学位論文要旨



No 120829
著者(漢字) 中島, 綾子
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,アヤコ
標題(和) ヒトデ精子における鞭毛運動活性化の調節機構に関する研究
標題(洋) Studies on the regulatory mechanism of flagellar motility activation in starfish sperm
報告番号 120829
報告番号 甲20829
学位授与日 2006.01.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第608号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 松田,良一
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 講師 吉田,学
 東京大学 助教授 豊島,陽子
内容要旨 要旨を表示する

真核生物の鞭毛・繊毛は様々な細胞で見られるが、ほとんどが共通した構造の軸糸を持っている。軸糸では、約250のタンパク質が微小管を主とした緻密な構造をつくり上げている。鞭毛および繊毛運動は、モータータンパク質ダイニンが微小管をすべらせることによって生じる。この相互作用によりもたらされた力が、様々な調節を受け、鞭毛や繊毛の周期的な運動へと変換される。そして、軸糸タンパク質のリン酸化が、この鞭毛・繊毛運動の調節機構において重要な役割を果たしていることが知られている。

精子の鞭毛運動は、一般的に精巣内では開始されておらず、放精に伴うイオン環境の変化や、卵由来の精子活性化物質が引き金となり、細胞内のシグナル伝達経路を経て、最終的に活性化される。ヒトデの精巣精子は海水中で運動性を示さないが、ヒスチジンの添加により運動が活性化される。ヒスチジンがZn2+をキレートし、精子からZn2+が離脱することによって運動が活性化されると考えられているが、詳しい機構はわかっていない。一方、ウニ、海産硬骨魚類、哺乳類などでは、運動活性化に至るシグナル経路に、精子細胞内のpH([pH]i)の上昇が含まれていることが報告されている。この[pH]iの上昇による精子の鞭毛運動活性化機構には、cAMP依存的なタンパク質のリン酸化が関係していると考えられている。

本研究は、[pH]iの上昇によってcAMPに依存することなく生じる鞭毛軸糸タンパク質のリン酸化が、ヒトデ精子の運動活性化と関係していることを明らかにした。そして、これまで考えられてきたcAMP依存的なリン酸化機構とは別の機構が、精子の鞭毛運動を調節している可能性を提示している。第1章では、[pH]iの上昇がヒトデ精子の運動活性化過程にも含まれることを示した。さらに除膜精子を使ってpH依存的・cAMP非依存的な軸糸タンパク質のリン酸化を検出した。第2章では、1章で明らかにしたpH依存的な軸糸タンパク質のリン酸化と運動活性化が、cAMPに依存しないことを確証した。また、pH依存的なリン酸化機構とcAMP依存的なリン酸化機構が、鞭毛運動の活性化においてどのような関係にあるのかを探った。

ヒスチジンによる運動活性化

イトマキヒトデ(Asterina pectinifera)の精子は、人工海水中でほとんど運動を行なわなかった(運動率1.1±0.8 %:平均±標準偏差、以下同様)が、ヒスチジンの添加によって濃度依存的な運動率の上昇が観察され、10 mMでは72±13 %の精子が運動を行った。このことから、ヒスチジンが海水中においてヒトデ精子の運動を活性化することが確認された。

さらに、Na-free人工海水を用いて同様の実験を行なったところ、ヒスチジンによる運動の活性化が見られなかった。このことから、上で観察された運動活性化はNa+に依存していることが明らかになった。そして、ウニで報告されているような、Na+/H+ exchangerを介した[pH]iの上昇が、運動の活性化に関与している可能性が示唆された。

[pH]iの上昇による運動活性化

NH4Clは、Na+に依存せずに[pH]iを上昇させることが知られている。海水と同程度の浸透圧に調整した塩化コリン溶液中において、NH4Clは濃度依存的に精子の運動を活性化させ、20 mMでは91±3 %の運動率が観察された。このことから、[pH]iを上昇させるとヒトデ精子の運動が活性化することが明らかになった。また、nigericinを用いて、[pH]iを細胞外のpHとつり合わせると、pH 8.0では68±5 %の精子が運動を行なったが、pH 7.75では1.7±1.1 %しか運動を行わなかった。この結果から、細胞内のpHが8.0まで上昇すると、ヒトデ精子の運動が活性化することがわかった。

