学位論文要旨



No 120824
著者(漢字) 鈴木,多聞
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タモン
標題(和) 「終戦」の政治史的研究 1943-1945
標題(洋)
報告番号 120824
報告番号 甲20824
学位授与日 2006.01.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第510号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 助教授 鈴木,淳
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 明治大学 教授 山田,朗
 横浜市立大学 準教授 古川,隆久
内容要旨 要旨を表示する

従来、日本の終戦史は次の二つの視点から語られてきたといってよい。一つは「なぜ戦争を終わらせることができたのか」という視点であり、もう一つは「なぜもっと早く終わらせることができなかったのか」という視点である。前者は、終戦工作の当事者を高く評価する立場から、後者は戦争責任を問う立場から論じられてきた。さらに、終戦史には、二つの有名な論争がある。一つは、「聖断」をめぐる論争であり、もう一つは原爆投下をめぐる論争である。前者は、天皇の決断が日本を救ったのかという点をめぐる論争であり、後者は、原爆投下により本土決戦が回避されたのかという点をめぐる論争である。

従来の研究は、無意識のうちに、昭和二〇 (一九四五)年八月一五日との因果関係を設定しているのではないか。しかしそうなった場合、結局のところ、日本が「終戦」という決められた道程を歩んでいったかのような語り方となりやすい。しかし、それでは「和平か継戦か」という分析視角に陥ることになる。たしかに、御前会議における和平派と継戦派の対立は注目に値する。だが、だからといってその枠組みがそれ以前の政治史に当てはまるとは限らないだろう。

本論文は、いわゆる「終戦史」を「終戦」から遡及しないで理解しようとする試みである。もっとも、すでに八月一五日の歴史的事実を知っている時点で、このような作業はきわめて難しいかもしれないが、次の三点に着目することでその克服を試みた。

第一に主戦派と和平派の対立だけではなく、主戦派と和平派の内部対立である。主戦派にとって最大の関心事は、軍事戦略の問題であった。そして、決戦の時期や場所をめぐって激しい対立がみられる。客観的には敗戦必至の状況ではあっても、戦勝を追求する軍人にとって、国家戦略の選択の問題は国家の興亡を賭けた問題であった。そして、このような軍事面における対立は、国内体制にどのような影響を与え、結果的に軍事や外交をどのように迷走させたのか。一方、和平派にとって最大の関心事は、軍事ではなく外交の問題であった。そして、外交政略をめぐる諸構想も、決して一枚岩ではなかった。戦争終結のシナリオをめぐる対立や戦後を見越した行動が国内政治にどのような混乱をもたらしたのか。

第二に主戦派と和平派の連続面である。主戦派といえども、戦争終結の問題を考えざるを得ない。戦争に始まりがあれば、終わりもあるはずである。また、和平派も、より良い条件を求めて戦争継続を支持することはある。よく知られているように、両者の主張は相容れないものであったが、これらは表面的なものであって、その主張の背景には、和平構想の違いがあったはずである。そこで、和平構想の内容を、時期、方法、条件の三つのレベルに分類して分析する。条件の問題は時期や方法の問題と密接な関係があるはずである。戦局や国際情勢の変化が、これらの三つの関係にどのような影響を与えたのか。天皇、陸軍、海軍の和平的側面と継戦的側面を明らかにする。

第三に、将来の見通しの問題である。現状で国体が護持される可能性が高いからといって、ある種の決断がなされるとは限らない。戦争を継続することで、現状より有利な将来が見込めるのであれば、結論を先送りするという選択肢もあり得た。逆に、仮に国体が護持される可能性が低くとも、将来の見通しがきわめて悪いのであれば、ある種の決断がなされることはある。この点は、国民の動向や政治指導者の戦後構想とも密接に関係する重要な問題だろう。

このような観点から、本論文は次の三つのテーマを中心的課題として取り上げた。第一に、東条内閣の崩壊過程の研究である。従来、東条内閣期の政治史は、海軍の反東条運動が注目されていたにすぎない。しかしながら、この時期のジレンマと政策決定過程を明らかにすることは、「終戦」を論じる際の手がかりになるはずである。第二に、主戦派の研究である。日本の「終戦」は和平派の視点から語られることが多いが、主戦派が果たした役割はきわめて大きい。主戦派の論理を明確にする必要がある。第三に、御前会議の研究である。従来、 「聖断」が注目を集めるあまり、御前会議の政治的位置づけは不十分であった。確かに御前会議の結論は開催前から既に決まってはいたが、重要なのは、結論よりもその内容と政治的背景であるはずである。

以上のような分析を通して、戦局の悪化とともに和平運動は盛り上がりをみせたにもかかわらず、日本が国家として本土決戦への道程を歩いていたと結論づける。すなわち、サイパン戦以前、サイパン戦から沖縄戦まで、沖縄戦以降の三つの時期に区分すると以下のようなことがいえる。第一段階は、和平派が、主戦派内部の軍事戦略をめぐる対立に乗じて、勢力を拡大していく段階であった。第二段階は、軍事戦略をめぐる対立と外交政略をめぐる対立とが複雑に絡まり合い、戦時内閣は崩壊した。第三段階は、主戦派が、和平派内部の外交政略をめぐる対立に乗じ、本土決戦体制を確立していく過程である。原爆投下とソ連参戦がなければ、いくら水面下での「終戦工作」が積み重ねられようとも、本土決戦に突入していた可能性が高い。ソ連参戦は時期と方法の問題に決定的影響を与え、八月一二日のバーンズ回答は条件の問題に決定的影響を与えた。

