学位論文要旨



No 120823
著者(漢字) 岡田,大助
著者(英字)
著者(カナ) オカダ,ダイスケ
標題(和) 三願転入と信の構造 : 超越者との関係に即して
標題(洋)
報告番号 120823
報告番号 甲20823
学位授与日 2006.01.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第509号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,覚明
 東京大学 教授 竹貝,整一
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 助教授 下田,正弘
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
内容要旨 要旨を表示する

本論考は、親鸞の思想における三願転入と信の構造的連関を、親鸞が超越者とどのように関わったのかを考察することを通して、明らかにすることを目的とするものである。親鸞の思想は一貫して、超越者との関わりを主題とするものである。その関わりをめぐる一連の流れを、三願転入の三願それぞれに即して追い、それらの関わりの内実を探りながら、三願転入と信の構造的連関の解明を試みることが本論考の大きな筋道である(序章)。

第一章では、三願転入の概要について、三願転入の文と、『浄土和讃』の解釈を通して確認する。三願転入とは、阿弥陀仏の十九願の教えから、二十願の教えに移り入り、さらに、十八願の教えへと転じ入ることである。ここでは、それぞれの願の内容と、十九、二十願の往生へのつまずきの原因、および、それらとの対照で浮かび上がる十八願が往生できる原因を、概略として示す。

第二章では、十九願の教えにしたがう人々と、超越者との関係について考察する。十九願の教えにしたがう人々は、行としては、多種多様な善を修めて、また心については、自らの力で菩提心を発し、真実の心で願を発して、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願って、阿弥陀仏と出会おうとする。多種多様な善とは、主に、視覚的な仏と〈見て〉出会おうとするものである。しかし、その試みは、大きく二つの流れから、つまずきに帰結する。第一に、視覚的な善は、浄土で見る対象のように、巨大であったり、細微であったりと、一瞬で見極めることができないようなものである場合、段階的な差別、更には遅滞をもたらし、完全にそれを見極めることはつまずきに帰する。第二に、視覚的な善は、人々に感覚的な快楽をもたらすが、人々は、そこで快楽に執着し、自利に閉じてしまい、三宝、利他から隔てられてしまう。では、そのように十九願の教えにしたがう人々が、阿弥陀仏と出会うことができない原因とは何か。それは、心が自力だからである。すなわち、自力の善は、自らの善をなす力を信じることになり、結果として、阿弥陀仏の智慧を疑い隔てることになるからである。また、行や心が雑、すなわち兼ね修めるものだからである。すなわち、心が一つに定まらないままに、ある程度の善がもたらす快楽に執着し、不完全な所に安住してしまい、その結果、真実の浄土に往生し、阿弥陀仏と出会うことは、つまずきに帰することになる。

第三章では、二十願の教えにしたがう人々と超越者との関係について考察する。二十願の教えにしたがう人々は、行としては、名号を唯一の行として称えて、心としては、思いを阿弥陀仏の浄土にかけて、自ら称える名号を善として、心から差し向けて、その報いによって、阿弥陀仏の浄土に生まれようとする。しかし、そのような心で名号を称える場合、その善を修める自らの力を、自らの根拠とすることになり、仏の智恵を疑い隔てることに帰結してしまう。また、自らの善の報いが楽をもたらす循環に閉じてしまい、自利利他を伴う仏の真実とは隔たりが生じてしまう。ゆえに、出会いはつまずきに帰する。また、二十願で勧められる専一な称名念仏は、それしかしないという専一な行いである。またそれは、修めた善の量の多少や時間の長短を問題としないもの、さらにいえば、わずか一瞬でよい行いであり、平等な行いである。また、このような行いは、阿弥陀仏が選んだ行いである。そして平等かつ仏の選んだ行であるがゆえに、極楽の一味平等なる様相とも連続するものである。よって、多種多様なるがゆえに差別性をもたらし、平等な浄土と隔たりが生じてしまう十九願の善と比べて、その優位が確定し、二十願に移りゆくことが勧められる。しかし、二十願の善も、結局のところ、つまずきに帰結する。なぜか。それは、五濁の時代の煩悩のさかんな衆生は、そのような善を行おうとしても、強い好い縁に出会わない限り、信じることが難しく、容易に転変させられてしまうからである。また、それは、行は専らであっても、心が雑心であるからである。雑心とは、助業と正業とを兼ね修める心のことであり、二十願の教えにしたがう人々の一部は、その雑心の称名念仏によって往生しようとする。しかし、雑心の念仏は、業は一つに定まり、一瞬の速やかな業であっても、心が兼ね修める心、ようやく進む遅い心であるので、一瞬に一つに定まる十八願の真実の心と比べると、いまだ隔たりがある。

