学位論文要旨



No 120836
著者(漢字) 宮崎,正也
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,マサヤ
標題(和) 製品コンセプトの変革と事業環境の再設定 : プリンタ業界の事例
標題(洋)
報告番号 120836
報告番号 甲20836
学位授与日 2006.01.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第196号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 新宅,純二郎
 東京大学 助教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 教授 阿部,誠
 東京大学 助教授 粕谷,誠
内容要旨 要旨を表示する

この論文では、企業が新製品を開発して市場に導入していくプロセスを対象に研究している。とりわけ、企業が既に保有する技術シーズの商品化機会を追求するときの活動、および競合企業や顧客など利害関係者との関係性の中で相互に共有される「価値」が形成されていくプロセスに関心を寄せて研究を行っている。具体的には、インクジェット・プリンタを中心とするプリンタ業界の事例をもとに考察を進めている。この事例研究を通じて、企業が製品コンセプトを変革しながら事業環境を主体的に設定・再設定していく様子を明らかにしている。

序章では、本論文の依って立つ視点や概念の導入と論文の全体構成について説明している。第1に、新製品の開発・導入プロセスには「二重の不確実性」が存在しており、これら二種類の不確実性を解消して「ニーズを充足させる技術的手段」と「技術シーズの応用先」を特定化していくことで新しい製品・サービスのかたちが定まる。第2に、技術シーズに意志を込め、その活用方法を編み出して「価値」を創出する主体が人間であると同時に、その応用結果としての製品・サービスに「価値」を見いだして利用する主体も人間である。第3に、特定の業界内で共有されている価値観である「業界価値」が存在しており、企業活動に一定の影響を及ぼす。以上の三点を指摘して、企業が、技術シーズから新製品・サービスのかたちを具現化するプロセスにおいては、「二重の不確実性」を解消するとともに、「業界価値」と自社の保有する技術シーズの融合が、重要な課題であると述べる。

第一章では、先行研究の文献サーベイを通して本論文で取り組む課題を位置づけている。第1に、クリステンセンの「破壊的イノベーション」の議論と従来のイノベーション研究における議論を比較検討し、クリステンセンでは「技術転換」ではなく「価値転換」という視点でイノベーション・プロセスを把握していることを明らかにする。第2に、新製品アイデアを顧客に詳細に説明するために企業が主体的に当該製品に付与した意味づけ概念である「製品コンセプト」が「二重の不確実性」の解消に貢献すること、また、破壊的イノベーションが引き起こす「価値転換」は「業界価値」に影響を及ぼす「製品コンセプトの変化」を伴っていることを指摘する。第3に、事業環境は企業の想像物にしか過ぎず、企業は保有資源のもつ価値を最大化できるような事業環境を自ら主体的に設定できるという観点を提示する。以上の点を総括して、本論文で取り組む課題は、個別企業が自社の保有する技術シーズの特性を活かせるような「価値」をもつ「製品コンセプト」を提示して、自社の想定する「価値」が業界内で占めるウェイトを拡大させていくことによって自社にとって有利な新しい「業界価値」を形成していくプロセスをプリンタ業界の事例研究を通じて実証していくことだと述べる。

第一章の補論では、企業行動のプロセスを説明するうえで役立つ記述手法として「技術システム・アプローチ」を紹介する。ヒューズはその著書『電力の歴史』において、19世紀末から20世紀初頭にかけて生成・発展していった電力システムの姿を「技術システム・アプローチ」の観点から記述している。それにより、「技術的側面と社会的側面」、「マクロ的問題とミクロ的問題」、「システムと環境」といった線引きをあえてせず、両者を一体的に取り扱うことで、当時の状況をよりリアルに描き出すことに成功している。この記述手法により、企業が自らの保有する技術シーズから「価値」を引き出して商業化・産業化していくために事業環境を主体的に設定していくプロセスへの理解が深まるということを指摘する。