和平の「時期」の問題だけに限定すれば、日本の和平提唱は遅かった。比較的早い段階から和平の問題が論議されていたにもかかわらず、和平の提唱は遅れた。また、原爆投下以前に、 「聖断」そのものが不可能であったわけではない。軍部の意見が分裂した場合には、昭和天皇の意見は決定的な意味を持つ。また、軍部の意見が分裂していなくても影響力はある。昭和二〇 (一九四五)六月二二日の御前会議は、天皇の発意で開催され、昭和天皇は参謀総長梅津美治郎の反対意見を押し切って、対ソ和平交渉の開始を決定した。

最高戦争指導会議では、ソ連を仲介とする和平構想が話し合われていた。軍部大臣や統帥部長で対米直接和平交渉を主張した人物を見出すことは難しい。また、 「国体の護持」の一点では一致していた。仮に早期に和平が提唱されていたとしても、日本が降伏するかどうかは、米国側回答の内容次第であっただろう。昭和天皇が、天皇という責任ある立場にある限り、公的な場で天皇制廃止に賛成するような発言をしたとは到底思われない。

日本の政治指導者に決定的影響を与えたのはソ連の参戦であった、確かに、原爆投下が和平の「時期」の問題に、多かれ少なかれ影響を与えたことは否定できない。だが、日本の考えていた和平の「方法」とは、対米直接交渉方式ではなく、ソ連仲介方式であった。日本から和を乞うことは、米国に日本の弱みを見せることになるので、ソ連の和平提案に応じる形式をとろうとしていたのである。つまり、原爆投下によって和平運動が活発になっていたとしても、その外交交渉の相手は米国ではなくソ連であった。事実、日本は原爆投下後も既定方針を継続し、ソ連からの返事を待ち続けていたのである。ソ連の態度が明確になっていれば、対米直接和平交渉方式も検討されたかもしれない。

ソ連参戦は、対ソ外交を困難にしたばかりではなく、ソ連の仲介を前提とした一撃後和平論をも崩壊させた。本土決戦によって米軍の第一波に「一撃」を与えようとも、それが和平交渉開始のチャンスとならなければ意味がない。参謀本部と陸軍省上層部は米軍の第一波を南九州の水際で撃退する自信はあったが、第二波、第三波となると自信がなかった。さらには、対ソ戦にいたっては全く勝算がなかった。すなわち、ソ連参戦によって「戦勝ノ確算」が失われたのである。軍人の関心は、国民の生死の問題よりも、勝算の有無の問題にあったようだ。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、東条内閣の崩壊からポツダム宣言受諾に至る政治過程を対象とする。先行研究は、一九四五年八月の御前会議における和平論と主戦論との対立軸をそれ以前の政治過程に無意識に当てはめて理解してきたのではないか、との反省に立ち、前線における軍事的敗北の圧力と国内における政治変動の相関関係や、軍部の国際情勢認識などを分析することで、戦争末期の政治を終戦から遡及させずに理解しようと試みたものである。

序章で先行研究を概観した後、第一章では四四年二月、統帥権独立の伝統から逸脱した軍部大臣による両総長兼任が何故なされたのかを、中部太平洋方面の軍事戦略をめぐる大本営内の対立、軍需生産をめぐる政務上の対立、大本営改革の挫折、から解明した。第二章では四四年七月のサイパン陥落という軍事的苦境に対し、外交を主として打開をめざそうとする和平派と、軍事作戦を主として打開をめざそうとする主戦派の主張が一致してゆく過程の先に東条内閣倒壊があったとする。第三章では同年七月成立した小磯内閣において、先に東条を倒した和平派が何故直ちに和平工作に着手しえなかったのかを考察し、汪兆銘政権を先に承認していた日本が重慶の国民政府との和平に着手するのは名分上許されないとする重光葵外相と昭和天皇の意向が政府を牽制した事実を明らかにした。第四章では東条内閣倒壊にあたって重要な役割を演じた岸信介が、小磯内閣期にあって徹底抗戦を議会内で呼号する護国同志会の指導者となってゆく経緯を、軍需生産の効率化を図ろうとした岸の生産軍構想から分析した。第五章では四五年四月の沖縄上陸から八月一〇日の御前会議に至る政治過程を、(1)陸軍上層部と参謀本部を中心に構想されていた、本土決戦論=南九州作戦・大規模兵力による水際・一撃和平論と、(2)陸軍省軍務局を中心に構想されていた、本土決戦論=小規模兵力によるゲリラ的持久戦論との関係から描き、一撃和平論が説得力を持っていた背景に、ソ連を仲介とした和平構想があったとみた。第六章では八月一四日の第二回御前会議における、いわゆる「聖断」が陸軍内部の主戦派に具体的にはいかなる言葉として伝えられたかのを考察し、主戦派の降伏受容過程を明らかにしている。

以上のように本論文は各章で新たな実証的成果に基づいた独自性のある立論を行い、特に前線における時々の軍事作戦の成否と、それに応じて国内政治における和平論と主戦論がいかに変容していったのかを論じた点で研究史上大きな意味を持っている。一方、先行研究の枠組みに疑問を呈する形で書かれた個別論文を基としているため、全体の論理構成になお検討すべき点もみられる。しかしながら、上記のような成果を挙げていることを考慮し、本委員会は本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

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