[pH]iの測定

蛍光pH指示薬SNARF-1を用いて、精子の[pH]iを測定した結果、イトマキヒトデ精子の精巣内での[pH]iは7.0かそれよりやや低い値であると推定された。この精子を塩化コリン溶液に希釈すると[pH]iは7.31±0.02まで上昇したが運動は活性化されず、NH4Clの添加(20 mM)によって[pH]iが8.10±0.04まで上昇した時に活性化された。同様に、精子を人工海水中に希釈した時には、[pH]iが7.47±0.02まで上昇したが運動は活性化されず、ヒスチジンの添加(10 mM)によって[pH]iが7.81±0.06まで上昇した時に活性化された。一方、Na-free人工海水にヒスチジンを添加した時には、[pH]iはほとんど上昇せず(添加前7.35±0.003、添加後7.52±0.07)、運動の活性化も見られなかった。これらのことから、精子の運動活性化に伴って、実際に[pH]iが上昇していることが示された。また、以前から知られていたヒスチジンによる運動活性化の際にも[pH]iが上昇していることも確かめられた。

pHが除膜精子の運動に与える影響

運動活性化前の精子(塩化コリン溶液に希釈した精子)、運動活性化後の精子(20 mM NH4Clを含んだ塩化コリン溶液、もしくは、10 mM ヒスチジンを含んだ人工海水に希釈した精子)、それぞれに対して除膜を行い、様々なpHの再活性化溶液(7.0-8.0)中に希釈して再活性化率を測定した。除膜を行なったのが運動活性化の前か後かに関係なく、pH依存的な再活性化率の上昇が見られた。しかしながら、運動活性化前に除膜した場合には、pH 7.8以上においてのみ高い再活性化率(50%以上)が見られたのに対し、運動活性化後に除膜を行なった場合には、より低いpHにおいても再活性化される傾向が見られた。これらのことから、[pH]iの上昇によって精子鞭毛の運動が活性化されることが確かめられた。また、運動活性化後の精子に変化が生じていることも示唆された。

除膜精子の運動活性化に伴う軸糸タンパク質のリン酸化

運動活性化前の精子、運動活性化後の精子それぞれの鞭毛を除膜した後、[g-32P]ATPを含んだ再活性化液(pH 7.0-8.0)を加え、32Pの取り込みを行わせた。再活性化に伴う32Pの取り込みを検出した結果、再活性化液のpH依存的に、25, 32, 45 kDaのタンパク質における32Pの取り込みが増加した。その中でも25, 32 kDaタンパク質では、運動活性化後に除膜を行った場合、運動活性化前に除膜を行ったものに比べ32Pの取り込みが著しく少なくなっていた。45k Daタンパク質においても取り込みは減少したが、差はあまり見られなかった。

再活性化液のpHが高くなるのにしたがって、すなわち再活性化率が上昇するのにしたがって、32Pの取り込みが増加していたことは、25, 32, 45 kDaのタンパク質における取り込みが、細胞内pH上昇による鞭毛の運動活性化に関係していることを示唆している。そして、25, 32 kDaタンパク質への取り込みが、運動活性化前に除膜した場合より、運動活性化後に除膜した場合に少なかったことは、これらのタンパク質の鞭毛運動活性化への関与を裏付けている。なぜなら、除膜前の運動活性化により生じていたタンパク質のリン酸化により、32Pの新たな取り込みが妨げられたと考えられるからである。また、運動活性化後に除膜した精子では、これらのタンパク質がすでにリン酸化されていたために、より低いpHにおいても再活性化が見られたと考えられる。

cAMP依存性タンパク質リン酸化酵素の阻害剤H-89が鞭毛運動に与える影響

cAMP依存性タンパク質リン酸化酵素の阻害剤であるH-89は、intact精子の運動活性化を阻害しなかった。しかしながら、H-89で処理していない精子は2分以上高い運動率を維持したが、60 mMのH-89で処理した精子の運動率は、30秒後の約90%から1分後の約10%へと急激に減少した。60 mMのH-89で処理した精子をさらに除膜した場合は、再活性化に影響は見られなかった。これらの結果から、cAMP依存的なタンパク質のリン酸化は、運動の活性化よりも維持に関係していると考えられた。

cAMPとH-89が鞭毛軸糸タンパク質のリン酸化に与える影響

第1章と同様な方法で、除膜精子の運動活性化に伴う鞭毛軸糸タンパク質のリン酸化を検出した。再活性化液(pH 7.0-8.0)のすべてに25 mMのcAMPを加えた場合も、pHに依存して25, 32, 45 kDaタンパク質への32Pの取り込みが増加した。このpH依存的なリン酸化は、60 mM のH-89によっても阻害されなかった。これらの結果は、1章で示したpH依存的なリン酸化がcAMPに依存しないことを明確に示している。

35, 37, 43, 65, 70 kDa タンパク質への32Pの取り込みはcAMP依存的に増加し、H-89によって阻害されたが、運動の活性化とは関係していなかった。

リン酸化タンパク質の局在

ダイニンの外腕は、軸糸の高塩濃度抽出により選択的に外れ、ショ糖密度勾配遠心法による分画によって精製されることが知られている。この方法によって鞭毛軸糸を分画したところ、pH依存的にリン酸化される25 kDaタンパク質が、ダイニンが含まれると考えられるATPase活性の高い画分に局在していた。このことは、25 kDaタンパク質がダイニンの構成要素である可能性を示唆している。また、pH依存的・cAMP非依存的な軸糸タンパク質のリン酸化がダイニンを調節している可能性も示された。