第二章では、20年間にわたるインクジェット・プリンタ業界の発展過程を事例研究のかたちで記述・紹介する。国内外の市場を牽引してきた日本の二大メーカー、キヤノンとセイコーエプソンを中心に、同業界におけるイノベーションと市場の発展過程を記述していく。開発・設計・商品企画・事業統括責任者へのインタビュー調査結果、広報資料、国内の新聞・雑誌に掲載された記事、各種統計資料データに基づき、同業界における歴史的な製品コンセプトの形成/変容プロセスを製品開発現場の開発者・設計者のミクロな視点から説明していく。それぞれの時期ごとに、新製品の開発・導入プロセスの現場に携わっていた人たちは、インクジェット・プリンタ事業を取り巻く事業環境をどう認識して、どのように自社の製品コンセプトを創り上げていったのか。また、自社製品が提供する「価値」をどう特定化し、それを「業界価値」へとどのようにして繰り込んでいこうとしたのか。彼らが製品コンセプトを変革して、事業環境を再設定していく様子を当時の文脈に沿ってリアルに描き出す。

第三章では、コミュニケーション研究の分野において新聞、雑誌、書籍、ラジオ/テレビ放送などのメディア内容を分析することで社会的文脈や行為主体の意図を推論するための手法として開発されてきた「内容分析」を紹介し、企業行動研究への応用をはかる。章の前半では、内容分析の定義と歴史、特徴点、応用事例を詳細に解説すると同時に、企業行動研究への応用可能性を模索する。そこでは、企業の事例研究でよく利用される分析手法であるインタビュー調査、史料分析、公開データ分析との対比によって、内容分析を事例研究において活用することの意義を述べる。また、章の後半では、インクジェット・プリンタ業界の事例研究への応用をはかり、実際に新製品ニュース・リリースの文章を内容分析する。それにより、業界全体で「重視された製品属性の変遷」あるいは「業界価値の動態的変化」を定量的に測定し、把握できることを示す。ここで得られる結果から、研究者は、各時期において主軸的に訴求・注目されていた製品属性を見分けられ(製品属性分析を実施するうえでの適切な属性を選択できる点、および業界内で注目されている製品属性の移行を把握できることから、破壊的イノベーションの有無を確認できる点を、その利点として指摘する。

第四章では、第三章で事例研究への応用可能性を示した内容分析をさらに活用して、インクジェット・プリンタ業界における個別企業間の競争上の注目点における差異を比較検討する。製品コンセプトを構成する各種の製品属性への言及頻度(注目度合い)を計測した企業別のデータを相互に比較していく。それにより、個別企業が自社の製品コンセプトをどのようなものとして定義していたのかを浮き彫りにする。同時にまた、企業が自らの技術的手段を活かせるような製品属性を訴求することで、既存の製品コンセプトを主体的に変革していく様子を明らかにする。具体的には、第1の分析によって「製品コンセプト・トラジェクトリー(PCT)」を描き出すことで、個々の企業の提示する製品コンセプトにはそれぞれ独自性があり、それぞれ異なる製品属性を強調しながら競争を繰り広げてきた経緯を明示する。次に第2の分析により、キヤノンとセイコーエプソンの二社は、自らのもつ技術方式の特性を活かせるような製品属性を強調するかたちで製品コンセプトをまとめ上げ、訴求してきたことを確認する。

第五章では、既存研究で指摘されていた製品コンセプト形成上の参照点を5点に整理統合し、インクジェット・プリンタ業界の新製品ニュース・リリースの内容分析データを利用して数量的に実証分析を行っている。その結果、新製品コンセプトを提示するに当たって、企業が重視している参照点を明らかにし、また、その参照点に時期的な変動が見られることを見いだしている。業界の生成期で製品のかたちが未だ定まっていない「流動的段階」では、技術シーズそのものへの注目度合いが多く、一方、業界がある程度成長し終えて製品のかたちも固定化していく「特定的段階」では、顧客ニーズへの着目が増加していく傾向が分析結果に見られる。また、「写真印刷」という新しい業界価値へと「脱成熟・価値転換」して移行する時期においては、再び技術シーズや関連技術システムへの関心の度合いが強まっていることが結果に表れている。以上の分析結果から、顧客ニーズよりも技術そのものにより多く注意を向けることで、従来とは異なる新しい製品コンセプトが生み出される可能性が示唆される。

