学位論文要旨



No 120806
著者(漢字) 鈴木,隆敏
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タカトシ
標題(和) K中間子の原子核による深束縛状態の探索
標題(洋) An Experimental Search for Deeply Bound Kaonic Nuclear States
報告番号 120806
報告番号 甲20806
学位授与日 2005.12.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4753号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永江,知文
 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 教授 本林,透
 東京大学 助教授 浜垣,秀樹
 東京大学 助教授 森松,治
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、高エネルギー加速器研究機構の陽子加速器を用いて行われた、反K中間子の原子核における深束縛状態の探索実験、KEK-PS E471実験の全容とその結果の記述に当てられる。各章の内容に言及する前に、実験結果とその解釈をまとめておく。本実験においては反K中間子の深束縛状態に関する世界で初めての探索として、超流動液体4He標的上における静止K-反応から生ずる陽子、及び中性子のエネルギー分布を飛行時間測定の方法によって得た。結果は事前の理論予測を遥かに超えており、それらは測定の詳細と共に論文中で議論される。実験結果は二つの主な部分-即ち、4He(K-stopped,p)スペクトルと4He(K-stopped,n)スペクトルの二つの部分に分けられる。

4He(K-stopped,p)スペクトルにおいては、非常に有為で狭いピーク構造が観測され、議論の結果、電荷0、ストレンジネス-1,アイソスピン1、バリオン数3、質量約3117 MeV/c2を持つ、既知の如何なるハドロンあるいはクォーク状態(ハイパー核、メソン原子、ハドロン原子、等々)の範疇にも分類されない奇妙な新状態-S0(3115)状態-の、二体反応

による形成と判断された。

一方、実験の本来の目的である4He(Kstopped,n)スペクトルにおいては、少なくとも一つの狭いピーク構造の示唆が得られた。最も有為なピーク的構造は、電荷+1、ストレンジネス-1、バリオン数3、質量約3140 MeV/c2を持つ、新状態S+(3140)の、二体反応

による形成と判断されたが、この新状態のアイソスピンは0又は1で、この測定のみでは確定するのは困難であり、また、その25 MeV/c2の質量差から陽子側で発見されたS0(3115)(T=1)状態のアイソバリックアナログ状態とは考えにくい。一方、観測されるべきS0(3115)(T=1)状態のアイソバリックアナログ状態S+(3115)(T=1)の中性子スペクトル上での示唆は弱いが、検出効率と生成率を考慮に入れた議論の結果、本実験の全統計を持ってしても、有為なカウント数は得られないことが説明可能であり、S0(3115)(T=1)状態の大きな統計的有意性での観測とは矛盾しない。これらの新状態、S0(3115)とS+(3140)が赤石一山崎の予言した反K中間子の原子核における深束縛状態に対応するのか否かは現在の所不明である。

引き続き、各章の内容について要約する。

第1章は導入部である。低エネルギーにおける強い相互作用の振る舞いは、現在の所構成子クォーク模型とクォーク間相互作用から説明することに完全には成功していない一方、ハドロンの自由度において相互作用がよく記述され、その自由度における相互作用の解明は低エネルギーQCDのより深い理解につながる。また、真空、あるいは核媒質中に於いてはカイラル対称性の自発的破れとハドロン質量の間には密接な関係があり、中間子原子、あるいは原子核の形成においては核媒質中における中間子質量の変化の観測が可能であることから、その研究により真空の構造についての情報を得ることが出来る。中間子原子核相互作用は短距離で強く働く性質を持つため、それらの平均距離の小さな系、すなわち、中間子の原子核による深い束縛状態の研究は相互作用の決定に対し感度が良く、特にπ中間子原子に対して既に幾つかの核に対し深い束縛状態(深い原子状態)の形成と観測がなされている。その他の中間子に対してもその原子核への深い束縛状態を調べることは非常に意義深いが今までのところ観測の例は存在しなかった。特に反K中間子はsクォークまで含めた意味でのカイラル対称性の自発的破れに対応する南部-Goldstoneボゾンであると解釈が出来るために、その強い相互作用による束縛状態の研究は極めて興味深い。

反K中間子が原子核に対し深い束縛状態を持ち、準安定に存在できるのではないか?という予想は1985年に既に成されている。近年、反K中間子水素原子における2p>1s遷移に伴うX線(Kα)の信頼性の高い測定結果が得られ、低エネルギー反K中間子―核子散乱とのよい一致が示された(KEK-PS E228)。その結果として、その強い相互作用が強く引力的であることが示唆され、その特異な性質から3構成子クォークによる理解が困難な共鳴状態-Λ(1405)-は反K中間子―核子の束縛状態と解釈され得ることが判明した。赤石、山崎は、A(1405)状態を全アイソスピンI=0の反K中間子核子間の準束縛状態とみなし、さらに低エネルギーKN散乱の情報を援用してそれらの2体の相互作用ポテンシャルを構成し、g行列の方法によって幾つかの軽い原子核に対して反K中間子―原子核間の有効相互作用を求め、その結果、3He、8Be等の幾つかの軽い原子核に対して1O OMeV程度の束縛エネルギーと3 OMeV程度の幅を持つ反K中間子の深い束縛状態が存在することを示した。