第四、第五章では、十八願の教えにしたがう人々と、超越者との関係について考察する。十八願の教えにしたがう人々は、他力の信心すなわち十八願の三信によって、阿弥陀仏との出会いが成就する。その三信の内実は、まず至心とは、阿弥陀仏の真実心、すなわち、阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩の時修めたあらゆる善根が、名号として、衆生に施されたものである。次に、信楽とは、名号を聞いて信じることである。また、信楽とは、第一に、阿弥陀仏が衆生に施した真実の信心であり、第二に、衆生が阿弥陀仏の誓願の始まりから終わりまでを聞いて疑う心がないことである。また、信楽の楽とは歓喜といわれる。歓喜とは、阿弥陀仏の歓喜させるはたらきを、衆生が歓喜愛楽するもので、何を歓喜するのかといえば、阿弥陀仏の名号、所有の善根回向、一念の浄信を、歓喜するものである。また、その歓喜とは、誓願の通りに往生が確定しやがて浄土に生まれることに対して、身も心も喜ぶことである。そして、その喜びは、欲を満たすような人々の心と連続する性質のものではなく、他なるものとしての真実そのものに属する喜びである。また、信楽には一念がある。一念とは、名号を称え聞く極めて短い一瞬に阿弥陀仏が開き発した信楽を衆生がそれを聞き受け入れるもので、その信心を獲たことに、思いはかることを超えた広大な慶びを伴う。また、その一念は、兼ね修める心なく、一つに定まった心を獲ることである。次に、欲生我国とは、阿弥陀仏の命にしたがい、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願うことである。また、その三信を獲た結果えられるものは、それら信心を獲る一瞬、死後のことではなく、時と日を隔てないその時に、正定聚に定まり、往生が確定することである(第四章)。次に、その三信の内、信楽について、阿弥陀仏が施す心としての側面と、それを衆生が獲るという側面、換言すれば、衆生の側からの捉え返しについて、信楽釈と至誠心・深心釈から詳しく見てゆく。まず、前者について、信楽釈によれば、阿弥陀仏が施す信心、信楽とは、仏の、完全な慈悲の心であり、煩悩に覆われることのない心である。それは、衆生がはるかな昔より、煩悩に汚され、真実の善ができず、仏の真実とは断絶してきたことを見て、阿弥陀仏因位の法蔵菩薩が、それら衆生の苦しみを抜き楽しみを与えてやりたいと思い、全く煩悩に覆われることなくあらゆる善を修め、それを衆生に施したものであり、利他真実の信心といわれる。次に、後者について、至誠心・深心釈によれば、第一に、衆生の姿について、自らが、はるかな昔より今まで、煩悩によって苦しみながらも、真実の善ができず、浄土とは断絶していると、深く信じるべきであるという(第一深信)。第二に、阿弥陀仏の誓願について、それが、衆生を摂め取ることに、疑いがなくなり、必ず往生できると深く信じるべきであるという(第二深信)。そして、二つの深信の関係は、自らの力では善ができないことを知り、その善によって往生しようとすることをやめて、代わりに、唯一のものとして、阿弥陀仏の心を受け入れるというものである。この両者は、自力の善をつきつめた先に、真実との断絶を知り、そこにおいて、自力の心を捨てて、他力の心を受け入れるという三願転入と相即するものである(第五章)。