第六章では、プリンタの消耗品(インクやトナー)を製品コンセプトのレベルから工夫して設計することで、純正消耗品の独占的市場を確保できる可能性を指摘し、製品設計と事業設計の連携の重要性を主張する。レーザー・プリンタでは、モノクロからカラー化したときに「オフィスの文書印刷」から「カラー画像の高速出力」へとプリンタの用途を拡張させることによって、プリンタ本体と消耗品の機能共有の度合いが強化された。それにより、ユーザーが純正消耗品を利用することの魅力・価値が増加した結果、サード・パーティ製消耗品の市場浸透を防げる可能性が出てきた。このように消耗品と製品本体がより広範に機能共有する必要性が生まれるような製品コンセプトを考案して、顧客にその必要性を訴求し、事業全体の設計までをも見通したかたちで戦略的に製品設計を行うことが、プリンタ・メーカーの利益獲得に向けた重要な課題であると述べる。

第七章では、論文全体のまとめと結論を述べる。新製品の開発と市場導入をめざす企業が、製品コンセプトの変革を通じて、事業環境を自らの保有資源にあわせて再設定していくことは、当たり前の活動であること、そして新製品の開発・導入プロセスには「二重の不確実性」が確かに存在するかもしれないが、それはたいした問題ではなく、大切なのは、不確実性の下での方向を指し示す、企業の価値観と意志、そして自らに適した事業環境を発明できる能力であると、結論づける。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、新しい製品分野において製品コンセプトが社会的に確立していくプロセスを理論的・実証的に明らかにした研究である。従来の製品開発についての経営学の研究では、具体的な製品開発について、組織や開発プロセスのあり方とその開発成果(生産性、品質、リードタイムなど)の関係、あるいは複数の製品開発プロジェクト全体の管理(マルチプロジェクト管理)について丹念な実証研究が積み重ねられ、多大な研究成果をあげてきた。しかし、製品開発で最も初期(川上)段階にあたる製品コンセプトの形成について、あるいは業界全体でどのようなプロセスを経て基本コンセプトが共有されるかについては、その重要性は認識されながらも、研究アプローチの難しさもあり、ほとんど研究が進んでいなかった。産業発展とイノベーションの関係を説いたAbernathy(1978)では 、ドミナント・デザインの形成がその後のイノベーションのパターンに大きな影響を及ぼすと主張されていることは広く知られている。しかし、そのドミナント・デザインの形成過程についての本格的な研究はほとんど見られなかった。本論文は、プリンタ業界を対象にして、主要企業の技術開発と製品戦略を長期間にわたって分析し、企業間の製品コンセプトの競合や模倣を通じて業界全体で共通のコンセプトに収斂されていくプロセスを明らかにした。本論文では、業界で共有されたコンセプトのことを「ドミナント・コンセプト」と呼んでおり、本論文は、ドミナント・コンセプト確立のメカニズムとその変容過程に関する研究であるといえる。本論文の構成は次のようになっている。

第1章 問題の所在と文献サーベイ

第2章 インクジェット・プリンタ業界の発展過程1977-1997

第3章 業界価値の測定 ―内容分析の企業行動研究への応用

第4章 製品コンセプト・トラジェクトリー ―企業の意図を推論する

第5章 製品コンセプトの変革プロセス ―技術シーズの活用

第6章 製品コンセプト形成時の参照点 ―製品ライフサイクルとの関係

第7章 結論と今後の課題

第1章で先行研究・関連研究をサーベイしながら本研究の課題を位置づけ、第2章ではプリンタ業界の歴史を描くことで、製品コンセプトとドミナント・コンセプトを研究するための分析視覚を提示している。続く第3章から第6章までが実証研究の部分である。第3章では、1990年代のインクジェット・プリンタ業界で訴求されてきた主要な製品属性から「業界価値」の変遷を測定している。第4章では、個別企業が新製品の市場投入時にどのような製品属性をどの程度強調しているのかを測定し、それに基づいて「製品コンセプト・トラジェクトリー」を描き、製品コンセプトの企業間の相互作用プロセスを検討する。さらに、第5章と第6章は企業のコンセプト着想段階に関する分析で、第5章では、やや異なる技術を採用した各社がその技術特性が製品コンセプトの形成に与えた影響を分析する。第6章では、製品コンセプトの形成枠組みとして5つの参照点を提示し、製品ライフサイクルの各時期に、各参照点への企業の着目度合いがどのように変化していったのかを動態的に検証している。最後の第7章で本論文の結論を述べた上で、今後の研究課題について言及している。