彼らの一連の予言において、3バリオン系であるK-ppn系に対し、特別な注意が払われ、この場合特に系の全アイソスピンT=1の場合には束縛は浅く幅が広い一方でT=0の場合に深い束縛と狭い幅を与え、

の反応により、静止Kあたり約2%の割合で生成されることが示された。

その予言に基づき、4Heにおける静止K-反応から生ずる中性子の飛行時間測定を、状態の強崩壊

又は引き続いて起こるハイパロンの弱崩壊Y->Nπから生ずる二次の荷電粒子の同時計測条件の下で行い、そのエネルギー分布を得る目的でKEK E471実験が計画された。中性子と全く同様に飛行時間測定される陽子スペクトル上にはアイソスピン1の状態のみが現れ得るが、束縛が浅く、幅の非常に広い状態K-ppnT=1のアイソバリックアナログ状態を除いては何らかの状態の出現の予言は存在せず、従って陽子スペクトル上における幅の狭いピーク構造の出現は期待されてはいなかった。

第2章は実験施設、装置、及びトリガー条件とデータ取得系の記述に当てられる。実験はKEK陽子シンクロトロンのK5ビームラインにおいて行われた。K5に於いて我々は660MeV/cのK-を引き出し、減速して、15cm厚の超流動液体4He標的中に静止させ、入射K、二次荷電粒子、及び陽子または中性子の同時計測を行った。実験においては、トリガー条件として、中性子-陽子検出器系においての粒子検出と二次荷電粒子検出器系における粒子検出が要求されているため、得られる中性子及び陽子のエネルギースペクトルはinclusiveなものでは無い。

第3章において各実験装置のデータの準備的な解析を記述する。実験装置は主に入射K-の同定及び軌道決定を目的とするビームライン検出器系と、二次荷電粒子の同定及び軌道決定を目的とする二次荷電粒子検出器系、及び中性子、陽子の検出を行う中性子検出器系に分類されるが、それらにおける軌道決定の手順、粒子識別、飛行時間-飛行距離決定等を順を追って議論する。semi-inclusiveなエネルギースペクトルの構成には必ずしも必須では無いが、ピーク構造の起源、あるいは状態の崩壊モードの議論に関連して重要な役割を果たす二次荷電粒子のPIDと運動量の決定、及び入射K-軌道と二次荷電粒子軌道の間の「ずれ」ベクトルの検出核子の運動方向への射影(Vca VN)に関する議論が本章の最後に展開される。

第4章においては、4He(K-stopped,p)スペクトル及びそれに関連した議論を行う。第1章に於ける議論により、我々は4He(K-stopped,p)スペクトル上に不連続なピーク構造が現れることを全く予想していなかった。しかしながら、予想を裏切る形で非常に有為なピーク構造が陽子運動量500 MeV/c付近に現れた。その付近にピーク構造を作る可能性としては〓ハイパー核の二体崩壊〓が考えられるが、その可能性は二次荷電粒子の運動量、及びVca VPによる事象選択の結果等の考察により結局排除され、ピーク構造はストレンジネス-1、バリオン数3、電荷0、アイソスピン1、質量約3117MeV/c2を持つ、今までに観測例の無い新状態、ストレンジトライバリオンS0(3115)の形成に割り当てられた。ピークの統計的有為性はバックグラウンドの不定性から8〜12σと考えられ、ピークの存在そのものには疑いが無い。二次荷電粒子による事象選択を用いて崩壊モード、生成率の議論を行い、結果主な崩壊モードはΣNNであることと生成率は1%を大きくは超えないことが理解される。

