付している。

第一部「地域社会の構造と医療」は二つの章からなり、地域社会に発現する医療環境の実態とその社会的基盤を分析する。1章では、刈谷・畿内在郷町・大坂を例に、流行病対策と医療の実態をみる。2章では、彦根藩領惣庄屋の日記を素材に被治療者の眼から地域医療の性格を検討する。

第二部「藩政レベルにおける医療の拡充」は、四つの章から構成され、藩医の実態を制度・組織・身分の諸局面から明らかにする。3章は、彦根藩医学寮を例に領内医師の統制の様相を、また4章では、福井藩医学所における教育・進級システムを分析する。次の5章では、福井府中藩における藩医の身分・職分、および城下の町医との関係構造をみ、さらに6章では、伊勢崎藩を事例として、藩医の役務と地域への医療活動を具体的に検討する。

第三部「19世紀における都市的医療の展開」においては、江戸や京都という都市社会における医療環境の状況を探る。まず7章で、「京学」の問題を軸に、京都と在地社会を媒介する学問の浸透・普及の様相をみる。つぎの8章では、文政期の医師名鑑を詳細に分析し、江戸の医療環境において、全国から江戸へ集まる藩医らの役割と比重の高さ、人的ネットワーク形成の特質などを解明する。そして9章において、画像史料をも用いながら、江戸の売薬と、周縁的な医療の有りようを考察する。

さいごの「まとめ」では、以上をふまえて、地域社会に発現する医療環境の特徴や、近世医療の制度形成、さらには医の学統や医師身分の特質について総括し、残された課題を提示する。

本論文は、近年の身分論、地域社会論などの成果を取り込み、これまで学史・制度史や在村医研究に偏ってきた医史研究の状況を、医療環境論という視角を提示しながら、一挙に打破しようとする意欲的なものである。とくに、彦根・福井・府中・伊勢崎などの諸藩関係や、江戸・大坂など、各地の医療・医学・医師関係史料を博捜し、多数の新たな知見をもたらした点は特筆される。また藩医や医学所を軸として、医師の身分や職分について論じた点は独創的な業績として評価することができ、近世社会論全般にも大きな刺激を与える質を持っている。

本論文は、一部にやや性急な論旨の展開や、饒舌な文体など、改善すべき点もみられるが、本委員会は、上記のような顕著な成果に鑑みて、本論文が博士(文学)に十分値するものであるとの結論を得た。

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