各章の内容の要約・紹介

各章の内容を要約・紹介すると次のようになる。

まず第1章では、先行研究の文献サーベイを通して本論文で取り組む課題を位置づけている。新しい製品分野でそのコンセプトが確定するのは、「二重の不確実性」の解消プロセスであるという。すなわち、技術開発側の視点からは、特定の技術の応用先が複数あって何になるかは不確実であり、他方で需要側の視点からは、特定のニーズを満たす技術的手段は複数あってどの技術が支配的になるかは不確実である。これが二重の不確実性であり、技術とニーズを結節させるのが製品コンセプトであり、その背後には企業やユーザーの「価値」が影響している。クリステンセンの「破壊的イノベーション」の議論は「価値転換」という視点でイノベーション・プロセスを把握しており、そのような「価値転換」は「製品コンセプトの変革」を伴っている。各企業はそれぞれ独自の価値観に基づいて製品コンセプトを考案して市場に提示するが、お互いに異なる製品コンセプトが市場で相互作用(競争・模倣)する。その相互作用プロセスを通じて、業界内の大多数の関係者間で共有される価値観である「業界価値」が形成され、一つのドミナント・コンセプトへと収束していく。以上を総括して、「二重の不確実性」を解消していくプロセスを、(1)「製品コンセプト」の形成プロセスと(2)「業界価値」の構築プロセスの二段階に分け、それをインクジェット・プリンタ業界の事例研究を通じて実証していくことが本論文の課題であるとしている。

第2章では、20年間にわたるインクジェット・プリンタ業界の発展過程をケース研究のかたちで記述することで、各企業による製品コンセプトと業界全体の業界価値やドミナント・コンセプト形成のプロセスに関わる全体像を明らかにしている。プリンタの技術的手段として、ドットインパクト技術、レーザー技術、熱転写技術など様々な技術方式が存在する中で、当初におけるインクジェット技術の開発と利用の方向性は不明瞭であった。キヤノンとセイコーエプソンは、自社が保有する技術的手段(キヤノンはBJ技術、セイコーエプソンはMJ技術)の特性を見極めて、最終的に自社製品が提供する「価値」を特定化する作業を通して新たな製品コンセプトを形成していった。その過程で様々な製品コンセプトが競合し、その結果、インクジェット・プリンタのドミナント・コンセプトは、「ビジネス用モノクロプリンタ」→「個人向け小型プリンタ」→「家庭用普及型カラープリンタ」→「写真印刷プリンタ」と大きく変化していったという。これは、自社の技術/製品は「どんな特性を持っているのか」そして「顧客にどんな価値を提供できるのか」を開発・設計の現場における人々が、常に問い続けてきた結果であった。自社の技術シーズのもつ特性が、最大限に活かされて価値を生み出すような製品コンセプトを業界内に訴求・形成していったのである。

以上のようなケース分析から、インクジェット・プリンタ業界の発展過程において、(1)業界内で共有されているドミナント・コンセプトにダイナミックな変化が観察されたこと、(2)その変化の背後において、各企業は独自の技術方式のもつ特性を活かしながらそれぞれ微妙に異なる製品コンセプトを開発・提示することで、製品コンセプト間の競争が繰り広げられてきたこと、以上の二点が明らかになった。

以降の章では、2章の定性的なケース分析で得られた結果を補完して考察の幅を広げるため、各社の主観的な企業行動のプロセスを一定の客観性のある分析手続きによって測定しようとしている。その測定のための道具として「内容分析」を利用している。内容分析によって各企業の各製品の製品コンセプトを間接的に定量化している。