第5章においては、4He(K-stopped,n)スペクトル及びそれに関連した議論が成される。中性子測定においては、semi-inclusive なスペクトルには顕著なピーク構造は見られなかったため、我々はΣ→Nπ起源のπとΛ->pπ-起源のπを選別し、そのおのおのと同時計測のなされた中性子のスペクトルを調べた結果、前者にのみ中性子運動量465 MeV/c付近にピーク構造の示唆を得た。このピーク構造をVca Vnによる選択を用いて調べ、結果としてこのピーク構造は質量約3140 MeV/c2、電荷+1を持つ別種のストレンジトライバリオンS+(3115)の形成に割り当てられた。状態の統計的有為性は、アイソバリックアナログ状態S+(3115)の位置と幅をS0(3115)と同様と仮定した上で3.7σである。この状態の質量は本来の赤石-山崎によるK-ppnT=0の予言値よりも50MeV 以上小さく、状態のアイソスピンも不定であるために、K-ppnT=0と見なすことは直ちには出来ない。その発見の過程から明らかなように、主な崩壊モードはΣNNであるが、生成率の正確な評価は困難である。S+(3115)に関する統計的有意性は小さいが、S0(3115)の大きな計数とは、生成率と検出効率の観点からは矛盾しない。

第6章においては、実験結果の要約及び観測された二つのストレンジトライバリオン状態に関する可能な解釈に関する議論が展開され、第7章において論文の結論を述べる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる。第1章はイントロダクションであり、本研究の背景になっているK中間子と核子及び原子核との相互作用についてのこれまでの知見についてまとめられた後、K中間子原子核の深い束縛状態の存在の可能性と、これを静止K中間子吸収反応により探索する測定原理について述べられている。また、予想されるバックグラウンド過程についても、過去の実験データに基づいて深い考察がなされている。本論文の実験の特徴は、K中間子原子核の探索を静止K中間子吸収反応から放出される核子のエネルギー測定により行うという新しいアイディアにある。第2章では、高エネルギー加速器研究機構の陽子加速器実験施設における実験について、負K中間子ビームライン、液体ヘリウム標的、測定器系、トリガー及びデータ取得系について説明されている。第3章では、本論文のデータ解析の主要部分となる各検出器系の解析手法が詳細に記載されている。特に、静止K中間子吸収反応によって放出される陽子/中性子の測定方法とその較正手法について記述されている。また、これらの陽子/中性子と同時計測される荷電粒子検出用の検出器系について説明されている。

第4章では、本論文の主要な実験結果となるヘリウム4原子核による静止K中間子吸収反応によって放出される陽子の運動量分布が示され、その分布にシャープなピーク構造を発見したことが述べられている。このピークの運動量は500.6 MeV/cと非常に高い運動量領域にある。この運動量領域に陽子が放出される反応過程は限られており、K中間子の二核子による吸収反応が主要な過程であると予想されるが、この過程は広い運動量領域に陽子を分布させると考えられている。また、この陽子のピーク構造は、これと約90度方向にπ中間子が同時計測される場合に顕著であり、同方向に陽子が放出される場合にはほとんど観測されないことが調べられている。さらに、同時計測されたπ中間子のエネルギーに条件をつけても、陽子ピークの強度にはあまり変化がないということも調べられている。π中間子の放出点とK中間子の吸収反応点との距離との相関においては、π中間子が反応点より離れた点から放出されていることを示唆しており、長寿命のハイペロン粒子からπ中間子が放出されていることを強く示唆している。このように新しい陽子ピークの発見に対し、その観測される条件について、綿密なデータ解析が進められている。以上のような観測事実より、観測された陽子スペクトルのピークは、4He(K-stopped,p)S0反応による陽子に起因しているという解釈が最も有力であることが議論されている。ここで、S0は、バリオン数3、ストレンジネス-1の状態でストレンジトライバリオンと呼ばれるものである。これ以外のいくつかの解釈では観測された実験事実を全て説明することはできない。この解釈に基づくと、生成されたストレンジトライバリオンS0は、質量3117.7+4.7-2.9 MeV/c2、幅の上限値21.6 MeV/c2の状態であることが判明した。これは、このような新しいハドロン束縛状態の存在を示した初めての実験成果である。第5章では、この新しく発見されたトライバリオン状態の解釈をめぐって、K中間子の深い束縛状態以外の可能性も含めて議論されている。この束縛状態がK-pnnという粒子系の束縛状態であると仮定すると、その束縛エネルギーは193.4 MeVという巨大なエネルギーとなる。これは、通常の原子核における核子の束縛エネルギーの十倍以上にもなり、理論計算では、この束縛系の核子密度は通常原子核密度の十倍近くにまでなっていると予想されている。もし、これが実証されれば、高密度の原子核物理という新しい研究分野の開拓へと繋がる重要な成果となるであろう。また、一方、この解釈では、束縛状態のアイソスピンが1であることを要求する。その場合、アイソスピン多重項として他の束縛状態の存在が予想され、その存在の確認が待たれる。最後の第6章では、結論がまとめられている。

なお、本論文は、高エネルギー加速器研究機構の陽子加速器施設を使った共同利用実験E471での共同研究に基づくものであるが、論文提出者は、その実験装置全体の製作及び組み立て段階から参加し、本論文で行われたデータ解析についても主体となって行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク