学位論文要旨



No 120794
著者(漢字) 志賀,美和子
著者(英字)
著者(カナ) シガ,ミワコ
標題(和) 南インドにおける労働運動の研究 民族主義・共産主義・非バラモン主義との関係を中心に
標題(洋)
報告番号 120794
報告番号 甲20794
学位授与日 2005.11.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第508号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 水島,司
 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 中里,成章
 東京外国語大学 教授 粟屋,利江
 千葉大学 教授 柳澤,悠
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、1920年代から30年代の南インドにおける労働運動を、民族主義勢力(会議派)、共産主義勢力、非バラモン主義勢力との関係性の中で把握することにより、インド近代史をエリートと大衆の相関関係という観点から再構築することを目的としている。

従来のインド近代史研究は、エリートと大衆という範疇を相互排他的で不変的なものと捉え、各々が独自の行動原理に従って別個の運動を展開したと解釈する傾向が認められる。しかし、当該時期の労働運動を見ると、労働者はエリート(政治運動の指導者)との関係性の中でアイデンティティや行動様式を変化させ、逆にエリートも労働者の支持を獲得するために、変わり続ける労働者の要求に合致するような政策を不断に練り直している。特に南インドの場合、会議派は共産主義と非バラモン勢力が連携して労働者に支持基盤を拡充していることに危機感を募らせ、劇的な政策変換を断行している。したがって、労働者は、政治の表舞台に立つことはないものの独立運動の方向性を決する重要なアクターであったと考えられる。そこで本稿は、先行研究では光が当てられてこなかった南インドにおける共産主義活動と非バラモン運動との関係に注目し、労働運動との相関関係を考察した。そしてその結果生じた労働者の行動様式の変化が、民族運動を推進する会議派の政策に与えた影響を分析した。解明された内容は以下の通りである。

民族運動は、ガンディーの登場を機に、大衆が参加する運動へと変貌する。彼が主導した大衆的民族運動の目標は、あらゆる宗派や階級が参加することを通じて「インド民族」を創出することであった。しかし、「全コミュニティの融和」を重視するあまりに、階級対立の発生を恐れて労働運動の急進化を抑止し、労働者の不満を助長した。

共産主義は、労働者の漠然たる不満の根本原因を論理的に説明し、不満を解決する実践方法を教えて労働者の自立を促進した。ただしインドの共産主義活動は離合集散の歴史を辿った。様々な場面で浮上した対立の争点を、労働者との関係を切り口に整理すれば、理論追求路線(社会主義革命・ブルジョワ民族主義組織に対する闘争重視)と現実路線(民族独立・ブルジョワ民族主義組織との連携・合法的労働運動重視)という2つの路線の対立にまとめることが出来る。初期には前者が主流を占めたものの、植民地政府による弾圧を受け、理論追求路線では組織基盤を強化できないという反省が生まれ、次第に労働運動や農民運動を通じて支持基盤を獲得していくという地道な戦略が好まれるようになった。コミンテルン第六回大会で示された「極左」路線は、理論追求派と現実路線推進派の分裂を引き起こしたものの、コミンテルンに従った「正統派」も、現実路線を貫く「ローイ派」が着々と労働者へ影響力を強めていくのを見て戦略を見直した。そこで「正統派」は理論と実践を切り離し、コミンテルンの「極左」路線を党理念として掲げる一方で、実践面すなわち具体的活動方針については労働者と直接接する州組織に決定権を付与した。こうして、相互に対立していた各グループは最終的に現実路線に収斂し、労働者間への影響力を強めていった。

一方南インドでは、M・シンガーラヴェールが、「正統派」からも「ローイ派」からも独立して現実路線を貫き労働者間に共産主義を広めていた。非バラモン運動の一潮流である自尊運動は、シンガーラヴェールの影響を受けて共産主義に傾倒した。非バラモン運動とは、南インドで政治社会的に圧倒的優位を誇っていたバラモンに対して、非バラモン諸カーストが団結して対抗することを目指した運動で、正義党率いる初期の運動と、1926年にE・V・ラーマスワーミが開始した自尊運動の2つの潮流がある。非バラモン運動は、バラモンに対抗するにあたり、「非バラモン」という誇りをもってカーストの枠を越えて団結しようとする。バラモン=侵略者アーリヤ民族、非バラモン=南インド原住民ドラヴィダ民族と主張し、「カースト制度は統治のために作り出されたシステムで、侵略者に抵抗した者ほど下位カーストに位置付けられた」という理論を構築し、労働者の大半を占める下層カーストに自尊心を与えた。