第3章では、その前半部分で内容分析のアプローチについて紹介している。まず、内容分析の定義と歴史、特徴点、応用事例を詳細に解説している。また、企業の事例研究でよく利用される分析手法であるインタビュー調査、史料分析、公開データ分析との対比によって、内容分析を事例研究において活用することの意義を提唱している。

次に3章の後半では、実際に新製品ニュース・リリースに関する内容分析によって、業界において主軸的に訴求された製品属性のダイナミックな変遷を測定している。これは、「業界価値」の形成と変遷のプロセスを定量的に測定しようとしたものである。結果は、インクジェット・プリンタ業界内でのドミナント・コンセプトとして、1990年代前半にビジネス用プリンタからパーソナル家庭用プリンタへと「漸進的な移行」が見られたこと、1996-97年に文書印刷用プリンタから写真印刷用プリンタへと「急激な移行」が存在したことがわかった。すなわち、第2章のケース分析の結論のひとつである、「(1)業界内で共有されているドミナント・コンセプトにダイナミックな変化が観察された」ことを確認できた。

このように業界内で「重視された製品属性の変遷」を図示することで、いつ頃どのくらいの割合でどの製品属性が重要視されるようになったのかを一目瞭然に判断できる。業界内で注目されている製品属性、大多数の企業や顧客が重視している「価値」の移行プロセスを把握できるという特徴から、破壊的イノベーションの生起した時点をビジュアルに確認できることが、この分析を利用するひとつのメリットであると主張されている。

第4章では、内容分析をさらに活用して、インクジェット・プリンタ業界における個別企業間の製品コンセプトの差異を比較検討している。すなわち、二章のケース分析で得られたもう一つの結果である「(2)各企業は独自の技術方式のもつ特性を活かしながらそれぞれ微妙に異なる製品コンセプトを開発・提示することで、製品コンセプト間の競争を繰り広げてきた」という点を内容分析によって定量的に検証している。具体的には、「製品コンセプト・トラジェクトリー(PCT)」を描くことで、個々の企業の提示する製品コンセプトにはそれぞれ独自性があり、それぞれ異なる製品属性を強調しながら競争を繰り広げてきたプロセスを明示している。

第3章の業界レベルにおける分析結果では、業界価値が変遷したことを示していたが、第4章の分析で、その変遷をもたらしたのは、各企業が独自の価値観を表明する製品コンセプトを提示しようとした結果であることが示されている。さらに、「製品コンセプト・トラジェクトリー(PCT)」の分析によって、模倣的な製品戦略と独自の差別化戦略とを把握することができ、各社の競争戦略の分析ツールとしても有効である。

続く第5章と第6章は、企業がそれぞれの製品コンセプトを着想するメカニズムについての分析である。第5章では、「製品コンセプトの転換点」となった各企業の個別機種に焦点を当てて、各社が採用した技術の特性が製品コンセプトの形成に影響を与えていたのか否かを内容分析データで定量的に確認しようと試みている。その結果、各社における採用技術の違いが、製品コンセプトの構成要素である各種の製品属性に対する重視度・順位づけに対しても差異をもたらしていたことを明らかにしている。具体的には、キヤノンとセイコーエプソンの2社は、自らのもつ技術方式の特性を活かせるような製品属性を強調するかたちで製品コンセプトをまとめ上げ、訴求してきたことが分析結果から確認できた。一方、HP社は自社の技術方式の特徴を強調するのではなく、市場における他社製品との比較やニーズ動向の汲み取りに注目して製品コンセプトをまとめ上げている点が結果に表れていた。

第6章では、製品ライフサイクルの各段階ごとに、企業が製品コンセプトを形成するうえで注目している参照点がどのように移り変わっていったのかについて分析している。製品コンセプトの形成に与える要因は、第5章で見た技術シーズのみならず、ニーズやその他の関連要素がある。この章では、既存の先行研究で指摘されていた製品コンセプト形成上の参照点を5点に整理統合し、数量的に実証分析を行っている。