終章では、三願転入のはざまについての試論を提示する。二十願の結びの私釈は、信楽釈の機に関する記述、および二種深信中第一深信と、表現、内容において呼応している。このことから、十八願転入の後も、二十願の雑心や自力の心が、その十八願の信心の内部構造の中に位置づくことになり、十八願転入後も、二十願の心が、親鸞にとって今の私の問題としてあったことが知られる。また、三願転入の文には、一度は二十願を離れ、十八願に転入してしまった後にも、十八願へ転入しようとし続けることが表現されている。これらのことから、十八願転入後も、二十願の心は単純に無くなっているのではなく、その心を離れてしまっておりながら、かつまた、そこから離れようとし続けていることが示されている。続けて、以上の点を別の視点から捉え返すために、自力の心と疑心の連続性に注目し、疑心について考察する。そこから明かになることは、十八願転入後も、衆生に即して見れば、煩悩から離れられない以上、そこから派生する自力・疑心は無くならない。しかし、衆生は、阿弥陀仏の誓願と出会い、自らをそのような煩悩・自力・疑心から離れられないものと深く信じることにおいて、阿弥陀仏の誓願をその通りに疑いなく受け入れ、名号に内在する阿弥陀仏の疑心なき心を獲るならば、その心を用いているその限りにおいて、疑心・自力の心は無くなっているということになる。その他、以上の説を検証するために、自力を「離る」の用例、自力を「捨つ」の用例が検討される。また、そこから派生して問題となる廻心の一回性の位置づけが試みられる。また、三願転入のはざまの時間について、「今」をつねなる現在として捉える。最後に、今後の課題として、三一問答、難化の三機等、本論考では論じることのできなかったいくつかの問題を提示する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、親鸞の中心思想といわれる「三願転入」の構造を、『教行信証』のテクストに即して明らかにしようとする試みである。三願転入とは、『教行信証』「化身土」巻中で親鸞が自らの宗教体験の展開を語った文言(三願転入の文)の意想をいう。すなわち、『大無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の四十八願の内、諸善を兼ね修めることを説く第十九願の立場から、称名念仏を専修する第二十願の立場に移り入り、さらに、他力信心の第十八願へと転じ入った過程の全体を、一つの思想として捉えた用語である。

三願転入については、古くからさまざまな議論がなされてきたが、その主たるものはおおよそ以下のようなものである。(1)親鸞自身の思想遍歴の中で、それぞれの回心の時期を特定しその宗教的自覚の形を明らかにしようとする議論、(2)三願転入がどのような形で親鸞思想全体の中心骨格となっているかを論じたもの、(3)三願転入の内的論理を、正像末の歴史観に照らし合わせつつ、宗教的精神の自覚構造として捉えようとするものなどである。それらに対して、本論文の特色は、三願転入の文を導き出した前提となっている多数の経典論釈の引用を精密に読み解き、引用間に内在する論理として三願転入の構造を明らかにしようとしたところにある。

論者はまず「化身土」巻中の第十九願、第二十願についての引用文を検討し、それぞれの願に従う人々にとって超越者たる阿弥陀仏がどのように望み見られ、その出会いがどのように成就した(あるいはしなかった)かを跡づけていく。その結果、十九願の説く諸善も、またそこから移り入った二十願の称名念仏も、行の主体が衆生である限り、絶対他たるところの「真実」の因とはなり得ないことが示される。十九、二十願に従う人々がつきあたらざるをえないつまずきは、行を実践し、信心を起こす衆生の主体性そのものが、真実の浄土への根本的な障碍となっていることを証していると論者は捉える。第十八願の立場への転入は、つまずきを突き詰め、真実との断絶を自覚するところに成立する。このつまずきと成就の「はざま」を、論者は、「信」巻のいわゆる至誠心釈・深心釈と 「化身土」巻中の第十九願、第二十願についての引用文との内的呼応関係を手がかりに跡づけ、衆生が疑心を離れえないこと、すなわち、自らの心を真実になしえないことこそが、他力の信心を「獲得」することと相即しているものと結論づけている。

本論文は、これまで結論的な文言に偏してなされていた三願転入をめぐる議論を、三願転入の文を導き出した前提となる引用経典に立ち返って検討し直したものであり、親鸞の経典解釈の手法についてさまざまなことが確かめられている。また、三願転入を、経典の読みを貫く論理として整合的に把握した点は高く評価出来る。その一方で、信心を与える仏という、阿弥陀仏の超越者としての特色についての論究が不十分であること、また、宗教的精神の自覚の論理として転入の内的構造を辿る議論との対質がつっこんでなされていないことなど、問題点がない訳ではない。しかしこれらは、今後の研究の深化にまつべき課題である。以上により、審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する

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