非バラモンの中でも特に下層カーストの地位向上を目指した自尊運動は、労働者の間に浸透していた共産主義に傾倒した。共産主義的自尊運動は、共産主義を前面に押し出さずオブラートに包んで提示した。それは、植民地政府の目を逃れるための戦略であった。この戦略が効を奏して、南インドでは共産主義は労働者に限らず一般大衆の間にも広まり普遍化していった。

共産主義的自尊運動は、会議派の中でも「保守派」とされるマドラス州会議派指導者ラージャージーに危機感を抱かせた。彼は、ガンディーと同様に「インド民族」の創出を理想に掲げていたため、共産主義的自尊運動の思想も活動も看過することはできなかった。1935年新インド統治法の成立によって、州自治が実現したことを機に、彼は「非協力」方針から一転して州政権を樹立し、行政手段・立法手段を駆使して共産主義的自尊運動が生み出したカースト対立・民族対立・階級対立の危機に対処しようとした。その政策の核となったのが労働運動政策である。

インドにおける労働運動は、指導者が労働者の支持を得るため関係を緊密にしようとする過程と労働者が自立化する過程が同時進行する形で展開された。

第一次高揚期(1918−22年)は、民族運動指導者が大衆を運動に参加させる必要性を認め労働者に注目したが、彼等を動員する必要性を感じても彼等の日常的な不満を知ろうとする意思には欠けていた。集会でも一方的に演説し他業種や他地域の労働条件などに関する情報を与えるにとどまった。一方、労働者は、指導者からの情報提供により、自分の立場を相対的に認識し不満の原因を論理的に理解するようになった。ただし、まだ経営と直接交渉する能力はなく代理人を必要としたため、ストライキを起こすことによって指導者の注意を喚起しようとした。つまり、この時期のストライキは、代理人を呼ぶための「注意喚起ストライキ」であって、交渉手段ではなかった。なお、労働者は、交渉代理人として政府の介入を希望する傾向があった。政府は「中立的で公正な仲介人」と認識されており、「労使対立への介入は政府の義務」とする意見さえ見られた。

第二高揚期(1927−1933年)には、共産主義活動の影響で、労働者と指導者の関係に変化が生じた。まず指導者は、日頃から労働者に接し労働者の不満を把握し解決しようとする姿勢を示し始めた。また世論が労使交渉に与える影響力に気付いて、世論を味方につけるために新聞に自ら投稿し労働者の要求の正当性を訴えた。一方、労働者の行動には、自立的かつ戦略的に行動する事例が増えてくる。まず、スト中に開催された集会で労働者自身が演壇に立つ経験を積み、不特定多数の人間の前で声を出すという「発話能力」を体得した。これが原動力となり、労働者は指導者に頼らず経営と直接対峙しようとする意思を持つようになった。この頃から「労働者リーダー(労働者を代弁する現役労働者)」が台頭して組合の中で一定の地位を築き、指導者の独断専行に制限を加えるようになった。

第三高揚期(1937−1939年)では、様々な政治勢力が組合を設立して労働者の支持を獲得しようと鎬を削った。特に南インドでは、共産主義的自尊運動と会議派が熾烈な競争を繰り広げた。労働者は、複数の組合から接触を受けて指導者選択の幅が広がったため、一層指導者からの自立傾向を強めた。また、体得した「発話能力」をもって、指導者に頼らず自ら経営側に要求を伝える「交渉能力」を発揮するようになった。ストライキは、もはや「注意喚起ストライキ」ではなく交渉手段となり、また労働者の「自己表現の場」としても機能するようになる。労働者はスト中に様々な手段で不満を訴えた。集会を主催して演説するのみならず、デモ行進を頻繁に組織し、シンボルマークや旗を掲げ、スローガンを叫びプラカードを掲げて要求を示した。これらの表現手段は、経営のみならず広く世間一般を対象にしていた。公の場(市内の目抜き通りや広場)で自分達の要求を披瀝して世論を味方につけ、労使交渉を有利に運ぼうとしたのである。一方、労働者リーダーは、指導者あるいは政党と一般労働者を繋ぐ中間的存在へと変質した。1935年新インド統治法で労働者特別議席が設けられたことにより、労働者リーダーの中から州議会議員が誕生した。このような労働者リーダーは、議会では労働者の代弁者として、地元では所属政党の政策を体現するものとして機能した。また政策に労働者の要求が反映されるよう働きかけることにより労働者の支持を政党に繋ぎとめる役割を果たすようになった。こうして、労働者、労働者リーダー、指導者(政治家)、政党(州組織)の各間にフィードバック作用が機能するようになったのである。