審査要旨 要旨を表示する

真核生物の鞭毛・繊毛のほとんどは、微小管を骨格とする共通したいわゆる"9+2"構造の軸糸を持っている。精子はこの鞭毛をもつ代表的な細胞である。精子の鞭毛は、一般的に精巣内では開始しておらず、放精に伴うイオン環境の変化や、卵由来の精子活性化物質が引き金となり、細胞内のシグナル伝達経路を経て、最終的に活性化される。この運動活性化の仕組みの解明は、細胞生物学の分野で重要であるばかりでなく、医学、畜産学など様々な分野においても非常に意義深いものである。

この鞭毛運動の活性化に関するウニ、海産硬骨魚類、哺乳類などの精子を用いた研究で、放精による浸透圧環境の変化や、K+の減少、卵からの誘因物質などが引き金になり、細胞内のシグナル伝達経路を経て鞭毛軸糸の活性化が引き起こされるという大筋が分ってきた。そのなかで特に重要なのはcAMPやCa2+に依存したタンパク質リン酸化であると考えられ、それに関する研究が進んでいる。一方、運動活性化に至るシグナル経路に、精子細胞内のpH([pH]i)の上昇が含まれていることが報告されているが、従来この[pH]iの上昇はcAMPやCa2+の下流にある現象であると考えられてきた。

ところでヒトデの精巣精子はそのままでは海水中に希釈しても運動性を示さない。そしてヒスチジンの添加により運動が活性化されることが知られていた。これはヒスチジンがZn2+をキレートし、精子からZn2+が離脱することによると考えられているが、詳しい機構はわかっていなかった。本論文はヒトデ精子を材料に用いて、運動開始機構を調べ、 [pH]iの上昇がむしろ非常に重要な因子であることを明らかにした、きわめて興味深い研究である。その内容は以下のようにまとめられる。

まず、中島氏はヒトデ精巣精子がヒスチジンによって運動が活性化されることを確認した後、それが細胞外Na+に依存していることを明らかにした。このことはNa+/H+ exchangerを介した[pH]iの上昇が運動の活性化に関与している可能性を示唆している。これは、NH4Clにより[pH]iを上昇させると、Na+に依存せずに精子の運動を活性化させること、またイオノフォアの一種であるnigericinを用いて [pH]iをpH 8.0まで上昇させるとやはり精子の運動が活性化することから明らかとなった。さらに蛍光pH指示薬SNARF-1を用いて、精子の[pH]iを測定した結果、[pH]iが7.8以上になると、ヒスチジン処理やNH4Cl処理など、どの場合も共通して運動が活性化されることが明らかになった。

次に精子の細胞膜を界面活性剤で除膜した後、運動活性化を試みる、いわゆる再活性化実験を行ったところ、この場合もpH上昇が運動活性化に必須であり、cAMPやCa2+は必要ないことが明らかにされた。さらに[g-32P]ATPを含んだ再活性化液(pH 7.0-8.0)を加え、32Pの取り込みを調べ結果、再活性化液のpH上昇および運動活性化に同調して25, 32, 45 kDaのタンパク質における32Pの取り込みが増加した。その中でも25, 32 kDaタンパク質では、インタクト精子を運動活性化させた後に除膜した場合、運動活性化前に除膜を行ったものに比べ32Pの取り込みが著しく少なくなっていたことから、強い相関が示唆された。

このタンパク質リン酸化は、cAMP依存性タンパク質リン酸化酵素の阻害剤であるH-89によっては阻害されない。またH-89はインタクト精子の運動活性化を阻害しないことから、運動活性化に伴うこれらのリン酸化はcAMP非依存的であることが証明された。また、鞭毛軸糸の高塩濃度抽出画分をショ糖密度勾配遠心法により分画した結果、pH依存的にリン酸化される25 kDaタンパク質が、ダイニンが含まれると考えられるATPase活性の高い画分に局在していることが示され、それ故にこの25 kDaタンパク質がダイニンの構成要素(軽鎖)である可能性が強く示唆された。このように、pH依存的・cAMP非依存的な軸糸タンパク質(特に25kDaタンパク質)のリン酸化がダイニンを調節している可能性が強く示唆されるに至った。

以上のように、本論文においては今までcAMPなどの下流に位置し、ダイニンのATPase活性を上げるという半ば補助的な作用と考えられてきたpH上昇が、タンパク質リン酸化を通して非常に重要な作用をもつことがヒトデ精子で明らかにされた。ところで今まで報告された多くの精子運動活性化現象で、pH上昇は極めて共通性が高い。このことは実はpH上昇こそが鞭毛運動活性化に共通する重要な因子であることを示唆するものかも知れない。このように、本論文はこの分野の研究に極めて大きな一石を投じる可能性がある重要な研究である。

なお、本論文の内容は申請者が第一執筆者の論文として一部が既に公表されているが、内容については、申請者の貢献度が最も高い。これらの内容について審査委員会で厳正に審査した結果、審査委員全員一致して、申請者が博士(学術)を授与されるにふさわしいと認定した。

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