その結果、業界の生成期で製品のかたちが未だ定まっていない「流動的段階」では、技術シーズそのものへの注目度合いが多く、一方、業界がある程度成長し終えて製品のかたちも固定化していく「特定化段階」では、顧客ニーズへの着目が増加していく傾向が見られた。また、「写真印刷」という新しい業界価値へと「脱成熟・価値転換」して移行する時期においては、再び技術シーズや関連技術システムへの関心の度合いが強まっていることが結果に表れていた。以上の分析結果から、顧客ニーズよりも技術そのものにより多く注意を向けることで、従来とは異なる新しい製品コンセプトが生み出される可能性が示唆された。

最後に第7章では、以上の章の分析結果と結論を総括した上で、インプリケーションと今後の課題について言及している。企業にとって、自らの主体的な働きかけ、製品コンセプトの提示によって、業界価値、ドミナント・コンセプトの確立やその変化に影響を与えることが可能であるという。業界価値を自社に有利に導くことが競争優位につながり、そのための活動の重要性を「イノベーターズ・プロパガンダ」として提唱している。最後に、本研究が取り組めなかった研究課題として、価値転換プロセスにおける効果的なプロパガンダ活動、企業に製品コンセプトの変革を促す誘因、顧客の製品認知と企業の製品コンセプトの相互作用があることを指摘して結びとしている。

論文の評価

本研究の意義は、従来は本格的な研究がなされてこなかった製品コンセプトの形成プロセスについて包括的な実証研究をしたこと、とりわけ内容分析という手法を活用して製品コンセプトを定量的に測定したことである。製品コンセプトを定量的に把握し、比較できなかったことが製品コンセプトに関する研究が進まなかったひとつの理由であることを考えると、本研究の意義は大きい。さらに、製品コンセプトの測定を基礎にして、第4章で示された「製品コンセプト・トラジェクトリー(PCT)」は、企業の製品戦略や企業間の競争状態を示すの有効な新しい分析ツールを確立したものであると言えよう。また、特定の業界の中での製品コンプとの問題を、(1)各企業レベルでの製品コンセプト着想のメカニズム、(2)業界レベルでの各社のコンセプトの相互作用とドミナント・コンセプトの形成、というふたつのレベルで分析したフレームワークも、今後の研究の土台となるものである。

各社の製品コンセプト形成に影響を与える要因の分析(第5章)、その影響要因の時系列的な変化の分析(第6章)、企業間の異なる製品コンセプトの相互作用の分析(第4章)、業界のドミナント・コンセプトの変遷(第3章)と、製品コンセプトにかかわる一連の過程を包括的に実証したことの価値は大きい。また、各種資料やインタビューによる定性的なケース分析と、内容分析による定量的な分析とが、バランスよく組み合わされた実証研究となっている。

もちろん、この論文にも問題点は残されている。第一に、実証研究の対象としての限界である。本研究ではインクジェット・プリンタ業界をとりあげている。しかし、本論文の冒頭で示している「二重の不確実性」の解消プロセスとしては、プリンタ全般を取り上げたほうがより適切であろう。プリンタ全体としては、インクジェット以外に様々な技術があり、用途も多様であるからである。プリンタの中の特定分野の技術に絞り込むことで、そのような多様な中での一分野を描くことはできたが、他の技術・市場との競合や相互作用プロセスについての議論はなされなかった。第二は、市場側、ユーザー側の分析の欠如である。これは、第7章の今後の課題でも指摘されている点である。製品コンセプト、とりわけ業界価値やドミナント・コンセプトという問題を分析するにあたっては、各企業の製品コンセプトが市場でどのように受容されていったかという分析が必要である。クリステンセンが取り上げたユーザー側を含んだ価値ネットワークの分析が必要であろう。ただし、ハードディスクドライブのような産業財と違って、消費財の場合にはユーザーのグループやその価値観を特定することが難しいことも確かである。マーケティング分野での研究との接合が求められるところである。このような問題点は残されているとはいえ、製品コンセプトに関する実証研究がきわめて少ない現状では、以上のような問題は、今後この種の研究を進める上で解決すべき課題であり、本論文にとって致命的な問題ではないと考えられる。

以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

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