労働運動の激化と共産主義的自尊運動の伸張に対応するために、ラージャージー率いるマドラス州会議派は、党の性格を劇的に変化させた。すなわち、自ら会議派を「左」化させたのである。会議派内部に社会党が結成されるのを認め、さらに著名な共産主義者を2名閣僚に登用した。労使対立への積極介入と「非暴力」主義という基本方針からなる同政権の労働政策は、このような変化を体現するものであった。まず政府は、積極的に労使対立に介入し「公正な仲介者」を演出することによって労働者の期待に応えようとした。次に、争議の過激化を抑えるために、同政権は、労働者ではなく経営側に厳しい態度で臨んだ。刑事訴訟法第144条(階級間対立を煽り暴力を誘発する行為の禁止)を経営側に適用し、「非暴力」主義を掲げて、労働者の不満を徒に煽り暴力行為を引き起こしかねない経営側の頑迷な態度を改善するよう迫ったのである。刑事訴訟法第144条は、イギリス人経営者のみならず、インド人経営者に対しても容赦なく適用された。このことは、会議派が公正な立場にたって労働問題に取り組み、労働者を擁護する政策を打ち出したという印象を、労働者に与えた。

このように、マドラス州会議派は、労働者の要望に応えるために、そして労働者が抱く会議派イメージを守るために、中央でガンディーが推進する「全コミュニティ融和」政策と一線を画し、抑圧された大衆のための政党へと変貌を遂げた。つまり、「融和」の名のもとに大衆のエネルギーを抑止してきた会議派は、州レベルでは、大衆政党としてインド人資本家をも含む富裕層を抑止する明確な姿勢を打ち出したのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1920〜30年代の南インドにおける労働運動を、会議派、共産主義、非バラモン主義の運動の中で捉え、そこでのエリートとサバルタンの相互関係を解明することを目的としている。

第1部では、南インドの労働運動の展開の背景として、民族運動期に開始された非バラモン運動により「非バラモン」という範疇が創出され、下層カーストに「ドラヴィダ文化」の担い手としての自尊心を与えたことの重要性がまず指摘される。同時期に、労働運動が胎動し始めたが、その契機は、民族運動や非バラモン運動の指導者が、大衆動員の必要性から労働者と接触し始めたことである。しかし、この段階では、労働者はまだ交渉の主体には成長し得ず、指導者の注目をひく「注意喚起ストライキ」を起こす程度であった。第2部では、こうした状況が、共産主義の浸透によって変化する過程を論ずる。そこでは、労働運動への共産主義の浸透は、コミンテルンから自立的なグループの役割が大きかったこと、南インドにおいては、非バラモン運動の一潮流である自尊運動が、弾圧を回避するために、合法の範囲内で共産主義を宣伝する戦術をとったことが功を奏し、共産主義が広範に受容される結果を生んだこと、また、共産主義活動に刺激され、会議派も労働者との接触を恒常化させ、労働者の要求が政党の政策に反映されるようになったことなどが論じられる。本論文で最も重要な貢献は、こうした状況下で、労働者が、ストライキ経験を積み重ねて発話能力を獲得し、経営側との直接対話や、労働者リーダーが誕生してよそ者の独断専行を牽制したりする幾つもの事例が示されている点である。このような労働者の自立化の動きは、エリートの対応を変化させたが、第3部では、南インドの会議派が、「労働者の味方」というイメージ創出に努めたことを明らかにしている。こうした中で、労働者は、交渉手段として、あるいは世論に訴えるための「自己表現の場としてのストライキ」を起こしていった。このような労働者の自立化と、会議派に典型的に見られるような政策の変質は、労働者と政治運動エリートとの双方向的交流の結実であるというのが、本論文の結論である。

本論文は、同時代の世界的な共産運動との連関が描けていないことや、扱われている資料の多くが政府側のものであることなど、今後の課題も残されているものの、アジアの労働運動の実態を、多くの事例によって解明しようとした貴重な研究成果であることは間違いない。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するものと判断する。

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